豊里友行の「沖縄通信」

2009年10月29日

牧田清さんの遺作展を一緒にしてくれませんか?:豊里友行

写真家の牧田清さんが亡くなって久しい。
それまでに遺作展は成されたのだろうか?!
誰か牧田清さんの遺作展を一緒にしてくれませんか?
協力者 募集中!!   豊里友行

2008年09月29日
写真集「我肝沖縄」(開放出版社)の写真家・牧田清さんは、チビチリガマの代表作の写真などすごい写真が多い。
昨年突然の牧田清さんの訃報をジャーナリスト・ネットで知る。
写真家がなくなってからは、誰が写真を管理・保存してくれるだろうか。
せっかくの貴重な映像記録をみすみす消滅させてはいけない。
美ら島フォトミュージアムや沖縄県立博物館・美術館の中に文化の杜という施設があり、沖縄に縁のある写真やフイルムを収集しているらしい。
作家の作品を分散させないためにも「大阪人権博物館リバティおおさか」あたりで収集していただくといいのだが・・・。
友人知人の輪を広げながらぜひこの大阪の写真家の牧田清さんの遺作展と写真収集をしたい。

ということだったが、周辺の牧田清さんの知人から「よしときゃ」と断られる。
そう私は写真家 牧田清さんとは写真を通してし知らない。
面識もない。
家族とはあまり仲良くなかったらしいと聞く。
プライベートまで知る由もない。
私にはそこまで突っ込んで遺作展をできる勇気などなかった。
行動も伴わないイイカッコッシーだった。
なんとか大阪に行ってみたいが、私にもやるべきことがあるのだ。
自分のことを優先する。
写真家の財産とはこんなモノなのだろうか!

牧田清さんの訃報= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1154330.html

美ら島フォトミュージアム= http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-22214-storytopic-6.html
               = http://www.okinawa-yuru.jp/feature/photo/001.php

沖縄県立博物館・美術館= http://www.museums.pref.okinawa.jp/

大阪人権博物館リバティおおさか = http://www.liberty.or.jp/


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2009年10月22日

遺骨収集をホームレスの労働に!:豊里友行

「貧困のない世界を創る ムハマド・ユヌス」という「序~北の国からこんにちは」さんのコラムを読む。
= http://setsunaexia.blog105.fc2.com/blog-entry-348.html

どうしてもこの社会において自立した生き方を考える時、労働を抜きには話が進まない。
人生の半分以上を占める労働をどうよりよい生きがいにしていくか?
重大な問題といえる。
そう、より十実した人生を送るためにもその人にあったよりよい労働と出会うことが必要だ。

今沖縄では遺骨収集という仕事によってホームレスの自立を試みる活動がある。
戦没者の遺骨収集を行うボランティア団体の「ガマフヤー」(具志堅隆松代表)とともにホームレスの自立支援を行う特定非営利活動法人(NPO法人)「プロミスキーパーズ」(山内昌良代表)に那覇市の行政が委託する形で那覇市真嘉比地区で遺骨収集事業を開始する。
労働という手のひらからこぼれ落ちたホームレスなどの貧困の現状に新しい希望の光が差している。

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2009年9月21日

うつ病の偏見との闘い:豊里友行

私はうつ病だったことを新聞などの文章やブログで公にしている。
うつ病といえばノイローゼという偏見の目で見る人もいた。
だが私はためらいなくこの偏見との闘いを承諾した。
その闘いは険しいものだった。
うつ病への理解があまりにもない事に原因がある。

まず再就職が困難だった。
最初のうちはハローワークへも通う。
診断書(5千円くらいかかる)を医者からもらうが就職先の面接の偏見はぬぐえない。
ほとんどの人はうつ病を隠して再就職を目指す。
しかしハローワークの職員事態にうつ病で就職して何か問題があると(ハローワークの責任が生じるので)困ると言われる。
仕事をするためには欠陥商品では困るといった感じなのだ。
だからと言って働かない訳にも行かない。

私は自営業をしている。
すこしずつではあるがゆとりも出てきたので出版社も立ち上げた。
ようは自分なりの世界を持てばいいのだ。

治ってからもうつ病の再発を疑う人も多い。
父母からも時折、基地反対などをしているからだとかキチガイだとか言われたこともある(写真きちがいという意味なのであってるけど、とほほほ~)。
写真きちがいは収入の大部分を写真に費やしてしることからだ。
もっと写真以外にも幸せはある。
そう両親への病気への偏見を解くことにも長い時間を費やす。
俳句の趣味の付き合いの多くの方々とも「去るものは追わず」という感じで付き合いは無くなった。
いろいろ悔しい思いもした。
成功するしか道はないと思え気の遠くなるようにも思えた。
心ある人はその偏見のことも分かっていて仲良くしてくれる。
だがこのうつ病のことはデリケートな問題のようだ。
だから私はこのとよチャンネルであえて病気のことも公表しておく。
だれか人生につまづいた時に参考になればと思います。

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2009年9月20日

終の棲家:豊里友行

所要で老人ホームへ行く。
全快したもののうつ病の際には自殺したいと思ったこともある私からしてみれば、そういう終の棲家もつい最近の問題のように感じてしまう。
それくらいうつ病の重い時は、足踏みしている自分の世界で生きることを苦痛に感じた。

うつ病の時の私は、自分自身の死と向き合っていた。
死が真じかに迫っているように感じていた。
寝たらすこしはよくなった。
そして時間の過ぎ行くのにさえ悩んだ。
生きるということ事態、すごく重たい気分になっていた。
時間を潰すことが苦痛だった。
かといって生きることをやめない限りその苦しさはやまないと真剣に思えた。
それでもいざ自殺しようと考えてみてもまだやるべきことがあることに気づき初めて怖くなる。
一日の不安をうつ病の薬で和らげていった。
その時は心療内科の先生との二人三脚で恐る恐る生きていたという感じだった。
でも足踏み状態の現状の私は、心療内科に通いながら闘病する。
必死で泡瀬干潟や辺野古に写真を撮りに通った。
特に私の人生で苦しい時期だった。
しかしうつ病の療養になった場所もおかしなもので泡瀬干潟だった。
心の風邪も全快してうつ病の薬も飲まないですむようになる。
今でもうつ病の不安が時折あったが、うつ病の重たかった時期を振り返りながら今は私の仕事の本分を真っ当している。
心の風邪も治ってしまえば、気持ちの持ちようと言えるようになる。

終の棲家を考えるにはまだ早いがいつかは考えないといけない。
そう生きることが苦しかった時があった私は、今婚活しながら生きてることが楽しさ探しでもあることに気づく。
老人ホームに行った者をあんな(´-`) ン? になりたかないと言い放つ老人もいた。
だが長生きすればいずれ実際に自分の出番が回って来る。
老いをつむぐ行為は時にモミクチャに絡まった人生の糸になることだってある。
だからこそ人生を手助けしあう「社会」が必要なのだ。
そんな当たりあえ前のことを自分の言葉で理解しなおしながら素直に自分自身の世界を生きている。
ひょっとしたら私の終の棲家は、私自身の世界のことをいうのかもしれない。
その世界の広がりこそ人間関係にあると私は思っている。

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2009年9月13日

記念写真の薦め:豊里友行

糸満ハーレーを観戦する。
海人の参加する最初のウガンバーレーだけ撮影する。
昨年の写真を本人にあげると少し照れていた。

本堂での写真館さんの記念撮影を見ていて思う。
やはり祭りは記念撮影も込みのほうが記憶に残る。
もちろん地元の公報や新聞社、テレビの影響力も大きい。
だが参加者個人の宝物として記念写真をもちかえれたらと私は思った。

そういう意味では生まれ島・粟国島を記録した安里盛昭先生の『粟国島ーシマンチュとシチビ 神の里』のような島の人の思い出になる写真集を出版することを私たち写真家も目標にしたい。

 
 営業写真館などのように頼まれて写真を写す人たちはもちろん、あとからでも請われば写真を好意的に販売するともっと写真に親しみが生まれるだろう。
 アマチュアカメラマンもできれば撮った写真を被写体になった人たちにあげるなどすれば記念にもなるし、交流にもなるからぜひ実行してほしい(ただし撮られる被写体には肖像権があるのだから撮られた方々に喜ばれるように良心的に接したい)。
また被写体になる人たち自身もケータイカメラなどの普及もあるのだから写真を撮る行為にも親しんでほしい。
そういうことが海外のよううに写真を文化にしていくことに繋がっていく。

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2009年9月 7日

なぜに「慰霊の日」は6月23日なのか? :豊里友行

「金城実 100M彫刻 戦争と人間 大展示」大西忠保写真展がJAL CITY裏のBar Gallery 土にて開催される。


安里正美が唄い、森口豁が語る写真展前夜祭に参加する。

森口豁さんのドキュメンタリー「在日沖縄人(タイトルを忘れた、すみません!!)」を見る。
髭も黒い40代の彫刻家金城実さんの沖縄人としての「戦争と人間」へのこだわりを浮き彫りにしたドキュメンタリー。
この会場・Bar Gallery 土では「森口カフェin那覇」(森口さんの映像作品鑑賞をする趣旨)の鑑賞会が適時開催される。
ぜひとも森口豁さんの映像作品の資料館(?!)ができることを願う。

その他、豪華ゲストをお招きし、ゆんたくをします。
当日のゲストは、

・金城 実
・西山 正啓
・平良 修   などが参加していた。


〈問題提起〉なぜに「慰霊の日」は6月23日なのか?
では会場のみんなが意見を語り合いながら考えた。

1945年4月1日にアメリカ軍の沖縄本島上陸によって本格的に開始された沖縄戦は、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した日をもって組織的戦闘が終結したとされている。現在は1974年に制定された「沖縄県慰霊の日を定める条例」により、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)」、6月23日を「慰霊の日」と定めている。

今回はその慰霊の日への疑問を投げかける場になった。
9月7日の降伏調印式のほうがいいのではという意見もあった。
もちろん一方で、司令部が壊滅してもそれを知らされなかった兵士たちが抵抗を続けたため、散発的な戦闘は司令部自決の日以降も続いた。このため、慰霊の日を司令官自決の日と定めることに対して疑問を投げかける立場もある。たとえば沖縄市では、慰霊の日を休日とする一方で、同年9月7日に降伏文書への調印が行なわれたことから、同日を「市民平和の日」と定めている。

私は、摩文仁の軍人が中心に建立した軍国讃美の慰霊の塔だけを見ていると軍人よりも多くの犠牲者をだした4分の1もの沖縄住民が殺された真実が戦争体験をしていない世代では見えてこないのではないか。沖縄戦の大多数の犠牲者である沖縄住民の主体的な慰霊の歴史をつむぐ必要があるのではと感想を述べた。

沖縄戦を体験している人たちの減少により少しづつ沖縄戦の真実を知らない人たちも増えている。
そういう中で沖縄戦を誰の立場から見直していくべきなのか考え訂正していくことが必要だとも思えた。
そういう作業が血となり骨となる思想の骨子にしていかないと沖縄戦の犠牲者である沖縄住民の声無き声である死者の声をも歪曲、誤認して代弁されてしまう恐れがある。

6月23日をどうするかではなく、多くの犠牲者を出した沖縄住民の戦死者などの慰霊の立場から慰霊の日や慰霊の作業を構築していく必要は急務だと思う。

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2009年9月 6日

『沖縄戦遺骨収集現場の現状と課題』具志堅隆松さん :豊里友行

平成21年度沖縄市民平和講座(後期)第3回を受講する。
この講座で初めて具志堅隆松(たかまつ)さんに出会う。
具志堅さんは遺骨収集で雇用創出を試みたり、不発弾処理事業を失業対策創出と福祉還元などいろいろ戦後処理について創造的なアイディアと行動をおこなっている。

『沖縄戦遺骨収集現場の現状と課題』具志堅隆松さん

ポツリポツリと語る具志堅隆松さん(55歳)の言葉は沖縄戦の真実の重みがある。
具志堅さんの遺骨収集は28歳の時にボーイスカウトリーダーをしていた時に及ぶ。
初めての遺骨収集ではあまり手ごたえがなく一般的ウチナーンチュ(沖縄の人)の死者への恐れのようなものがあり、遺骨収集を始めて友人に声かけをしてもなかなか広がらなかった。

私が驚いたのは遺骨収集をしている中でのその当時の現状を想像する力だった。
それは遺骨収集の現場で戦争を追体験する行為でもある。
限られた情報量から沖縄戦の現場を想像する力。
遺骨収集のベテランの国吉勇さんとも共通している。
具志堅さんは遺骨収集をしながら考えている多くのことを語ってくれる。

沖縄戦についての考察から話は現代人の病んだ精神にも及ぶ。
黒板のメモ書きを記す。

戦争をする原理は今も残っている。
 ・人を殺してはいけない。 
*・人に殺されることを認めてはいけない。
 ・自分を殺してはいけない。

ひとりひとりに価値があろんだということを認めてもろう必要がる。
これは現代人のリストカットなどにもいえると思うと具志堅さんは語る。
戦争が成り立たなくなるための根源的原理でもあると私は思う。

真嘉比地区遺骨収集で子供たちの遺骨収集の体験の重要性を説く。
沖縄戦の体験者は確実に減っている。
真嘉比の遺骨収集の現場は来年には(開発のため)無くなる。
多くの人たちに見てもらうことで自分の目で見て手にとって体験したことをいわゆる事実を体験している人になる。それは沖縄の戦争についての証言者になることでもある。

それは文献などの知識でないモノ。
できれば現場で体験者の体験を聞くことが必要。
(多くの急務な沖縄戦の歴史証言者を育てるのは大変なので)地元の人が地元の歴史を調べる必要が急務。

慰霊の碑については、軍関与の人たち。生き残りの兵隊が作ったモノ。被害を受けた住民の側の話がない。
軍人より沖縄住民の方が死んでいるのにそれら軍人の碑文だけが残る危険性がある。


具志堅さんは多くの語りたい壕での考えたことは多岐に渡り、私の取材方法論の点にも触れる部分があった。
たとえば遺骨を写真に写すことについて。
本来遺族のいる死体や遺骨は撮られたがらない。
しかし遺族の元に帰れない遺骨たちを写す人が想いを込めて(テレビなどの)電波に乗って帰れるかもしれない。
たくさんの人が関わったほうがいい。

その中で遺骨収集からその後の納骨式まで国の関与にも疑問を投げかける。
具志堅さんは国に縛られない方がいいのではと提言する。
私も国は主体的な沖縄や日本国民の遺骨収集から納骨などの作業を補助する役割に徹してほしいと思う。
そうでなければ沖縄戦の場合、国が戦争を起こした責任さえ取れないこの日本国において国民や沖縄県民の主体的な慰霊の作業や戦後処理などを血肉化していく思想を構築しきれないのではないのかと思う。

話は跳ぶが日本国憲法の平和憲法の血肉化はやはりこの沖縄・広島・長崎からなされていくべきではないだろうか。それは世界の平和思想にもつながるものだと思う。

具志堅さんの純粋な問題提起にこれからも向き合いたいと思う。
次回もこういう講座があれば学びたいと思えた沖縄市の良い平和学習だった。


沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」
= http://toyoanneru123.ti-da.net/e2772244.html

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2009年8月28日

戦争体験者講話 山里和枝:豊里友行

沖縄戦の体験者の話に興味があって平成21年度沖縄市民平和講座(後期)第2回を受講する。

戦争体験者講話
~ 元県防空監視隊本部隊員による語り ~

戦争体験者講話 山里和枝(元沖縄民政府職員)

『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』(田村洋三/著 )を手に抱えながら話をはじめる山里和枝さん。
戦争体験者がどうやって沖縄戦を生き延びてきたのか私は興味しんしんだった。
まさにこの語り部たちは奇跡で生き残った人たちなのだ。

「常々絶対に捕虜になるなと言われてきた。
どうして死ぬのかを考えてきた。
戦場では(「人間が人間でなくなる」というが私も)人間でなくなっていて、怪我人が泣き喚いても何も思いませんでした。
どうせ自分も死ぬんだからと思っていた。」

すさまじい戦場の地獄を辿りたどり山里和枝さんは現在まで縁あって生かされ私たちの目の前でお話をされている。
その日のお話の内容は参考文献もあるので上記の戦場での山里和枝さんの心情に焦点を絞ってみた。
沖縄戦の歳月を生き延びて着た者として語り部になった山里和枝さん。
山里和枝さんの言葉を(聴講者も)一人一人戦争を伝えてほしいと言う。
戦争を体験していない私は、私自身も戦争体験者の生の声を語らなくてはならない時期がやってくるのをひしひしと感じさせられる。
私たちは戦場にいるわけではない。
だからこそ山里和枝さんのように戦場で心を麻痺することもないで感じることができるようにしたい。
『戦場では人間が人間がなくなるとき』があるのだから戦争を阻止し、未然に防ぐ「予防」を常日頃から養わなくてならないと思った。
私は戦争体験者の声をこれからもつむいで行く必要性を実感させられた。

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2009年8月20日

私の終戦記念日:豊里友行

私の終戦記念日を書きたいと思う。
沖縄戦以降も続く世界中の戦争に加担せざるを得ない沖縄Σ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll)w
沖縄は キョロ(・.・ )( ・.・)キョロ どこから戦後といえるだろう。
沖縄戦以降たしかに平穏な世界は広がっているようだ。
しかし日本国内の75%もの過重な基地負担を強いられながら沖縄の戦後は延々と延ばされていやしないか。
私はこの島から平和基地の理念を構築すべく沖縄を撮り続ける。
一番悪い点を挙げるならアメリカの戦争に加担することこそ終戦記念日に反省せざるをえないように私は思う。
私の終戦記念日などないのだ。
ただ平和という日常の真っ只中に置かれ世界中に起こりうる戦争や紛争に沖縄がどこかでリンクしている現状を私は想像し続けなければならない。
どこかでいつかトランプゲームのように引くであろう有事というカードを演出するこの世界のからくりが必ずや私たち日本国にはあるだろう。
だからこそその見えてこない戦争の構造を俳人で写真家の豊里は、沖縄という生まれ島を記録表現の舞台においていみようと試みる。

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売れない写真家になるには:豊里友行

樋口健二先生の『売れない写真家になるには 』を沖縄に帰郷してから読んだ。

食えない時期だってあったというから私にとって大いに励みになった。

『原発』など国家を相手にしたこの写真家の仕事は多大な功績だと思う。

私も沖縄の米軍基地を追いかけて11年になる。

テーマがテーマだけに売れない路線をひた走っている。

最近では雑誌に顔を出すこともなく黙々と撮り続けている。

「沖縄書房」(豊里友行代表)から沖縄本を企画出版する予定で動いている。

現在「沖縄は今!」豊里友行写真展を開催している中部写真館の久場さんからも売れる写真も撮りなさいと叱咤激励されている。

売れる写真家ということで例に挙げると大塚勝久氏がいる。

売れる沖縄を撮っている。

私は沖縄の米軍基地と平行して沖縄の伝統行事も撮っている。

沖縄はいろいろな写真家に愛されている。

私は沖縄に生まれ育ち、これからも暮らしていく者として沖縄のためになる写真を撮る。

もちろん自分の心の赴くままに撮り続けていくのである。

どうにか売れる本を作りたい!

しかし75%もの過重な基地の島・沖縄の過酷な現状を無視しないで撮り続けて行きたい。

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2009年8月11日

豊里友行の戦争論 :豊里友行

太平洋戦争を海にたとえてみる。
波一つひとつが海全体に突き動かされている。
ヒットラーの戦争、日本のアジア侵略・・・。
戦争で勝てば戦果を得れる、つまり侵略戦争なのだ。
そういった時代だったと納得してはいけない。
どこからその海流がはじまったのか考えねばならない。
日本の軍国美談では、家族を守るために死ぬための戦争へ駆り出されて行った日本兵。
もちろんあの時代ならアメリカのように日本は勝ち続けるまで戦争を繰り広げて行っただろう。
真珠湾攻撃(1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)から傾斜した戦争の下り坂を犠牲者である日本は加害者の部分をも反省していかなくてはならない。
戦争は全体悪だ。
だが原爆を投下したアメリカの責任をこれからも強く訴え、これからの沖縄、広島、長崎の戦争を繰り返し行わわれてはいけない。
そういう意味でベトナム戦争やイラク戦争を起こさせたアメリカや世界の動きを全体悪として捉えて反省していかなくてはならない。
何故世界中の戦争を止めることができないのだろうか。
戦争は形を変え世界中で繰り返されているのだ。
民族、宗教、貧困、侵略戦争、そして国家間による利害関係の戦争・・・。
戦争、その歴史的経緯をみながら因果応報を読み解けるか。
長い長い憎しみの連鎖の短絡的な因果では解決できない。
たとえるなら争いは海なのだ。
その海全体を見ていく時、地球という星を眺める視点だって必要だ。
それは天気予報のようなもので当てにならないかもしれない。
なら戦争という全体の海をエネルギーとして見てみよう。
エネルギーのベクトルをみる。
怒りの海の断面図をみる。
時には人体の宇宙を見るようにいくつも原因と結果の断面図を見比べてみよう。
怒りを絶えることのない海の満ち引きに置き換えてみる。
人間の感情の脳派を研究してみよう。
人間の怒りや悲しみ、喜びの海を詩に詠おう。
それぞれの人種の音楽や踊りを体感してみよう。
いくつもの歴史の海から泳いでみよう。
きっと人間の叡智なら戦争の海を読み解くことができるだろう。

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2009年8月 7日

沖縄の心の開花を:豊里友行

たんぽぽは思い切り背伸びし綿毛を風に乗せる。
私も二十歳に周囲の反対を押し切って、東京へ写真技術を学びに旅立った。
あれから十数年が過ぎ思うに逆に東京という私の青春の大舞台は、写真家としての故郷となっている。
沖縄ブームもあってか本土からの沖縄への移住者が増えている。
本土に比べ温暖な気候と若干物価の安さなどにつけて日本の競争社会より比較的緩やかな地域が住み易いようだ。
とはいえ仕事がなくウチナーンチュ(沖縄の人)は本土に出稼ぎに出るという皮肉なケースも少なくない。
沖縄は大部分が零細企業だし、かといってベンチャー企業は少くない。
島国のせいではないようだ。
本土から来た人のことをナイチャー(本土の人)と区別する。
ときに蔑みを込めた使い方もする。
もちろんイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)という言葉もある。
そういう意味ではヤマトンチュー(大和の人)という沖縄の方言が無難だ。
だがナイチャーという言葉の裏には沖縄を本土から外の地にあるという意味を含んでいる。
私は日本国の一地方として生まれ育ったと認識している。
だから意識の根っこに沖縄の卑屈な精神があってはこまるのだ。
というのも薩摩支配下の琉球,そして明治政府の琉球処分、太平洋戦争での軍事的に捨て石にされた。
そして長い米軍統治下に置かれた。
こうした歴史的経緯がある。
だからとはいえ特別扱いされるわけにもいかない。
甘えすぎて骨抜きにされても困る。
世界中に飛び出していった世界のウチナーンチュのように力強く生きた先人もいて、四年に一度開催される「世界のウチナーンチュ大会」で沖縄県系人に会える。
もちろん本土へ移住したウチナーンチュたちも多い。
これからの沖縄も卑屈な心を鍛えるくらい必死に自己を開花させ、自然を切り売りしない、豊かな沖縄の心を持ってほしい。

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2009年8月 4日

私の介護入門:豊里友行


沖縄は高齢者の島といわれている。
それくらい高齢者は多いのだがら、最近の高齢者への悪法「後期高齢者医療制度」の波によるしわ寄せが来ただろう。
最近母方の与那原のお祖母さんが足に水が溜まり入院した。
完全介護なのだが私たちのお祖母さんは少し痴呆症が入っているため付き添いを必要とする。
母の変わりに一度一日中付添いをして介護の難しさを実感する。
なぜなら私たちのお祖母さんは、病院のご飯をあまり食べようとしないし、歩行訓練のリハビリを頑固にやろうとしない。
頑として車椅子から離れようとしない。
しまいには介護師に噛み付こうとする始末で私も腕をつねられた。
そうしても今の86歳を過ぎるお祖母さんの年金では車椅子を買うことができない。
それに私たちは日常的に車椅子の介護をできない。
お祖母さんの家をリホームするような予算は到底工面できない。
貧乏が頭をもたげる。
お祖母さんの娘たちが集まって相談した結果年金で足りる安い老人ホームへの入居を申請することだった。
仏壇のあるお祖母さんの家はどうなるかということより、お祖母さんの体がすぐに車椅子に慣れてしまうのが怖い。
 私の介護入門は、写真家で食えなくなったときのために手に職をとホームヘルパー2級の免許を10数万円で取得したことからだ。

 介護の実習はうつ病になった私自身の命綱にもなった。
うつ病事態脳の動きが鈍くなるため判断力が低下する。
高齢者の介護や精神面へのケアを学ぶことは私自身の介護をするようなものであった。
周囲の人たちへのうつ病の理解は難しく差別意識のある人たちとの仲たがいを打ち消すことができないこともあった。
いろいろな私の現状の足踏み状態から抜け出せたのもホームヘルパー2級の介護への理解のおかげだった。

 元気な高齢者のイメージが満英している沖縄だが、なんらかの病気で入院してそのまま老人ホームへの入居がなされる人たちも多い。
 私の付け焼刃の介護入門ではどうすることもできないのだろうか。 
ただ私のお祖母さんの付き添いになるべく参加し車椅子になれないよう歩行できるようサポートをしたいと思う。
教科書通りには行かない介護入門になりそうだが、お祖母さんにお盆とお正月に毎年会えるように必死に介護をすべき時期にある。


老人ホームのショートスティというのを御存知でしょうか。
私のお祖母さんのひざに水がたまり急遽病院に入院した。
それからお祖母さんは一か月の病院生活をして某老人ホームへ短期入所している。
やはり自宅での車椅子生活は痴呆のお婆には難しかった。
そのため老人ホームのショートステイをしている。
その老人ホームの好意で88歳のトーカチをお祝いしていただく。
この敬老会のお祝いでは米寿、カジマヤー、新百歳の祝いと記念品贈呈される。
祝宴の部ではかぎやで風の踊りや余興など楽しく時間を過ごす。
もちろん観客は老人ホームに入所されている方々で車椅子が目立つ。
歩けるなら自分でデイケアに通えばいいのだ。
私のお婆さんも足が悪くなる前まではデイケアに通っていた。
(´-`) ン?
もちろん周囲の人たちの支えがあって暮らしていた。
夕飯は宅配サービスがあったし、叔母さんも介護にやってきた。
そんなわけで年老いても元気であれば自宅で昔ながらの暮らしができた。
世話をする人のいる老人ホームもよいのだが、自立した生き方を選べなくなる。
独り暮らしのお年よりもいるのだから仮ステイではあるが老人ホームで老人たちの仲間や介護の人たちに囲まれて陽気に過ごしている私のお婆さんは幸せだろう。
といってもたくさん(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ 老人たちをみている人たちは、敬老会のお祝いを終えると夕食の準備をせわしくする。
そう一日一日の生活を老人ホームの職員の方々は必死に介護してくださっているのです。

私たちはお婆さんのいないお婆さんの家に行き、仏壇にお餅をお供えご馳走を食べて帰る。
ある老人会長は健康の秘訣を転ばないことと怒らないことと言っていた。
そんなわけで元気が一番の幸せのモォー!! o(*≧д≦)o″と(元)だなどと思えて仕方ない。


昨年の老人の日以来、ショートステイからそのまま某老人ホームに入所することになる。
私の介護入門もそのまま無くなった。
だが心臓の不整脈などのため病院へ入院する。
その病院では少し痴呆症の入った患者は、食事の解除を身内の人が見なくてはならない。
それで身寄りの叔母さんの介護の負担が発生する。
私の母も与那原の病院へ通うことになる。

能面のように無表情のお祖母さんが病院のベットに吊るされているように見えた。
入れ歯を外して頬骨が浮き上がっている様はある種の能面のようだ。
鼻先には酸素の管が付けられている。
明らかにお祖母さんは老けたようだ。
しばらく面会にも行かない私にとって後ろめたさと驚きを隠せなず目線をその能面から離せない。
能面のたとえは、見る側にとって鮮やかなまでの水馬の足音のような生の鼓動といえばいいだろうか、心音さえ聞こえてきそうな能面のような心音の舞台の強靭さを私は連想していた。
あいにく眠り心地のお祖母さんのベットを囲むように4姉妹弟が話をする。
老人ホームではそんなに相手をするゆとりが無いようだ。
そのままホームでの寝たっきり生活ではお祖母さんの身体が早く弱ってしまう。
それは介護職に従事している次女の叔母さんは仕方ないという。
だから退院するころにはもう少し身内が介護に行かないといけないという相談ごとだった。
入院中は私も月曜日にできるだけ食事介護をすることになった。


 能面の老い鮮やかな水黽(アメンボウ)   友行


今日は夕食の食事介護担当だが昼ごろから従兄弟の姉さんが介護をしてる頃にやってくる。
ほとんど独り言のように話をしているお祖母さんは、この前あった時の鼻先の酸素の管も外れ顔色も良くなっていた。
心臓のペースメーカーを付ける心臓手術を前に体調も回復してきている様だ。
夕食までの空き時間私は転寝た。
お祖母さんの息を引取る夢を見る。
が、まだまだ私たちの親は孝行をしなくてはいけないのだ。
もっと健康で長生きしてもらいたい。

老いを誰もが意識する時期が来るだろう。
介護させていただく時、面倒なことも多いが老いを紡ぐ作業を意識化する時期と捉えてもいい。
だれもが老いを紡いでいる。
生を誰かにゆだねながら暮らしていく介護という生活は、たしかに苦闘する面もある。
病院で時間を過ごすと医師、看護士、ホームヘルパーなどいろいろな人たちの仕事振りを拝見させて頂く。
私自身たくさんの人によって生かされている事をよく自覚しなくてはと肝に銘じたい。

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2009年7月30日

辺野古の軍人さん:豊里友行

辺野古の飲み屋街の夜は長いようだ。
基地の仕事を終えた米軍属の仕事をしている日本人たちが次々ゲートから出てくる。
それから米兵たちも私服に着替え辺野古の街に遊びに出かける。
この土曜日はリフレッシュ期間らしい。
米兵たちが街中うろうろしている中、地元の中学生たちも春休みなので夜暗くなるまで街でたむろっている。
私はあの女子中学生の暴行事件を思い出し、早く家に帰りなさいと彼女らに一応声をかける。

正直飲み屋に持ち金も少ないのに入るのには勇気がいる。
店の前に出て来た米兵に写真を撮らしてほしいとお願いする。
快く彼は案内役を買って出るが・・・。
バーのママが休みの日で撮影は駄目だとお店のチーフ・ゆきさんに断られる。
しかたなく五百円のビールを飲んで帰ろうとカウンターに腰を降ろす。
店の入口で撮らしてもらった米兵の口利きで私へもう一人の店員からお声が掛かる。
チーフのゆきさんも特別だねと首をかしげる。

今週カリフォルニアからキャンプシュワブに配属された彼等はどんどん酒を注文する。
辺野古の軍人さんは海兵隊だ。
ここで訓練を受けてまた戦場などへ赴任する。
独身者が多いらしい。
だからじゃんじゃんお金を使える。
といっても昔に比べれば米兵もお金を使わなくなっている。
新顔の若々しい米兵はカントリーな曲を漠然と聴いて酒さえ飲もうとしない。
私は始めて異国の地にやって来た沖縄の軍人たちを意識した。
ここ沖縄が兵隊としての勤務先であり、アメリカからの転勤先なのだ。
沖縄に慣れるまでは彼らアメリカ人は異郷の地で何を思っているのだろうか。

多分周囲の飲み屋が数軒あるだけで潰れたお店も多いので、ペイデイ(月に2回軍人には給料日がある)のこの日は特別なのだろう。
店の壁には所狭しと日米親善のお祭りの綱引きの写真などが並ぶ。
その合間にお決まりのドル紙幣に書かれたメッセージと軍帽などが飾られる。
「ヘーイ、ボンジョビ!」
私の大好きなボンジョビがリクエストされる。
米兵たちも画面に釘付けだ。
なぜかその後またまた私の好きなエアロスミスが流れ一気に酔った。
何故(?_?)
ロックはこんなに刹那を駆り立てるのだろう。
沖縄で訓練をした米兵が何時戦地に行かされるか分からない。
ある種の刹那を駆り立てる。
ひと昔前に基地の街で米兵たちは戦場へ行く前に飲み屋街でたくさんのお金を落としていったという。
私はシャッターを切りながら街に金を落としている彼等を見ていなかったのかもしれない。
それに変わりうる生産的な仕事を思いつかなくては・・・。
どんな仕事でも仕事なのだ。
金がなく仕事として軍隊に入団する彼等に、基地反対だけをとなえているだけでは平行線をたどる。
できるならアメリカは生活の糧になる他の仕事を与えてくれないだろうか。

私に写真を撮ろうと言う彼等に私は異国の記念写真とある種の証拠写真を残す。
快く写真を撮られる行為が、撮る側を許す行為であることを気付かせてくれた。
逆に私が撮る時に大げさにいえばアメリカ代表の親善の意味もあるのだと考えているのかもしれない。
日米親善事態は私たちだって良くしていきたいのだ。

私は軍隊の本文を認めない。
絶対兵隊は要らないと信じて疑わない。
だが北朝鮮のミサイル(?)発射が今日か明日かと言うときに米兵の陽気さが陽気過ぎた。
それでも北朝鮮にとって軍隊事態が凶器なのだ。
かと言って必ずしもアメリカ人自体を毛嫌いする気にもなれない。
貧しい土地ほど仕事を選べないのは、沖縄だって同じだ。
だから私は酔っ払いながら新しい地域の仕事を考えてみる。
世界不況のどん底といわれるけれどジンブンを絞り出しなんとか軍人ではない職種を作りださないといけない。
基地に付随する仕事も多い沖縄だけに国へきちんとした街作りのプランを打ち出していかないといけない。
主張しないということはこの国において日本国憲法の放棄にもつながっている。
どんなに正論を並べても食っていかなくてはいけない。
世の中、食えるぐらいのお金があってやっと自分の生活のゆとりができる。
まして世界平和なんてマジで考えて実行している写真家はごくわずかだ。
私自身の歩いた跡に道ができている、というぐらいの気概をもたないといけないと私はつくづく思う。

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2009年7月28日

沖縄問題に関心薄い「民主党のマニフェスト」:豊里友行

 民主党が衆院選マニフェスト(政権公約)に米軍普天間飛行場の県外移設を盛り込まなかったのは、現実的に難しいと判断したからだろう。
基地問題は、日米両政府の外交の大きな壁があることを実感する。
自民党にしろ民主党にしろ沖縄の基地問題を取り上げられる政党が実際にあるのか疑問だ。
琉球新報においては下記のように述べている。
講演や演説などで「県外移設を目指す」と公言する一方、政権を取った際の国民への約束を記す政権公約に「県外移設」の文言を盛り込まないのは、有権者には分かりにくい。

沖縄の小さな村の辺野古への「普天間飛行場」代替移設は、少数派である沖縄への日米外交の大きなしわ寄せである。
沖縄問題に関心薄い「民主党のマニュフェスト」は、過疎の村への「原発誘致」と同じような現状の国策の少数派へ少数派へのしわ寄せでもある。

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2009年7月27日

比嘉清眞の世界:豊里友行

比嘉清眞写真展「〜ハジチのある風景〜」(那覇市歴史博物館)を鑑賞する。
老人をテーマにしている比嘉清眞さんの力作に唸る。
私はテーマ性の力強さとブリントのシャーブさに目を見張った。

気になる感想をある方から聞いた。
ハジチの写真を汚いと言う。
「身内の人が見たら怒られないかね・・・」
これは私自身気にかかっていることと関連するのだが自分自身の出身の風俗を汚いと感じてしまうのは悲しいことではないか。
この場合撮影者の超リアリズムについて話が及ぶ。
正直にハジチのある風景を写し取った手法が悪いわけではない。
現代に比べて昔の貧しさが写っているという意見なのだろう。
あまりにもシャープにハジチを映像的に捉えている。
この場合ハジチを美化する撮影でない。
つまりハジチを含めた貧しい時代の風景を率直に汚く撮っていると、この発言者は感じたらしい。

正直に言うと私は自分自身も使う沖縄の方言を汚いと感じる時がある。
沖縄文化の生きた言葉を汚いと思えるとしたら、その民族文化を消去する意識が意識の根底まで根を張っているように思う。
(ヤーシナサリンドー、フリムン、ワーヨー、ダバーヨー、アギジャビヨ!などなど極端な例だが・・・)
それに似た感覚をハジチの写真を見て感じたのではないかと私は危惧する。
つまりハジチを撮ることで汚く撮られたと考えてしまうことが、根本的に沖縄文化の根っこを枯らしてしまう要素があるのではないどろうか。
すでに私たちは本土化している美意識の元に沖縄文化の根源を知らず知らずに消去してきていないか。
本当はこの発言者は、ハジチが汚いのではなく、沖縄的な貧しさを汚いと思い、それを写し取る行為を危惧しているのではないだろうか。
もうすでにこのハジチをした人々はこの世に居ない。
そのハジチの遺族からみたらどう見られるだろうか。
昔の貧しい時代を写し取ったこの名作を汚いと感じたとしたら・・・・。
(汚いから取り下げてくれとクレームがついたらどうなるか・・・)
これがあのユージン・スミスの『水俣』のように発禁本となるとしたら写真界において大きな問題ではないか(この本は水俣の遺族の心情を考慮して発禁本になったらしい)。
ありのままを写し取る行為(リアリズム)の危機を感じる。
つまりは意識の根っこにハジチや荒い地方方言を汚いという羞恥心で隠し、消し去る。
それらを見られたくないという考えにいたる。
沖縄の風俗を汚いと沖縄の人たち自身が感じること。
それ自体が現代文明に浸りきった私たち自身の豊かさの意識にあるとしたら・・・。
それはさみしい同一化の産物だよ!!

ここでTカメラマンの話をだそう。
ある未開の村へ某カメラマンが素直に写真を撮って歩く。
それがとても自然で良いと(?)写真界で高い評価を受けた。
だがもうこのカメラマンはこの村では大変怒りを買ってしまう。
なぜなら「どうせ写真を撮るなら何故もっと綺麗なスガイ(身なり)の時に撮らない」と村人たちは怒ったのだ。
そう村人たちにとって営業写真館以外の写真は「盗み撮り」でしかなかったのだ。

だからこそプロの写真家である私は、比嘉清眞さんの「ハジチ」シリーズを名作と呼ぶ。
なぜなら写された方々にきちんと写っている写真をプレゼントしているからだ。
その行為を持ってきちんと了解を得ているのだ。
それはもう「盗み撮り」とか言われるわけがないのだ。
そういう過程まで含めて私は、写真家はジェントルマンであるべきだと言いたい。
写真家=ジェントルマンであるかはそれぞれの写真を撮る側の良心とマナーとかモラルに委ねられているのだ。
それらの信頼を積み上げてきたか、カメラマンの信頼を崩してきたか、個人個人の問題に任せられているが、写真の世界の信頼性にもつながっている。
というわけで比嘉清眞さんの写真は、(私の心の中で)非常に優れた名作であった。


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2009年7月26日

沖縄は環境保護と「自然」の維持費への転換が急務だ:豊里友行

読売新聞(夕刊)2006年5月15日 のあるコラムに沖縄でも他人事じゃないなと思えた。

(水俣)海底からヘドロをくみ上げた埋立地の護岸の寿命は、50年とされているらしく、護岸の劣化でそのヘドロ(水銀を含む)が海に流出する恐れがあるという。
 きれいに整備され水俣の過去のイメージはないが、こういった埋立地の管理と維持は常に出てくるようだ。

沖縄の埋め立て事業率の高さもあるし、他人ごとではない・・・。
沖縄の元来ある自然の海と公共工事の護岸とをどちらを残すか大きな違いがある。
沖縄市泡瀬干潟や名護市辺野古、浦添市の海の埋立工事をこのまま論議もなく推し進めていいのだろうか?
 
これからの時代「自然」の維持費が必要だ。
沖縄県は琉球列島の豊かな自然の恵みを活かしきれていない。
むしろ自然はお金にならないという考え方さえあるくらいだ。
沖縄県は軍事基地の代償として莫大な補助金を獲得してきた。
その金による公共工事という名の環境破壊を目一杯繰り広げて来た。
公共工事の役人はどれだけその毎年の予算を消費できるかで優劣が決まる。
そういった沖縄県の補助金をこれまでの環境破壊を直す費用や自然を守り育てる維持費用に当てるべきだと私は思う。
公共工事は今までの公共工事という名の環境破壊から環境保護と「自然」の維持費への転換が急務だ。
 

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2009年7月24日

お金思想の果てに辺野古という村は分断される:豊里友行

「遠いトコロヘ仕事に行くほうが儲かるんだって」

沖縄県名護市辺野古の子供たちは仕事のことをそう親から教わる。
名護市が遠い日本という国から引き出した多額のお金を想うと何故地元でその多額お金が活用されないのか疑問が残る。
地場産業のほとんどない沖縄では大企業のある本土企業に出稼ぎに出る。
昨年話題になった派遣切りの多くは出稼ぎに出ていた沖縄関係者の人や外国人労働者たちがいたようだ。
就職面でいえば沖縄の小さなムラの置かれた現状はさらにキビしい。
基地誘致の代償として多額のお金が降ってくる、ように私は勘違いしていた。
辺野古や高江という小さなムラにヘリ基地が押し付けられていく。
多額のお金は軍用地主や基地従業員、米兵相手の飲食店など限られた人たちにしか分配されない。
だからといってお金にならないどころか村はじきにさえあう基地反対など声を出せるわけがない。
だから名護市の住民投票で基地建設NOの声が上回ったを国や沖縄県は反映しなければならないのだ。
子供たちのために遠くへ職を求める親たちは沖縄に何を思うだろう。
ひょっとしたらそんな国や県の思惑など関係ないのかもしれない。
しかし村お越しをしなければならない村は日本国に多くあるのに基地建設とがんじがらめ
に押し付けてくる今の日本政府のやり方を許してはならない。
お金思想の果てに辺野古という村は分断される。
しかし村人たちの本質的な豊かさにうまくつながっていない。

私たちは声なき声をつむぎ聞いていく必要があるのではないだろうか。
今全国の中で沖縄の小さな村々に押し付けられる基地をどうにか日本国民の問題として考えるべき時にある。
 

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2009年7月22日

泡瀬干潟の行方:豊里友行

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渡り鳥のムナグロが羽を休める(後方に泡瀬の埋立て工事が進む)

 二〇〇五年から、うつ病の休養も兼ねて沖縄市泡瀬の海へ毎日通う。私は海がはぐくむ生物に、これからの自分の生き方を見いだせないか試みた。だが、そこでは水平線を食いつぶすように消費社会の泡瀬の埋め立て工事がじわじわと押し寄せて来た。自民党にしても革新政党にしても開発という環境破壊は止まらない。屋良朝苗琉球政府の行政主席は金武湾(CTS闘争)、大田昌秀前沖縄県知事は大国林道、そして東門美津子沖縄市長は泡瀬の埋め立て工事など革新政権においても、環境問題は軽視されて来た。そんな心の焦燥感を打ち消すように、海の生命体に魅せられていく心地よさに満たされていった。

 今、泡瀬の埋め立て工事によって百年かかって育った珊瑚礁の森がつぶされている。多くの生物のすむ泡瀬の海を埋めるのはあまりにも横暴な行為といえる。貝だけで三百八種類、野鳥も百五十種類以上、海草も十一種類も見られる。貴重な種類、新種も次々と発見されている。県内最大の渡り鳥の飛来地でもあり、県の作成する「レッドデータおきなわ」に、泡瀬では絶滅の恐れのある海洋生物(貝類、甲殻類、魚類)が百二十一種も記載されている。この埋め立て工事は、この豊な沖縄の「自然の美術館」を無残にも壊してしまうことになる。ラムサール条約を推し進めている「泡瀬干潟」は、琉球諸島の世界自然遺産候補地の一つでもある。埋め立て工事によりラムサール条約への登録や琉球諸島の世界自然遺産への道も遠のく。

 私は泡瀬干潟のカニの撮影をしながら泡瀬の海に分布するカニが八重山諸島、琉球諸島近辺のアジアに生息するものであることを『沖縄海中生物図鑑』で知る。琉球諸島の多様な生き物たちは、海流また台風などの自然現象によりはるか遠く水平線の向こうにあるとういう理想郷・ニライカナイからこの泡瀬の海に漂流し、この自然環境になじんできたのではないかと想像した。これらはもちろん沖縄の島々にも言えることで多様な生物や文化の根源は、ニライカナイからの贈り物による影響もあったのだと考えられる。私はそれらのニライカナイの贈り物を写真に記録し、写真の分布から「ニライカナイの地図」が見えてこないかと期待しているのだ。つまり海に囲まれた島ならではの人間の生活や自然は、豊かな精神世界を構築してきたし、二ライカナイの宝物を享受することにより、より身近な世界としてニライカナイを感じられてきただろう。そのニライカナイの豊かな精神世界を今、埋立工事によって失くししまっていないだろうか。地球温暖化などのエコ推進の潮流の中で私たちウチナーンチュ(沖縄の人)は、沖縄の本来持っている豊かな精神世界さえも売り渡してしまっているのではないだろうか。

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2009年7月21日

「戦闘機」:豊里友行  

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嘉手納から北谷町の基地のフェンス沿いに歩きながら戦闘機の爆音を体験してみる。
すごい爆音が日常化している。
基地内の黙認耕作地のおじいさんと話をする。


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2009年7月20日

金のなる土地と幸せを呼ぶジンブン(知恵):豊里友行

ある軍用地主の87歳のお婆さんの話し。
お婆さん「お爺さんは気持ちがまっすぐな人だったからなかなかすぐは(遺族)年金をもらえなかったさぁ。」

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2009年6月24日

沖縄 慰霊の日:豊里友行

今日六月二十三日は沖縄 慰霊の日。
黎明の塔に上りながら青い海と水平線を眺める。
平和の礎に貼り付けられた黄色い花が印象的で撮影する。
朝鮮人の礎には数名しか刻字されていない。
その空白がなにか名もない人たちの歴史の忘却を物語っているように思える。

それからひめゆり学徒の慰霊祭を撮影する。
開館20周年となった「ひめゆり平和祈念資料館」では、ひめゆり学徒を送り出した女学校などの同窓生と、那覇市の沖縄尚学高と同高付属中の生徒たちがそれぞれ「レクイエム(鎮魂歌)」をささげる。

元ひめゆり学徒の上原当美子さんは感慨深く涙ながらに歌う姿に私は魅せられた。
当時若者たちと同じくらいの歳頃だった彼女は、戦争のかなしみを涙のレクイエムに込めた思いは果てしなく深いものだろう。

その日は暑くて豆に水を含みながら撮影に当たる。
写真仲間からもう若くないんだから体に気をつけて撮影しなさいという言葉が足かせになる。
あまり無理することもなくひめゆりの塔の慰霊祭の香典の最後らへんで私もウートートーする。
きっと沖縄から世界を平和にしていきましょうと祈りをささげる。
私は非戦の祈りを写真で実行していくことを誓った。
遺骨も不発弾も魚の骨のように多く残る島だからこそ、基地の島の加害を食い止めながら、戦後64年目のレクイエムを常日頃からつむいで行こうと思う。


「沖縄世までの憂鬱」
今の基地の島・沖縄の現状では、沖国や宮森小のジェット機堕落事故などのような沖縄県民を脅かす事件・事故も常時起こり得る。
沖縄は常に被害者の面だけでなく、戦争を支援する軍事基地の面を持つ。
阿修羅のように悲しみも怒りも、そして戦争の根源をも内包するこの島に私たちは生き続ける。
その自覚と覚悟なくして非戦の祈りが成り立たない矛盾。
現代の知識は多様化し細分化し分裂し続ける・・・。
そういう中で一貫して沖縄を見続ける責務を背負いながらも、生活に追いやられその責任の重さに打ちのめされもする。
沖縄を撮る。
いろいろな写真家に愛されたこの島の愛憎を想う時、常日頃から自分自身のために沖縄にこだわる同士に励まされながらも、たとえ報われなくとも営む決意を何度したことか。
もう歳なのだろうか、私の沖縄へのこだわりを誰かに認めてもらえない諦めムードが蔓延している。
沖縄へのこだわりと情熱を伝える、それだけを一身に考えているのに時々迷いやためらいがちらつく。
沖縄よ何処へ行くという問いは、本当は私自身の沖縄への愛憎から生じる迷いやためらいのようにも思えて来る。
沖縄は平和を発信するためにも基地を破棄しなくてはならない。
本当に素直にそう何度もこの壁にぶち当たる。
沖縄世(ウチナーユ)まで行くためには非戦であり、非武の島になることを、私は生涯想い続けることだろう。

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2009年6月21日

語らずにはいられない宮森小ジェット機堕落事故:豊里友行

あの日を語る
宮森小ジェット機堕落事故から50年(6・30)
~ 平和な日常が一瞬にして大惨事に・・・ ~

話し手は当時宮森小学6年生担任の比嘉静氏と当時同小学2年生の名嘉百合子氏により沖縄市立図書館で6月23日慰霊の日関連行事として講演会が開催された。

名嘉百合子氏は地獄絵のような光景を当時小学2年生の時に体験していると語る。
ある日平和なはずの日常が一瞬で地獄絵と化したのだ。
名嘉氏は子供心に多くの死者を出したこの事件がトラウマになっていたのではと回想する。
彼女は軍病院に収容された時、夜になると両親たちも家に帰され、言葉の通じない軍病院で不安な夜を過ごした。
異国のようなところで独り過ごしたことが名嘉氏にとって印象深かったようだ。
しばらくして事故から2週間ほどで授業は再開された。
宮森小学の生徒たちは誰も暗黙の了解のように事故のことを語ろうとしない。
名嘉氏は、ついこの間までいた友達の死を子供心に受け入れられないでいたと語る。
給食当番のため友達が何かいいたげに声をかけたのを名嘉氏は振りほどいてしまった。
その時亡くなった友達が何を言おうとしていたのか心残りだと語る。

50年経った今でも語る言葉だけが真実として残ってしまうのを恐れ沈黙し続ける人たちもいる。
しかし名嘉氏は、亡くなった子供たちのことさえ忘れ去られることを危惧する。
名嘉氏はこういう機会を持っていただいたことをありがとうございますと話を結んだ。

当時6年生の担任だった比嘉静氏が事件にあったのはちょうどミルクの時間でした。
ミルク当番でもめごとが多いので先生が生徒に配る担当をすることになっていた。
四番目の席の男の子が手を挙げお代わりをもらう合図をしている。
その時に事故は起こった。
事故直後にとっさに先生は「伏せー」と叫んだことを覚えていないと言う。
毎年最初の授業で子供たちに机の下に伏せる訓練をしていたと言う。
比嘉氏はこの6年生の子供たちにもその訓練をしていた。
教室は天井だけでなく外の廊下まですっ飛んでいる。
教室の四分の一くらいの天井が吹っ飛んでないんです。
天井から青空が見えている。
そして机は全部、爆風で向こうに寄せられてました。
子どもたちは机と一緒に吹き付けられて、机の下に潜っているんですよ。
はっと気が付いた時には「せんせーい!」と私が起き上がれないくらい、みんなおっかぶさってきた。
大きな声で「待てー!!」と叫んだ。
「先生が様子を見てくるから待っとくんだよ」と言って聞かせ、自分は様子を見に教室から出ていくと、階段の下のほうがどうも不安定のようです。
それで教室に戻ってここは危ないから逃げなさいとみんなを追っ払うようにして逃がしました。
その中に逃げないのがいるんですね。
「どうしたの!早く逃げなさい!」と怒鳴って見たら、もうだめなんです。
だれだかわからないくらい、体が崩れていました。
これは自分一人で助けられるものじゃないと思い助けを呼びに行く。
私の教室のある校舎のもう一つの棟を周ると2年生の教室がある校舎ですが、そこがもうぼんぼん燃えています。
そこから助けを求めに周ってきたら、火の中から女の子が一人、ぼーぼー燃えながら出てきたんです。
洋服も髪も燃えて、炎になって出てきたんです。
はっと思って火を消すために、その子の背中をはたいたら、背中の皮がずるずると私の手にくっつきました。
あっと思って、私はその子を抱いて「誰かいませんかー!」と叫びながら人を探したけれど、校内はもうみんな逃げていない。
なおも助けを求めて職員室の前まで来たら、教頭先生がいる。
その日校長先生は、研修で留守だったんです。
 大火傷した子を抱きかかえ、さらに助けを求めてさまよいながら職員室の傍まで行ったら、後ろから走ってきた年配の伊波タケ先生に傷ついた子を託しました。

 自分のクラスの子を助けてくれる人は誰かいないかと思っていたら、父兄がぼつぼつ学校に向かって走ってきたんです。
初めに走ってきた人の胸に真正面から抱きついて、「お願いします!私のクラスにまだ子どもがいるんです!」と自分の教室を指差してすがったら、その人にぱっーと跳ね除けられてしまいました。
その人は火が燃え盛るほうに、子供の名前を呼ばわりながら走っていきました。
助けを求める人に2度振りほどかれた。

自分のクラスの子は自分でしか助けられないと思った。
(怪我のため)形が崩れて本人への返答確認や衣服などでしか(生徒の確認が)わからなかった。
ガソリンも火も降ってくる教室の中を捜し回っていた。

それから私は患者として軍病院に入った。
しかしそこの医者から学校の先生かと聞かれ、生徒たちに顔を見せてと頼まれる。
それで騒いでいる子供たちをなだめる。
子供たちは自分の(看護のため)洋服をばっさり切られたと話してくれた。
退院したら先生の姿が見えないことから周囲の人からは亡くなったものと思われていた。

学校の修理をしに来た軍の作業員は教室にやってきた時は監督をしていたという。
その作業員は初は血痕だけをはがし始めた。
その血痕の部分だけを補修するつもりなのだ。
血痕を含めて全て、私の教室の一教室全部をは塗り替えてもらい、血痕と区別のつかないようにしてもらう。
事故のことをなるべく子供たちに思い出させないための配慮だ。
(宮森小ジェット機堕落)事故後、生徒たちは先生より先に教室に入らず先生より先に帰るようになる。
無言のトラウマは生徒たちにもあるのだ。
比嘉先生自身も電話のベルを聞くと事故当時の生徒の叫び声を思い出すという。
そのトラウマに気づいた比嘉先生は、子供たちより先に教室に入り、最後の子供たちが帰るまで教室に残るようにしたという。

(うるま市の)お隣(沖縄市など)に基地がある限り、このような惨劇は起こり得る。
それを、基地を無くすことはできないわけではありません。
平和を願って止みません。

と比嘉静氏は生々しい宮森小ジェット機堕落事故の惨劇を伝えてくれた。
その後比嘉氏の沖縄戦の体験を子供たちにもわかるようにお教え頂く。
戦争のないこれからの世の中をつくらないといけないし、つくれると思いますと話しを結んだ。

比嘉静先生の夢を確かに受け継いでいこうとその場の観客の私も決意を新たにした。

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2009年6月19日

遺骨収集家・国吉勇さんのこだわり:豊里友行

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「そこに山があるから」というじゃない。
そこ(沖縄)に遺骨があるから彼は遺骨収集を続けている。
そうおっしゅられる国吉勇さんは今年70歳になる。
遺骨収集を始めたのは18歳の頃だという。
週に3・4回遺骨収集に出かける彼は、腰に磁気ベルトをつけるぐらいの腰痛持ちだ。
それでも遺骨収集を続けている情熱は私たちの考え及ばぬものに思える。

今回も午前中、糸満市摩文仁の南冥の塔で遺骨収集をしてから岩肌の山を越えジャングルの道(その道を造ったのも国吉さんによる)を這うように進む。
米軍の攻撃を逃れの逃れこの岩肌の山が連なって出来た洞窟(ガマ)を撮影させていただく。
沖縄戦当時はその獣道は足の踏み場もないほど死体が転がっていたと当時の兵士から国吉さんは聞く。
西へ行く人や東へ行く人たちでごった返しになっていたと当時の戦場の現場を当時の兵士の話から国吉さんも想像しながら私に語る。
だからそのジャングルのようになった場所を数日かけて鎌を片手に道を造ったそうだ。

なぜ国吉勇さんはわざわざ苦労して遺骨収集をするのか帰りにもう一度聞いてみた。
遺骨収集をしている時、(沖縄戦の戦死者たちの)遺骨が呼んでいるように感じるそうだ。
限りなく膨大な時間を費やして来た国吉さんはこれからも黙々と遺骨収集をしていく。
その情熱の訳が少しだけ私にもわかりかけたような気がした。


国吉勇の戦争資料館=
http://kuniyosi1234.ti-da.net/

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2009年5月23日

沖縄世(ウチナーユ)まで:豊里友行

何故沖縄にこだわり撮り続けるのか?

その問いに私が答えるには何故写真を始めたのか話す必要がある。

私は、元大田昌秀沖縄県知事の国への未契約軍用地強制使用の「代理署名拒否」を英雄視していた。

しかし元大田昌秀沖縄県知事は五十億円の特別調整費と引き換えに代行承諾を表明した。

その時のお金が沖縄の何を変えただろうか?

私はそのヒーロー像の崩れていくと同時に私自身はただ傍観していたことに絶望してしまう。

私は声を上げることもせず、ただ当時の大田知事の代理署名拒否を傍観していただけなのだ。

私はお金がもらえれば基地の島・沖縄の現状はそれでいいのかという疑問を自分自身の問いとして真剣に考えるようになっていた。

そう、そんなあぶく銭は沖縄のためになどなりはしない。

そんなあぶく銭にごまかされ沖縄では日本国憲法がまっとうに成り立たない。

当時の私は、大田県知事の拒否の旅を沖縄県民一人ひとりが隆起していくようなものであったならどうなったかを想像する。

アメリカ世(ユ)から大和世(ユ)へ虐げられた沖縄の歴史と今も続く基地の島の現状・・・。

沖縄はどこへ行くのか私は真剣に考えた結果、写真技術を学びに本土に旅だった。

日本写真芸術専門学校での私の作品は、沖縄書房から発刊された『東京ベクトル』にまとめてある。

写真学校卒業し、すぐに沖縄に帰郷し、沖縄に根ざしたテーマを探求し続けている。

あの頃から十数年が経つが私は、当時の沖縄隆起の夢のために俳人で写真家として沖縄にこだわり続けている。

沖縄世(ウチナーユ)まで本土を含め沖縄県民一人ひとりがチバリヨー。

関連記事 
沖縄タイムス 唐獅子  2005.2.9.
  
「写真との出会い」(下)   豊里友行

 一九九五年、米軍用地の強制使用手続きの代理署名拒否を決め、日米政府に立ち向かう当時の大田昌秀沖縄県知事に僕はある種のヒーローのような思いを抱いていた。繰り返される米兵犯罪に沖縄の民衆の怒りが臨界点に達し、八万五千人の県民総決起大会が行われ、まさに基地の島・沖縄から「日本の主権」を問うことになった。
こうした政治状況は僕自身の文学に向かう姿勢を問うた。
そのころの沖縄民衆決起の一句。

 《轟音の鼠となり空齧るフェンス》

 僕ら文学を担う者たちは、どれだけ沖縄の現実に目を向け、自らの生きる時代に向き合えただろうか。
 一九九六年九月、県民投票で基地反対、縮小賛成が過半数に達する。
この県民の声をバックに大田知事はより強力に基地問題を問い詰めるはずであった。
だが、代理署名訴訟で闘い続けていた大田知事は、五十億円の特別調整費と引き換えに代行応諾を表明した。
僕の中で一人のヒーローの像が崩れた。
同時に自らは傍観者になっている事にその時やっと気がつく。
また、そのことは僕の文学に向かう姿勢のありようを再度問うことになり、言葉への失望を呼び起こすことになる。
 僕の言葉への絶望は、土門拳の写真集『ヒロシマ』との出会いでもあった。
この著者の『写真作法』にふれることで写真という一枚の映像による表現への情熱を目覚めさせるものであった。
そのころから、沖縄を飛び出して自分の写真技術の基礎を学ぼうと思うようになっていた。
新聞配達による奨学制度で学費を稼ぐことも通信大学の友達から教わった。
親兄弟や親友たちの反対を押し切って写真の道を僕は歩み始めた。
 時代に翻弄(ほんろう)され、日米の国家に翻弄され続ける沖縄にあって僕は何をできるのかを模索していた。
沖縄を離れることへの不安がなかったわけではない。
だがそれ以上に写真への思いが東京の写真学校への進学を決意させた。

 《業火の釘を抱いて家郷出る鬼》
                                         (俳人・写真家)


大田昌秀= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E6%98%8C%E7%A7%80

大田平和総合研究所= http://www.cosmos.ne.jp/opri/

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