2009年10月15日
沖縄・泡瀬干潟事業中断の公算大 二審も県、市の支出認めず:豊里友行
沖縄県沖縄市の泡瀬干潟を埋め立ててホテルなどを作る計画について、福岡高等裁判所那覇支部は「今の段階では経済的な合理性があるとは認められない」として、1審に続いて沖縄県などに事業費を支出しないよう命じました。
泡瀬の海に魅せられて私はかれこれ11年経つ。
日本自然保護協会会報『自然保護』(2005年7/8月号No.486)のミナミコメツキガニの撮影によっていろいろな泡瀬の蟹たちに魅せられる。
泡瀬の干潟を中心に歩く。
蟹たちの分布から沖縄諸島とアジア圏内との交流に想いをはせた「ニライカナイの地図(初期)」のシリーズの構想がもくもくと立ち上がって来た。
それ以降ジャーナリスト・ネットに随時コラムで泡瀬干潟とそこの埋立工事近況を掲載してきた。
沖縄・泡瀬干潟事業中断の公算大。
これからは守り育てる事を中心に考えて行く必要がある。
ニライカナイの地図(初期)= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1882666.html
= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1882654.html
ミナミコメツキガニ撮影日記= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1882592.html
(会報『自然保護』に載る)= http://toyoanneru123.ti-da.net/e719600.html
塩漬けの街= http://toyoanneru123.ti-da.net/e2066957.html
ニライカナイの地図 ~ 泡 瀬 ~
= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1628058.html
ニライカナイの地図-泡瀬干潟ー パート2
= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1655476.html
まなざしの行方 (沖縄タイムス)= http://toyoanneru123.ti-da.net/e2568457.html
2009年10月13日
写真家 平敷兼七さん逝く:豊里友行
中学の同級生主催の婚活ならぬ合コンに行って帰るともう朝刊が配達されている。
何気なく目を通そうとして目を疑う。
つい先日電話で写真展会場について平敷兼七さんとは話をしたばかりだった。
それより自分の世界、(ニコンのユーナにポトンした作品を)私だって一回はポトンしたんだからとホロ-を入れながら、もっと煮詰めて見たらと私を叱咤激励してくれていた。
お体大切にしてくださいよと私は余計なことをいうと彼は気持ちだけもらっておくと言う。
君には関係ない世界だよと軽くいなされた。
その時は気づかなかったが新聞の訃報記事がポツリと私の目にとまると不思議とわかるような気がした。
写真の正念場に私はいる。
平敷さんの写真学校同期の友人・勇崎哲史さんからケータイに連絡がきた。
私は手伝いをしようと平敷さんの自宅へ一身に向かう。
ついて見て気づく。
自宅ではないだろうが!(平敷さんが生きていたら叱られていただろう・・・)
それからケータイで葬祭場の名前を聞き告別式へ向かう。
家族のみの葬儀と記事に書かれていたが多くの関係者が来たと思う。
みんな平敷さんと話をしたいことがあるように思えた。
長年温めていたテーマのユタの世界を「ユタ巡礼」のシリーズとしてまとめてもいいと零していたじゃないか・・・。
「沖縄の文化人」シリーズも本にまとめたがっていたのに・・・。
南風原文化センターで写真展をしたいなら館長を納得させる作品をと言ってくれたじゃないか。たしか彫刻家 金城実さんともつながりがあるよと教えてくれた。
うつ病がキツイ時に(フイルム現像が一年以上溜まった)数十本のフィルム現像を(一本350円で)手伝ってくれたね。フィルム現像の作業を見守られながら体と心の弱った私は、腰かけに座ると彼に怒られた。その頃の積もり積もったストレスと写真作業。その中には重大な作品になりうるものもあった。
若くても心はよれよれだった私は、平敷兼七さんの写真アトリエで写真のエッセンスをいっぱい頂いた。
土田ヒロミ氏が平敷さんのブログ担当の私に彼との関係は聞いたら、写真仲間ですと答えた。年を考えれば師弟関係かと勘違いしかねないが私のことをライバルだよとまだ若造の私を平敷さんは写真家として対等に見てくれていた。
何故こんなに早く逝ってしまったんだ。
江成常夫氏が沖縄にいらした時、私は夕飯をおごってもらう。
その際に平敷兼七さんの話をしていて、私は平敷さんの写真は坦々と撮られる記録写真が時代の醍醐味だというようなことを話すともっともだと江成氏もうなずいてくれた。
写真の記録の部分を重んじて丁寧に撮影されている平敷さんの姿をみて私も姿勢を正していたものだ。
とくに彫刻家 金城実さんの撮影では平敷さんも撮影していて記録も大切だと私の記録写真『金城実の世界』を楽しみにしていたので残念だ。
私も記録写真を大切に歴史に遺して行きたい。
若い写真家や多くの人々に好かれていた写真家 平敷兼七さんのご冥福を祈るばかりだ。
2009年10月10日
「彫刻家 金城実の世界」豊里友行写真録:豊里友行

「彫刻家 金城実の世界」豊里友行写真録
刊行のためのお願い
そもそもこの写真集は、被写体となった高さ3m×134mの「100mレリーフ」を10年かけて完成した。その道のりの記録である。
「戦争と人間」がテーマであった。
沖縄戦体験者としての筆者が未来に伝える遺産である。
豊里友行君の写真を通じ未来の者たちに伝えられて行くことを心から願う。
彫刻家 金城実
刊行の趣旨と賛同人ご参加のお願い
彫刻家 金城実氏の10年間の集大成「100mレリーフ」を中心に彫刻家 金城実の作品世界を写真集という形で出版し、その仕事をより多くの人々に伝えていくことの意味はきわめて大きいと私たちは確信します。つきましては、皆さまにご協力をお願いしたく、ここにご案内いたします。どうぞ趣旨をご理解頂き、お力添え下さいますようお願い申し上げます。
賛同金は、下記の郵便振替口座へお振込み頂ければ幸いです。ご賛同下さった方には、一口につき写真集1冊を贈呈させて頂きます。
「彫刻家 金城実の世界」豊里友行写真集刊行委員会代表 豊里友行
賛同金一口:3000円(何口でも)郵便振替口座:
【店番】708【普通預金】【口座番号】0169231
加入者名:豊里友行写真集刊行委員会(一口につき、写真集一冊を贈呈いたします。)
連絡先 豊里友行写真集刊行委員会(090-3418-0534 /
toyozato-tomoyuki@hotmail.co.jp )
〒904-2164 沖縄書房 沖縄県沖縄市桃原3-3-12
(〒 - ) 〔*お客様記入欄〕
ご住所
お名前
ご連絡先
電話番号
お振込みされた方は必ずメールや郵送にてお客様記入欄をお教えください。
2009年9月19日
泡瀬埋立工事中断に伴う再生工事を!:豊里友行
泡瀬埋立工事中断の国側意見!
自然保護の潮流にしっかりと乗る民主党政権。
政権工エエェ(´Д`)ェエエ工変われば国も変貌する。
というか変革してもらわないと困る。
あとは肝心の沖縄県やおきな沖縄市の対応が変革されていかねばならないΣ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll)
幼い頃に見た水平線はもう住宅街になっているのですが、これ以上人間様の欲望ばかり満たしていけるのだろうか。
蟻の列鮮やかな死の水平線 友行
奥間川や泡瀬干潟、そして辺野古の豊かな自然を守る必要がある。
もうこれ以上欲しがらないことが今の現代人に求められているのではないか。
漠然とではあるが飽食の時代を経て地球もやせ細っている。
生活が豊かになるためなら生まれ育った島の荒廃だってやむ終えない、という時代はもう終わったのだ。
地球にやさしい時代。
地元住民の利潤ばかりを追求してきた公共工事の変革を真摯に受け止めるべくなのだ。
だからといって生活していくにはどうしたらいいかジンブン(生きる知恵)を絞ることも大切なだけにただ公共工事をストップするのではなく、これまでの環境破壊の付けを真の環境再生事業にしていく必要もある。
公共工事で食いつぶした自然をほったらかしにするわけにはいかない。
2009年8月31日
政権交代と沖縄県民の声の反映を願う:豊里友行
第45回衆院選は8月30日投票、即日開票の結果、民主党が308議席を獲得する圧勝を収め、政権交代が確定した。
沖縄選挙区は、1区で国民新前職の下地幹郎氏(48)、2区は社民前職の照屋寛徳氏(64)、3区は民主新人の玉城デニー氏(49)、4区は民主新人の瑞慶覧長敏氏(50)が当選した。
九州比例ブロックで共産前職の赤嶺政賢氏(61)が、4度目の当選を果たした。
当選した5氏は、米軍普天間飛行場の移設問題で「県外・国外移設」を掲げているので自公政権が進めてきた名護市辺野古への移設計画に大きな影響が出るだろう。
この選挙の政権交代で民主党から日本国大統領がでることが決まったのだが、沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題など沖縄問題をどう舵取りするのか注視しなければならない。
その間選挙だけでなく日本国民である私たちは、常日頃から日本国民の声を反映すべく世論の声を強化する必要もある。
つまり日本国民も今回の政権交代を受動的に行うのでなく国民の声を、沖縄県民の声を常に打ち出していく気質を持つべきなのだ。
そう国会への請求権の強化と確立を目指すべきなのだ。
そういう意味でも辺野古の基地建設への反対運動の広がりをしっかりと受け止めてくれる新しい政権を期待したい。
それにしても今回の選挙結果は、仲井真弘多知事の県政運営に大きな打撃となり、来年1月にも予定される名護市長選や4月予定の沖縄市長選、夏の参院選、11月知事選など主要選挙に影響を与えるだけろう。
2009年8月 6日
私の「ヒロシマ」:豊里友行
03年4月に僕の写真家として大きな存在の出会いの写真集のエピソードを綴(つづ)りましたが、一方ではアメリカの軍事力(暴力)による平和への解決方法について世界中の人々が一人ひとり考えなければならない現状は今現在も続いている。
注意すべき点としては、これは過去の戦争の怖さを伝える歴史的記録である反面、現在の広島・長崎における被爆者への偏見や風評を助長するためのものではありません。
つまり写真家の写真または一般の方々の写真が、個人の肖像権やプライバシーを侵害することのないよう細心の注意を払わなければならない。
この土門拳写真集『生きているヒロシマ』においても著者は、その基本的人権における壁にぶつかっている。
ドキュメンタリー写真における伝えたい「こと」が、写真家の手を離れていく時、写真家における「著作権」をしっかりと打ち出していくことが、これからの僕自身の報道写真家としての課題でもある。
琉球新報 2003年4月13日付け ~ 晴 読 雨 読 ~
土門拳写真集『生きているヒロシマ』 戦争の永遠の残虐さ 豊里友行
心に残る本との出会いが必ずしも快いものとは限らない。
土門拳の『ヒロシマ』『生きているヒロシマ』の二冊の写真集はそういう本であった。
僕は『ヒロシマ』を初めて見た時、数ページめくり本を閉じた。
それは原爆症の手術の写真で、見ることに苦痛さえ感じさせるものだった。
彼自身も第一回の手術の撮影で患者に目をそむけてしまったと『写真随筆』の中で撮影の苦悩を語っている。
戦後急速に発展を遂げる日本全体とは裏腹に、陰険で執拗(しつよう)なまでに被爆者の身体と精神を蝕む「ヒロシマ」の闇の部分へ光を当てたドキュメンタリー・フォト。
目を逸らしたはずの「魔の爪痕」が僕の脳裏を離れなかった。
「ヒロシマ」も、多くの一般住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇と基地の島の苦悩に共通していた。
戦争の犠牲になる人びと。
少しずつすこしずつ僕は、「ヒロシマ」のページをめくる。
上京してから『生きているヒロシマ』を手に入れた。
「一発の原子力爆弾が残した十三年後の爪痕であり、二十三年後の憎悪と失意の日々の記録」と前書きがある。
彼は、軍事費にお金を惜しまず貧しい被爆者の入院加療を受ける予算を組もうとしない日本的現実を指摘し、「ぼくたちは、戦争と貧困のからみ合った一切の不幸がしわよせされている広島・長崎の現実をまともに見る必要がある。」 と叫び、「憎悪と失意の日々」で戦争の爪痕に今もなお苦しまなければならない不条理をすべての人々に訴えている。
「原爆慰霊碑・具会一処(ぐえいっしょ)」------墓碑に刻まれた広島市民の原爆に対する憎しみが浮かび上がる。「原爆病院の患者たち」------何度も瘢痕植皮手術を繰り返し、被爆による白血病と闘う患者の日常生活。 省 略 原爆の爪痕の根は深く、苦しい長い歳月を孕(はら)む。しかしこの写真家土門拳は哀れみや同情でなく一貫して人間の尊厳をあたたかな眼差しで視(み)つめる。現代の僕らは新聞やテレビ、インターネットなど多様化する情報化社会において、どれだけのものを視て、どれだけのことを知る事ができているのだろうか。
9・11米同時多発テロ以降、アメリカは、大量破壊兵器撤廃、テロ撲滅、民主主義を掲げイラクへの戦争を始め、イラク住民への大量殺戮(さつりく)を繰り広げている。日本も武力行使を支持する事で罪のない一般住民を殺す側の立場に立っている。僕たちは長崎・広島・沖縄の悲劇を含めた世界の戦争の歴史を視て、どういった人々が犠牲になるのかを想像しなければならない。『生きているヒロシマ』は、ヒロシマの闇に紛れた原爆の爪痕を写真と文で克明に照らし出すことで、僕たちに、戦争の永遠の残虐さを突きつけている。
八月の水平線をかき鳴らす 友行
被爆の嗚咽銀河へ運ぶ天道虫
原爆は開けぬ瞼地球泣く
被爆者の凸凹道のラムネ瓶
闇背負う帰郷です被爆の羽蟻
天軸弾く爆心地のあめんぼ
2009年6月24日
沖縄 慰霊の日:豊里友行
今日六月二十三日は沖縄 慰霊の日。
黎明の塔に上りながら青い海と水平線を眺める。
平和の礎に貼り付けられた黄色い花が印象的で撮影する。
朝鮮人の礎には数名しか刻字されていない。
その空白がなにか名もない人たちの歴史の忘却を物語っているように思える。
それからひめゆり学徒の慰霊祭を撮影する。
開館20周年となった「ひめゆり平和祈念資料館」では、ひめゆり学徒を送り出した女学校などの同窓生と、那覇市の沖縄尚学高と同高付属中の生徒たちがそれぞれ「レクイエム(鎮魂歌)」をささげる。
元ひめゆり学徒の上原当美子さんは感慨深く涙ながらに歌う姿に私は魅せられた。
当時若者たちと同じくらいの歳頃だった彼女は、戦争のかなしみを涙のレクイエムに込めた思いは果てしなく深いものだろう。
その日は暑くて豆に水を含みながら撮影に当たる。
写真仲間からもう若くないんだから体に気をつけて撮影しなさいという言葉が足かせになる。
あまり無理することもなくひめゆりの塔の慰霊祭の香典の最後らへんで私もウートートーする。
きっと沖縄から世界を平和にしていきましょうと祈りをささげる。
私は非戦の祈りを写真で実行していくことを誓った。
遺骨も不発弾も魚の骨のように多く残る島だからこそ、基地の島の加害を食い止めながら、戦後64年目のレクイエムを常日頃からつむいで行こうと思う。
「沖縄世までの憂鬱」
今の基地の島・沖縄の現状では、沖国や宮森小のジェット機堕落事故などのような沖縄県民を脅かす事件・事故も常時起こり得る。
沖縄は常に被害者の面だけでなく、戦争を支援する軍事基地の面を持つ。
阿修羅のように悲しみも怒りも、そして戦争の根源をも内包するこの島に私たちは生き続ける。
その自覚と覚悟なくして非戦の祈りが成り立たない矛盾。
現代の知識は多様化し細分化し分裂し続ける・・・。
そういう中で一貫して沖縄を見続ける責務を背負いながらも、生活に追いやられその責任の重さに打ちのめされもする。
沖縄を撮る。
いろいろな写真家に愛されたこの島の愛憎を想う時、常日頃から自分自身のために沖縄にこだわる同士に励まされながらも、たとえ報われなくとも営む決意を何度したことか。
もう歳なのだろうか、私の沖縄へのこだわりを誰かに認めてもらえない諦めムードが蔓延している。
沖縄へのこだわりと情熱を伝える、それだけを一身に考えているのに時々迷いやためらいがちらつく。
沖縄よ何処へ行くという問いは、本当は私自身の沖縄への愛憎から生じる迷いやためらいのようにも思えて来る。
沖縄は平和を発信するためにも基地を破棄しなくてはならない。
本当に素直にそう何度もこの壁にぶち当たる。
沖縄世(ウチナーユ)まで行くためには非戦であり、非武の島になることを、私は生涯想い続けることだろう。
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