2009年9月27日
今週の一枚「顔のない人」:豊里友行

頭をもたげ肩を落す後姿のサラリーマン。
1998年頃だが某大手証券会社や銀行などの倒産が相次いでいた。
首を切られるリストラにあった人々を思う。
撮影場所は私の住んでいた恵比寿である。
いたるところで写真のように首のないサラリーマンを見受けた。
あれから十一年が経つがリストラなどの方々も転職なりして元気にやっていてほしい。
2009年9月23日
戦争文学を創造していく意義:豊里友行
私はこの沖縄をめぐる俳句と写真の旅で沖縄戦の痕跡に触れ、想像している。
ガマフヤーの具志堅隆松さんの言う沖縄戦を遺骨収集を通して新たに経験していくことの意義をかみ締めて俳句を創りたい。
つまり沖縄戦を2次的に追体験していく世代として戦争文学を詠む。
戦争を体験していない世代の私は、追体験という戦争を想像し、俳句や写真で伝えて行きたい。
私はそこでイメージ俳句の旗揚げをしたい。
戦争を想像し、戦争文学を創造していく意義は戦争体験者Σ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll)の減少する中で意義がある。
2次的に追体験していくからこそ、あの司馬遼太郎がノモハンについて語れないと涙するように漏らした体験のトラウマを超えていけるのではないだろうか。
もちろん戦争体験者のお話なども記録して行きながらです。
人間が人間でなくなる時を客観的に見詰める過酷な作業を追体験でなら事実を事実をとして伝え、真実へと現実の壁を超えられないだろうか。
戦争のもう戻れない蝉の穴 友行
2009年9月21日
うつ病の偏見との闘い:豊里友行
私はうつ病だったことを新聞などの文章やブログで公にしている。
うつ病といえばノイローゼという偏見の目で見る人もいた。
だが私はためらいなくこの偏見との闘いを承諾した。
その闘いは険しいものだった。
うつ病への理解があまりにもない事に原因がある。
まず再就職が困難だった。
最初のうちはハローワークへも通う。
診断書(5千円くらいかかる)を医者からもらうが就職先の面接の偏見はぬぐえない。
ほとんどの人はうつ病を隠して再就職を目指す。
しかしハローワークの職員事態にうつ病で就職して何か問題があると(ハローワークの責任が生じるので)困ると言われる。
仕事をするためには欠陥商品では困るといった感じなのだ。
だからと言って働かない訳にも行かない。
私は自営業をしている。
すこしずつではあるがゆとりも出てきたので出版社も立ち上げた。
ようは自分なりの世界を持てばいいのだ。
治ってからもうつ病の再発を疑う人も多い。
父母からも時折、基地反対などをしているからだとかキチガイだとか言われたこともある(写真きちがいという意味なのであってるけど、とほほほ~)。
写真きちがいは収入の大部分を写真に費やしてしることからだ。
もっと写真以外にも幸せはある。
そう両親への病気への偏見を解くことにも長い時間を費やす。
俳句の趣味の付き合いの多くの方々とも「去るものは追わず」という感じで付き合いは無くなった。
いろいろ悔しい思いもした。
成功するしか道はないと思え気の遠くなるようにも思えた。
心ある人はその偏見のことも分かっていて仲良くしてくれる。
だがこのうつ病のことはデリケートな問題のようだ。
だから私はこのとよチャンネルであえて病気のことも公表しておく。
だれか人生につまづいた時に参考になればと思います。
2009年9月20日
終の棲家:豊里友行
所要で老人ホームへ行く。
全快したもののうつ病の際には自殺したいと思ったこともある私からしてみれば、そういう終の棲家もつい最近の問題のように感じてしまう。
それくらいうつ病の重い時は、足踏みしている自分の世界で生きることを苦痛に感じた。
うつ病の時の私は、自分自身の死と向き合っていた。
死が真じかに迫っているように感じていた。
寝たらすこしはよくなった。
そして時間の過ぎ行くのにさえ悩んだ。
生きるということ事態、すごく重たい気分になっていた。
時間を潰すことが苦痛だった。
かといって生きることをやめない限りその苦しさはやまないと真剣に思えた。
それでもいざ自殺しようと考えてみてもまだやるべきことがあることに気づき初めて怖くなる。
一日の不安をうつ病の薬で和らげていった。
その時は心療内科の先生との二人三脚で恐る恐る生きていたという感じだった。
でも足踏み状態の現状の私は、心療内科に通いながら闘病する。
必死で泡瀬干潟や辺野古に写真を撮りに通った。
特に私の人生で苦しい時期だった。
しかしうつ病の療養になった場所もおかしなもので泡瀬干潟だった。
心の風邪も全快してうつ病の薬も飲まないですむようになる。
今でもうつ病の不安が時折あったが、うつ病の重たかった時期を振り返りながら今は私の仕事の本分を真っ当している。
心の風邪も治ってしまえば、気持ちの持ちようと言えるようになる。
終の棲家を考えるにはまだ早いがいつかは考えないといけない。
そう生きることが苦しかった時があった私は、今婚活しながら生きてることが楽しさ探しでもあることに気づく。
老人ホームに行った者をあんな(´-`) ン? になりたかないと言い放つ老人もいた。
だが長生きすればいずれ実際に自分の出番が回って来る。
老いをつむぐ行為は時にモミクチャに絡まった人生の糸になることだってある。
だからこそ人生を手助けしあう「社会」が必要なのだ。
そんな当たりあえ前のことを自分の言葉で理解しなおしながら素直に自分自身の世界を生きている。
ひょっとしたら私の終の棲家は、私自身の世界のことをいうのかもしれない。
その世界の広がりこそ人間関係にあると私は思っている。
2009年9月19日
泡瀬埋立工事中断に伴う再生工事を!:豊里友行
泡瀬埋立工事中断の国側意見!
自然保護の潮流にしっかりと乗る民主党政権。
政権工エエェ(´Д`)ェエエ工変われば国も変貌する。
というか変革してもらわないと困る。
あとは肝心の沖縄県やおきな沖縄市の対応が変革されていかねばならないΣ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll)
幼い頃に見た水平線はもう住宅街になっているのですが、これ以上人間様の欲望ばかり満たしていけるのだろうか。
蟻の列鮮やかな死の水平線 友行
奥間川や泡瀬干潟、そして辺野古の豊かな自然を守る必要がある。
もうこれ以上欲しがらないことが今の現代人に求められているのではないか。
漠然とではあるが飽食の時代を経て地球もやせ細っている。
生活が豊かになるためなら生まれ育った島の荒廃だってやむ終えない、という時代はもう終わったのだ。
地球にやさしい時代。
地元住民の利潤ばかりを追求してきた公共工事の変革を真摯に受け止めるべくなのだ。
だからといって生活していくにはどうしたらいいかジンブン(生きる知恵)を絞ることも大切なだけにただ公共工事をストップするのではなく、これまでの環境破壊の付けを真の環境再生事業にしていく必要もある。
公共工事で食いつぶした自然をほったらかしにするわけにはいかない。
2009年9月13日
記念写真の薦め:豊里友行
糸満ハーレーを観戦する。
海人の参加する最初のウガンバーレーだけ撮影する。
昨年の写真を本人にあげると少し照れていた。
本堂での写真館さんの記念撮影を見ていて思う。
やはり祭りは記念撮影も込みのほうが記憶に残る。
もちろん地元の公報や新聞社、テレビの影響力も大きい。
だが参加者個人の宝物として記念写真をもちかえれたらと私は思った。
そういう意味では生まれ島・粟国島を記録した安里盛昭先生の『粟国島ーシマンチュとシチビ 神の里』のような島の人の思い出になる写真集を出版することを私たち写真家も目標にしたい。
営業写真館などのように頼まれて写真を写す人たちはもちろん、あとからでも請われば写真を好意的に販売するともっと写真に親しみが生まれるだろう。
アマチュアカメラマンもできれば撮った写真を被写体になった人たちにあげるなどすれば記念にもなるし、交流にもなるからぜひ実行してほしい(ただし撮られる被写体には肖像権があるのだから撮られた方々に喜ばれるように良心的に接したい)。
また被写体になる人たち自身もケータイカメラなどの普及もあるのだから写真を撮る行為にも親しんでほしい。
そういうことが海外のよううに写真を文化にしていくことに繋がっていく。
2009年9月 7日
なぜに「慰霊の日」は6月23日なのか? :豊里友行
「金城実 100M彫刻 戦争と人間 大展示」大西忠保写真展がJAL CITY裏のBar Gallery 土にて開催される。
安里正美が唄い、森口豁が語る写真展前夜祭に参加する。
森口豁さんのドキュメンタリー「在日沖縄人(タイトルを忘れた、すみません!!)」を見る。
髭も黒い40代の彫刻家金城実さんの沖縄人としての「戦争と人間」へのこだわりを浮き彫りにしたドキュメンタリー。
この会場・Bar Gallery 土では「森口カフェin那覇」(森口さんの映像作品鑑賞をする趣旨)の鑑賞会が適時開催される。
ぜひとも森口豁さんの映像作品の資料館(?!)ができることを願う。
その他、豪華ゲストをお招きし、ゆんたくをします。
当日のゲストは、
・金城 実
・西山 正啓
・平良 修 などが参加していた。
〈問題提起〉なぜに「慰霊の日」は6月23日なのか?
では会場のみんなが意見を語り合いながら考えた。
1945年4月1日にアメリカ軍の沖縄本島上陸によって本格的に開始された沖縄戦は、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した日をもって組織的戦闘が終結したとされている。現在は1974年に制定された「沖縄県慰霊の日を定める条例」により、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)」、6月23日を「慰霊の日」と定めている。
今回はその慰霊の日への疑問を投げかける場になった。
9月7日の降伏調印式のほうがいいのではという意見もあった。
もちろん一方で、司令部が壊滅してもそれを知らされなかった兵士たちが抵抗を続けたため、散発的な戦闘は司令部自決の日以降も続いた。このため、慰霊の日を司令官自決の日と定めることに対して疑問を投げかける立場もある。たとえば沖縄市では、慰霊の日を休日とする一方で、同年9月7日に降伏文書への調印が行なわれたことから、同日を「市民平和の日」と定めている。
私は、摩文仁の軍人が中心に建立した軍国讃美の慰霊の塔だけを見ていると軍人よりも多くの犠牲者をだした4分の1もの沖縄住民が殺された真実が戦争体験をしていない世代では見えてこないのではないか。沖縄戦の大多数の犠牲者である沖縄住民の主体的な慰霊の歴史をつむぐ必要があるのではと感想を述べた。
沖縄戦を体験している人たちの減少により少しづつ沖縄戦の真実を知らない人たちも増えている。
そういう中で沖縄戦を誰の立場から見直していくべきなのか考え訂正していくことが必要だとも思えた。
そういう作業が血となり骨となる思想の骨子にしていかないと沖縄戦の犠牲者である沖縄住民の声無き声である死者の声をも歪曲、誤認して代弁されてしまう恐れがある。
6月23日をどうするかではなく、多くの犠牲者を出した沖縄住民の戦死者などの慰霊の立場から慰霊の日や慰霊の作業を構築していく必要は急務だと思う。
2009年9月 6日
『沖縄戦遺骨収集現場の現状と課題』具志堅隆松さん :豊里友行
平成21年度沖縄市民平和講座(後期)第3回を受講する。
この講座で初めて具志堅隆松(たかまつ)さんに出会う。
具志堅さんは遺骨収集で雇用創出を試みたり、不発弾処理事業を失業対策創出と福祉還元などいろいろ戦後処理について創造的なアイディアと行動をおこなっている。
『沖縄戦遺骨収集現場の現状と課題』具志堅隆松さん
ポツリポツリと語る具志堅隆松さん(55歳)の言葉は沖縄戦の真実の重みがある。
具志堅さんの遺骨収集は28歳の時にボーイスカウトリーダーをしていた時に及ぶ。
初めての遺骨収集ではあまり手ごたえがなく一般的ウチナーンチュ(沖縄の人)の死者への恐れのようなものがあり、遺骨収集を始めて友人に声かけをしてもなかなか広がらなかった。
私が驚いたのは遺骨収集をしている中でのその当時の現状を想像する力だった。
それは遺骨収集の現場で戦争を追体験する行為でもある。
限られた情報量から沖縄戦の現場を想像する力。
遺骨収集のベテランの国吉勇さんとも共通している。
具志堅さんは遺骨収集をしながら考えている多くのことを語ってくれる。
沖縄戦についての考察から話は現代人の病んだ精神にも及ぶ。
黒板のメモ書きを記す。
戦争をする原理は今も残っている。
・人を殺してはいけない。
*・人に殺されることを認めてはいけない。
・自分を殺してはいけない。
ひとりひとりに価値があろんだということを認めてもろう必要がる。
これは現代人のリストカットなどにもいえると思うと具志堅さんは語る。
戦争が成り立たなくなるための根源的原理でもあると私は思う。
真嘉比地区遺骨収集で子供たちの遺骨収集の体験の重要性を説く。
沖縄戦の体験者は確実に減っている。
真嘉比の遺骨収集の現場は来年には(開発のため)無くなる。
多くの人たちに見てもらうことで自分の目で見て手にとって体験したことをいわゆる事実を体験している人になる。それは沖縄の戦争についての証言者になることでもある。
それは文献などの知識でないモノ。
できれば現場で体験者の体験を聞くことが必要。
(多くの急務な沖縄戦の歴史証言者を育てるのは大変なので)地元の人が地元の歴史を調べる必要が急務。
慰霊の碑については、軍関与の人たち。生き残りの兵隊が作ったモノ。被害を受けた住民の側の話がない。
軍人より沖縄住民の方が死んでいるのにそれら軍人の碑文だけが残る危険性がある。
具志堅さんは多くの語りたい壕での考えたことは多岐に渡り、私の取材方法論の点にも触れる部分があった。
たとえば遺骨を写真に写すことについて。
本来遺族のいる死体や遺骨は撮られたがらない。
しかし遺族の元に帰れない遺骨たちを写す人が想いを込めて(テレビなどの)電波に乗って帰れるかもしれない。
たくさんの人が関わったほうがいい。
その中で遺骨収集からその後の納骨式まで国の関与にも疑問を投げかける。
具志堅さんは国に縛られない方がいいのではと提言する。
私も国は主体的な沖縄や日本国民の遺骨収集から納骨などの作業を補助する役割に徹してほしいと思う。
そうでなければ沖縄戦の場合、国が戦争を起こした責任さえ取れないこの日本国において国民や沖縄県民の主体的な慰霊の作業や戦後処理などを血肉化していく思想を構築しきれないのではないのかと思う。
話は跳ぶが日本国憲法の平和憲法の血肉化はやはりこの沖縄・広島・長崎からなされていくべきではないだろうか。それは世界の平和思想にもつながるものだと思う。
具志堅さんの純粋な問題提起にこれからも向き合いたいと思う。
次回もこういう講座があれば学びたいと思えた沖縄市の良い平和学習だった。
沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」
= http://toyoanneru123.ti-da.net/e2772244.html
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