2009年8月31日
政権交代と沖縄県民の声の反映を願う:豊里友行
第45回衆院選は8月30日投票、即日開票の結果、民主党が308議席を獲得する圧勝を収め、政権交代が確定した。
沖縄選挙区は、1区で国民新前職の下地幹郎氏(48)、2区は社民前職の照屋寛徳氏(64)、3区は民主新人の玉城デニー氏(49)、4区は民主新人の瑞慶覧長敏氏(50)が当選した。
九州比例ブロックで共産前職の赤嶺政賢氏(61)が、4度目の当選を果たした。
当選した5氏は、米軍普天間飛行場の移設問題で「県外・国外移設」を掲げているので自公政権が進めてきた名護市辺野古への移設計画に大きな影響が出るだろう。
この選挙の政権交代で民主党から日本国大統領がでることが決まったのだが、沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題など沖縄問題をどう舵取りするのか注視しなければならない。
その間選挙だけでなく日本国民である私たちは、常日頃から日本国民の声を反映すべく世論の声を強化する必要もある。
つまり日本国民も今回の政権交代を受動的に行うのでなく国民の声を、沖縄県民の声を常に打ち出していく気質を持つべきなのだ。
そう国会への請求権の強化と確立を目指すべきなのだ。
そういう意味でも辺野古の基地建設への反対運動の広がりをしっかりと受け止めてくれる新しい政権を期待したい。
それにしても今回の選挙結果は、仲井真弘多知事の県政運営に大きな打撃となり、来年1月にも予定される名護市長選や4月予定の沖縄市長選、夏の参院選、11月知事選など主要選挙に影響を与えるだけろう。
2009年8月29日
2009年8月28日
戦争体験者講話 山里和枝:豊里友行
沖縄戦の体験者の話に興味があって平成21年度沖縄市民平和講座(後期)第2回を受講する。
戦争体験者講話
~ 元県防空監視隊本部隊員による語り ~
戦争体験者講話 山里和枝(元沖縄民政府職員)
『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』(田村洋三/著 )を手に抱えながら話をはじめる山里和枝さん。
戦争体験者がどうやって沖縄戦を生き延びてきたのか私は興味しんしんだった。
まさにこの語り部たちは奇跡で生き残った人たちなのだ。
「常々絶対に捕虜になるなと言われてきた。
どうして死ぬのかを考えてきた。
戦場では(「人間が人間でなくなる」というが私も)人間でなくなっていて、怪我人が泣き喚いても何も思いませんでした。
どうせ自分も死ぬんだからと思っていた。」
すさまじい戦場の地獄を辿りたどり山里和枝さんは現在まで縁あって生かされ私たちの目の前でお話をされている。
その日のお話の内容は参考文献もあるので上記の戦場での山里和枝さんの心情に焦点を絞ってみた。
沖縄戦の歳月を生き延びて着た者として語り部になった山里和枝さん。
山里和枝さんの言葉を(聴講者も)一人一人戦争を伝えてほしいと言う。
戦争を体験していない私は、私自身も戦争体験者の生の声を語らなくてはならない時期がやってくるのをひしひしと感じさせられる。
私たちは戦場にいるわけではない。
だからこそ山里和枝さんのように戦場で心を麻痺することもないで感じることができるようにしたい。
『戦場では人間が人間がなくなるとき』があるのだから戦争を阻止し、未然に防ぐ「予防」を常日頃から養わなくてならないと思った。
私は戦争体験者の声をこれからもつむいで行く必要性を実感させられた。
2009年8月20日
私の終戦記念日:豊里友行
私の終戦記念日を書きたいと思う。
沖縄戦以降も続く世界中の戦争に加担せざるを得ない沖縄Σ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll)w
沖縄は キョロ(・.・ )( ・.・)キョロ どこから戦後といえるだろう。
沖縄戦以降たしかに平穏な世界は広がっているようだ。
しかし日本国内の75%もの過重な基地負担を強いられながら沖縄の戦後は延々と延ばされていやしないか。
私はこの島から平和基地の理念を構築すべく沖縄を撮り続ける。
一番悪い点を挙げるならアメリカの戦争に加担することこそ終戦記念日に反省せざるをえないように私は思う。
私の終戦記念日などないのだ。
ただ平和という日常の真っ只中に置かれ世界中に起こりうる戦争や紛争に沖縄がどこかでリンクしている現状を私は想像し続けなければならない。
どこかでいつかトランプゲームのように引くであろう有事というカードを演出するこの世界のからくりが必ずや私たち日本国にはあるだろう。
だからこそその見えてこない戦争の構造を俳人で写真家の豊里は、沖縄という生まれ島を記録表現の舞台においていみようと試みる。
売れない写真家になるには:豊里友行
樋口健二先生の『売れない写真家になるには 』を沖縄に帰郷してから読んだ。
食えない時期だってあったというから私にとって大いに励みになった。
『原発』など国家を相手にしたこの写真家の仕事は多大な功績だと思う。
私も沖縄の米軍基地を追いかけて11年になる。
テーマがテーマだけに売れない路線をひた走っている。
最近では雑誌に顔を出すこともなく黙々と撮り続けている。
「沖縄書房」(豊里友行代表)から沖縄本を企画出版する予定で動いている。
現在「沖縄は今!」豊里友行写真展を開催している中部写真館の久場さんからも売れる写真も撮りなさいと叱咤激励されている。
売れる写真家ということで例に挙げると大塚勝久氏がいる。
売れる沖縄を撮っている。
私は沖縄の米軍基地と平行して沖縄の伝統行事も撮っている。
沖縄はいろいろな写真家に愛されている。
私は沖縄に生まれ育ち、これからも暮らしていく者として沖縄のためになる写真を撮る。
もちろん自分の心の赴くままに撮り続けていくのである。
どうにか売れる本を作りたい!
しかし75%もの過重な基地の島・沖縄の過酷な現状を無視しないで撮り続けて行きたい。
2009年8月11日
豊里友行の戦争論 :豊里友行
太平洋戦争を海にたとえてみる。
波一つひとつが海全体に突き動かされている。
ヒットラーの戦争、日本のアジア侵略・・・。
戦争で勝てば戦果を得れる、つまり侵略戦争なのだ。
そういった時代だったと納得してはいけない。
どこからその海流がはじまったのか考えねばならない。
日本の軍国美談では、家族を守るために死ぬための戦争へ駆り出されて行った日本兵。
もちろんあの時代ならアメリカのように日本は勝ち続けるまで戦争を繰り広げて行っただろう。
真珠湾攻撃(1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)から傾斜した戦争の下り坂を犠牲者である日本は加害者の部分をも反省していかなくてはならない。
戦争は全体悪だ。
だが原爆を投下したアメリカの責任をこれからも強く訴え、これからの沖縄、広島、長崎の戦争を繰り返し行わわれてはいけない。
そういう意味でベトナム戦争やイラク戦争を起こさせたアメリカや世界の動きを全体悪として捉えて反省していかなくてはならない。
何故世界中の戦争を止めることができないのだろうか。
戦争は形を変え世界中で繰り返されているのだ。
民族、宗教、貧困、侵略戦争、そして国家間による利害関係の戦争・・・。
戦争、その歴史的経緯をみながら因果応報を読み解けるか。
長い長い憎しみの連鎖の短絡的な因果では解決できない。
たとえるなら争いは海なのだ。
その海全体を見ていく時、地球という星を眺める視点だって必要だ。
それは天気予報のようなもので当てにならないかもしれない。
なら戦争という全体の海をエネルギーとして見てみよう。
エネルギーのベクトルをみる。
怒りの海の断面図をみる。
時には人体の宇宙を見るようにいくつも原因と結果の断面図を見比べてみよう。
怒りを絶えることのない海の満ち引きに置き換えてみる。
人間の感情の脳派を研究してみよう。
人間の怒りや悲しみ、喜びの海を詩に詠おう。
それぞれの人種の音楽や踊りを体感してみよう。
いくつもの歴史の海から泳いでみよう。
きっと人間の叡智なら戦争の海を読み解くことができるだろう。
2009年8月 7日
沖縄の心の開花を:豊里友行
たんぽぽは思い切り背伸びし綿毛を風に乗せる。
私も二十歳に周囲の反対を押し切って、東京へ写真技術を学びに旅立った。
あれから十数年が過ぎ思うに逆に東京という私の青春の大舞台は、写真家としての故郷となっている。
沖縄ブームもあってか本土からの沖縄への移住者が増えている。
本土に比べ温暖な気候と若干物価の安さなどにつけて日本の競争社会より比較的緩やかな地域が住み易いようだ。
とはいえ仕事がなくウチナーンチュ(沖縄の人)は本土に出稼ぎに出るという皮肉なケースも少なくない。
沖縄は大部分が零細企業だし、かといってベンチャー企業は少くない。
島国のせいではないようだ。
本土から来た人のことをナイチャー(本土の人)と区別する。
ときに蔑みを込めた使い方もする。
もちろんイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)という言葉もある。
そういう意味ではヤマトンチュー(大和の人)という沖縄の方言が無難だ。
だがナイチャーという言葉の裏には沖縄を本土から外の地にあるという意味を含んでいる。
私は日本国の一地方として生まれ育ったと認識している。
だから意識の根っこに沖縄の卑屈な精神があってはこまるのだ。
というのも薩摩支配下の琉球,そして明治政府の琉球処分、太平洋戦争での軍事的に捨て石にされた。
そして長い米軍統治下に置かれた。
こうした歴史的経緯がある。
だからとはいえ特別扱いされるわけにもいかない。
甘えすぎて骨抜きにされても困る。
世界中に飛び出していった世界のウチナーンチュのように力強く生きた先人もいて、四年に一度開催される「世界のウチナーンチュ大会」で沖縄県系人に会える。
もちろん本土へ移住したウチナーンチュたちも多い。
これからの沖縄も卑屈な心を鍛えるくらい必死に自己を開花させ、自然を切り売りしない、豊かな沖縄の心を持ってほしい。
2009年8月 6日
私の「ヒロシマ」:豊里友行
03年4月に僕の写真家として大きな存在の出会いの写真集のエピソードを綴(つづ)りましたが、一方ではアメリカの軍事力(暴力)による平和への解決方法について世界中の人々が一人ひとり考えなければならない現状は今現在も続いている。
注意すべき点としては、これは過去の戦争の怖さを伝える歴史的記録である反面、現在の広島・長崎における被爆者への偏見や風評を助長するためのものではありません。
つまり写真家の写真または一般の方々の写真が、個人の肖像権やプライバシーを侵害することのないよう細心の注意を払わなければならない。
この土門拳写真集『生きているヒロシマ』においても著者は、その基本的人権における壁にぶつかっている。
ドキュメンタリー写真における伝えたい「こと」が、写真家の手を離れていく時、写真家における「著作権」をしっかりと打ち出していくことが、これからの僕自身の報道写真家としての課題でもある。
琉球新報 2003年4月13日付け ~ 晴 読 雨 読 ~
土門拳写真集『生きているヒロシマ』 戦争の永遠の残虐さ 豊里友行
心に残る本との出会いが必ずしも快いものとは限らない。
土門拳の『ヒロシマ』『生きているヒロシマ』の二冊の写真集はそういう本であった。
僕は『ヒロシマ』を初めて見た時、数ページめくり本を閉じた。
それは原爆症の手術の写真で、見ることに苦痛さえ感じさせるものだった。
彼自身も第一回の手術の撮影で患者に目をそむけてしまったと『写真随筆』の中で撮影の苦悩を語っている。
戦後急速に発展を遂げる日本全体とは裏腹に、陰険で執拗(しつよう)なまでに被爆者の身体と精神を蝕む「ヒロシマ」の闇の部分へ光を当てたドキュメンタリー・フォト。
目を逸らしたはずの「魔の爪痕」が僕の脳裏を離れなかった。
「ヒロシマ」も、多くの一般住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇と基地の島の苦悩に共通していた。
戦争の犠牲になる人びと。
少しずつすこしずつ僕は、「ヒロシマ」のページをめくる。
上京してから『生きているヒロシマ』を手に入れた。
「一発の原子力爆弾が残した十三年後の爪痕であり、二十三年後の憎悪と失意の日々の記録」と前書きがある。
彼は、軍事費にお金を惜しまず貧しい被爆者の入院加療を受ける予算を組もうとしない日本的現実を指摘し、「ぼくたちは、戦争と貧困のからみ合った一切の不幸がしわよせされている広島・長崎の現実をまともに見る必要がある。」 と叫び、「憎悪と失意の日々」で戦争の爪痕に今もなお苦しまなければならない不条理をすべての人々に訴えている。
「原爆慰霊碑・具会一処(ぐえいっしょ)」------墓碑に刻まれた広島市民の原爆に対する憎しみが浮かび上がる。「原爆病院の患者たち」------何度も瘢痕植皮手術を繰り返し、被爆による白血病と闘う患者の日常生活。 省 略 原爆の爪痕の根は深く、苦しい長い歳月を孕(はら)む。しかしこの写真家土門拳は哀れみや同情でなく一貫して人間の尊厳をあたたかな眼差しで視(み)つめる。現代の僕らは新聞やテレビ、インターネットなど多様化する情報化社会において、どれだけのものを視て、どれだけのことを知る事ができているのだろうか。
9・11米同時多発テロ以降、アメリカは、大量破壊兵器撤廃、テロ撲滅、民主主義を掲げイラクへの戦争を始め、イラク住民への大量殺戮(さつりく)を繰り広げている。日本も武力行使を支持する事で罪のない一般住民を殺す側の立場に立っている。僕たちは長崎・広島・沖縄の悲劇を含めた世界の戦争の歴史を視て、どういった人々が犠牲になるのかを想像しなければならない。『生きているヒロシマ』は、ヒロシマの闇に紛れた原爆の爪痕を写真と文で克明に照らし出すことで、僕たちに、戦争の永遠の残虐さを突きつけている。
八月の水平線をかき鳴らす 友行
被爆の嗚咽銀河へ運ぶ天道虫
原爆は開けぬ瞼地球泣く
被爆者の凸凹道のラムネ瓶
闇背負う帰郷です被爆の羽蟻
天軸弾く爆心地のあめんぼ
2009年8月 4日
私の介護入門:豊里友行
沖縄は高齢者の島といわれている。
それくらい高齢者は多いのだがら、最近の高齢者への悪法「後期高齢者医療制度」の波によるしわ寄せが来ただろう。
最近母方の与那原のお祖母さんが足に水が溜まり入院した。
完全介護なのだが私たちのお祖母さんは少し痴呆症が入っているため付き添いを必要とする。
母の変わりに一度一日中付添いをして介護の難しさを実感する。
なぜなら私たちのお祖母さんは、病院のご飯をあまり食べようとしないし、歩行訓練のリハビリを頑固にやろうとしない。
頑として車椅子から離れようとしない。
しまいには介護師に噛み付こうとする始末で私も腕をつねられた。
そうしても今の86歳を過ぎるお祖母さんの年金では車椅子を買うことができない。
それに私たちは日常的に車椅子の介護をできない。
お祖母さんの家をリホームするような予算は到底工面できない。
貧乏が頭をもたげる。
お祖母さんの娘たちが集まって相談した結果年金で足りる安い老人ホームへの入居を申請することだった。
仏壇のあるお祖母さんの家はどうなるかということより、お祖母さんの体がすぐに車椅子に慣れてしまうのが怖い。
私の介護入門は、写真家で食えなくなったときのために手に職をとホームヘルパー2級の免許を10数万円で取得したことからだ。
介護の実習はうつ病になった私自身の命綱にもなった。
うつ病事態脳の動きが鈍くなるため判断力が低下する。
高齢者の介護や精神面へのケアを学ぶことは私自身の介護をするようなものであった。
周囲の人たちへのうつ病の理解は難しく差別意識のある人たちとの仲たがいを打ち消すことができないこともあった。
いろいろな私の現状の足踏み状態から抜け出せたのもホームヘルパー2級の介護への理解のおかげだった。
元気な高齢者のイメージが満英している沖縄だが、なんらかの病気で入院してそのまま老人ホームへの入居がなされる人たちも多い。
私の付け焼刃の介護入門ではどうすることもできないのだろうか。
ただ私のお祖母さんの付き添いになるべく参加し車椅子になれないよう歩行できるようサポートをしたいと思う。
教科書通りには行かない介護入門になりそうだが、お祖母さんにお盆とお正月に毎年会えるように必死に介護をすべき時期にある。
老人ホームのショートスティというのを御存知でしょうか。
私のお祖母さんのひざに水がたまり急遽病院に入院した。
それからお祖母さんは一か月の病院生活をして某老人ホームへ短期入所している。
やはり自宅での車椅子生活は痴呆のお婆には難しかった。
そのため老人ホームのショートステイをしている。
その老人ホームの好意で88歳のトーカチをお祝いしていただく。
この敬老会のお祝いでは米寿、カジマヤー、新百歳の祝いと記念品贈呈される。
祝宴の部ではかぎやで風の踊りや余興など楽しく時間を過ごす。
もちろん観客は老人ホームに入所されている方々で車椅子が目立つ。
歩けるなら自分でデイケアに通えばいいのだ。
私のお婆さんも足が悪くなる前まではデイケアに通っていた。
(´-`) ン?
もちろん周囲の人たちの支えがあって暮らしていた。
夕飯は宅配サービスがあったし、叔母さんも介護にやってきた。
そんなわけで年老いても元気であれば自宅で昔ながらの暮らしができた。
世話をする人のいる老人ホームもよいのだが、自立した生き方を選べなくなる。
独り暮らしのお年よりもいるのだから仮ステイではあるが老人ホームで老人たちの仲間や介護の人たちに囲まれて陽気に過ごしている私のお婆さんは幸せだろう。
といってもたくさん(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ 老人たちをみている人たちは、敬老会のお祝いを終えると夕食の準備をせわしくする。
そう一日一日の生活を老人ホームの職員の方々は必死に介護してくださっているのです。
私たちはお婆さんのいないお婆さんの家に行き、仏壇にお餅をお供えご馳走を食べて帰る。
ある老人会長は健康の秘訣を転ばないことと怒らないことと言っていた。
そんなわけで元気が一番の幸せのモォー!! o(*≧д≦)o″と(元)だなどと思えて仕方ない。
昨年の老人の日以来、ショートステイからそのまま某老人ホームに入所することになる。
私の介護入門もそのまま無くなった。
だが心臓の不整脈などのため病院へ入院する。
その病院では少し痴呆症の入った患者は、食事の解除を身内の人が見なくてはならない。
それで身寄りの叔母さんの介護の負担が発生する。
私の母も与那原の病院へ通うことになる。
能面のように無表情のお祖母さんが病院のベットに吊るされているように見えた。
入れ歯を外して頬骨が浮き上がっている様はある種の能面のようだ。
鼻先には酸素の管が付けられている。
明らかにお祖母さんは老けたようだ。
しばらく面会にも行かない私にとって後ろめたさと驚きを隠せなず目線をその能面から離せない。
能面のたとえは、見る側にとって鮮やかなまでの水馬の足音のような生の鼓動といえばいいだろうか、心音さえ聞こえてきそうな能面のような心音の舞台の強靭さを私は連想していた。
あいにく眠り心地のお祖母さんのベットを囲むように4姉妹弟が話をする。
老人ホームではそんなに相手をするゆとりが無いようだ。
そのままホームでの寝たっきり生活ではお祖母さんの身体が早く弱ってしまう。
それは介護職に従事している次女の叔母さんは仕方ないという。
だから退院するころにはもう少し身内が介護に行かないといけないという相談ごとだった。
入院中は私も月曜日にできるだけ食事介護をすることになった。
能面の老い鮮やかな水黽(アメンボウ) 友行
今日は夕食の食事介護担当だが昼ごろから従兄弟の姉さんが介護をしてる頃にやってくる。
ほとんど独り言のように話をしているお祖母さんは、この前あった時の鼻先の酸素の管も外れ顔色も良くなっていた。
心臓のペースメーカーを付ける心臓手術を前に体調も回復してきている様だ。
夕食までの空き時間私は転寝た。
お祖母さんの息を引取る夢を見る。
が、まだまだ私たちの親は孝行をしなくてはいけないのだ。
もっと健康で長生きしてもらいたい。
老いを誰もが意識する時期が来るだろう。
介護させていただく時、面倒なことも多いが老いを紡ぐ作業を意識化する時期と捉えてもいい。
だれもが老いを紡いでいる。
生を誰かにゆだねながら暮らしていく介護という生活は、たしかに苦闘する面もある。
病院で時間を過ごすと医師、看護士、ホームヘルパーなどいろいろな人たちの仕事振りを拝見させて頂く。
私自身たくさんの人によって生かされている事をよく自覚しなくてはと肝に銘じたい。
2009年8月 3日
今週の一枚「最後のホコ天」:豊里友行

1998年原宿の最後のホコ天。
どんどん交通網の拡大によって歩行者天国が肩身の狭い思いをしている。
秋葉原のホコ天の無差別殺人でホコ天も賛否両論であろうが、人間様の道はどうなって行くのだろうか。
ゆとりある人生を歩むためにもホコ天の賑わいを消すまいと思う。

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