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2009年7月27日
比嘉清眞の世界:豊里友行
比嘉清眞写真展「〜ハジチのある風景〜」(那覇市歴史博物館)を鑑賞する。
老人をテーマにしている比嘉清眞さんの力作に唸る。
私はテーマ性の力強さとブリントのシャーブさに目を見張った。
気になる感想をある方から聞いた。
ハジチの写真を汚いと言う。
「身内の人が見たら怒られないかね・・・」
これは私自身気にかかっていることと関連するのだが自分自身の出身の風俗を汚いと感じてしまうのは悲しいことではないか。
この場合撮影者の超リアリズムについて話が及ぶ。
正直にハジチのある風景を写し取った手法が悪いわけではない。
現代に比べて昔の貧しさが写っているという意見なのだろう。
あまりにもシャープにハジチを映像的に捉えている。
この場合ハジチを美化する撮影でない。
つまりハジチを含めた貧しい時代の風景を率直に汚く撮っていると、この発言者は感じたらしい。
正直に言うと私は自分自身も使う沖縄の方言を汚いと感じる時がある。
沖縄文化の生きた言葉を汚いと思えるとしたら、その民族文化を消去する意識が意識の根底まで根を張っているように思う。
(ヤーシナサリンドー、フリムン、ワーヨー、ダバーヨー、アギジャビヨ!などなど極端な例だが・・・)
それに似た感覚をハジチの写真を見て感じたのではないかと私は危惧する。
つまりハジチを撮ることで汚く撮られたと考えてしまうことが、根本的に沖縄文化の根っこを枯らしてしまう要素があるのではないどろうか。
すでに私たちは本土化している美意識の元に沖縄文化の根源を知らず知らずに消去してきていないか。
本当はこの発言者は、ハジチが汚いのではなく、沖縄的な貧しさを汚いと思い、それを写し取る行為を危惧しているのではないだろうか。
もうすでにこのハジチをした人々はこの世に居ない。
そのハジチの遺族からみたらどう見られるだろうか。
昔の貧しい時代を写し取ったこの名作を汚いと感じたとしたら・・・・。
(汚いから取り下げてくれとクレームがついたらどうなるか・・・)
これがあのユージン・スミスの『水俣』のように発禁本となるとしたら写真界において大きな問題ではないか(この本は水俣の遺族の心情を考慮して発禁本になったらしい)。
ありのままを写し取る行為(リアリズム)の危機を感じる。
つまりは意識の根っこにハジチや荒い地方方言を汚いという羞恥心で隠し、消し去る。
それらを見られたくないという考えにいたる。
沖縄の風俗を汚いと沖縄の人たち自身が感じること。
それ自体が現代文明に浸りきった私たち自身の豊かさの意識にあるとしたら・・・。
それはさみしい同一化の産物だよ!!
ここでTカメラマンの話をだそう。
ある未開の村へ某カメラマンが素直に写真を撮って歩く。
それがとても自然で良いと(?)写真界で高い評価を受けた。
だがもうこのカメラマンはこの村では大変怒りを買ってしまう。
なぜなら「どうせ写真を撮るなら何故もっと綺麗なスガイ(身なり)の時に撮らない」と村人たちは怒ったのだ。
そう村人たちにとって営業写真館以外の写真は「盗み撮り」でしかなかったのだ。
だからこそプロの写真家である私は、比嘉清眞さんの「ハジチ」シリーズを名作と呼ぶ。
なぜなら写された方々にきちんと写っている写真をプレゼントしているからだ。
その行為を持ってきちんと了解を得ているのだ。
それはもう「盗み撮り」とか言われるわけがないのだ。
そういう過程まで含めて私は、写真家はジェントルマンであるべきだと言いたい。
写真家=ジェントルマンであるかはそれぞれの写真を撮る側の良心とマナーとかモラルに委ねられているのだ。
それらの信頼を積み上げてきたか、カメラマンの信頼を崩してきたか、個人個人の問題に任せられているが、写真の世界の信頼性にもつながっている。
というわけで比嘉清眞さんの写真は、(私の心の中で)非常に優れた名作であった。
2009年7月27日 18:07
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