2009年6月24日
沖縄 慰霊の日:豊里友行
今日六月二十三日は沖縄 慰霊の日。
黎明の塔に上りながら青い海と水平線を眺める。
平和の礎に貼り付けられた黄色い花が印象的で撮影する。
朝鮮人の礎には数名しか刻字されていない。
その空白がなにか名もない人たちの歴史の忘却を物語っているように思える。
それからひめゆり学徒の慰霊祭を撮影する。
開館20周年となった「ひめゆり平和祈念資料館」では、ひめゆり学徒を送り出した女学校などの同窓生と、那覇市の沖縄尚学高と同高付属中の生徒たちがそれぞれ「レクイエム(鎮魂歌)」をささげる。
元ひめゆり学徒の上原当美子さんは感慨深く涙ながらに歌う姿に私は魅せられた。
当時若者たちと同じくらいの歳頃だった彼女は、戦争のかなしみを涙のレクイエムに込めた思いは果てしなく深いものだろう。
その日は暑くて豆に水を含みながら撮影に当たる。
写真仲間からもう若くないんだから体に気をつけて撮影しなさいという言葉が足かせになる。
あまり無理することもなくひめゆりの塔の慰霊祭の香典の最後らへんで私もウートートーする。
きっと沖縄から世界を平和にしていきましょうと祈りをささげる。
私は非戦の祈りを写真で実行していくことを誓った。
遺骨も不発弾も魚の骨のように多く残る島だからこそ、基地の島の加害を食い止めながら、戦後64年目のレクイエムを常日頃からつむいで行こうと思う。
「沖縄世までの憂鬱」
今の基地の島・沖縄の現状では、沖国や宮森小のジェット機堕落事故などのような沖縄県民を脅かす事件・事故も常時起こり得る。
沖縄は常に被害者の面だけでなく、戦争を支援する軍事基地の面を持つ。
阿修羅のように悲しみも怒りも、そして戦争の根源をも内包するこの島に私たちは生き続ける。
その自覚と覚悟なくして非戦の祈りが成り立たない矛盾。
現代の知識は多様化し細分化し分裂し続ける・・・。
そういう中で一貫して沖縄を見続ける責務を背負いながらも、生活に追いやられその責任の重さに打ちのめされもする。
沖縄を撮る。
いろいろな写真家に愛されたこの島の愛憎を想う時、常日頃から自分自身のために沖縄にこだわる同士に励まされながらも、たとえ報われなくとも営む決意を何度したことか。
もう歳なのだろうか、私の沖縄へのこだわりを誰かに認めてもらえない諦めムードが蔓延している。
沖縄へのこだわりと情熱を伝える、それだけを一身に考えているのに時々迷いやためらいがちらつく。
沖縄よ何処へ行くという問いは、本当は私自身の沖縄への愛憎から生じる迷いやためらいのようにも思えて来る。
沖縄は平和を発信するためにも基地を破棄しなくてはならない。
本当に素直にそう何度もこの壁にぶち当たる。
沖縄世(ウチナーユ)まで行くためには非戦であり、非武の島になることを、私は生涯想い続けることだろう。
2009年6月21日
語らずにはいられない宮森小ジェット機堕落事故:豊里友行
あの日を語る
宮森小ジェット機堕落事故から50年(6・30)
~ 平和な日常が一瞬にして大惨事に・・・ ~
話し手は当時宮森小学6年生担任の比嘉静氏と当時同小学2年生の名嘉百合子氏により沖縄市立図書館で6月23日慰霊の日関連行事として講演会が開催された。
名嘉百合子氏は地獄絵のような光景を当時小学2年生の時に体験していると語る。
ある日平和なはずの日常が一瞬で地獄絵と化したのだ。
名嘉氏は子供心に多くの死者を出したこの事件がトラウマになっていたのではと回想する。
彼女は軍病院に収容された時、夜になると両親たちも家に帰され、言葉の通じない軍病院で不安な夜を過ごした。
異国のようなところで独り過ごしたことが名嘉氏にとって印象深かったようだ。
しばらくして事故から2週間ほどで授業は再開された。
宮森小学の生徒たちは誰も暗黙の了解のように事故のことを語ろうとしない。
名嘉氏は、ついこの間までいた友達の死を子供心に受け入れられないでいたと語る。
給食当番のため友達が何かいいたげに声をかけたのを名嘉氏は振りほどいてしまった。
その時亡くなった友達が何を言おうとしていたのか心残りだと語る。
50年経った今でも語る言葉だけが真実として残ってしまうのを恐れ沈黙し続ける人たちもいる。
しかし名嘉氏は、亡くなった子供たちのことさえ忘れ去られることを危惧する。
名嘉氏はこういう機会を持っていただいたことをありがとうございますと話を結んだ。
当時6年生の担任だった比嘉静氏が事件にあったのはちょうどミルクの時間でした。
ミルク当番でもめごとが多いので先生が生徒に配る担当をすることになっていた。
四番目の席の男の子が手を挙げお代わりをもらう合図をしている。
その時に事故は起こった。
事故直後にとっさに先生は「伏せー」と叫んだことを覚えていないと言う。
毎年最初の授業で子供たちに机の下に伏せる訓練をしていたと言う。
比嘉氏はこの6年生の子供たちにもその訓練をしていた。
教室は天井だけでなく外の廊下まですっ飛んでいる。
教室の四分の一くらいの天井が吹っ飛んでないんです。
天井から青空が見えている。
そして机は全部、爆風で向こうに寄せられてました。
子どもたちは机と一緒に吹き付けられて、机の下に潜っているんですよ。
はっと気が付いた時には「せんせーい!」と私が起き上がれないくらい、みんなおっかぶさってきた。
大きな声で「待てー!!」と叫んだ。
「先生が様子を見てくるから待っとくんだよ」と言って聞かせ、自分は様子を見に教室から出ていくと、階段の下のほうがどうも不安定のようです。
それで教室に戻ってここは危ないから逃げなさいとみんなを追っ払うようにして逃がしました。
その中に逃げないのがいるんですね。
「どうしたの!早く逃げなさい!」と怒鳴って見たら、もうだめなんです。
だれだかわからないくらい、体が崩れていました。
これは自分一人で助けられるものじゃないと思い助けを呼びに行く。
私の教室のある校舎のもう一つの棟を周ると2年生の教室がある校舎ですが、そこがもうぼんぼん燃えています。
そこから助けを求めに周ってきたら、火の中から女の子が一人、ぼーぼー燃えながら出てきたんです。
洋服も髪も燃えて、炎になって出てきたんです。
はっと思って火を消すために、その子の背中をはたいたら、背中の皮がずるずると私の手にくっつきました。
あっと思って、私はその子を抱いて「誰かいませんかー!」と叫びながら人を探したけれど、校内はもうみんな逃げていない。
なおも助けを求めて職員室の前まで来たら、教頭先生がいる。
その日校長先生は、研修で留守だったんです。
大火傷した子を抱きかかえ、さらに助けを求めてさまよいながら職員室の傍まで行ったら、後ろから走ってきた年配の伊波タケ先生に傷ついた子を託しました。
自分のクラスの子を助けてくれる人は誰かいないかと思っていたら、父兄がぼつぼつ学校に向かって走ってきたんです。
初めに走ってきた人の胸に真正面から抱きついて、「お願いします!私のクラスにまだ子どもがいるんです!」と自分の教室を指差してすがったら、その人にぱっーと跳ね除けられてしまいました。
その人は火が燃え盛るほうに、子供の名前を呼ばわりながら走っていきました。
助けを求める人に2度振りほどかれた。
自分のクラスの子は自分でしか助けられないと思った。
(怪我のため)形が崩れて本人への返答確認や衣服などでしか(生徒の確認が)わからなかった。
ガソリンも火も降ってくる教室の中を捜し回っていた。
それから私は患者として軍病院に入った。
しかしそこの医者から学校の先生かと聞かれ、生徒たちに顔を見せてと頼まれる。
それで騒いでいる子供たちをなだめる。
子供たちは自分の(看護のため)洋服をばっさり切られたと話してくれた。
退院したら先生の姿が見えないことから周囲の人からは亡くなったものと思われていた。
学校の修理をしに来た軍の作業員は教室にやってきた時は監督をしていたという。
その作業員は初は血痕だけをはがし始めた。
その血痕の部分だけを補修するつもりなのだ。
血痕を含めて全て、私の教室の一教室全部をは塗り替えてもらい、血痕と区別のつかないようにしてもらう。
事故のことをなるべく子供たちに思い出させないための配慮だ。
(宮森小ジェット機堕落)事故後、生徒たちは先生より先に教室に入らず先生より先に帰るようになる。
無言のトラウマは生徒たちにもあるのだ。
比嘉先生自身も電話のベルを聞くと事故当時の生徒の叫び声を思い出すという。
そのトラウマに気づいた比嘉先生は、子供たちより先に教室に入り、最後の子供たちが帰るまで教室に残るようにしたという。
(うるま市の)お隣(沖縄市など)に基地がある限り、このような惨劇は起こり得る。
それを、基地を無くすことはできないわけではありません。
平和を願って止みません。
と比嘉静氏は生々しい宮森小ジェット機堕落事故の惨劇を伝えてくれた。
その後比嘉氏の沖縄戦の体験を子供たちにもわかるようにお教え頂く。
戦争のないこれからの世の中をつくらないといけないし、つくれると思いますと話しを結んだ。
比嘉静先生の夢を確かに受け継いでいこうとその場の観客の私も決意を新たにした。
2009年6月19日
遺骨収集家・国吉勇さんのこだわり:豊里友行

「そこに山があるから」というじゃない。
そこ(沖縄)に遺骨があるから彼は遺骨収集を続けている。
そうおっしゅられる国吉勇さんは今年70歳になる。
遺骨収集を始めたのは18歳の頃だという。
週に3・4回遺骨収集に出かける彼は、腰に磁気ベルトをつけるぐらいの腰痛持ちだ。
それでも遺骨収集を続けている情熱は私たちの考え及ばぬものに思える。
今回も午前中、糸満市摩文仁の南冥の塔で遺骨収集をしてから岩肌の山を越えジャングルの道(その道を造ったのも国吉さんによる)を這うように進む。
米軍の攻撃を逃れの逃れこの岩肌の山が連なって出来た洞窟(ガマ)を撮影させていただく。
沖縄戦当時はその獣道は足の踏み場もないほど死体が転がっていたと当時の兵士から国吉さんは聞く。
西へ行く人や東へ行く人たちでごった返しになっていたと当時の戦場の現場を当時の兵士の話から国吉さんも想像しながら私に語る。
だからそのジャングルのようになった場所を数日かけて鎌を片手に道を造ったそうだ。
なぜ国吉勇さんはわざわざ苦労して遺骨収集をするのか帰りにもう一度聞いてみた。
遺骨収集をしている時、(沖縄戦の戦死者たちの)遺骨が呼んでいるように感じるそうだ。
限りなく膨大な時間を費やして来た国吉さんはこれからも黙々と遺骨収集をしていく。
その情熱の訳が少しだけ私にもわかりかけたような気がした。
国吉勇の戦争資料館=
http://kuniyosi1234.ti-da.net/
2009年6月 7日
今週の一枚「新聞奨学生」:豊里友行
私の写真学生としての東京での暮らしを支えてくれたのが新聞販売所だ。
そこで働きながら学校を卒業した。
つまり新聞奨学生だ。
豊里友行という写真家の育て親は新聞販売所でもあるのだ。
新聞販売所= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1417075.html
『東京ベクトル』豊里友行写真集
= http://toyoanneru123.ti-da.net/e2592718.html
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