2009年5月23日
沖縄世(ウチナーユ)まで:豊里友行
何故沖縄にこだわり撮り続けるのか?
その問いに私が答えるには何故写真を始めたのか話す必要がある。
私は、元大田昌秀沖縄県知事の国への未契約軍用地強制使用の「代理署名拒否」を英雄視していた。
しかし元大田昌秀沖縄県知事は五十億円の特別調整費と引き換えに代行承諾を表明した。
その時のお金が沖縄の何を変えただろうか?
私はそのヒーロー像の崩れていくと同時に私自身はただ傍観していたことに絶望してしまう。
私は声を上げることもせず、ただ当時の大田知事の代理署名拒否を傍観していただけなのだ。
私はお金がもらえれば基地の島・沖縄の現状はそれでいいのかという疑問を自分自身の問いとして真剣に考えるようになっていた。
そう、そんなあぶく銭は沖縄のためになどなりはしない。
そんなあぶく銭にごまかされ沖縄では日本国憲法がまっとうに成り立たない。
当時の私は、大田県知事の拒否の旅を沖縄県民一人ひとりが隆起していくようなものであったならどうなったかを想像する。
アメリカ世(ユ)から大和世(ユ)へ虐げられた沖縄の歴史と今も続く基地の島の現状・・・。
沖縄はどこへ行くのか私は真剣に考えた結果、写真技術を学びに本土に旅だった。
日本写真芸術専門学校での私の作品は、沖縄書房から発刊された『東京ベクトル』にまとめてある。
写真学校卒業し、すぐに沖縄に帰郷し、沖縄に根ざしたテーマを探求し続けている。
あの頃から十数年が経つが私は、当時の沖縄隆起の夢のために俳人で写真家として沖縄にこだわり続けている。
沖縄世(ウチナーユ)まで本土を含め沖縄県民一人ひとりがチバリヨー。
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沖縄タイムス 唐獅子 2005.2.9.
「写真との出会い」(下) 豊里友行
一九九五年、米軍用地の強制使用手続きの代理署名拒否を決め、日米政府に立ち向かう当時の大田昌秀沖縄県知事に僕はある種のヒーローのような思いを抱いていた。繰り返される米兵犯罪に沖縄の民衆の怒りが臨界点に達し、八万五千人の県民総決起大会が行われ、まさに基地の島・沖縄から「日本の主権」を問うことになった。
こうした政治状況は僕自身の文学に向かう姿勢を問うた。
そのころの沖縄民衆決起の一句。
《轟音の鼠となり空齧るフェンス》
僕ら文学を担う者たちは、どれだけ沖縄の現実に目を向け、自らの生きる時代に向き合えただろうか。
一九九六年九月、県民投票で基地反対、縮小賛成が過半数に達する。
この県民の声をバックに大田知事はより強力に基地問題を問い詰めるはずであった。
だが、代理署名訴訟で闘い続けていた大田知事は、五十億円の特別調整費と引き換えに代行応諾を表明した。
僕の中で一人のヒーローの像が崩れた。
同時に自らは傍観者になっている事にその時やっと気がつく。
また、そのことは僕の文学に向かう姿勢のありようを再度問うことになり、言葉への失望を呼び起こすことになる。
僕の言葉への絶望は、土門拳の写真集『ヒロシマ』との出会いでもあった。
この著者の『写真作法』にふれることで写真という一枚の映像による表現への情熱を目覚めさせるものであった。
そのころから、沖縄を飛び出して自分の写真技術の基礎を学ぼうと思うようになっていた。
新聞配達による奨学制度で学費を稼ぐことも通信大学の友達から教わった。
親兄弟や親友たちの反対を押し切って写真の道を僕は歩み始めた。
時代に翻弄(ほんろう)され、日米の国家に翻弄され続ける沖縄にあって僕は何をできるのかを模索していた。
沖縄を離れることへの不安がなかったわけではない。
だがそれ以上に写真への思いが東京の写真学校への進学を決意させた。
《業火の釘を抱いて家郷出る鬼》
(俳人・写真家)
大田昌秀= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E6%98%8C%E7%A7%80
大田平和総合研究所= http://www.cosmos.ne.jp/opri/
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