豊里友行の「沖縄通信」

2009年11月 8日

辺野古への新基地建設と沖縄県内移設に反対する県民大会:豊里友行

FH020027.jpg
会場は「反対」の意志で隆起しているようだ(前方は登壇者たち)。


米軍普天間飛行場の沖縄県内移設反対を日米両政府に示す「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」(主催・同実行委員会)が11月8日午後、宜野湾海浜公園野外劇場とその周辺で開かれた。
2万1000人(主催者発表)が結集した。
大会スローガンは①日米両政府も認めた「世界で最も危険な普天間基地」の即時閉鎖・返還②返還後の跡地利用を促進するため、国の責任で環境浄化、経済対策③返還に伴う、地権者補償、基地従業員の雇用確保を国の責任で行う④日米地位協定の抜本的改定 ー を政府に求めている。

続きを読む

20:07| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年11月 1日

今週の一枚「新聞配達をしていた頃の配達ルート」:豊里友行

0039-0040.jpg
(恵比寿)
 この風景は私が新聞配達をしていた恵比寿ガーデン・プレイス内のビルから撮った光景である。
配達ルートの丁度夕刊配達の時に少し一休みのコーヒーを飲みながら夕日を眺めるのが贅沢に思えた。

 2009年11月2日の明日から下記で「東京ベクトル」豊里友行写真展が開催されます。

 失われゆく沖縄の原風景を想う時、私は、日本の首都である東京を想わずにはいられなかった。というのは東京というエネルギーの方向性を必死で視ようとした私自身の都市の記録をこれまで温めてきたからだ。

会場:中部写真館ギャラリー(沖縄市中央1丁目30番13号)
会期:2009年11月2日(月)~11月30日(月) *日曜日休館

続きを読む

18:35| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年10月29日

牧田清さんの遺作展を一緒にしてくれませんか?:豊里友行

写真家の牧田清さんが亡くなって久しい。
それまでに遺作展は成されたのだろうか?!
誰か牧田清さんの遺作展を一緒にしてくれませんか?
協力者 募集中!!   豊里友行

2008年09月29日
写真集「我肝沖縄」(開放出版社)の写真家・牧田清さんは、チビチリガマの代表作の写真などすごい写真が多い。
昨年突然の牧田清さんの訃報をジャーナリスト・ネットで知る。
写真家がなくなってからは、誰が写真を管理・保存してくれるだろうか。
せっかくの貴重な映像記録をみすみす消滅させてはいけない。
美ら島フォトミュージアムや沖縄県立博物館・美術館の中に文化の杜という施設があり、沖縄に縁のある写真やフイルムを収集しているらしい。
作家の作品を分散させないためにも「大阪人権博物館リバティおおさか」あたりで収集していただくといいのだが・・・。
友人知人の輪を広げながらぜひこの大阪の写真家の牧田清さんの遺作展と写真収集をしたい。

ということだったが、周辺の牧田清さんの知人から「よしときゃ」と断られる。
そう私は写真家 牧田清さんとは写真を通してし知らない。
面識もない。
家族とはあまり仲良くなかったらしいと聞く。
プライベートまで知る由もない。
私にはそこまで突っ込んで遺作展をできる勇気などなかった。
行動も伴わないイイカッコッシーだった。
なんとか大阪に行ってみたいが、私にもやるべきことがあるのだ。
自分のことを優先する。
写真家の財産とはこんなモノなのだろうか!

牧田清さんの訃報= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1154330.html

美ら島フォトミュージアム= http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-22214-storytopic-6.html
               = http://www.okinawa-yuru.jp/feature/photo/001.php

沖縄県立博物館・美術館= http://www.museums.pref.okinawa.jp/

大阪人権博物館リバティおおさか = http://www.liberty.or.jp/


続きを読む

20:22| コメント (1)| トラックバック (0)

2009年10月22日

遺骨収集をホームレスの労働に!:豊里友行

「貧困のない世界を創る ムハマド・ユヌス」という「序~北の国からこんにちは」さんのコラムを読む。
= http://setsunaexia.blog105.fc2.com/blog-entry-348.html

どうしてもこの社会において自立した生き方を考える時、労働を抜きには話が進まない。
人生の半分以上を占める労働をどうよりよい生きがいにしていくか?
重大な問題といえる。
そう、より十実した人生を送るためにもその人にあったよりよい労働と出会うことが必要だ。

今沖縄では遺骨収集という仕事によってホームレスの自立を試みる活動がある。
戦没者の遺骨収集を行うボランティア団体の「ガマフヤー」(具志堅隆松代表)とともにホームレスの自立支援を行う特定非営利活動法人(NPO法人)「プロミスキーパーズ」(山内昌良代表)に那覇市の行政が委託する形で那覇市真嘉比地区で遺骨収集事業を開始する。
労働という手のひらからこぼれ落ちたホームレスなどの貧困の現状に新しい希望の光が差している。

続きを読む

17:21| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年10月15日

沖縄・泡瀬干潟事業中断の公算大 二審も県、市の支出認めず:豊里友行

沖縄県沖縄市の泡瀬干潟を埋め立ててホテルなどを作る計画について、福岡高等裁判所那覇支部は「今の段階では経済的な合理性があるとは認められない」として、1審に続いて沖縄県などに事業費を支出しないよう命じました。

泡瀬の海に魅せられて私はかれこれ11年経つ。
日本自然保護協会会報『自然保護』(2005年7/8月号No.486)のミナミコメツキガニの撮影によっていろいろな泡瀬の蟹たちに魅せられる。
泡瀬の干潟を中心に歩く。
蟹たちの分布から沖縄諸島とアジア圏内との交流に想いをはせた「ニライカナイの地図(初期)」のシリーズの構想がもくもくと立ち上がって来た。
それ以降ジャーナリスト・ネットに随時コラムで泡瀬干潟とそこの埋立工事近況を掲載してきた。
沖縄・泡瀬干潟事業中断の公算大。
これからは守り育てる事を中心に考えて行く必要がある。


ニライカナイの地図(初期)= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1882666.html
             = http://toyoanneru123.ti-da.net/e1882654.html

ミナミコメツキガニ撮影日記= http://toyoanneru123.ti-da.net/e1882592.html
(会報『自然保護』に載る)= http://toyoanneru123.ti-da.net/e719600.html

塩漬けの街= http://toyoanneru123.ti-da.net/e2066957.html


ニライカナイの地図 ~ 泡 瀬 ~ 
             = http://toyoanneru123.ti-da.net/e1628058.html

ニライカナイの地図-泡瀬干潟ー パート2
             = http://toyoanneru123.ti-da.net/e1655476.html 


まなざしの行方 (沖縄タイムス)= http://toyoanneru123.ti-da.net/e2568457.html

続きを読む

17:57| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年10月13日

写真家 平敷兼七さん逝く:豊里友行

中学の同級生主催の婚活ならぬ合コンに行って帰るともう朝刊が配達されている。
何気なく目を通そうとして目を疑う。
つい先日電話で写真展会場について平敷兼七さんとは話をしたばかりだった。
それより自分の世界、(ニコンのユーナにポトンした作品を)私だって一回はポトンしたんだからとホロ-を入れながら、もっと煮詰めて見たらと私を叱咤激励してくれていた。
お体大切にしてくださいよと私は余計なことをいうと彼は気持ちだけもらっておくと言う。
君には関係ない世界だよと軽くいなされた。
その時は気づかなかったが新聞の訃報記事がポツリと私の目にとまると不思議とわかるような気がした。
写真の正念場に私はいる。

平敷さんの写真学校同期の友人・勇崎哲史さんからケータイに連絡がきた。
私は手伝いをしようと平敷さんの自宅へ一身に向かう。
ついて見て気づく。
自宅ではないだろうが!(平敷さんが生きていたら叱られていただろう・・・)
それからケータイで葬祭場の名前を聞き告別式へ向かう。
家族のみの葬儀と記事に書かれていたが多くの関係者が来たと思う。
みんな平敷さんと話をしたいことがあるように思えた。

長年温めていたテーマのユタの世界を「ユタ巡礼」のシリーズとしてまとめてもいいと零していたじゃないか・・・。
「沖縄の文化人」シリーズも本にまとめたがっていたのに・・・。
南風原文化センターで写真展をしたいなら館長を納得させる作品をと言ってくれたじゃないか。たしか彫刻家 金城実さんともつながりがあるよと教えてくれた。
うつ病がキツイ時に(フイルム現像が一年以上溜まった)数十本のフィルム現像を(一本350円で)手伝ってくれたね。フィルム現像の作業を見守られながら体と心の弱った私は、腰かけに座ると彼に怒られた。その頃の積もり積もったストレスと写真作業。その中には重大な作品になりうるものもあった。
若くても心はよれよれだった私は、平敷兼七さんの写真アトリエで写真のエッセンスをいっぱい頂いた。
土田ヒロミ氏が平敷さんのブログ担当の私に彼との関係は聞いたら、写真仲間ですと答えた。年を考えれば師弟関係かと勘違いしかねないが私のことをライバルだよとまだ若造の私を平敷さんは写真家として対等に見てくれていた。
何故こんなに早く逝ってしまったんだ。

江成常夫氏が沖縄にいらした時、私は夕飯をおごってもらう。
その際に平敷兼七さんの話をしていて、私は平敷さんの写真は坦々と撮られる記録写真が時代の醍醐味だというようなことを話すともっともだと江成氏もうなずいてくれた。
写真の記録の部分を重んじて丁寧に撮影されている平敷さんの姿をみて私も姿勢を正していたものだ。
とくに彫刻家 金城実さんの撮影では平敷さんも撮影していて記録も大切だと私の記録写真『金城実の世界』を楽しみにしていたので残念だ。
私も記録写真を大切に歴史に遺して行きたい。
若い写真家や多くの人々に好かれていた写真家 平敷兼七さんのご冥福を祈るばかりだ。

続きを読む

20:29| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年10月10日

「彫刻家 金城実の世界」豊里友行写真録:豊里友行 

001b.jpg
「彫刻家 金城実の世界」豊里友行写真録 
                   刊行のためのお願い
 
そもそもこの写真集は、被写体となった高さ3m×134mの「100mレリーフ」を10年かけて完成した。その道のりの記録である。
「戦争と人間」がテーマであった。
沖縄戦体験者としての筆者が未来に伝える遺産である。
豊里友行君の写真を通じ未来の者たちに伝えられて行くことを心から願う。
                                         彫刻家 金城実


刊行の趣旨と賛同人ご参加のお願い
彫刻家 金城実氏の10年間の集大成「100mレリーフ」を中心に彫刻家 金城実の作品世界を写真集という形で出版し、その仕事をより多くの人々に伝えていくことの意味はきわめて大きいと私たちは確信します。つきましては、皆さまにご協力をお願いしたく、ここにご案内いたします。どうぞ趣旨をご理解頂き、お力添え下さいますようお願い申し上げます。
 賛同金は、下記の郵便振替口座へお振込み頂ければ幸いです。ご賛同下さった方には、一口につき写真集1冊を贈呈させて頂きます。
       「彫刻家 金城実の世界」豊里友行写真集刊行委員会代表   豊里友行                                                                  

賛同金一口:3000円(何口でも)郵便振替口座:
                         【店番】708【普通預金】【口座番号】0169231
  加入者名:豊里友行写真集刊行委員会(一口につき、写真集一冊を贈呈いたします。)

連絡先  豊里友行写真集刊行委員会(090-3418-0534 / 
                        toyozato-tomoyuki@hotmail.co.jp )
〒904-2164 沖縄書房 沖縄県沖縄市桃原3-3-12                                              

(〒   -    )                           〔*お客様記入欄〕
ご住所
お名前
ご連絡先
電話番号

お振込みされた方は必ずメールや郵送にてお客様記入欄をお教えください。

続きを読む

15:46| コメント (2)| トラックバック (0)

2009年10月 4日

今週の一枚「野宿者たちの唄」:豊里友行

50-22.jpg
「アオカン」(上野)

 彼らとの最初の出会いは酒盛りの記念写真だった。
僕たちは、陽気な笑顔の裏側にどれだけの人生をみるだろうか・・・。

 それから彼らにホームレス問題の報道をさせてほしいというお願いをした。
その友達はやがて仕事を見つけ社会復帰していった。
体調を崩し入院した者もいた。
最後に残った者は、さみしくて話し相手になってほしいと懇願するが、僕には限られた時間しかなかった。
その最後の友達のいたテントは、次に来たときには跡形もなくなっていた。
それが、彼らの言っていた「山狩り」(保健所)というものだった。

 それから時間のある限り野宿者たちの話を聞きながら写真を撮らしてもらう。
年金暮らしでホームレスのテント村暮らしの人。
職業に就けなくて路上に座り込む人たちもいる。

 野宿者は、自分の食料確保を「餌獲り」といった。
「働かない」という事は、自他ともに差別意識を芽ばえさせる。
彼らの心身ともに脅かされた現状を考えたい。
「うつ病」の深刻な症状に至る場合もある。
野宿者の深刻な社会復帰の難しさにも猶予が必要だ。 

そこには彼らの深刻な「基本的人権」の確保の難しさがある。 

 「ホームレス自立支援法」のよりよい改善と野宿者の「基本的人権の確保」をするためにも彼らの置かれた現状をより多くの人たちに身近な問題として知ってもらい、野宿者たちのさまざまな現状を改善していく手がかりになれたらとせつに願います。

続きを読む

15:25| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年9月27日

今週の一枚「顔のない人」:豊里友行

50-13.jpg

頭をもたげ肩を落す後姿のサラリーマン。
1998年頃だが某大手証券会社や銀行などの倒産が相次いでいた。
首を切られるリストラにあった人々を思う。
撮影場所は私の住んでいた恵比寿である。
いたるところで写真のように首のないサラリーマンを見受けた。
あれから十一年が経つがリストラなどの方々も転職なりして元気にやっていてほしい。

続きを読む

10:19| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年9月23日

戦争文学を創造していく意義:豊里友行

私はこの沖縄をめぐる俳句と写真の旅で沖縄戦の痕跡に触れ、想像している。
ガマフヤーの具志堅隆松さんの言う沖縄戦を遺骨収集を通して新たに経験していくことの意義をかみ締めて俳句を創りたい。
つまり沖縄戦を2次的に追体験していく世代として戦争文学を詠む。
戦争を体験していない世代の私は、追体験という戦争を想像し、俳句や写真で伝えて行きたい。

私はそこでイメージ俳句の旗揚げをしたい。
戦争を想像し、戦争文学を創造していく意義は戦争体験者Σ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll)の減少する中で意義がある。
2次的に追体験していくからこそ、あの司馬遼太郎がノモハンについて語れないと涙するように漏らした体験のトラウマを超えていけるのではないだろうか。
もちろん戦争体験者のお話なども記録して行きながらです。
人間が人間でなくなる時を客観的に見詰める過酷な作業を追体験でなら事実を事実をとして伝え、真実へと現実の壁を超えられないだろうか。

  


  戦争のもう戻れない蝉の穴         友行


続きを読む

18:55| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年9月21日

うつ病の偏見との闘い:豊里友行

私はうつ病だったことを新聞などの文章やブログで公にしている。
うつ病といえばノイローゼという偏見の目で見る人もいた。
だが私はためらいなくこの偏見との闘いを承諾した。
その闘いは険しいものだった。
うつ病への理解があまりにもない事に原因がある。

まず再就職が困難だった。
最初のうちはハローワークへも通う。
診断書(5千円くらいかかる)を医者からもらうが就職先の面接の偏見はぬぐえない。
ほとんどの人はうつ病を隠して再就職を目指す。
しかしハローワークの職員事態にうつ病で就職して何か問題があると(ハローワークの責任が生じるので)困ると言われる。
仕事をするためには欠陥商品では困るといった感じなのだ。
だからと言って働かない訳にも行かない。

私は自営業をしている。
すこしずつではあるがゆとりも出てきたので出版社も立ち上げた。
ようは自分なりの世界を持てばいいのだ。

治ってからもうつ病の再発を疑う人も多い。
父母からも時折、基地反対などをしているからだとかキチガイだとか言われたこともある(写真きちがいという意味なのであってるけど、とほほほ~)。
写真きちがいは収入の大部分を写真に費やしてしることからだ。
もっと写真以外にも幸せはある。
そう両親への病気への偏見を解くことにも長い時間を費やす。
俳句の趣味の付き合いの多くの方々とも「去るものは追わず」という感じで付き合いは無くなった。
いろいろ悔しい思いもした。
成功するしか道はないと思え気の遠くなるようにも思えた。
心ある人はその偏見のことも分かっていて仲良くしてくれる。
だがこのうつ病のことはデリケートな問題のようだ。
だから私はこのとよチャンネルであえて病気のことも公表しておく。
だれか人生につまづいた時に参考になればと思います。

続きを読む

17:25| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年9月20日

終の棲家:豊里友行

所要で老人ホームへ行く。
全快したもののうつ病の際には自殺したいと思ったこともある私からしてみれば、そういう終の棲家もつい最近の問題のように感じてしまう。
それくらいうつ病の重い時は、足踏みしている自分の世界で生きることを苦痛に感じた。

うつ病の時の私は、自分自身の死と向き合っていた。
死が真じかに迫っているように感じていた。
寝たらすこしはよくなった。
そして時間の過ぎ行くのにさえ悩んだ。
生きるということ事態、すごく重たい気分になっていた。
時間を潰すことが苦痛だった。
かといって生きることをやめない限りその苦しさはやまないと真剣に思えた。
それでもいざ自殺しようと考えてみてもまだやるべきことがあることに気づき初めて怖くなる。
一日の不安をうつ病の薬で和らげていった。
その時は心療内科の先生との二人三脚で恐る恐る生きていたという感じだった。
でも足踏み状態の現状の私は、心療内科に通いながら闘病する。
必死で泡瀬干潟や辺野古に写真を撮りに通った。
特に私の人生で苦しい時期だった。
しかしうつ病の療養になった場所もおかしなもので泡瀬干潟だった。
心の風邪も全快してうつ病の薬も飲まないですむようになる。
今でもうつ病の不安が時折あったが、うつ病の重たかった時期を振り返りながら今は私の仕事の本分を真っ当している。
心の風邪も治ってしまえば、気持ちの持ちようと言えるようになる。

終の棲家を考えるにはまだ早いがいつかは考えないといけない。
そう生きることが苦しかった時があった私は、今婚活しながら生きてることが楽しさ探しでもあることに気づく。
老人ホームに行った者をあんな(´-`) ン? になりたかないと言い放つ老人もいた。
だが長生きすればいずれ実際に自分の出番が回って来る。
老いをつむぐ行為は時にモミクチャに絡まった人生の糸になることだってある。
だからこそ人生を手助けしあう「社会」が必要なのだ。
そんな当たりあえ前のことを自分の言葉で理解しなおしながら素直に自分自身の世界を生きている。
ひょっとしたら私の終の棲家は、私自身の世界のことをいうのかもしれない。
その世界の広がりこそ人間関係にあると私は思っている。

続きを読む

19:34| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年9月19日

泡瀬埋立工事中断に伴う再生工事を!:豊里友行

泡瀬埋立工事中断の国側意見!
自然保護の潮流にしっかりと乗る民主党政権。
政権工エエェ(´Д`)ェエエ工変われば国も変貌する。
というか変革してもらわないと困る。
あとは肝心の沖縄県やおきな沖縄市の対応が変革されていかねばならないΣ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll)
幼い頃に見た水平線はもう住宅街になっているのですが、これ以上人間様の欲望ばかり満たしていけるのだろうか。

 蟻の列鮮やかな死の水平線    友行
 

奥間川や泡瀬干潟、そして辺野古の豊かな自然を守る必要がある。
もうこれ以上欲しがらないことが今の現代人に求められているのではないか。
漠然とではあるが飽食の時代を経て地球もやせ細っている。
生活が豊かになるためなら生まれ育った島の荒廃だってやむ終えない、という時代はもう終わったのだ。

地球にやさしい時代。

地元住民の利潤ばかりを追求してきた公共工事の変革を真摯に受け止めるべくなのだ。

だからといって生活していくにはどうしたらいいかジンブン(生きる知恵)を絞ることも大切なだけにただ公共工事をストップするのではなく、これまでの環境破壊の付けを真の環境再生事業にしていく必要もある。

公共工事で食いつぶした自然をほったらかしにするわけにはいかない。


続きを読む

15:05| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年9月13日

記念写真の薦め:豊里友行

糸満ハーレーを観戦する。
海人の参加する最初のウガンバーレーだけ撮影する。
昨年の写真を本人にあげると少し照れていた。

本堂での写真館さんの記念撮影を見ていて思う。
やはり祭りは記念撮影も込みのほうが記憶に残る。
もちろん地元の公報や新聞社、テレビの影響力も大きい。
だが参加者個人の宝物として記念写真をもちかえれたらと私は思った。

そういう意味では生まれ島・粟国島を記録した安里盛昭先生の『粟国島ーシマンチュとシチビ 神の里』のような島の人の思い出になる写真集を出版することを私たち写真家も目標にしたい。

 
 営業写真館などのように頼まれて写真を写す人たちはもちろん、あとからでも請われば写真を好意的に販売するともっと写真に親しみが生まれるだろう。
 アマチュアカメラマンもできれば撮った写真を被写体になった人たちにあげるなどすれば記念にもなるし、交流にもなるからぜひ実行してほしい(ただし撮られる被写体には肖像権があるのだから撮られた方々に喜ばれるように良心的に接したい)。
また被写体になる人たち自身もケータイカメラなどの普及もあるのだから写真を撮る行為にも親しんでほしい。
そういうことが海外のよううに写真を文化にしていくことに繋がっていく。

続きを読む

19:41| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年9月 7日

なぜに「慰霊の日」は6月23日なのか? :豊里友行

「金城実 100M彫刻 戦争と人間 大展示」大西忠保写真展がJAL CITY裏のBar Gallery 土にて開催される。


安里正美が唄い、森口豁が語る写真展前夜祭に参加する。

森口豁さんのドキュメンタリー「在日沖縄人(タイトルを忘れた、すみません!!)」を見る。
髭も黒い40代の彫刻家金城実さんの沖縄人としての「戦争と人間」へのこだわりを浮き彫りにしたドキュメンタリー。
この会場・Bar Gallery 土では「森口カフェin那覇」(森口さんの映像作品鑑賞をする趣旨)の鑑賞会が適時開催される。
ぜひとも森口豁さんの映像作品の資料館(?!)ができることを願う。

その他、豪華ゲストをお招きし、ゆんたくをします。
当日のゲストは、

・金城 実
・西山 正啓
・平良 修   などが参加していた。


〈問題提起〉なぜに「慰霊の日」は6月23日なのか?
では会場のみんなが意見を語り合いながら考えた。

1945年4月1日にアメリカ軍の沖縄本島上陸によって本格的に開始された沖縄戦は、第32軍司令官牛島満大将(当時は中将)をはじめとする司令部が自決した日をもって組織的戦闘が終結したとされている。現在は1974年に制定された「沖縄県慰霊の日を定める条例」により、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)」、6月23日を「慰霊の日」と定めている。

今回はその慰霊の日への疑問を投げかける場になった。
9月7日の降伏調印式のほうがいいのではという意見もあった。
もちろん一方で、司令部が壊滅してもそれを知らされなかった兵士たちが抵抗を続けたため、散発的な戦闘は司令部自決の日以降も続いた。このため、慰霊の日を司令官自決の日と定めることに対して疑問を投げかける立場もある。たとえば沖縄市では、慰霊の日を休日とする一方で、同年9月7日に降伏文書への調印が行なわれたことから、同日を「市民平和の日」と定めている。

私は、摩文仁の軍人が中心に建立した軍国讃美の慰霊の塔だけを見ていると軍人よりも多くの犠牲者をだした4分の1もの沖縄住民が殺された真実が戦争体験をしていない世代では見えてこないのではないか。沖縄戦の大多数の犠牲者である沖縄住民の主体的な慰霊の歴史をつむぐ必要があるのではと感想を述べた。

沖縄戦を体験している人たちの減少により少しづつ沖縄戦の真実を知らない人たちも増えている。
そういう中で沖縄戦を誰の立場から見直していくべきなのか考え訂正していくことが必要だとも思えた。
そういう作業が血となり骨となる思想の骨子にしていかないと沖縄戦の犠牲者である沖縄住民の声無き声である死者の声をも歪曲、誤認して代弁されてしまう恐れがある。

6月23日をどうするかではなく、多くの犠牲者を出した沖縄住民の戦死者などの慰霊の立場から慰霊の日や慰霊の作業を構築していく必要は急務だと思う。

続きを読む

17:13| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年9月 6日

『沖縄戦遺骨収集現場の現状と課題』具志堅隆松さん :豊里友行

平成21年度沖縄市民平和講座(後期)第3回を受講する。
この講座で初めて具志堅隆松(たかまつ)さんに出会う。
具志堅さんは遺骨収集で雇用創出を試みたり、不発弾処理事業を失業対策創出と福祉還元などいろいろ戦後処理について創造的なアイディアと行動をおこなっている。

『沖縄戦遺骨収集現場の現状と課題』具志堅隆松さん

ポツリポツリと語る具志堅隆松さん(55歳)の言葉は沖縄戦の真実の重みがある。
具志堅さんの遺骨収集は28歳の時にボーイスカウトリーダーをしていた時に及ぶ。
初めての遺骨収集ではあまり手ごたえがなく一般的ウチナーンチュ(沖縄の人)の死者への恐れのようなものがあり、遺骨収集を始めて友人に声かけをしてもなかなか広がらなかった。

私が驚いたのは遺骨収集をしている中でのその当時の現状を想像する力だった。
それは遺骨収集の現場で戦争を追体験する行為でもある。
限られた情報量から沖縄戦の現場を想像する力。
遺骨収集のベテランの国吉勇さんとも共通している。
具志堅さんは遺骨収集をしながら考えている多くのことを語ってくれる。

沖縄戦についての考察から話は現代人の病んだ精神にも及ぶ。
黒板のメモ書きを記す。

戦争をする原理は今も残っている。
 ・人を殺してはいけない。 
*・人に殺されることを認めてはいけない。
 ・自分を殺してはいけない。

ひとりひとりに価値があろんだということを認めてもろう必要がる。
これは現代人のリストカットなどにもいえると思うと具志堅さんは語る。
戦争が成り立たなくなるための根源的原理でもあると私は思う。

真嘉比地区遺骨収集で子供たちの遺骨収集の体験の重要性を説く。
沖縄戦の体験者は確実に減っている。
真嘉比の遺骨収集の現場は来年には(開発のため)無くなる。
多くの人たちに見てもらうことで自分の目で見て手にとって体験したことをいわゆる事実を体験している人になる。それは沖縄の戦争についての証言者になることでもある。

それは文献などの知識でないモノ。
できれば現場で体験者の体験を聞くことが必要。
(多くの急務な沖縄戦の歴史証言者を育てるのは大変なので)地元の人が地元の歴史を調べる必要が急務。

慰霊の碑については、軍関与の人たち。生き残りの兵隊が作ったモノ。被害を受けた住民の側の話がない。
軍人より沖縄住民の方が死んでいるのにそれら軍人の碑文だけが残る危険性がある。


具志堅さんは多くの語りたい壕での考えたことは多岐に渡り、私の取材方法論の点にも触れる部分があった。
たとえば遺骨を写真に写すことについて。
本来遺族のいる死体や遺骨は撮られたがらない。
しかし遺族の元に帰れない遺骨たちを写す人が想いを込めて(テレビなどの)電波に乗って帰れるかもしれない。
たくさんの人が関わったほうがいい。

その中で遺骨収集からその後の納骨式まで国の関与にも疑問を投げかける。
具志堅さんは国に縛られない方がいいのではと提言する。
私も国は主体的な沖縄や日本国民の遺骨収集から納骨などの作業を補助する役割に徹してほしいと思う。
そうでなければ沖縄戦の場合、国が戦争を起こした責任さえ取れないこの日本国において国民や沖縄県民の主体的な慰霊の作業や戦後処理などを血肉化していく思想を構築しきれないのではないのかと思う。

話は跳ぶが日本国憲法の平和憲法の血肉化はやはりこの沖縄・広島・長崎からなされていくべきではないだろうか。それは世界の平和思想にもつながるものだと思う。

具志堅さんの純粋な問題提起にこれからも向き合いたいと思う。
次回もこういう講座があれば学びたいと思えた沖縄市の良い平和学習だった。


沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」
= http://toyoanneru123.ti-da.net/e2772244.html

続きを読む

17:55| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年8月31日

政権交代と沖縄県民の声の反映を願う:豊里友行

第45回衆院選は8月30日投票、即日開票の結果、民主党が308議席を獲得する圧勝を収め、政権交代が確定した。
 沖縄選挙区は、1区で国民新前職の下地幹郎氏(48)、2区は社民前職の照屋寛徳氏(64)、3区は民主新人の玉城デニー氏(49)、4区は民主新人の瑞慶覧長敏氏(50)が当選した。
九州比例ブロックで共産前職の赤嶺政賢氏(61)が、4度目の当選を果たした。
当選した5氏は、米軍普天間飛行場の移設問題で「県外・国外移設」を掲げているので自公政権が進めてきた名護市辺野古への移設計画に大きな影響が出るだろう。
この選挙の政権交代で民主党から日本国大統領がでることが決まったのだが、沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題など沖縄問題をどう舵取りするのか注視しなければならない。
その間選挙だけでなく日本国民である私たちは、常日頃から日本国民の声を反映すべく世論の声を強化する必要もある。
つまり日本国民も今回の政権交代を受動的に行うのでなく国民の声を、沖縄県民の声を常に打ち出していく気質を持つべきなのだ。
そう国会への請求権の強化と確立を目指すべきなのだ。
そういう意味でも辺野古の基地建設への反対運動の広がりをしっかりと受け止めてくれる新しい政権を期待したい。

 それにしても今回の選挙結果は、仲井真弘多知事の県政運営に大きな打撃となり、来年1月にも予定される名護市長選や4月予定の沖縄市長選、夏の参院選、11月知事選など主要選挙に影響を与えるだけろう。

続きを読む

18:03| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年8月29日

今週の一枚「花火」:豊里友行

0070.jpg
(品川)

夏といえば花火だ===3
東京にいる頃は海に行くこともなくに花火大会をよく見に行った。
夏の夜を満喫したものだ。

 胸いっぱい泳ぐ金魚の大花火   友行

続きを読む

12:05| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年8月28日

戦争体験者講話 山里和枝:豊里友行

沖縄戦の体験者の話に興味があって平成21年度沖縄市民平和講座(後期)第2回を受講する。

戦争体験者講話
~ 元県防空監視隊本部隊員による語り ~

戦争体験者講話 山里和枝(元沖縄民政府職員)

『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』(田村洋三/著 )を手に抱えながら話をはじめる山里和枝さん。
戦争体験者がどうやって沖縄戦を生き延びてきたのか私は興味しんしんだった。
まさにこの語り部たちは奇跡で生き残った人たちなのだ。

「常々絶対に捕虜になるなと言われてきた。
どうして死ぬのかを考えてきた。
戦場では(「人間が人間でなくなる」というが私も)人間でなくなっていて、怪我人が泣き喚いても何も思いませんでした。
どうせ自分も死ぬんだからと思っていた。」

すさまじい戦場の地獄を辿りたどり山里和枝さんは現在まで縁あって生かされ私たちの目の前でお話をされている。
その日のお話の内容は参考文献もあるので上記の戦場での山里和枝さんの心情に焦点を絞ってみた。
沖縄戦の歳月を生き延びて着た者として語り部になった山里和枝さん。
山里和枝さんの言葉を(聴講者も)一人一人戦争を伝えてほしいと言う。
戦争を体験していない私は、私自身も戦争体験者の生の声を語らなくてはならない時期がやってくるのをひしひしと感じさせられる。
私たちは戦場にいるわけではない。
だからこそ山里和枝さんのように戦場で心を麻痺することもないで感じることができるようにしたい。
『戦場では人間が人間がなくなるとき』があるのだから戦争を阻止し、未然に防ぐ「予防」を常日頃から養わなくてならないと思った。
私は戦争体験者の声をこれからもつむいで行く必要性を実感させられた。

続きを読む

19:54| コメント (0)| トラックバック (0)

2009年8月20日

私の終戦記念日:豊里友行

私の終戦記念日を書きたいと思う。
沖縄戦以降も続く世界中の戦争に加担せざるを得ない沖縄Σ( ̄ ̄ ̄Д ̄ ̄ ̄lll)w
沖縄は キョロ(・.・ )( ・.・)キョロ どこから戦後といえるだろう。
沖縄戦以降たしかに平穏な世界は広がっているようだ。
しかし日本国内の75%もの過重な基地負担を強いられながら沖縄の戦後は延々と延ばされていやしないか。
私はこの島から平和基地の理念を構築すべく沖縄を撮り続ける。
一番悪い点を挙げるならアメリカの戦争に加担することこそ終戦記念日に反省せざるをえないように私は思う。
私の終戦記念日などないのだ。
ただ平和という日常の真っ只中に置かれ世界中に起こりうる戦争や紛争に沖縄がどこかでリンクしている現状を私は想像し続けなければならない。
どこかでいつかトランプゲームのように引くであろう有事というカードを演出するこの世界のからくりが必ずや私たち日本国にはあるだろう。
だからこそその見えてこない戦争の構造を俳人で写真家の豊里は、沖縄という生まれ島を記録表現の舞台においていみようと試みる。

続きを読む

16:21| コメント (0)| トラックバック (0)

Untitled Page