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2009年9月26日
夜間中学その日その日(82); 守口夜間中学 白井善吾
夜間中学のある日の出来事に関連させて、考えていることを書いていこうと思う。執筆者は持ち回りで,変わっていく。
夜間中学の明日を考える ①
戦後の義務教育制度下、夜間中学が発足したのは1947年10月、大阪市立生野第二中学校の夕間学級である。
以来、開設された学校数は延べ121校を数える。卒業生数16087人(2008年3月末、現在ある35校の学校のみの統計で、121校すべての卒業生数は不明)。制度発足から60年を超える今日、夜間中学にたどり着けた、夜間中学生もますます高齢になってきている。夜間中学生数も1999年の3424人を最高に減少し、2478人(2008年)となっている。一方、夜間中学は偏在し、夜間中学が開設されていない地域では、多くの義務教育未修了者が自主夜間中学で学んでいる現実がある。
5年後、10年後、20年後を見通し、夜間中学の今をどうするかを議論する必要を痛感する。1954年11月、第1回の研究大会を開き、今年55回を迎える全国夜間中学校研究大会も「義務教育の完全普及に寄与」と会則に明記し、とり組みを行ってきた。私たちは、すべての都道府県で公立夜間中学の開設を訴えているが、様々な観点から分析を行い、議論を積み上げ、夜間中学の将来について提起していく役割があるのと考えている。
守口夜間中学では、先人の論考も大いに参考にしてと、夜間中学関連の出版物・文献の解題を行っている。(『不思議な力 夜間中学』宇多出版企画 に一部収録)
川瀬俊治著『奈良からの報告 夜間中学設立運動』(たいまつ社1978年12月)を読み直した。
自主夜間中学「うどん学校」の公立化をめざす闘いを当時、奈良新聞の記者であった著者は、うどん学校の教師をし、ペンで夜間中学問題を訴える取り組みを行っていた。30年を経た今も、輝きを増す、多くの示唆を与える記述がある。
いくつかを書いてみる。
「公教育は制度があって人間がいるという関係だ。ここに実は制度にのっかかった教育の堕落が始まる。おおよそ教育と名付けるにそぐわない装置になりさがる」。耳が痛い指摘である。そして「制度が主で、生徒が従である公教育はこうして役目を終える」。夜間中学は「生徒が主であり、制度が従である。何よりもまず生徒から出発する」(110㌻)。私たちが、「個に制度を合わす」といっている部分だ。
生涯学習と決定的に異なる夜間中学の理論についての記述もある。E・H エリクソンが提起した、人生の8段階を経てライフサイクルが完了するという生涯教育理論にたいし、「発達段階を保障するためには、何よりも解放の視点が根を張らなくてはならない」。「夜間中学生は発達課題を十分に保障されなかったからこそ、いっそう力を入れて、損なわれた発達、教育が必要だ」(153㌻)と記している。
公立化を追求する増設運動の過程を自主夜間中学に学ぶ夜間中学生の文字とコトバで編み上げ、教育委員会の理屈を突き崩す増設運動側の論理を詳しく書いている。
1977年12月奈良市議会で公立化が決定。自主夜間中学から、教育委員会に委ねられた公立化は惨憺たるものであった。「官制の教育とはこんなもんだろうか。教育が公権力によってまるごと吸い取られたとき、その生命はかくも色褪せるのだろうか」(170㌻)と述べ、私たちが直面している、就学援助、補食給食の闘いに教訓を提示している。すなわち、「反差別の闘いが、一つの目標、要求をかち取り、もの申すことを止めれば、公権力はこれ幸いと従来の価値観をわれわれに押し付けてくるのである」。文字を知らぬ人のために配慮一つされていない募集要項。形式卒業者の入学不許可、年齢制限、地域制限を例としてあげた後、「絶えず運動は生徒の教育権を脅かす諸々を撃ち続けねば、強者の傲慢さに圧迫されるのである」と述べている。
「2年間の運動で公立化に成功したが、いざ公立夜間中学が開校すると、容れ物教育でしかなかったという現状。状況を変え、脱しようと始めた教育の復権運動は、形の上では成功したが、教育の中身では公教育の体質を何一つ変えていなかった」(177㌻)
2009年9月、政治状況が大きく変化した今、重みを増す指摘である。
2009年9月26日 22:18
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