2009年11月 9日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」3:嶋村初吉
李完用(イワンニョン、1858-1926)
1905(明治38)年、伊藤博文が保護条約を強要した際、学部大臣として閣議で率先して賛意を表し、条約調印を認めた。韓国併合のとき、総理大臣。日本の植民地化政策に迎合した親日派官僚。日本にとっては勲功の士であるが、韓国民衆からは李賊宗賊と呼ばれた。
1910(明治43)年8月31日夜、勅使となった式部官子爵、稲葉正縄が京城に到着。李王は正盛の上侍従卿を従え、昌徳宮仁政殿に至った、11時、稲葉勅使は仁政殿の在来の王座で、寺内正毅統監列席のもと、天皇の、李王に封じるとの詔書、贈り物を呈し、冊封の式が終わった。
★朝鮮王朝最後の王女、徳恵姫
近年、対馬では日韓交流史跡の顕彰碑をつくる運動が広がり、かつての植民地時代の負の遺産、朝鮮王朝最後の王女・徳恵姫(御母福寧堂)と、宗家の嫡男・武志(たけゆき)の強制結婚を記念した御成婚奉祝記念碑も復元された。
対馬市・厳原町にある金石城跡に復元された、その石碑には、次のように記されている。「1931年(昭和6)年、新婚の宗武志と徳恵姫はそろって対馬を訪れ、島民の盛んな歓迎を受けた。徳恵姫は1912年5月25日生まれ、朝鮮王朝第26代高宗の王女(翁主)である。この碑は結婚を祝って当時対馬に住む韓国(朝鮮)の人々によって建てられた。また清水山城には対馬の人々による慶祝のツツジ植栽の記念碑が遺されている。その結婚は25年間にわたり、多くの困難にもかかわらず、一女正恵姫と共に信頼と愛情の絆で結ばれていた。
長女正恵が生まれた後、病気が再発、精神科の病院に入院。1955年やむなく離別に至った(武志公は、後に再婚)。成長した正恵は、明治大学を卒業後、学友と結婚したが、旅行先の山中で行方不明になった。徳恵姫は85年、故国に帰国した後、楽善斎の一室で意識喪失のまま長く起居した。英親王の不幸の知らせに接しても、そのことさえ理解できなかったので、周囲の人たちは泣いた。姫の不治の病は、それほど意識喪失状態だったのである。徳恵姫は、1989年に逝去された。
話が前後するが、王世子の妹君、徳恵姫は、渡日したことで心身を病んだ。1925(大正14)年春、日本に留学、上京したが、これは李王家の女性教育について心配した皇后の思いがきっかけとなった。当時14歳の徳恵姫は、李太王の晩年の子で、種々の事情のため、初め王家の籍に入れる手続きが厄介であった。しかし、6歳のころ、この問題も解決し、李垠殿下の唯一人の妹となった。東京・鳥居坂の王世子御殿では、すでに語学、音楽などの家庭教師の人選も終わり、方子妃も、実の妹のように衣裳調度を調えて、上京を待った。
「日鮮融和のためにーとの美名のもとに、李王家の血に日本の血を混ぜることを意図した三つの結婚のうち、二つまでが悲劇ともいえる結末をむかえねばならなかったことに、尽きぬ恨みをおぼえずにはいられません」(李方子自叙伝写真集『流れのままに』明恵会)
次回は11月13日です。
2009年11月 3日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」3;嶋村初吉
日本にいては朝鮮の王族も、日本の皇族と同様に、男子は特別の身体の事情で陛下のお許しがある場合を除き、陸海軍いずれかの道を選ばなくてはならなかった。英親王は、近衛隊付に補せられた、陸軍で鍛えられ、昇進していく。
その間、伊藤は李垠殿下を伴って東北、北海道の各地を訪ねている。教育係りとして慕われた伊藤が、ロシアとの関係調整のために出掛けたハルピン駅頭で、義兵将・安重根の凶弾に落命する。1909(明治42)年10月26日午前10時。訃報を聞いた李垠殿下は、「伊藤公は実に誠実に世話してくれた。そして将来、私が勉学を終えて新しい知識を韓国に持ち帰り、故国に役立てることを期待して、そのような構想を考えておられたと思うが、その伊藤公が暗殺されたことは、韓国の運命を変えてしまったのではないかと思う。いたずらに軍国的な軍人総督によって、英国植民地政策の真似をしたようなことになって残念でならない」と晩年、方子妃に回顧している。
1917(大正6)年12月25日、李垠殿下は陸軍少尉に任官される。その翌日、彼はかつての伊藤博文の墓前に任官の報告をしている。
安重根(アンジュングン、1879-1910)
愛国烈士。黄海道・海州の名門両班の出身。幼いときから尚武的性格を持ち、甲午農民戦争では若干16歳で父の安泰勲に従い農民軍鎮圧に加わった。1905年の乙巳保護条約を契機に民族運動に目覚め愛国啓蒙運動に参加した。1909年、ハルビン駅で同志とはかって伊藤博文を射殺した。彼はその場で逮捕され、翌年3月26日処刑された。裁判では終始義勇兵であることを強調すうするとともに、鋭い舌鋒で東洋平和を乱したとして伊藤を非難した。 (『朝鮮人物事典』大和書房より)
★韓国併合
英親王李垠殿下12歳のとき、祖国の運命のときを迎えた。韓国併合である。
寺内正毅統監と李完用総理の間で、併合条約の調印が行われた。
韓国併合条約
第一条 韓国皇帝ハ、韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全カツ永久ニ日本国 皇帝陛下ニ譲与ス。
第二条 日本国 皇帝陛下ハ、前条ニ掲ゲタル譲与ヲ受諾シ、且ツ全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス。
第三条 日本国 皇帝陛下ハ、太皇帝陛下並ニ其后妃後裔ヲシテ、各其ノ地位ニ応ジ、相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ、且ツ之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スベキコトヲ約ス
第四条 日本国 皇帝陛下ハ、前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ、各相当ノ名誉及ビ待遇ヲ享有セシメ、且ツ之ヲ維持スルニ必要ナル資金ヲ供与スルコトヲ約ス。
第五条 日本国 皇帝陛下ハ、勲功アル韓人ニシテ特ニ表彰ヲ為スヲ適当ナルト認メタルモノニ対シ、栄爵ヲ授ケ且ツ恩金ヲ与フベシ。
(第六~八条は省略)
次回は11月9日です。
2009年11月 1日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」2;嶋村初吉
★李垠の波乱万丈の生涯
英親王李垠殿下は、李朝26代の国王だった高宗皇帝の第3王子として生まれた。高宗は12歳で即位し、在位43年の間に波乱曲折のドラマに遭遇する。父大院君と王妃閔妃の執政権争い、閔妃殺害、清露日の対立抗争、王宮内の陰謀と暗躍。高宗は命を狙われる危険な目にもあった。その渦中、1897(明治30)年に李垠殿下は誕生された。
李垠殿下は10歳のとき、日本に旅立ち、56年間、異邦人として日本で生活し、病身のまま韓国に帰国し、亡くなった。運命に身を任せ、運命に忠実に生きた人で、政略結婚であったが、方子妃を心の底から愛し、日本人になり切ろうとした李王朝500年最後の皇太子であった。
第2王子が皇帝の位に即いて、第27代純宗となった年に、日韓協約が成立。朝鮮を日本の保護下に置く、布石が着々と打たれていた。韓太子、李垠殿下を日本で教育し、両国の親和に資せんとする画策が、伊藤博文によって進められた。その結果、1907(明治40)年12月、李垠殿下は日本留学の途に就いた。日本留学に反対する意見も多かったが、日本側に押し切られた。伊藤博文に伴われて来日するや、天皇に拝謁し、「今日わが皇太子、貴国に留学して隣邦の情誼ますます深し」との韓国皇帝の新書を奉呈した。英親王(李垠殿下)の取り扱いは。「万事、日本皇太子とご同様に」という方針に進んだ。伊藤博文は、殊の外、李垠殿下を愛し、李垠殿下もまた伊藤を親のように慕った。
伊藤博文(1841-1909)
明治期日本の最有力政治家で、朝鮮植民地を推進した。長州藩の貧農に生まれ尊攘・倒幕運動に参加、維新ののち明治6年および14年(1873・81)の政変をへて薩長藩閥の中心的存在となり、1885年には初代の内閣総理大臣に就任する。第二次内閣のとき、日清戦争を遂行、日本側全権として下関条約を結び朝鮮への勢力拡大につとめた。日露戦争後、日本政府はイギリス・アメリカ・ロシアなどの列強の承認を得て朝鮮の保護国化を決定、特命全権大使に任命された伊藤は1905年11月9日、保護条約の案文を持ってソウルに到着した。日本軍が演習をくりかえすなか国王に謁見した伊藤は、条約を拒否すれば朝鮮の将来は困難な境遇に陥るはずだと脅迫。条約の調印を強要した。
この保護条約(第二次日韓協約)によって、朝鮮の外交権は日本外務省に接収され、ソウルには韓国統監府が設置されるようになった。伊藤は初代統監となって1906年3月に着任、植民地支配のための基礎固めを推進する。 (『朝鮮人物事典』大和書房より)
京城(現ソウル)では、英親王李垠殿下がいなくなった修学院が廃止され、「一般世人慨歎せざるなし」と朝鮮の新聞は伝えた。
李垠殿下は、明治天皇に可愛がられ、天皇から召されて度々、皇居に度々出入りした。異国の地で、淋しくされているのを憂慮しての行為だった。
2009年10月31日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」1;嶋村初吉
好評連載の嶋村初吉さんの「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」を「植民地時代の政略結婚」と題してお送りします。8回連載で、最後に今回の連載全てまとめて掲載します(事務局)。
植民地時代の政略結婚
李王朝最後の皇太子、李垠と梨本宮方子
★李王家に嫁いだ日本の皇族、梨本宮方子
韓国の李王朝最後の皇太子、英親王・李垠(イウン)殿下に嫁いだ日本の旧皇族、梨本宮家の方子(まさこ)妃(成婚後、李方子妃となる。梨本宮家は、昭和天皇の香淳皇后のいとこ筋にあたる)をご存知だろうか。韓国を植民地支配していた時代に、二人は政略結婚させられた。時代に翻弄させられながらも仲睦まじい生活を送り、戦後は韓国に戻って逝去。現在、ソウル郊外の南楊州市にある陵墓「英園」に眠っている。
今年は方子さんの没後20年にあたり、5月10日行われた墓前祭は、ゆかりの人たちにとって思い出深い日となった。しかし、日本の皇族であり、韓国では慈善活動に尽された方子妃の存在は両国の人々の記憶から忘れ去られる、影の薄い存在となっている。
方子妃の略歴をひも解いてみた。
1901年 11月4日、元日本国皇族、梨本宮守正王の第一王女として誕生
1920年 4月28日、勅命により韓国第28代王世子(皇太子)、李垠殿下と成婚、李方子(イバンジャ)妃となる
1945年 8月15日、朝鮮解放独立、朝鮮半島の南半分が大韓民国となる
1947年 臣籍降下し、在日韓国人となる
1963年 11月、朴正熙政権下、夫君垠殿下と共に韓国に帰国
1970年 垠殿下、ソウルにおいて逝去。ソウル市鍾路に明暉園が発足
1972年 水原(京畿道)に慈恵学校完成。ソウル特別市より文化章を受章
1974年 明恵会館が完成
1978年 大邱社会事業大学より名誉文学博士受位
(途中、省略)
1989年 87歳で逝去
夫・李垠殿下の亡き後、障害者福祉活動に尽力し、日韓親善にも貢献された。方子妃の墓碑には、「懿愍(イビン) 皇太子妃」と表記されている。懿愍とは「一生いばらの道を歩まれた方」という意味である。
来年、2010年は、日本が朝鮮半島の植民地化を完成させた日韓併合から100年という大きな区切りの年にあたる。韓国の李明博大統領は、「両国関係の距離感をなくし、終止符を打つという意味」(2009年9月16日付、朝日新聞・朝刊)から、天皇訪韓を希望すると表明した。アジア重視を掲げる鳩山新政権とあわせて、韓国政府は対日関係を強固にしたいという期待感の表れといえよう。植民地時代に、日朝の懸け橋となった人たちがいた。日韓の皇族たちである。現在、歴史の風化にさらされている当時の政略結婚の話を紹介したい。
2009年8月14日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」16;嶋村初吉
百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯
嶋村初吉
北朝鮮の金錫亨(キムソクヒョン)という歴史学者が、日本には朝鮮半島から渡来人が移り住み、朝鮮の三国が覇権を競った分国だったという説を提唱して話題になったことがある。その説によると、弥生時代以降、朝鮮の渡来人が日本で分国を形成した。いうまでもなく、朝鮮が母国で、日本はその母国の分国。北九州の二つの大きな分国があり、吉備(現在の岡山)、出雲(島根)も分国だった。そのうち北九州の分国が大和に移り、これが分国を征服して統一王朝をつくる。5世紀ぐらいの話である。日本の歴史学者、考古学者は冷ややかな受け止め方をしたが、かつてない大きな構想に基づく説である。江上波夫氏の「騎馬民族国家」説のような壮大さを感じた。
1970年代、京都で在日の実業家、鄭詔文(チョンジョムン、高麗美術館の創始者)氏が雑誌『日本のなかの朝鮮文化』(季刊)を創刊し、それに在日朝鮮人作家、金達寿(キムタルス)が、その雑誌名を地でいく連載を始めた。ルーツを探る旅で、日本各地を歩き、関連書籍を跋渉して、朝鮮と関連する歴史を拾い集めていった。調べれば調べるほど、朝鮮と関わりのある事象に遭遇し、古代において日本と朝鮮は兄弟のような関係であることを明かしていった。鄭詔文氏の志に共鳴して、作家の司馬遼太郎をはじめ関西の文化人が編集委員に加わったり、執筆、対談に参加した。その一人、歴史学者の上田正昭・京都大学教授は1960年代後半に『帰化人』(中公新書)を出版して話題を呼んだ学者で、古代史の現場を歩くツアーで金達寿氏と競うように熱弁をふるい、古代史ファンの裾野を広げた。
古代史の面白さは、東アジアを舞台にした交流文化論にある。海を越えて、人、モノが移動し、相互に刺激し合った。その中から、地域連合国家、さらには国内を統一する勢力が誕生する。
7世紀の朝鮮半島。この時代、高句麗、百済、新羅の三国鼎立が崩れ、新羅が唐と組んで、半島の統一に向けて動き出す。660年、百済が新羅・唐の連合軍によって滅ぼされ、大量の遺民が倭国(日本)と渡った。倭国は百済の請を受けて援軍を送ったが、それも及ばなかった。
660年の白村江の戦いについて、概略したい。井上秀雄著『古代朝鮮』(日本放送出版協会)を参考にした。
6月18日、唐は水陸13万の大軍を動員して、山東半島の莱州(現在の山東省掖県)を出発。新羅軍は5月26日、太宗武烈王自身が5万の水軍を率いて出陣。新羅軍は7月9日、黄山之原(現在の忠清南道論山郡連山面)で、唐の水軍は白江(現在の錦江の中流、扶余邑付近の別称)の伎伐浦で、それぞれ百済軍を破った。同月12日から百済の王都、サビ(いまの扶余)城を攻撃した。百済の義慈王はいったん旧都、熊津城にのがれたが、同18日には皇太子らとともに新羅・唐連合軍に降って、百済は滅亡した。
百済の滅亡後、王族の福信(ポクシン、武王の甥)や日本に派遣されていた王子豊璋らが、高句麗や大和朝廷の支援を受けて、664年まで執拗に新羅・唐連合軍と戦っている。
660年に、唐と新羅の連合軍が結成されたとき、平壌以南を新羅、以北をそれぞれ領有することにしていたが、これは表向きの約束で、唐は朝鮮全土を植民地にしようとする基本的な政策を掲げていた。唐は新羅軍を使って百済・高句麗を滅亡させただけではなく、新羅の軍事力を消耗させるため、苛酷な戦闘を強要し、少しでも約束が違うと、その間の事情を無視して責任だけを追及した。また、新羅の軍功は唐から無視されていた。
新羅はついに対唐戦争に立ち上がり、朝鮮半島からその勢力を一掃し、676年から新羅滅亡の935年までの、およそ260年間、統一政権を保った。この時期の新羅は三国時代のそれとは政治的、社会的、文化的にも大きな変化があり、今日の朝鮮民族を形成する時代となった。
一方、倭国は、新羅・唐の連合軍が攻め寄せてくることを予想して、防備を固める。いわゆる朝鮮式山城を金田城(対馬)、四王寺山(太宰府)、基肄城(基山町)を築いたが、それを技術的に指導したのは百済の遺民であった。当時、日本は中大兄皇子が支配権を握った天智朝で、天皇は百済の遺民を西日本一帯に移植させ、山野を開墾させた。
『続日本紀』のは飛鳥の地域(高市郡あたり)は渡来人が8、9割を占めるほどと書いている。彼らのような、かなり高い朝鮮文化をもった集団が密集して、飛鳥のような文化の中心地帯をつくりあげた。なぜ、飛鳥を都に選んだのか。やはり渡来人たちが故郷を意識したのではないか。故郷に似たところ。百済の都、扶余は飛鳥によく似ている。大和三山のような三山が扶余にはある。盆地のなかの低い山である。そこに錦江戸(白馬江)という大きな川が流れている。百済の遺民たちは大和に来て、三山など山河を見て、望郷の思いを深くしたに違いない。大和を日本人の心のふるさととよく言うが、古代、そこに住んでいたのは百済人とか新羅人だった。心のふるさととは扶余や新羅の都、慶州とか指しているともいえる。
飛鳥文化に最も影響を与えたのは高句麗、百済、新羅の3国のうちで、どこの国の色彩が濃いかといえば、百済といえる。日本が一番親しかったのは百済である。仏教文化が日本に来たのは、百済を通してだった。例えば石舞台のある島の宮を作ったのは百済の路子工(みちこのたくみ)といわれる。百済からは大工、陶工、金工、織物工など、たくさんの技能者が渡ってきた。
ここで、百済と新羅の比較をしたい。ソウルには百済を滅ぼしたときの新羅の将軍、キムユシンの銅像が、扶余には階伯(ケベク)将軍の銅像がそれぞれ建っている。階伯将軍はキムユシンが攻めてきたとき、十分の一ぐらいの兵力で戦って戦死した。今でも百済、扶余の文化人は新羅に対抗意識を持っている。百済文化再発見運動を熱心にやっている。その一人、郷土史家、李夕湖氏は司馬遼太郎の『街道をゆく2 韓のくに紀行』(朝日新聞社)にも出てくる。
ここに紹介する万葉歌人の山上憶良、文官の鬼室集斯は百済の遺民(亡命者)で、二人とも近江を拠点に活躍した人物である。
★山上憶良
山上憶良を百済の渡来人と最初にいったのは、万葉学者の中西進氏である。現在、学会でも広く知られているが、その説によると、こうである。
百済から天智期に渡来し、近江朝に仕え、天武の侍臣にもなった医師、憶仁(おくに)が憶良の父であったとする。憶良は百済の都、扶余で660年に生まれ、百済王朝滅亡により4歳のときに父親に連れられて、日本に亡命渡来し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口町あたりに住んだとしている。
憶良が移住した甲賀の地は、それより80年ほど前、日本に仏教が公伝されたとき、
その功労者の一人として、「百済より来る鹿深臣(かふかのおみ)、名字をもらせり。弥勒(みろく)の石像一躯有(たま)てり」(『日本書記』より)とあるように、百済渡来豪族、鹿深氏(甲賀氏)の居住地であったといわれる。
敏達紀に、百済から鹿深臣がもってきた弥勒は石像だったと書いている。現在、残っていないが。
憶仁は686(朱鳥元)年5月に死亡した。彼は専門技術をもっていたが、正当な評価を受けないまま、下積み生活を余儀なくされた。父親を失ったとき、憶良は27歳だったが、彼も無位、無姓の下級役であった。ここに、渡来人の悲哀をみる。憶良は41歳まで経典を写す仕事に従事したと推測されている。
ところが、憶良が栄達を遂げる好機が到来するのである。遣唐使である。彼は、書記官の最下席を与えられた。42歳の701(大宝元)年正月、遣唐少録となり、翌年、遣唐使粟田真人らに従って唐の都、長安に渡った。長年の文筆生活が役立ったというべきだろう。遣唐使は生死を賭けた旅路となった。無事、帰国すれば出世は間違いない。憶良は、その賭に勝った。以後、順風の道を歩み、臣という姓をもらい、位も従五位下に昇進した。57歳のとき伯耆(いまの鳥取県)の長官になり、帰京後は東宮に。さらにその後には聖武天皇の教育係の一人にもなった。67歳のとき筑前の国(現、福岡県)の長官にも任命され、大伴旅人らと筑紫歌壇を形成した。憶良が優れた歌人としての地位を確立したのは九州時代である。万葉集には長歌11首、短歌52首、旋頭歌1首、ほかに漢詩、漢文を残している。
歌人、憶良の特徴について、歌人の木俣修氏は『万葉集 時代と作品』(日本放送出版協会)の中で、次のように指摘している。
「憶良は短歌よりもむしろ長歌を得意としている。内容的にいえば、自然の歌はわずか三首だで、他はもっぱら人事に関するものばかりである。しかし相聞の歌は全くなくて、子供に対する深い愛情を歌ったものが眼立っている。また病苦・貧窮・老死などの暗黒面を歌い、人生の問題や社会の問題に深く入っているところにその特徴が見られる」
憶良の代表的な歌を幾つ紹介する。
・憶良らは今は罷らむ子泣くらんその彼(か)の母も吾を待つらむぞ
・銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも
・世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
筑前から帰京した憶良は病の苦しみ、貧乏にも苦しめられる。733(天平5)年、病床に伏す憶良を、親友藤原八束が、見舞いの使者として河辺朝臣東人を使いにやった。そのとき、憶良がことばにした和歌が、次のようなものである。
士(をのこ)やも空しくあるべき万代(よろづよ)に
語りつぐべき名は立てずして
意味するところは、「男子たるもの、空しく朽ちはててはいけない。万代の後までも語り継がれるような名声も立てずに」という内容で、憶良のそれまでの生涯74年間を集約したような一首であった。「空しさに抵抗しつつ、いま病床にある身に絶望しつつ、なお士への志を捨てなかったところに、憶良の生涯の暗示がある。この一首は辞世と自覚したものではないが、暗示的な一首をのこして、憶良はほどなく没したと思われる」(中西進『辞世のことば』中公新書)。
★近江の石塔寺と朝鮮渡来人
朝鮮半島から日本に最初に来た渡来人の大集団は、弥生時代にみられる。記録上では新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)とされる。ヒメコソノミコトを追って、若狭湾に上陸し、西日本を彷徨して最後は、但馬に落ち着いた王族である。
近江には、百済からの渡来人が多く住んでいた。『日本書記』には、「(百済からの渡来人を)男女七百余人を遷して近江の国蒲生の郡におき」とある。蒲生郡は近江でも屈指の渡来人の里だった。白村江の戦いで滅んだ百済の遺民たちが移り住んだ。自らの優れた技術を発揮して、故国への思いを刻んだ。
例えば、石塔。蒲生町に石塔寺にある、わが国最古の石塔、三重石塔も、その一つ。司馬遼太郎に、「ぬっと立っている巨石の建造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの具象化された姿がそこの立っているようである」(『歴史を紀行する』文春文庫より)といわせた。この三重石塔は、天智天皇が都を開いた近江朝の時代、7世紀後半にできたと推定されている。この時代、石材を使った建造物はなく、百済の渡来人の造形したものとして知られる。なぜならば、この塔は花崗岩でできているからだ。凝灰岩を使っている日本の塔とは異なる。構造的にも、百済の古都、扶余に残っている塔とそっくりなのである。
寺伝によると、石塔寺はもともと本願成就寺といい、聖徳太子が近江に建立した四十八カ寺の最後のお寺だった。ところが、三重石塔ができたことから、七堂伽藍を再建して石塔寺と名付けたという。1006(寛弘3)年のことである。
司馬遼太郎は「近江商人を創った血の秘密」(『歴史を紀行する』(文春文庫所載)のなかで、この石塔を見て、次のように想起している。
「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについて、私は生涯わすれることができないだろう。頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである」
「塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江帰化人の一大記念碑であるがごとくであり、帰化人たちの居住区宣言であるような気もする」
★近江商人
近江商人は、朝鮮渡来人の血を引いているといわれる。菅野和太郎著『近江商人の研究』には、次のようにある。
「商人的素質をもつ高麗の帰化人が中部(蒲生郡、坂田郡、愛知郡、犬上郡、野洲郡)に移住し、本国の制度でならって市(いち)を開設したが、後に延暦寺(叡山)と結んで市の専売権を確立し、商権を拡張して一大飛躍をとげた。この訓練をうけた住民は、農民、武士よりの転向組に加え、全国の行商行脚に力をのばした」
近江商人は阪神で成功して芦屋をひらき、今日の高級住宅街のはしりとなった。伊勢商人も、もともとは近江商人が基となった。戦国武将、蒲生氏郷が根拠地の近江日野から伊勢12万石に転封となり、これに伴い日野商人がごっそりと伊勢に移住した。伊勢商人として大成した三井氏は、もとは近江蒲生郡の地侍、三井越後守高安である。彼は武士から商人に転じた一人である。近江商人の結束力は堅く、奉公人は近江から呼び集め、さらには丁稚を育てるために地元で寄宿舎訓練を行っている。また、屋敷の女中にも近江の女性を雇った。聡く、上品で、律儀だというのが富商たちの評価であった。
ここで帰化人の「帰化」という意味を確認しておきたい。1960年代、上田正昭・京都大学教授が『帰化人』(中公新書)を刊行したとき、一部批判の声があがった。帰化という意味には、徳を慕って服属するという意味があるからだ。古代、朝鮮渡来人は祖国を離れざるを得ない事情が生じて、日本に渡ってきた人たちであり、何も日本を慕ってきたわけではない。現代、帰化とは外国籍の人が日本国籍を取得することをいう。国籍取得を古代にもってきても、当時、国という意識が未成熟であったから、帰化という言葉は疑問である。やはり、朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人を「渡来人」と規定した方が相応しい。
それはともかく、上田氏は、同著のまえがきで、こう記している。
「日本へきた人々ならびにその後裔たちは、あるいは役人となり、あるいは農民や手工業者となって、古代日本のなりたちに少なからぬ影響をあたえていた。飛鳥文化や天平文化の背景には、彼らのもたらした新技術や新知識が渦巻いており、いわゆる『帰化人』の力は、古代日本人の生活におおきなはたらきをおよぼしている。もっと端的に表現するなら、日本古代国家の形成それ自体が、これら渡来者たちの母国の動向と付加いいつながりをもっていたのである」
★鬼室集斯
鬼室集斯については、『日本書記』第二十七天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと) 天智天皇の項に、次のようにある。
この歳(天智天皇4年)、小錦中河内直鯨(かわちのあたいくじら)らを遣わして大唐(もろこし)に使させた。また、佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江国の蒲生郡に移住させた。
この月に、大錦下を、佐平余自信・沙宅紹明(法官大輔=のりのつかさのおおきすけ=、のちの式部大輔に相当)に授けた。小錦下を鬼室集斯(学職頭=ふみのつかさのかみ=、のちの大学頭に相当)に授けた。
学職頭は、律令制では大学寮の長官をあたる。現代でいえば、文部科学大臣兼大学総長をイメージできる。百済からの亡命者でこれだけの高い位階を与えられたのは異例である。百済王朝で、行政の中をになった亡命者たちは、法制、学術、兵法、医薬など幅広い分野で活躍した。
鬼室集斯については、司馬遼太郎も書いている。東大阪市に住む司馬は、在日韓国・朝鮮人と付き合いが深く、鄭詔文、貴文(キムン)兄弟が創刊した『日本のなかの朝鮮文化』に関わったし、この雑誌を通して在日朝鮮人作家、金達寿と歴史討論もしている。鬼室集斯は『街道をゆく2 韓のくに紀行』(朝日新聞社)に出てくる。1972年正月2日、京都にきた司馬は名古屋から車を飛ばしてきた友人の頼んで、蒲生郡日野町を訪ねる。
その探訪記を、『街道をゆく』から抜粋する。
(1)なにしろ鬼室集斯は百済王族だし、それに佐平余自信という王族も一緒にきており、朝廷としてはかれらを優遇したかったにちがいない。
なぜならば鬼室集斯がこの国にやってきたとき、天智朝廷は、「天智紀」の記述のごとく、
「佐平福信ノ功ヲ以テ、鬼室集斯ニ小錦下(せうきむげのくらゐ)ヲ授ク」
として、大層な位階をあたえているのである。小錦下とは、のちの従五位下に相当する。
さらに天智天皇のとき、まだ制度は粗笨ながら(建物もあったのかどうか)はじめて大学寮が設けられており、百済から逃れてきた鬼室集斯はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである。
(2)この小野こそ蒲生野を拓いた百済人の最初の根拠地だったにちがいないが、しかし家数はかぞえるほどしかなく、どの農家も千年の伝統を感じさせるような風格があって、ゆゆしげにみえた。
たまたま私は、「蒲生郡桜谷奥津保小野村」という明治三十年代の村の地図をもっていた。その地図(とはいっても風景図だが)によると、
「朝鮮坊山」
という山の名も見える。村は谷間をひらいて耕地にしたもので、まだ山中から流れ落ちて初々しい蒲生川が流れている。その川のそばの崖に小さな森があり、田のあぜを通ってその森までゆくと、百坪足らずの境内にささやかな祠が建っていた。鬼室神社である。
(3)神体は七十糎(センチ)程度の石の杭である。八角形をなし、コケシ人形のようにくびにくびれがある。石は朝鮮産のものだというが、よくわからない。
江戸期の中期、江戸の儒者で村井古厳という人が文献でこの村を知り、わざわざ訪ねてきて調べたところ、
「これは日本古来の墳墓ではなく、儒礼による墳墓である。この石は墳碑ではなく、犠牲(にえ)をつなぐ形状をなしている」
と断定したらしいが、それは正しいであろう。
村井古厳がきたあと、文化年間になると江戸や京、あるいは地元の儒者の来訪が一時さかんになったらしく、文化二年、西生懐忠という儒医がこの風化した石に水をそそぎ、苔をはらい、苦心のすえ、刻文をさぐり、ついに
右 庶孫美成造
正面 鬼室集斯墓
左 朱鳥三年戊子十一年八日歿
という文字を読み下した。
その後文化六年四月十二日、当時このあたりを飛地領としておさめていた宮津藩主松平伯耆守が「わが領内に尊き学士の遺跡あるは家の面目なり」としてこの墓前で盛大な祭典を催し、漢学者をあつめて鬼室集斯をまつる漢文の会を催している。白村江を血で染めて百済が滅んでから千百四十六年目のことであり、亡国の王民の霊たちはこの日、ようやく慰められたかとおもわれる。
天智天皇が崩御し、壬申の乱で大海人皇子が即位して天武天皇となると、都も本家帰りして、飛鳥へと移った。天智天皇の側についていた鬼室集斯は、この権力闘争に巻き込まれるのを避けて、近江に留まり、日野の小野集落に隠棲した。死後、鬼室集斯を祀る神社ができ、「室徒株」という鬼室の家系の者が輪番で祭事を行っている。
日野町は1990年、韓国忠清南道・扶余郡恩山面と姉妹都市提携を行った。恩山面には鬼室集斯の父、福信を祀る祠(恩山別神堂)があり、日野には集斯の墓があることが提携の契機となった。
★『日本書記』は古代の日韓交流史
『日本書記』には、朝鮮半島、中国との往来がいかに盛んだったかが、その記述の頻度の多さから分かる。それには、朝鮮、中国の史書からふんだんに引用している背景がある。朝鮮の史書としては、『百済記』『百済新撰』『百済本記』があげられる。
最近、加唐島(かからじま、佐賀県唐津市鎮西町)は、百済の武寧王(ムリョンワン)が生誕した島として、名護屋城博物館とともに日韓交流を担っている。
武寧王生誕の記事は、『日本書記』雄略天皇の項に記載されている。韓国・慶北大学教授が、武寧王墓誌の解析を通して『百済記』『百済遺事』よりも、『日本書記』の方が信憑性が高いという経過を論文に書いて発表したところから、一気に見直しが進んだ。『日本書記』には、次のように記されている。
六月の丙戊(ひのえいぬ)の朔に、身籠った婦が、はたして加須利君(かすりのきみ、コウロ王)の言ったように、筑紫の各羅嶋(かからのしま)で子を生んだ。そこで、この子を名づけて嶋君(せまきし)といった。ここに、軍君(こにきし)は、ただちに婦と同じ船で、嶋君を国に送った。これが武寧王である。百済人は、この嶋をよんで主嶋(にりむせま)といった。
軍君は加須利君(こうろ王)に、「おまえは、日本に行って天皇にお仕えしろ」といわれ、それに従った。渡日するにあたり、こうろ王の婦(みめ)を賜るようにお願いしたところ、こうろ王は妊娠した婦を娶らせた。
689年施行の浄御原令(きよみはらりょう)で、国の名前が倭国から日本と変わった。朝鮮、中国と関わることで、自分たちを相対的に見て、認識を変えていった。倭国、日本は孤立した島国ではなかった。人とモノは、列島の南北からも西からも絶えず流入してきた。それを受け止めながら国家形成に貢献した朝鮮渡来人の役割は大きかった。もちろん、地域によって渡来文化定着の度合いに濃淡はあるが、両者が融合・発展して、新たな日本文化を築きあげたのである。『日本書記』には、その痕跡が記されている。
2009年8月13日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」15:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」7
★『日本書記』は古代の日韓交流史
『日本書記』には、朝鮮半島、中国との往来がいかに盛んだったかが、その記述の頻度の多さから分かる。それには、朝鮮、中国の史書からふんだんに引用している背景がある。朝鮮の史書としては、『百済記』『百済新撰』『百済本記』があげられる。
最近、加唐島(かからじま、佐賀県唐津市鎮西町)は、百済の武寧王(ムリョンワン)が生誕した島として、名護屋城博物館とともに日韓交流を担っている。
武寧王生誕の記事は、『日本書記』雄略天皇の項に記載されている。韓国・慶北大学教授が、武寧王墓誌の解析を通して『百済記』『百済遺事』よりも、『日本書記』の方が信憑性が高いという経過を論文に書いて発表したところから、一気に見直しが進んだ。『日本書記』には、次のように記されている。
六月の丙戊(ひのえいぬ)の朔に、身籠った婦が、はたして加須利君(かすりのきみ、コウロ王)の言ったように、筑紫の各羅嶋(かからのしま)で子を生んだ。そこで、この子を名づけて嶋君(せまきし)といった。ここに、軍君(こにきし)は、ただちに婦と同じ船で、嶋君を国に送った。これが武寧王である。百済人は、この嶋をよんで主嶋(にりむせま)といった。
軍君は加須利君(こうろ王)に、「おまえは、日本に行って天皇にお仕えしろ」といわれ、それに従った。渡日するにあたり、こうろ王の婦(みめ)を賜るようにお願いしたところ、こうろ王は妊娠した婦を娶らせた。
689年施行の浄御原令(きよみはらりょう)で、国の名前が倭国から日本と変わった。朝鮮、中国と関わることで、自分たちを相対的に見て、認識を変えていった。倭国、日本は孤立した島国ではなかった。人とモノは、列島の南北からも西からも絶えず流入してきた。それを受け止めながら国家形成に貢献した朝鮮渡来人の役割は大きかった。もちろん、地域によって渡来文化定着の度合いに濃淡はあるが、両者が融合・発展して、新たな日本文化を築きあげたのである。『日本書記』には、その痕跡が記されている。
(次回は総集編です)
2009年7月30日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」14:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」6
★鬼室集斯
鬼室集斯については、『日本書記』第二十七天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと) 天智天皇の項に、次のようにある。
この歳(天智天皇4年)、小錦中河内直鯨(かわちのあたいくじら)らを遣わして大唐(もろこし)に使させた。また、佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江国の蒲生郡に移住させた。
この月に、大錦下を、佐平余自信・沙宅紹明(法官大輔=のりのつかさのおおきすけ=、のちの式部大輔に相当)に授けた。小錦下を鬼室集斯(学職頭=ふみのつかさのかみ=、のちの大学頭に相当)に授けた。
学職頭は、律令制では大学寮の長官をあたる。現代でいえば、文部科学大臣兼大学総長をイメージできる。百済からの亡命者でこれだけの高い位階を与えられたのは異例である。百済王朝で、行政の中をになった亡命者たちは、法制、学術、兵法、医薬など幅広い分野で活躍した。
鬼室集斯については、司馬遼太郎も書いている。東大阪市に住む司馬は、在日韓国・朝鮮人と付き合いが深く、鄭詔文、貴文(キムン)兄弟が創刊した『日本のなかの朝鮮文化』に関わったし、この雑誌を通して在日朝鮮人作家、金達寿と歴史討論もしている。鬼室集斯は『街道をゆく2 韓のくに紀行』(朝日新聞社)に出てくる。1972年正月2日、京都にきた司馬は名古屋から車を飛ばしてきた友人の頼んで、蒲生郡日野町を訪ねる。
その探訪記を、『街道をゆく』から抜粋する。
(1)なにしろ鬼室集斯は百済王族だし、それに佐平余自信という王族も一緒にきており、朝廷としてはかれらを優遇したかったにちがいない。
なぜならば鬼室集斯がこの国にやってきたとき、天智朝廷は、「天智紀」の記述のごとく、
「佐平福信ノ功ヲ以テ、鬼室集斯ニ小錦下(せうきむげのくらゐ)ヲ授ク」
として、大層な位階をあたえているのである。小錦下とは、のちの従五位下に相当する。
さらに天智天皇のとき、まだ制度は粗笨ながら(建物もあったのかどうか)はじめて大学寮が設けられており、百済から逃れてきた鬼室集斯はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである。
(2)この小野こそ蒲生野を拓いた百済人の最初の根拠地だったにちがいないが、しかし家数はかぞえるほどしかなく、どの農家も千年の伝統を感じさせるような風格があって、ゆゆしげにみえた。
たまたま私は、「蒲生郡桜谷奥津保小野村」という明治三十年代の村の地図をもっていた。その地図(とはいっても風景図だが)によると、
「朝鮮坊山」
という山の名も見える。村は谷間をひらいて耕地にしたもので、まだ山中から流れ落ちて初々しい蒲生川が流れている。その川のそばの崖に小さな森があり、田のあぜを通ってその森までゆくと、百坪足らずの境内にささやかな祠が建っていた。鬼室神社である。
(3)神体は七十糎(センチ)程度の石の杭である。八角形をなし、コケシ人形のようにくびにくびれがある。石は朝鮮産のものだというが、よくわからない。
江戸期の中期、江戸の儒者で村井古厳という人が文献でこの村を知り、わざわざ訪ねてきて調べたところ、
「これは日本古来の墳墓ではなく、儒礼による墳墓である。この石は墳碑ではなく、犠牲(にえ)をつなぐ形状をなしている」
と断定したらしいが、それは正しいであろう。
村井古厳がきたあと、文化年間になると江戸や京、あるいは地元の儒者の来訪が一時さかんになったらしく、文化二年、西生懐忠という儒医がこの風化した石に水をそそぎ、苔をはらい、苦心のすえ、刻文をさぐり、ついに
右 庶孫美成造
正面 鬼室集斯墓
左 朱鳥三年戊子十一年八日歿
という文字を読み下した。
その後文化六年四月十二日、当時このあたりを飛地領としておさめていた宮津藩主松平伯耆守が「わが領内に尊き学士の遺跡あるは家の面目なり」としてこの墓前で盛大な祭典を催し、漢学者をあつめて鬼室集斯をまつる漢文の会を催している。白村江を血で染めて百済が滅んでから千百四十六年目のことであり、亡国の王民の霊たちはこの日、ようやく慰められたかとおもわれる。
天智天皇が崩御し、壬申の乱で大海人皇子が即位して天武天皇となると、都も本家帰りして、飛鳥へと移った。天智天皇の側についていた鬼室集斯は、この権力闘争に巻き込まれるのを避けて、近江に留まり、日野の小野集落に隠棲した。死後、鬼室集斯を祀る神社ができ、「室徒株」という鬼室の家系の者が輪番で祭事を行っている。
日野町は1990年、韓国忠清南道・扶余郡恩山面と姉妹都市提携を行った。恩山面には鬼室集斯の父、福信を祀る祠(恩山別神堂)があり、日野には集斯の墓があることが提携の契機となった。
2009年7月29日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」13:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」5
★近江商人
江商人は、朝鮮渡来人の血を引いているといわれる。菅野和太郎著『近江商人の研究』には、次のようにある。
「商人的素質をもつ高麗の帰化人が中部(蒲生郡、坂田郡、愛知郡、犬上郡、野洲郡)に移住し、本国の制度でならって市(いち)を開設したが、後に延暦寺(叡山)と結んで市の専売権を確立し、商権を拡張して一大飛躍をとげた。この訓練をうけた住民は、農民、武士よりの転向組に加え、全国の行商行脚に力をのばした」
江商人は阪神で成功して芦屋をひらき、今日の高級住宅街のはしりとなった。伊勢商人も、もともとは近江商人が基となった。戦国武将、蒲生氏郷が根拠地の近江日野から伊勢12万石に転封となり、これに伴い日野商人がごっそりと伊勢に移住した。伊勢商人として大成した三井氏は、もとは近江蒲生郡の地侍、三井越後守高安である。彼は武士から商人に転じた一人である。近江商人の結束力は堅く、奉公人は近江から呼び集め、さらには丁稚を育てるために地元で寄宿舎訓練を行っている。また、屋敷の女中にも近江の女性を雇った。聡く、上品で、律儀だというのが富商たちの評価であった。
こで帰化人の「帰化」という意味を確認しておきたい。1960年代、上田正昭・京都大学教授が『帰化人』(中公新書)を刊行したとき、一部批判の声があがった。帰化という意味には、徳を慕って服属するという意味があるからだ。古代、朝鮮渡来人は祖国を離れざるを得ない事情が生じて、日本に渡ってきた人たちであり、何も日本を慕ってきたわけではない。現代、帰化とは外国籍の人が日本国籍を取得することをいう。国籍取得を古代にもってきても、当時、国という意識が未成熟であったから、帰化という言葉は疑問である。やはり、朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人を「渡来人」と規定した方が相応しい。
それはともかく、上田氏は、同著のまえがきで、こう記している。
「日本へきた人々ならびにその後裔たちは、あるいは役人となり、あるいは農民や手工業者となって、古代日本のなりたちに少なからぬ影響をあたえていた。飛鳥文化や天平文化の背景には、彼らのもたらした新技術や新知識が渦巻いており、いわゆる『帰化人』の力は、古代日本人の生活におおきなはたらきをおよぼしている。もっと端的に表現するなら、日本古代国家の形成それ自体が、これら渡来者たちの母国の動向と付加いいつながりをもっていたのである」
2009年7月24日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」11:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」3
★山上憶良
山上憶良を百済の渡来人と最初にいったのは、万葉学者の中西進氏である。現在、学会でも広く知られているが、その説によると、こうである。
百済から天智期に渡来し、近江朝に仕え、天武の侍臣にもなった医師、憶仁(おくに)が憶良の父であったとする。憶良は百済の都、扶余で660年に生まれ、百済王朝滅亡により4歳のときに父親に連れられて、日本に亡命渡来し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口町あたりに住んだとしている。
憶良が移住した甲賀の地は、それより80年ほど前、日本に仏教が公伝されたとき、
その功労者の一人として、「百済より来る鹿深臣(かふかのおみ)、名字をもらせり。弥勒(みろく)の石像一躯有(たま)てり」(『日本書記』より)とあるように、百済渡来豪族、鹿深氏(甲賀氏)の居住地であったといわれる。
敏達紀に、百済から鹿深臣がもってきた弥勒は石像だったと書いている。現在、残っていないが。
憶仁は686(朱鳥元)年5月に死亡した。彼は専門技術をもっていたが、正当な評価を受けないまま、下積み生活を余儀なくされた。父親を失ったとき、憶良は27歳だったが、彼も無位、無姓の下級役であった。ここに、渡来人の悲哀をみる。憶良は41歳まで経典を写す仕事に従事したと推測されている。
ところが、憶良が栄達を遂げる好機が到来するのである。遣唐使である。彼は、書記官の最下席を与えられた。42歳の701(大宝元)年正月、遣唐少録となり、翌年、遣唐使粟田真人らに従って唐の都、長安に渡った。長年の文筆生活が役立ったというべきだろう。遣唐使は生死を賭けた旅路となった。無事、帰国すれば出世は間違いない。憶良は、その賭に勝った。以後、順風の道を歩み、臣という姓をもらい、位も従五位下に昇進した。57歳のとき伯耆(いまの鳥取県)の長官になり、帰京後は東宮に。さらにその後には聖武天皇の教育係の一人にもなった。67歳のとき筑前の国(現、福岡県)の長官にも任命され、大伴旅人らと筑紫歌壇を形成した。憶良が優れた歌人としての地位を確立したのは九州時代である。万葉集には長歌11首、短歌52首、旋頭歌1首、ほかに漢詩、漢文を残している。
歌人、憶良の特徴について、歌人の木俣修氏は『万葉集 時代と作品』(日本放送出版協会)の中で、次のように指摘している。
「憶良は短歌よりもむしろ長歌を得意としている。内容的にいえば、自然の歌はわずか三首だで、他はもっぱら人事に関するものばかりである。しかし相聞の歌は全くなくて、子供に対する深い愛情を歌ったものが眼立っている。また病苦・貧窮・老死などの暗黒面を歌い、人生の問題や社会の問題に深く入っているところにその特徴が見られる」
憶良の代表的な歌を幾つ紹介する。
・憶良らは今は罷らむ子泣くらんその彼(か)の母も吾を待つらむぞ
・銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめや も
・世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
筑前から帰京した憶良は病の苦しみ、貧乏にも苦しめられる。733(天平5)年、病床に伏す憶良を、親友藤原八束が、見舞いの使者として河辺朝臣東人を使いにやった。そのとき、憶良がことばにした和歌が、次のようなものである。
士(をのこ)やも空しくあるべき万代(よろづよ)に
語りつぐべき名は立てずして
意味するところは、「男子たるもの、空しく朽ちはててはいけない。万代の後までも語り継がれるような名声も立てずに」という内容で、憶良のそれまでの生涯74年間を集約したような一首であった。「空しさに抵抗しつつ、いま病床にある身に絶望しつつ、なお士への志を捨てなかったところに、憶良の生涯の暗示がある。この一首は辞世と自覚したものではないが、暗示的な一首をのこして、憶良はほどなく没したと思われる」(中西進『辞世のことば』中公新書)。
2009年7月23日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」10:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」2
百済の滅亡後、王族の福信(ポクシン、武王の甥)や日本に派遣されていた王子豊璋らが、高句麗や大和朝廷の支援を受けて、664年まで執拗に新羅・唐連合軍と戦っている。
660年に、唐と新羅の連合軍が結成されたとき、平壌以南を新羅、以北をそれぞれ領有することにしていたが、これは表向きの約束で、唐は朝鮮全土を植民地にしようとする基本的な政策を掲げていた。唐は新羅軍を使って百済・高句麗を滅亡させただけではなく、新羅の軍事力を消耗させるため、苛酷な戦闘を強要し、少しでも約束が違うと、その間の事情を無視して責任だけを追及した。また、新羅の軍功は唐から無視されていた。
新羅はついに対唐戦争に立ち上がり、朝鮮半島からその勢力を一掃し、676年から新羅滅亡の935年までの、およそ260年間、統一政権を保った。この時期の新羅は三国時代のそれとは政治的、社会的、文化的にも大きな変化があり、今日の朝鮮民族を形成する時代となった。
一方、倭国は、新羅・唐の連合軍が攻め寄せてくることを予想して、防備を固める。いわゆる朝鮮式山城を金田城(対馬)、四王寺山(太宰府)、基肄城(基山町)を築いたが、それを技術的に指導したのは百済の遺民であった。当時、日本は中大兄皇子が支配権を握った天智朝で、天皇は百済の遺民を西日本一帯に移植させ、山野を開墾させた。
『続日本紀』のは飛鳥の地域(高市郡あたり)は渡来人が8、9割を占めるほどと書いている。彼らのような、かなり高い朝鮮文化をもった集団が密集して、飛鳥のような文化の中心地帯をつくりあげた。なぜ、飛鳥を都に選んだのか。やはり渡来人たちが故郷を意識したのではないか。故郷に似たところ。百済の都、扶余は飛鳥によく似ている。大和三山のような三山が扶余にはある。盆地のなかの低い山である。そこに錦江戸(白馬江)という大きな川が流れている。百済の遺民たちは大和に来て、三山など山河を見て、望郷の思いを深くしたに違いない。大和を日本人の心のふるさととよく言うが、古代、そこに住んでいたのは百済人とか新羅人だった。心のふるさととは扶余や新羅の都、慶州とか指しているともいえる。
飛鳥文化に最も影響を与えたのは高句麗、百済、新羅の3国のうちで、どこの国の色彩が濃いかといえば、百済といえる。日本が一番親しかったのは百済である。仏教文化が日本に来たのは、百済を通してだった。例えば石舞台のある島の宮を作ったのは百済の路子工(みちこのたくみ)といわれる。百済からは大工、陶工、金工、織物工など、たくさんの技能者が渡ってきた。
ここで、百済と新羅の比較をしたい。ソウルには百済を滅ぼしたときの新羅の将軍、キムユシンの銅像が、扶余には階伯(ケベク)将軍の銅像がそれぞれ建っている。階伯将軍はキムユシンが攻めてきたとき、十分の一ぐらいの兵力で戦って戦死した。今でも百済、扶余の文化人は新羅に対抗意識を持っている。百済文化再発見運動を熱心にやっている。その一人、郷土史家、李夕湖氏は司馬遼太郎の『街道をゆく2 韓のくに紀行』(朝日新聞社)にも出てくる。
ここに紹介する万葉歌人の山上憶良、文官の鬼室集斯は百済の遺民(亡命者)で、二人とも近江を拠点に活躍した人物である。
2009年6月27日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」総集編
8回にわたり連載した「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」は今回は総集編です。一挙連載します。
2009年6月25日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」8
メソジストの伝道師、曾田嘉伊智(そだ・かいち)を紹介します。連載の最後では新たな人物を韓国人本外交官(現・大学教授)からの取材で知った人物である。
2009年6月24日
2009年6月23日
2009年6月19日
2009年6月18日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」4
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」4です。◆三・一独立運動と関東大震災の長文の力作です(編集局)。
2009年6月17日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」3:嶋村初吉
朝鮮の土となった日本人―浅川巧― 3回目です。以後は毎日連載します。ご期待ください。
2009年6月 9日
2009年6月 8日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」1
朝鮮の土となった日本人―浅川巧―
はじめに
朝鮮半島から日本へと、大規模な人の移動が起こったのは、弥生時代、百済滅亡後、秀吉の朝鮮侵略、植民地時代がピークとなる。それによって生まれた新しい産業、新しい文化が日本社会に刺激を与えた。日韓の歴史は、秀吉の朝鮮侵略、近代の植民地時代を除くと、古代より長い友好交流の歴史が続いた。それを、「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」として紹介していきたい。
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