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    <title>島村初吉の「ブログ」</title>
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    <title>日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～4:嶋村初吉</title>
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    <published>2009-11-13T02:12:03Z</published>
    <updated>2009-11-13T02:19:45Z</updated>

    <summary>　嶋村初吉さんの「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」は４回目です。 日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～ 　　　　　　　植民地時代の政略結婚 　　　　　　　　　　李...</summary>
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        <![CDATA[<p>　嶋村初吉さんの「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」は４回目です。</p>

<p>日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～</p>

<p>　　　　　　　植民地時代の政略結婚<br />
　　　　　　　　　　李王朝最後の皇太子、李垠と梨本宮方子</p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　嶋村初吉</p>

<p><br />
★李王世子と梨本宮方子妃の結婚<br />
梨本宮方子が１５歳、学習院中等科３年のとき、李王世子の妃殿下候補にあがり、新聞で大きく報道された。それは、垠殿下のご成婚を伝える記事で、垠殿下の写真と並んでいるのは、「まぎれもない私の写真」。方子は驚いてしまった。<br />
１９１８（大正７）年１２月５日、婚約が正式に勅許となり、同８日、納采（民間の結納）の儀がとどこうりなく完了。１２月１１日、鳥居坂御殿で方子女王は初めて王世子と対面。ときに王世子は満２１歳、方子女王は満１７歳であった。<br />
翌年、ご婚礼の儀が予定されていたが、１月２１日、京城から李太王が脳溢血で重体となったと特電が入り、さらには、治療の甲斐なく崩御された連絡が入った。<br />
崩御した李太王は殯殿に３０日間安置された後、李朝歴代の式典にのっとり、国葬の礼を行った。その間、万歳事件と名付けられた独立運動が起こった。そのきっかけは、李太王の死が毒殺という陰謀説だった。李太王は、日本の総督統治に不満を抱く民衆の苦衷を訴える密使をパリに送る計画を密かに進めていたが、それが日本側に発覚し、総督府の密命を受けた侍医の安商鎬が毒を盛ったといわれるが、真相は定かでない。しかし、毒殺説に朝鮮民衆は一斉に蜂起、「祖国朝鮮を日本の帝国主から解放しよう」「独立朝鮮万歳」と叫んだ。<br />
二人の出発は、はじめから困難に満ちたものとなった。<br />
１９２０（大正９）年４月２８日、晴れのご成婚の儀式の日。母宮は「あなたの重い使命を決してお忘れにならぬよう。また、梨本宮家の名を汚さぬようにつとめて、りっぱな妃殿下になってください。苦しいことも、きっと多いでしょうが...」<br />
日朝両国が固く結ばれあうためのくさびになる重い役目であることは、十分心得たつもりでも、現実にダイヤをちりばめた王冠の重みから、じかに受け取った勘当は、あらたな決意を固めさせたと方子は思った。<br />
方子妃は後で、殿下には閔閨秀という許婚者がいたことを知る。朝鮮のならわしでは、いったん許婚者となった人は、一生独身で終わらなければならないおきてがあることだった。なんとも、残酷な。方子は、申し訳ないと思わざるをえなかった。<br />
それともう一つ。婚礼の日に、方子妃の馬車に爆弾を投げ込もうとした未遂事件があったことだ。方子妃が生まれて、幼少時代を過ごした麹町３番町の家を建てた人が、閔妃殺害を計画し、指揮した三浦梧楼（駐韓特命全権公使）だったという朝鮮とつながる因縁めいたことがあった。<br />
<strong>（次回は１１月１５日です）</strong><br />
</p>]]>
        
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    <title>  「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」3：嶋村初吉</title>
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    <published>2009-11-08T15:19:51Z</published>
    <updated>2009-10-31T02:22:19Z</updated>

    <summary>李完用（イワンニョン、１８５８－１９２６） １９０５（明治３８）年、伊藤博文が保護条約を強要した際、学部大臣として閣議で率先して賛意を表し、条約調印を認めた。韓国併合のとき、総理大臣。日本の植民地化政...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>李完用（イワンニョン、１８５８－１９２６）</strong><br />
１９０５（明治３８）年、伊藤博文が保護条約を強要した際、学部大臣として閣議で率先して賛意を表し、条約調印を認めた。韓国併合のとき、総理大臣。日本の植民地化政策に迎合した親日派官僚。日本にとっては勲功の士であるが、韓国民衆からは李賊宗賊と呼ばれた。</p>

<p>１９１０（明治４３）年８月３１日夜、勅使となった式部官子爵、稲葉正縄が京城に到着。李王は正盛の上侍従卿を従え、昌徳宮仁政殿に至った、１１時、稲葉勅使は仁政殿の在来の王座で、寺内正毅統監列席のもと、天皇の、李王に封じるとの詔書、贈り物を呈し、冊封の式が終わった。</p>

<p><strong>★朝鮮王朝最後の王女、徳恵姫</strong><br />
近年、対馬では日韓交流史跡の顕彰碑をつくる運動が広がり、かつての植民地時代の負の遺産、朝鮮王朝最後の王女・徳恵姫（御母福寧堂）と、宗家の嫡男・武志（たけゆき）の強制結婚を記念した御成婚奉祝記念碑も復元された。</p>

<p>対馬市・厳原町にある金石城跡に復元された、その石碑には、次のように記されている。「１９３１年（昭和６）年、新婚の宗武志と徳恵姫はそろって対馬を訪れ、島民の盛んな歓迎を受けた。徳恵姫は１９１２年５月２５日生まれ、朝鮮王朝第２６代高宗の王女（翁主）である。この碑は結婚を祝って当時対馬に住む韓国（朝鮮）の人々によって建てられた。また清水山城には対馬の人々による慶祝のツツジ植栽の記念碑が遺されている。その結婚は２５年間にわたり、多くの困難にもかかわらず、一女正恵姫と共に信頼と愛情の絆で結ばれていた。</p>

<p>長女正恵が生まれた後、病気が再発、精神科の病院に入院。１９５５年やむなく離別に至った（武志公は、後に再婚）。成長した正恵は、明治大学を卒業後、学友と結婚したが、旅行先の山中で行方不明になった。徳恵姫は８５年、故国に帰国した後、楽善斎の一室で意識喪失のまま長く起居した。英親王の不幸の知らせに接しても、そのことさえ理解できなかったので、周囲の人たちは泣いた。姫の不治の病は、それほど意識喪失状態だったのである。徳恵姫は、１９８９年に逝去された。</p>

<p>話が前後するが、王世子の妹君、徳恵姫は、渡日したことで心身を病んだ。１９２５（大正１４）年春、日本に留学、上京したが、これは李王家の女性教育について心配した皇后の思いがきっかけとなった。当時１４歳の徳恵姫は、李太王の晩年の子で、種々の事情のため、初め王家の籍に入れる手続きが厄介であった。しかし、６歳のころ、この問題も解決し、李垠殿下の唯一人の妹となった。東京・鳥居坂の王世子御殿では、すでに語学、音楽などの家庭教師の人選も終わり、方子妃も、実の妹のように衣裳調度を調えて、上京を待った。</p>

<p>「日鮮融和のためにーとの美名のもとに、李王家の血に日本の血を混ぜることを意図した三つの結婚のうち、二つまでが悲劇ともいえる結末をむかえねばならなかったことに、尽きぬ恨みをおぼえずにはいられません」（李方子自叙伝写真集『流れのままに』明恵会）</p>

<p> <strong>次回は１１月１３日です。</strong></p>]]>
        
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    <title>　「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」３；嶋村初吉</title>
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    <published>2009-11-02T16:15:42Z</published>
    <updated>2009-10-31T02:18:22Z</updated>

    <summary> 日本にいては朝鮮の王族も、日本の皇族と同様に、男子は特別の身体の事情で陛下のお許しがある場合を除き、陸海軍いずれかの道を選ばなくてはならなかった。英親王は、近衛隊付に補せられた、陸軍で鍛えられ、昇進...</summary>
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        <![CDATA[<p> 日本にいては朝鮮の王族も、日本の皇族と同様に、男子は特別の身体の事情で陛下のお許しがある場合を除き、陸海軍いずれかの道を選ばなくてはならなかった。英親王は、近衛隊付に補せられた、陸軍で鍛えられ、昇進していく。</p>

<p>その間、伊藤は李垠殿下を伴って東北、北海道の各地を訪ねている。教育係りとして慕われた伊藤が、ロシアとの関係調整のために出掛けたハルピン駅頭で、義兵将・安重根の凶弾に落命する。１９０９（明治４２）年１０月２６日午前１０時。訃報を聞いた李垠殿下は、「伊藤公は実に誠実に世話してくれた。そして将来、私が勉学を終えて新しい知識を韓国に持ち帰り、故国に役立てることを期待して、そのような構想を考えておられたと思うが、その伊藤公が暗殺されたことは、韓国の運命を変えてしまったのではないかと思う。いたずらに軍国的な軍人総督によって、英国植民地政策の真似をしたようなことになって残念でならない」と晩年、方子妃に回顧している。</p>

<p>１９１７（大正６）年１２月２５日、李垠殿下は陸軍少尉に任官される。その翌日、彼はかつての伊藤博文の墓前に任官の報告をしている。</p>

<p><strong>安重根（アンジュングン、１８７９－１９１０）　</strong><br />
愛国烈士。黄海道・海州の名門両班の出身。幼いときから尚武的性格を持ち、甲午農民戦争では若干１６歳で父の安泰勲に従い農民軍鎮圧に加わった。１９０５年の乙巳保護条約を契機に民族運動に目覚め愛国啓蒙運動に参加した。１９０９年、ハルビン駅で同志とはかって伊藤博文を射殺した。彼はその場で逮捕され、翌年３月２６日処刑された。裁判では終始義勇兵であることを強調すうするとともに、鋭い舌鋒で東洋平和を乱したとして伊藤を非難した。　　　　　　　　　　　　　　　                                                                          　（『朝鮮人物事典』大和書房より）</p>

<p><strong>★韓国併合</strong><br />
英親王李垠殿下１２歳のとき、祖国の運命のときを迎えた。韓国併合である。<br />
寺内正毅統監と李完用総理の間で、併合条約の調印が行われた。</p>

<p><strong>韓国併合条約</strong><br />
<strong>第一条</strong>	韓国皇帝ハ、韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全カツ永久ニ日本国　皇帝陛下ニ譲与ス。<br />
<strong>第二条</strong>	日本国　皇帝陛下ハ、前条ニ掲ゲタル譲与ヲ受諾シ、且ツ全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス。<br />
<strong>第三条</strong>	日本国　皇帝陛下ハ、太皇帝陛下並ニ其后妃後裔ヲシテ、各其ノ地位ニ応ジ、相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ、且ツ之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スベキコトヲ約ス<br />
<strong>第四条</strong>	日本国　皇帝陛下ハ、前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ、各相当ノ名誉及ビ待遇ヲ享有セシメ、且ツ之ヲ維持スルニ必要ナル資金ヲ供与スルコトヲ約ス。<br />
<strong>第五条</strong>	　日本国　皇帝陛下ハ、勲功アル韓人ニシテ特ニ表彰ヲ為スヲ適当ナルト認メタルモノニ対シ、栄爵ヲ授ケ且ツ恩金ヲ与フベシ。<br />
　　　　　　（第六～八条は省略）<br />
 <strong> 次回は１１月９日です。</strong></p>]]>
        
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」２；嶋村初吉</title>
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    <published>2009-10-31T16:10:43Z</published>
    <updated>2009-10-31T02:12:10Z</updated>

    <summary>★李垠の波乱万丈の生涯　 英親王李垠殿下は、李朝２６代の国王だった高宗皇帝の第３王子として生まれた。高宗は１２歳で即位し、在位４３年の間に波乱曲折のドラマに遭遇する。父大院君と王妃閔妃の執政権争い、閔...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>★李垠の波乱万丈の生涯</strong>　<br />
英親王李垠殿下は、李朝２６代の国王だった高宗皇帝の第３王子として生まれた。高宗は１２歳で即位し、在位４３年の間に波乱曲折のドラマに遭遇する。父大院君と王妃閔妃の執政権争い、閔妃殺害、清露日の対立抗争、王宮内の陰謀と暗躍。高宗は命を狙われる危険な目にもあった。その渦中、１８９７（明治３０）年に李垠殿下は誕生された。</p>

<p>李垠殿下は１０歳のとき、日本に旅立ち、５６年間、異邦人として日本で生活し、病身のまま韓国に帰国し、亡くなった。運命に身を任せ、運命に忠実に生きた人で、政略結婚であったが、方子妃を心の底から愛し、日本人になり切ろうとした李王朝５００年最後の皇太子であった。</p>

<p>第２王子が皇帝の位に即いて、第２７代純宗となった年に、日韓協約が成立。朝鮮を日本の保護下に置く、布石が着々と打たれていた。韓太子、李垠殿下を日本で教育し、両国の親和に資せんとする画策が、伊藤博文によって進められた。その結果、１９０７（明治４０）年１２月、李垠殿下は日本留学の途に就いた。日本留学に反対する意見も多かったが、日本側に押し切られた。伊藤博文に伴われて来日するや、天皇に拝謁し、「今日わが皇太子、貴国に留学して隣邦の情誼ますます深し」との韓国皇帝の新書を奉呈した。英親王（李垠殿下）の取り扱いは。「万事、日本皇太子とご同様に」という方針に進んだ。伊藤博文は、殊の外、李垠殿下を愛し、李垠殿下もまた伊藤を親のように慕った。</p>

<p><strong>伊藤博文（１８４１－１９０９）</strong><br />
明治期日本の最有力政治家で、朝鮮植民地を推進した。長州藩の貧農に生まれ尊攘・倒幕運動に参加、維新ののち明治６年および１４年（１８７３・８１）の政変をへて薩長藩閥の中心的存在となり、１８８５年には初代の内閣総理大臣に就任する。第二次内閣のとき、日清戦争を遂行、日本側全権として下関条約を結び朝鮮への勢力拡大につとめた。日露戦争後、日本政府はイギリス・アメリカ・ロシアなどの列強の承認を得て朝鮮の保護国化を決定、特命全権大使に任命された伊藤は１９０５年１１月９日、保護条約の案文を持ってソウルに到着した。日本軍が演習をくりかえすなか国王に謁見した伊藤は、条約を拒否すれば朝鮮の将来は困難な境遇に陥るはずだと脅迫。条約の調印を強要した。</p>

<p>この保護条約（第二次日韓協約）によって、朝鮮の外交権は日本外務省に接収され、ソウルには韓国統監府が設置されるようになった。伊藤は初代統監となって１９０６年３月に着任、植民地支配のための基礎固めを推進する。　（『朝鮮人物事典』大和書房より）</p>

<p>京城（現ソウル）では、英親王李垠殿下がいなくなった修学院が廃止され、「一般世人慨歎せざるなし」と朝鮮の新聞は伝えた。<br />
李垠殿下は、明治天皇に可愛がられ、天皇から召されて度々、皇居に度々出入りした。異国の地で、淋しくされているのを憂慮しての行為だった。<br />
</p>]]>
        
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」1；嶋村初吉</title>
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    <published>2009-10-31T02:05:17Z</published>
    <updated>2009-10-31T02:07:40Z</updated>

    <summary>　好評連載の嶋村初吉さんの「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」を「植民地時代の政略結婚」と題してお送りします。８回連載で、最後に今回の連載全てまとめて掲載します(事務局)。 　　　...</summary>
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        <![CDATA[<p>　好評連載の嶋村初吉さんの「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」を「植民地時代の政略結婚」と題してお送りします。８回連載で、最後に今回の連載全てまとめて掲載します(事務局)。</p>

<p><br />
　　<strong>　植民地時代の政略結婚<br />
　　　　　　　　　　李王朝最後の皇太子、李垠と梨本宮方子</strong></p>

<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
★李王家に嫁いだ日本の皇族、梨本宮方子</strong><br />
韓国の李王朝最後の皇太子、英親王・李垠（イウン）殿下に嫁いだ日本の旧皇族、梨本宮家の方子（まさこ）妃（成婚後、李方子妃となる。梨本宮家は、昭和天皇の香淳皇后のいとこ筋にあたる）をご存知だろうか。韓国を植民地支配していた時代に、二人は政略結婚させられた。時代に翻弄させられながらも仲睦まじい生活を送り、戦後は韓国に戻って逝去。現在、ソウル郊外の南楊州市にある陵墓「英園」に眠っている。<br />
今年は方子さんの没後２０年にあたり、５月１０日行われた墓前祭は、ゆかりの人たちにとって思い出深い日となった。しかし、日本の皇族であり、韓国では慈善活動に尽された方子妃の存在は両国の人々の記憶から忘れ去られる、影の薄い存在となっている。<br />
　方子妃の略歴をひも解いてみた。</p>

<p>１９０１年　１１月４日、元日本国皇族、梨本宮守正王の第一王女として誕生<br />
１９２０年　４月２８日、勅命により韓国第２８代王世子（皇太子）、李垠殿下と成婚、李方子（イバンジャ）妃となる<br />
１９４５年　８月１５日、朝鮮解放独立、朝鮮半島の南半分が大韓民国となる<br />
１９４７年　臣籍降下し、在日韓国人となる<br />
１９６３年　１１月、朴正熙政権下、夫君垠殿下と共に韓国に帰国<br />
１９７０年　垠殿下、ソウルにおいて逝去。ソウル市鍾路に明暉園が発足<br />
１９７２年　水原（京畿道）に慈恵学校完成。ソウル特別市より文化章を受章<br />
１９７４年　明恵会館が完成<br />
１９７８年　大邱社会事業大学より名誉文学博士受位<br />
　　　　（途中、省略）<br />
１９８９年　８７歳で逝去</p>

<p>夫・李垠殿下の亡き後、障害者福祉活動に尽力し、日韓親善にも貢献された。方子妃の墓碑には、「懿愍（イビン）　皇太子妃」と表記されている。懿愍とは「一生いばらの道を歩まれた方」という意味である。<br />
来年、２０１０年は、日本が朝鮮半島の植民地化を完成させた日韓併合から１００年という大きな区切りの年にあたる。韓国の李明博大統領は、「両国関係の距離感をなくし、終止符を打つという意味」（２００９年９月１６日付、朝日新聞・朝刊）から、天皇訪韓を希望すると表明した。アジア重視を掲げる鳩山新政権とあわせて、韓国政府は対日関係を強固にしたいという期待感の表れといえよう。植民地時代に、日朝の懸け橋となった人たちがいた。日韓の皇族たちである。現在、歴史の風化にさらされている当時の政略結婚の話を紹介したい。<br />
</p>]]>
        
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」16；嶋村初吉</title>
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    <published>2009-08-13T15:00:08Z</published>
    <updated>2009-08-12T15:53:14Z</updated>

    <summary> 　　百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　嶋村初吉 北朝鮮の金錫亨（キムソクヒョン）という歴史学者が、日本には朝鮮半島から渡来人が移り住み、朝鮮の三...</summary>
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        <![CDATA[<p><br />
　　<strong>百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯</strong><br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<u>嶋村初吉</u></p>

<p><br />
北朝鮮の金錫亨（キムソクヒョン）という歴史学者が、日本には朝鮮半島から渡来人が移り住み、朝鮮の三国が覇権を競った分国だったという説を提唱して話題になったことがある。その説によると、弥生時代以降、朝鮮の渡来人が日本で分国を形成した。いうまでもなく、朝鮮が母国で、日本はその母国の分国。北九州の二つの大きな分国があり、吉備（現在の岡山）、出雲（島根）も分国だった。そのうち北九州の分国が大和に移り、これが分国を征服して統一王朝をつくる。５世紀ぐらいの話である。日本の歴史学者、考古学者は冷ややかな受け止め方をしたが、かつてない大きな構想に基づく説である。江上波夫氏の「騎馬民族国家」説のような壮大さを感じた。</p>

<p>１９７０年代、京都で在日の実業家、鄭詔文（チョンジョムン、高麗美術館の創始者）氏が雑誌『日本のなかの朝鮮文化』（季刊）を創刊し、それに在日朝鮮人作家、金達寿（キムタルス）が、その雑誌名を地でいく連載を始めた。ルーツを探る旅で、日本各地を歩き、関連書籍を跋渉して、朝鮮と関連する歴史を拾い集めていった。調べれば調べるほど、朝鮮と関わりのある事象に遭遇し、古代において日本と朝鮮は兄弟のような関係であることを明かしていった。鄭詔文氏の志に共鳴して、作家の司馬遼太郎をはじめ関西の文化人が編集委員に加わったり、執筆、対談に参加した。その一人、歴史学者の上田正昭・京都大学教授は１９６０年代後半に『帰化人』（中公新書）を出版して話題を呼んだ学者で、古代史の現場を歩くツアーで金達寿氏と競うように熱弁をふるい、古代史ファンの裾野を広げた。</p>

<p>古代史の面白さは、東アジアを舞台にした交流文化論にある。海を越えて、人、モノが移動し、相互に刺激し合った。その中から、地域連合国家、さらには国内を統一する勢力が誕生する。</p>

<p>７世紀の朝鮮半島。この時代、高句麗、百済、新羅の三国鼎立が崩れ、新羅が唐と組んで、半島の統一に向けて動き出す。６６０年、百済が新羅・唐の連合軍によって滅ぼされ、大量の遺民が倭国（日本）と渡った。倭国は百済の請を受けて援軍を送ったが、それも及ばなかった。</p>

<p>６６０年の白村江の戦いについて、概略したい。井上秀雄著『古代朝鮮』（日本放送出版協会）を参考にした。</p>

<p>６月１８日、唐は水陸１３万の大軍を動員して、山東半島の莱州（現在の山東省掖県）を出発。新羅軍は５月２６日、太宗武烈王自身が５万の水軍を率いて出陣。新羅軍は７月９日、黄山之原（現在の忠清南道論山郡連山面）で、唐の水軍は白江（現在の錦江の中流、扶余邑付近の別称）の伎伐浦で、それぞれ百済軍を破った。同月１２日から百済の王都、サビ（いまの扶余）城を攻撃した。百済の義慈王はいったん旧都、熊津城にのがれたが、同１８日には皇太子らとともに新羅・唐連合軍に降って、百済は滅亡した。</p>

<p>百済の滅亡後、王族の福信（ポクシン、武王の甥）や日本に派遣されていた王子豊璋らが、高句麗や大和朝廷の支援を受けて、６６４年まで執拗に新羅・唐連合軍と戦っている。</p>

<p>６６０年に、唐と新羅の連合軍が結成されたとき、平壌以南を新羅、以北をそれぞれ領有することにしていたが、これは表向きの約束で、唐は朝鮮全土を植民地にしようとする基本的な政策を掲げていた。唐は新羅軍を使って百済・高句麗を滅亡させただけではなく、新羅の軍事力を消耗させるため、苛酷な戦闘を強要し、少しでも約束が違うと、その間の事情を無視して責任だけを追及した。また、新羅の軍功は唐から無視されていた。<br />
新羅はついに対唐戦争に立ち上がり、朝鮮半島からその勢力を一掃し、６７６年から新羅滅亡の９３５年までの、およそ２６０年間、統一政権を保った。この時期の新羅は三国時代のそれとは政治的、社会的、文化的にも大きな変化があり、今日の朝鮮民族を形成する時代となった。</p>

<p>一方、倭国は、新羅・唐の連合軍が攻め寄せてくることを予想して、防備を固める。いわゆる朝鮮式山城を金田城（対馬）、四王寺山（太宰府）、基肄城（基山町）を築いたが、それを技術的に指導したのは百済の遺民であった。当時、日本は中大兄皇子が支配権を握った天智朝で、天皇は百済の遺民を西日本一帯に移植させ、山野を開墾させた。<br />
『続日本紀』のは飛鳥の地域（高市郡あたり）は渡来人が８、９割を占めるほどと書いている。彼らのような、かなり高い朝鮮文化をもった集団が密集して、飛鳥のような文化の中心地帯をつくりあげた。なぜ、飛鳥を都に選んだのか。やはり渡来人たちが故郷を意識したのではないか。故郷に似たところ。百済の都、扶余は飛鳥によく似ている。大和三山のような三山が扶余にはある。盆地のなかの低い山である。そこに錦江戸（白馬江）という大きな川が流れている。百済の遺民たちは大和に来て、三山など山河を見て、望郷の思いを深くしたに違いない。大和を日本人の心のふるさととよく言うが、古代、そこに住んでいたのは百済人とか新羅人だった。心のふるさととは扶余や新羅の都、慶州とか指しているともいえる。</p>

<p>飛鳥文化に最も影響を与えたのは高句麗、百済、新羅の３国のうちで、どこの国の色彩が濃いかといえば、百済といえる。日本が一番親しかったのは百済である。仏教文化が日本に来たのは、百済を通してだった。例えば石舞台のある島の宮を作ったのは百済の路子工（みちこのたくみ）といわれる。百済からは大工、陶工、金工、織物工など、たくさんの技能者が渡ってきた。</p>

<p>ここで、百済と新羅の比較をしたい。ソウルには百済を滅ぼしたときの新羅の将軍、キムユシンの銅像が、扶余には階伯（ケベク）将軍の銅像がそれぞれ建っている。階伯将軍はキムユシンが攻めてきたとき、十分の一ぐらいの兵力で戦って戦死した。今でも百済、扶余の文化人は新羅に対抗意識を持っている。百済文化再発見運動を熱心にやっている。その一人、郷土史家、李夕湖氏は司馬遼太郎の『街道をゆく２　韓のくに紀行』（朝日新聞社）にも出てくる。</p>

<p>ここに紹介する万葉歌人の山上憶良、文官の鬼室集斯は百済の遺民（亡命者）で、二人とも近江を拠点に活躍した人物である。</p>

<p><strong>★山上憶良</strong><br />
山上憶良を百済の渡来人と最初にいったのは、万葉学者の中西進氏である。現在、学会でも広く知られているが、その説によると、こうである。<br />
百済から天智期に渡来し、近江朝に仕え、天武の侍臣にもなった医師、憶仁（おくに）が憶良の父であったとする。憶良は百済の都、扶余で６６０年に生まれ、百済王朝滅亡により４歳のときに父親に連れられて、日本に亡命渡来し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口町あたりに住んだとしている。</p>

<p>憶良が移住した甲賀の地は、それより８０年ほど前、日本に仏教が公伝されたとき、<br />
その功労者の一人として、「百済より来る鹿深臣（かふかのおみ）、名字をもらせり。弥勒（みろく）の石像一躯有（たま）てり」（『日本書記』より）とあるように、百済渡来豪族、鹿深氏（甲賀氏）の居住地であったといわれる。</p>

<p>敏達紀に、百済から鹿深臣がもってきた弥勒は石像だったと書いている。現在、残っていないが。</p>

<p>憶仁は６８６（朱鳥元）年５月に死亡した。彼は専門技術をもっていたが、正当な評価を受けないまま、下積み生活を余儀なくされた。父親を失ったとき、憶良は２７歳だったが、彼も無位、無姓の下級役であった。ここに、渡来人の悲哀をみる。憶良は４１歳まで経典を写す仕事に従事したと推測されている。</p>

<p>ところが、憶良が栄達を遂げる好機が到来するのである。遣唐使である。彼は、書記官の最下席を与えられた。４２歳の７０１（大宝元）年正月、遣唐少録となり、翌年、遣唐使粟田真人らに従って唐の都、長安に渡った。長年の文筆生活が役立ったというべきだろう。遣唐使は生死を賭けた旅路となった。無事、帰国すれば出世は間違いない。憶良は、その賭に勝った。以後、順風の道を歩み、臣という姓をもらい、位も従五位下に昇進した。５７歳のとき伯耆（いまの鳥取県）の長官になり、帰京後は東宮に。さらにその後には聖武天皇の教育係の一人にもなった。６７歳のとき筑前の国（現、福岡県）の長官にも任命され、大伴旅人らと筑紫歌壇を形成した。憶良が優れた歌人としての地位を確立したのは九州時代である。万葉集には長歌１１首、短歌５２首、旋頭歌１首、ほかに漢詩、漢文を残している。</p>

<p>歌人、憶良の特徴について、歌人の木俣修氏は『万葉集　時代と作品』（日本放送出版協会）の中で、次のように指摘している。</p>

<p>「憶良は短歌よりもむしろ長歌を得意としている。内容的にいえば、自然の歌はわずか三首だで、他はもっぱら人事に関するものばかりである。しかし相聞の歌は全くなくて、子供に対する深い愛情を歌ったものが眼立っている。また病苦・貧窮・老死などの暗黒面を歌い、人生の問題や社会の問題に深く入っているところにその特徴が見られる」<br />
憶良の代表的な歌を幾つ紹介する。</p>

<p>・憶良らは今は罷らむ子泣くらんその彼（か）の母も吾を待つらむぞ<br />
・銀（しろがね）も金（くがね）も玉も何せむに勝（まさ）れる宝子に及（し）かめやも<br />
・世間（よのなか）を憂（う）しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば</p>

<p>筑前から帰京した憶良は病の苦しみ、貧乏にも苦しめられる。７３３（天平５）年、病床に伏す憶良を、親友藤原八束が、見舞いの使者として河辺朝臣東人を使いにやった。そのとき、憶良がことばにした和歌が、次のようなものである。</p>

<p>士（をのこ）やも空しくあるべき万代（よろづよ）に<br />
語りつぐべき名は立てずして</p>

<p>意味するところは、「男子たるもの、空しく朽ちはててはいけない。万代の後までも語り継がれるような名声も立てずに」という内容で、憶良のそれまでの生涯７４年間を集約したような一首であった。「空しさに抵抗しつつ、いま病床にある身に絶望しつつ、なお士への志を捨てなかったところに、憶良の生涯の暗示がある。この一首は辞世と自覚したものではないが、暗示的な一首をのこして、憶良はほどなく没したと思われる」（中西進『辞世のことば』中公新書）。</p>

<p><strong>★近江の石塔寺と朝鮮渡来人</strong><br />
朝鮮半島から日本に最初に来た渡来人の大集団は、弥生時代にみられる。記録上では新羅の王子、天日槍（あめのひぼこ）とされる。ヒメコソノミコトを追って、若狭湾に上陸し、西日本を彷徨して最後は、但馬に落ち着いた王族である。<br />
近江には、百済からの渡来人が多く住んでいた。『日本書記』には、「（百済からの渡来人を）男女七百余人を遷して近江の国蒲生の郡におき」とある。蒲生郡は近江でも屈指の渡来人の里だった。白村江の戦いで滅んだ百済の遺民たちが移り住んだ。自らの優れた技術を発揮して、故国への思いを刻んだ。</p>

<p>例えば、石塔。蒲生町に石塔寺にある、わが国最古の石塔、三重石塔も、その一つ。司馬遼太郎に、「ぬっと立っている巨石の建造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの具象化された姿がそこの立っているようである」（『歴史を紀行する』文春文庫より）といわせた。この三重石塔は、天智天皇が都を開いた近江朝の時代、７世紀後半にできたと推定されている。この時代、石材を使った建造物はなく、百済の渡来人の造形したものとして知られる。なぜならば、この塔は花崗岩でできているからだ。凝灰岩を使っている日本の塔とは異なる。構造的にも、百済の古都、扶余に残っている塔とそっくりなのである。</p>

<p>寺伝によると、石塔寺はもともと本願成就寺といい、聖徳太子が近江に建立した四十八カ寺の最後のお寺だった。ところが、三重石塔ができたことから、七堂伽藍を再建して石塔寺と名付けたという。１００６（寛弘３）年のことである。</p>

<p>司馬遼太郎は「近江商人を創った血の秘密」（『歴史を紀行する』（文春文庫所載）のなかで、この石塔を見て、次のように想起している。</p>

<p>「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについて、私は生涯わすれることができないだろう。頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである」</p>

<p>「塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江帰化人の一大記念碑であるがごとくであり、帰化人たちの居住区宣言であるような気もする」</p>

<p><strong>★近江商人</strong><br />
近江商人は、朝鮮渡来人の血を引いているといわれる。菅野和太郎著『近江商人の研究』には、次のようにある。</p>

<p>「商人的素質をもつ高麗の帰化人が中部（蒲生郡、坂田郡、愛知郡、犬上郡、野洲郡）に移住し、本国の制度でならって市（いち）を開設したが、後に延暦寺（叡山）と結んで市の専売権を確立し、商権を拡張して一大飛躍をとげた。この訓練をうけた住民は、農民、武士よりの転向組に加え、全国の行商行脚に力をのばした」</p>

<p>近江商人は阪神で成功して芦屋をひらき、今日の高級住宅街のはしりとなった。伊勢商人も、もともとは近江商人が基となった。戦国武将、蒲生氏郷が根拠地の近江日野から伊勢１２万石に転封となり、これに伴い日野商人がごっそりと伊勢に移住した。伊勢商人として大成した三井氏は、もとは近江蒲生郡の地侍、三井越後守高安である。彼は武士から商人に転じた一人である。近江商人の結束力は堅く、奉公人は近江から呼び集め、さらには丁稚を育てるために地元で寄宿舎訓練を行っている。また、屋敷の女中にも近江の女性を雇った。聡く、上品で、律儀だというのが富商たちの評価であった。</p>

<p>ここで帰化人の「帰化」という意味を確認しておきたい。１９６０年代、上田正昭・京都大学教授が『帰化人』（中公新書）を刊行したとき、一部批判の声があがった。帰化という意味には、徳を慕って服属するという意味があるからだ。古代、朝鮮渡来人は祖国を離れざるを得ない事情が生じて、日本に渡ってきた人たちであり、何も日本を慕ってきたわけではない。現代、帰化とは外国籍の人が日本国籍を取得することをいう。国籍取得を古代にもってきても、当時、国という意識が未成熟であったから、帰化という言葉は疑問である。やはり、朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人を「渡来人」と規定した方が相応しい。<br />
それはともかく、上田氏は、同著のまえがきで、こう記している。</p>

<p>「日本へきた人々ならびにその後裔たちは、あるいは役人となり、あるいは農民や手工業者となって、古代日本のなりたちに少なからぬ影響をあたえていた。飛鳥文化や天平文化の背景には、彼らのもたらした新技術や新知識が渦巻いており、いわゆる『帰化人』の力は、古代日本人の生活におおきなはたらきをおよぼしている。もっと端的に表現するなら、日本古代国家の形成それ自体が、これら渡来者たちの母国の動向と付加いいつながりをもっていたのである」</p>

<p><strong>★鬼室集斯</strong><br />
鬼室集斯については、『日本書記』第二十七天命開別天皇（あめみことひらかすわけのすめらみこと）　天智天皇の項に、次のようにある。</p>

<p>この歳（天智天皇４年）、小錦中河内直鯨（かわちのあたいくじら）らを遣わして大唐（もろこし）に使させた。また、佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江国の蒲生郡に移住させた。<br />
　<br />
この月に、大錦下を、佐平余自信・沙宅紹明（法官大輔＝のりのつかさのおおきすけ＝、のちの式部大輔に相当）に授けた。小錦下を鬼室集斯（学職頭＝ふみのつかさのかみ＝、のちの大学頭に相当）に授けた。</p>

<p>学職頭は、律令制では大学寮の長官をあたる。現代でいえば、文部科学大臣兼大学総長をイメージできる。百済からの亡命者でこれだけの高い位階を与えられたのは異例である。百済王朝で、行政の中をになった亡命者たちは、法制、学術、兵法、医薬など幅広い分野で活躍した。</p>

<p>鬼室集斯については、司馬遼太郎も書いている。東大阪市に住む司馬は、在日韓国・朝鮮人と付き合いが深く、鄭詔文、貴文（キムン）兄弟が創刊した『日本のなかの朝鮮文化』に関わったし、この雑誌を通して在日朝鮮人作家、金達寿と歴史討論もしている。鬼室集斯は『街道をゆく２　韓のくに紀行』（朝日新聞社）に出てくる。１９７２年正月２日、京都にきた司馬は名古屋から車を飛ばしてきた友人の頼んで、蒲生郡日野町を訪ねる。<br />
その探訪記を、『街道をゆく』から抜粋する。</p>

<p>（１）なにしろ鬼室集斯は百済王族だし、それに佐平余自信という王族も一緒にきており、朝廷としてはかれらを優遇したかったにちがいない。<br />
なぜならば鬼室集斯がこの国にやってきたとき、天智朝廷は、「天智紀」の記述のごとく、</p>

<p>「佐平福信ノ功ヲ以テ、鬼室集斯ニ小錦下（せうきむげのくらゐ）ヲ授ク」<br />
として、大層な位階をあたえているのである。小錦下とは、のちの従五位下に相当する。<br />
さらに天智天皇のとき、まだ制度は粗笨ながら（建物もあったのかどうか）はじめて大学寮が設けられており、百済から逃れてきた鬼室集斯はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである。</p>

<p>（２）この小野こそ蒲生野を拓いた百済人の最初の根拠地だったにちがいないが、しかし家数はかぞえるほどしかなく、どの農家も千年の伝統を感じさせるような風格があって、ゆゆしげにみえた。</p>

<p>たまたま私は、「蒲生郡桜谷奥津保小野村」という明治三十年代の村の地図をもっていた。その地図（とはいっても風景図だが）によると、</p>

<p>「朝鮮坊山」</p>

<p>という山の名も見える。村は谷間をひらいて耕地にしたもので、まだ山中から流れ落ちて初々しい蒲生川が流れている。その川のそばの崖に小さな森があり、田のあぜを通ってその森までゆくと、百坪足らずの境内にささやかな祠が建っていた。鬼室神社である。</p>

<p>（３）神体は七十糎（センチ）程度の石の杭である。八角形をなし、コケシ人形のようにくびにくびれがある。石は朝鮮産のものだというが、よくわからない。<br />
　江戸期の中期、江戸の儒者で村井古厳という人が文献でこの村を知り、わざわざ訪ねてきて調べたところ、</p>

<p>「これは日本古来の墳墓ではなく、儒礼による墳墓である。この石は墳碑ではなく、犠牲（にえ）をつなぐ形状をなしている」</p>

<p>と断定したらしいが、それは正しいであろう。</p>

<p>　村井古厳がきたあと、文化年間になると江戸や京、あるいは地元の儒者の来訪が一時さかんになったらしく、文化二年、西生懐忠という儒医がこの風化した石に水をそそぎ、苔をはらい、苦心のすえ、刻文をさぐり、ついに</p>

<p>　　　　　右　庶孫美成造<br />
正面　鬼室集斯墓<br />
　　　　左　朱鳥三年戊子十一年八日歿</p>

<p>という文字を読み下した。</p>

<p>　その後文化六年四月十二日、当時このあたりを飛地領としておさめていた宮津藩主松平伯耆守が「わが領内に尊き学士の遺跡あるは家の面目なり」としてこの墓前で盛大な祭典を催し、漢学者をあつめて鬼室集斯をまつる漢文の会を催している。白村江を血で染めて百済が滅んでから千百四十六年目のことであり、亡国の王民の霊たちはこの日、ようやく慰められたかとおもわれる。<br />
　<br />
天智天皇が崩御し、壬申の乱で大海人皇子が即位して天武天皇となると、都も本家帰りして、飛鳥へと移った。天智天皇の側についていた鬼室集斯は、この権力闘争に巻き込まれるのを避けて、近江に留まり、日野の小野集落に隠棲した。死後、鬼室集斯を祀る神社ができ、「室徒株」という鬼室の家系の者が輪番で祭事を行っている。</p>

<p>日野町は１９９０年、韓国忠清南道・扶余郡恩山面と姉妹都市提携を行った。恩山面には鬼室集斯の父、福信を祀る祠（恩山別神堂）があり、日野には集斯の墓があることが提携の契機となった。</p>

<p><strong>★『日本書記』は古代の日韓交流史</strong><br />
『日本書記』には、朝鮮半島、中国との往来がいかに盛んだったかが、その記述の頻度の多さから分かる。それには、朝鮮、中国の史書からふんだんに引用している背景がある。朝鮮の史書としては、『百済記』『百済新撰』『百済本記』があげられる。</p>

<p>最近、加唐島（かからじま、佐賀県唐津市鎮西町）は、百済の武寧王（ムリョンワン）が生誕した島として、名護屋城博物館とともに日韓交流を担っている。</p>

<p>武寧王生誕の記事は、『日本書記』雄略天皇の項に記載されている。韓国・慶北大学教授が、武寧王墓誌の解析を通して『百済記』『百済遺事』よりも、『日本書記』の方が信憑性が高いという経過を論文に書いて発表したところから、一気に見直しが進んだ。『日本書記』には、次のように記されている。</p>

<p><br />
六月の丙戊（ひのえいぬ）の朔に、身籠った婦が、はたして加須利君（かすりのきみ、コウロ王）の言ったように、筑紫の各羅嶋（かからのしま）で子を生んだ。そこで、この子を名づけて嶋君（せまきし）といった。ここに、軍君（こにきし）は、ただちに婦と同じ船で、嶋君を国に送った。これが武寧王である。百済人は、この嶋をよんで主嶋（にりむせま）といった。</p>

<p>軍君は加須利君（こうろ王）に、「おまえは、日本に行って天皇にお仕えしろ」といわれ、それに従った。渡日するにあたり、こうろ王の婦（みめ）を賜るようにお願いしたところ、こうろ王は妊娠した婦を娶らせた。</p>

<p>６８９年施行の浄御原令（きよみはらりょう）で、国の名前が倭国から日本と変わった。朝鮮、中国と関わることで、自分たちを相対的に見て、認識を変えていった。倭国、日本は孤立した島国ではなかった。人とモノは、列島の南北からも西からも絶えず流入してきた。それを受け止めながら国家形成に貢献した朝鮮渡来人の役割は大きかった。もちろん、地域によって渡来文化定着の度合いに濃淡はあるが、両者が融合・発展して、新たな日本文化を築きあげたのである。『日本書記』には、その痕跡が記されている。<br />
　<br />
</p>]]>
        
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」1５：嶋村初吉</title>
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    <published>2009-08-12T15:40:21Z</published>
    <updated>2009-08-12T15:44:52Z</updated>

    <summary> 「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」７ ★『日本書記』は古代の日韓交流史 『日本書記』には、朝鮮半島、中国との往来がいかに盛んだったかが、その記述の頻度の多さから分かる。それには、朝鮮、中国の史書から...</summary>
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        <![CDATA[<p><br />
<strong>「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」７</strong></p>

<p><strong>★『日本書記』は古代の日韓交流史</strong><br />
『日本書記』には、朝鮮半島、中国との往来がいかに盛んだったかが、その記述の頻度の多さから分かる。それには、朝鮮、中国の史書からふんだんに引用している背景がある。朝鮮の史書としては、『百済記』『百済新撰』『百済本記』があげられる。<br />
最近、加唐島（かからじま、佐賀県唐津市鎮西町）は、百済の武寧王（ムリョンワン）が生誕した島として、名護屋城博物館とともに日韓交流を担っている。<br />
武寧王生誕の記事は、『日本書記』雄略天皇の項に記載されている。韓国・慶北大学教授が、武寧王墓誌の解析を通して『百済記』『百済遺事』よりも、『日本書記』の方が信憑性が高いという経過を論文に書いて発表したところから、一気に見直しが進んだ。『日本書記』には、次のように記されている。</p>

<p>六月の丙戊（ひのえいぬ）の朔に、身籠った婦が、はたして加須利君（かすりのきみ、コウロ王）の言ったように、筑紫の各羅嶋（かからのしま）で子を生んだ。そこで、この子を名づけて嶋君（せまきし）といった。ここに、軍君（こにきし）は、ただちに婦と同じ船で、嶋君を国に送った。これが武寧王である。百済人は、この嶋をよんで主嶋（にりむせま）といった。</p>

<p>軍君は加須利君（こうろ王）に、「おまえは、日本に行って天皇にお仕えしろ」といわれ、それに従った。渡日するにあたり、こうろ王の婦（みめ）を賜るようにお願いしたところ、こうろ王は妊娠した婦を娶らせた。</p>

<p>６８９年施行の浄御原令（きよみはらりょう）で、国の名前が倭国から日本と変わった。朝鮮、中国と関わることで、自分たちを相対的に見て、認識を変えていった。倭国、日本は孤立した島国ではなかった。人とモノは、列島の南北からも西からも絶えず流入してきた。それを受け止めながら国家形成に貢献した朝鮮渡来人の役割は大きかった。もちろん、地域によって渡来文化定着の度合いに濃淡はあるが、両者が融合・発展して、新たな日本文化を築きあげたのである。『日本書記』には、その痕跡が記されている。<br />
<strong>（次回は総集編です）</strong></p>]]>
        
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」14：嶋村初吉</title>
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    <published>2009-07-29T15:00:25Z</published>
    <updated>2009-07-29T14:08:09Z</updated>

    <summary> 「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」6 ★鬼室集斯 鬼室集斯については、『日本書記』第二十七天命開別天皇（あめみことひらかすわけのすめらみこと）　天智天皇の項に、次のようにある。 この歳（天智天皇４年...</summary>
    <author>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/shimamura/">
        <![CDATA[<p><br />
<strong>「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」6</strong></p>

<p><strong>★鬼室集斯</strong></p>

<p>鬼室集斯については、『日本書記』第二十七天命開別天皇（あめみことひらかすわけのすめらみこと）　天智天皇の項に、次のようにある。</p>

<p>この歳（天智天皇４年）、小錦中河内直鯨（かわちのあたいくじら）らを遣わして大唐（もろこし）に使させた。また、佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江国の蒲生郡に移住させた。<br />
　<br />
この月に、大錦下を、佐平余自信・沙宅紹明（法官大輔＝のりのつかさのおおきすけ＝、のちの式部大輔に相当）に授けた。小錦下を鬼室集斯（学職頭＝ふみのつかさのかみ＝、のちの大学頭に相当）に授けた。</p>

<p>学職頭は、律令制では大学寮の長官をあたる。現代でいえば、文部科学大臣兼大学総長をイメージできる。百済からの亡命者でこれだけの高い位階を与えられたのは異例である。百済王朝で、行政の中をになった亡命者たちは、法制、学術、兵法、医薬など幅広い分野で活躍した。<br />
鬼室集斯については、司馬遼太郎も書いている。東大阪市に住む司馬は、在日韓国・朝鮮人と付き合いが深く、鄭詔文、貴文（キムン）兄弟が創刊した『日本のなかの朝鮮文化』に関わったし、この雑誌を通して在日朝鮮人作家、金達寿と歴史討論もしている。鬼室集斯は『街道をゆく２　韓のくに紀行』（朝日新聞社）に出てくる。１９７２年正月２日、京都にきた司馬は名古屋から車を飛ばしてきた友人の頼んで、蒲生郡日野町を訪ねる。<br />
その探訪記を、『街道をゆく』から抜粋する。</p>

<p>（１）なにしろ鬼室集斯は百済王族だし、それに佐平余自信という王族も一緒にきており、朝廷としてはかれらを優遇したかったにちがいない。<br />
なぜならば鬼室集斯がこの国にやってきたとき、天智朝廷は、「天智紀」の記述のごとく、<br />
「佐平福信ノ功ヲ以テ、鬼室集斯ニ小錦下（せうきむげのくらゐ）ヲ授ク」<br />
として、大層な位階をあたえているのである。小錦下とは、のちの従五位下に相当する。<br />
さらに天智天皇のとき、まだ制度は粗笨ながら（建物もあったのかどうか）はじめて大学寮が設けられており、百済から逃れてきた鬼室集斯はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである。</p>

<p>（２）この小野こそ蒲生野を拓いた百済人の最初の根拠地だったにちがいないが、しかし家数はかぞえるほどしかなく、どの農家も千年の伝統を感じさせるような風格があって、ゆゆしげにみえた。<br />
たまたま私は、「蒲生郡桜谷奥津保小野村」という明治三十年代の村の地図をもっていた。その地図（とはいっても風景図だが）によると、<br />
「朝鮮坊山」<br />
という山の名も見える。村は谷間をひらいて耕地にしたもので、まだ山中から流れ落ちて初々しい蒲生川が流れている。その川のそばの崖に小さな森があり、田のあぜを通ってその森までゆくと、百坪足らずの境内にささやかな祠が建っていた。鬼室神社である。</p>

<p>（３）神体は七十糎（センチ）程度の石の杭である。八角形をなし、コケシ人形のようにくびにくびれがある。石は朝鮮産のものだというが、よくわからない。<br />
　江戸期の中期、江戸の儒者で村井古厳という人が文献でこの村を知り、わざわざ訪ねてきて調べたところ、<br />
「これは日本古来の墳墓ではなく、儒礼による墳墓である。この石は墳碑ではなく、犠牲（にえ）をつなぐ形状をなしている」<br />
と断定したらしいが、それは正しいであろう。<br />
　村井古厳がきたあと、文化年間になると江戸や京、あるいは地元の儒者の来訪が一時さかんになったらしく、文化二年、西生懐忠という儒医がこの風化した石に水をそそぎ、苔をはらい、苦心のすえ、刻文をさぐり、ついに</p>

<p>　　　　　右　庶孫美成造<br />
正面　鬼室集斯墓<br />
　　　　左　朱鳥三年戊子十一年八日歿</p>

<p>という文字を読み下した。</p>

<p>　その後文化六年四月十二日、当時このあたりを飛地領としておさめていた宮津藩主松平伯耆守が「わが領内に尊き学士の遺跡あるは家の面目なり」としてこの墓前で盛大な祭典を催し、漢学者をあつめて鬼室集斯をまつる漢文の会を催している。白村江を血で染めて百済が滅んでから千百四十六年目のことであり、亡国の王民の霊たちはこの日、ようやく慰められたかとおもわれる。<br />
　<br />
 天智天皇が崩御し、壬申の乱で大海人皇子が即位して天武天皇となると、都も本家帰りして、飛鳥へと移った。天智天皇の側についていた鬼室集斯は、この権力闘争に巻き込まれるのを避けて、近江に留まり、日野の小野集落に隠棲した。死後、鬼室集斯を祀る神社ができ、「室徒株」という鬼室の家系の者が輪番で祭事を行っている。</p>

<p> 日野町は１９９０年、韓国忠清南道・扶余郡恩山面と姉妹都市提携を行った。恩山面には鬼室集斯の父、福信を祀る祠（恩山別神堂）があり、日野には集斯の墓があることが提携の契機となった。</p>]]>
        
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」13：嶋村初吉</title>
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    <published>2009-07-29T12:35:07Z</published>
    <updated>2009-07-29T13:42:44Z</updated>

    <summary>「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」5 ★近江商人  江商人は、朝鮮渡来人の血を引いているといわれる。菅野和太郎著『近江商人の研究』には、次のようにある。 「商人的素質をもつ高麗の帰化人が中部（蒲生郡、...</summary>
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        <![CDATA[<p>「<strong>百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」5</strong></p>

<p><strong>★近江商人</strong></p>

<p> 江商人は、朝鮮渡来人の血を引いているといわれる。菅野和太郎著『近江商人の研究』には、次のようにある。</p>

<p>「商人的素質をもつ高麗の帰化人が中部（蒲生郡、坂田郡、愛知郡、犬上郡、野洲郡）に移住し、本国の制度でならって市（いち）を開設したが、後に延暦寺（叡山）と結んで市の専売権を確立し、商権を拡張して一大飛躍をとげた。この訓練をうけた住民は、農民、武士よりの転向組に加え、全国の行商行脚に力をのばした」</p>

<p> 江商人は阪神で成功して芦屋をひらき、今日の高級住宅街のはしりとなった。伊勢商人も、もともとは近江商人が基となった。戦国武将、蒲生氏郷が根拠地の近江日野から伊勢１２万石に転封となり、これに伴い日野商人がごっそりと伊勢に移住した。伊勢商人として大成した三井氏は、もとは近江蒲生郡の地侍、三井越後守高安である。彼は武士から商人に転じた一人である。近江商人の結束力は堅く、奉公人は近江から呼び集め、さらには丁稚を育てるために地元で寄宿舎訓練を行っている。また、屋敷の女中にも近江の女性を雇った。聡く、上品で、律儀だというのが富商たちの評価であった。</p>

<p> こで帰化人の「帰化」という意味を確認しておきたい。１９６０年代、上田正昭・京都大学教授が『帰化人』（中公新書）を刊行したとき、一部批判の声があがった。帰化という意味には、徳を慕って服属するという意味があるからだ。古代、朝鮮渡来人は祖国を離れざるを得ない事情が生じて、日本に渡ってきた人たちであり、何も日本を慕ってきたわけではない。現代、帰化とは外国籍の人が日本国籍を取得することをいう。国籍取得を古代にもってきても、当時、国という意識が未成熟であったから、帰化という言葉は疑問である。やはり、朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人を「渡来人」と規定した方が相応しい。<br />
それはともかく、上田氏は、同著のまえがきで、こう記している。</p>

<p>「日本へきた人々ならびにその後裔たちは、あるいは役人となり、あるいは農民や手工業者となって、古代日本のなりたちに少なからぬ影響をあたえていた。飛鳥文化や天平文化の背景には、彼らのもたらした新技術や新知識が渦巻いており、いわゆる『帰化人』の力は、古代日本人の生活におおきなはたらきをおよぼしている。もっと端的に表現するなら、日本古代国家の形成それ自体が、これら渡来者たちの母国の動向と付加いいつながりをもっていたのである」</p>]]>
        
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」12：嶋村初吉</title>
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    <published>2009-07-25T15:04:57Z</published>
    <updated>2009-07-25T15:13:02Z</updated>

    <summary>「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」4 ★近江の石塔寺と朝鮮渡来人 朝鮮半島から日本に最初に来た渡来人の大集団は、弥生時代にみられる。記録上では新羅の王子、天日槍（あめのひぼこ）とされる。ヒメコソノミコ...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」4</strong></p>

<p><br />
<strong>★近江の石塔寺と朝鮮渡来人</strong><br />
朝鮮半島から日本に最初に来た渡来人の大集団は、弥生時代にみられる。記録上では新羅の王子、天日槍（あめのひぼこ）とされる。ヒメコソノミコトを追って、若狭湾に上陸し、西日本を彷徨して最後は、但馬に落ち着いた王族である。<br />
近江には、百済からの渡来人が多く住んでいた。『日本書記』には、「（百済からの渡来人を）男女七百余人を遷して近江の国蒲生の郡におき」とある。蒲生郡は近江でも屈指の渡来人の里だった。白村江の戦いで滅んだ百済の遺民たちが移り住んだ。自らの優れた技術を発揮して、故国への思いを刻んだ。<br />
例えば、石塔。蒲生町に石塔寺にある、わが国最古の石塔、三重石塔も、その一つ。司馬遼太郎に、「ぬっと立っている巨石の建造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの具象化された姿がそこの立っているようである」（『歴史を紀行する』文春文庫より）といわせた。この三重石塔は、天智天皇が都を開いた近江朝の時代、７世紀後半にできたと推定されている。この時代、石材を使った建造物はなく、百済の渡来人の造形したものとして知られる。なぜならば、この塔は花崗岩でできているからだ。凝灰岩を使っている日本の塔とは異なる。構造的にも、百済の古都、扶余に残っている塔とそっくりなのである。<br />
寺伝によると、石塔寺はもともと本願成就寺といい、聖徳太子が近江に建立した四十八カ寺の最後のお寺だった。ところが、三重石塔ができたことから、七堂伽藍を再建して石塔寺と名付けたという。１００６（寛弘３）年のことである。<br />
司馬遼太郎は「近江商人を創った血の秘密」（『歴史を紀行する』（文春文庫所載）のなかで、この石塔を見て、次のように想起している。<br />
「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについて、私は生涯わすれることができないだろう。頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである」<br />
「塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江帰化人の一大記念碑であるがごとくであり、帰化人たちの居住区宣言であるような気もする」</p>

<p></p>

<p><br />
</p>]]>
        
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」11：嶋村初吉</title>
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    <published>2009-07-24T00:28:13Z</published>
    <updated>2009-07-24T00:32:31Z</updated>

    <summary> 「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」3 ★山上憶良 山上憶良を百済の渡来人と最初にいったのは、万葉学者の中西進氏である。現在、学会でも広く知られているが、その説によると、こうである。  百済から天智期...</summary>
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        <![CDATA[<p><br />
<strong>「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」3</strong></p>

<p><strong>★山上憶良</strong><br />
山上憶良を百済の渡来人と最初にいったのは、万葉学者の中西進氏である。現在、学会でも広く知られているが、その説によると、こうである。</p>

<p> 百済から天智期に渡来し、近江朝に仕え、天武の侍臣にもなった医師、憶仁（おくに）が憶良の父であったとする。憶良は百済の都、扶余で６６０年に生まれ、百済王朝滅亡により４歳のときに父親に連れられて、日本に亡命渡来し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口町あたりに住んだとしている。</p>

<p> 憶良が移住した甲賀の地は、それより８０年ほど前、日本に仏教が公伝されたとき、<br />
その功労者の一人として、「百済より来る鹿深臣（かふかのおみ）、名字をもらせり。弥勒（みろく）の石像一躯有（たま）てり」（『日本書記』より）とあるように、百済渡来豪族、鹿深氏（甲賀氏）の居住地であったといわれる。</p>

<p><br />
 敏達紀に、百済から鹿深臣がもってきた弥勒は石像だったと書いている。現在、残っていないが。</p>

<p> 憶仁は６８６（朱鳥元）年５月に死亡した。彼は専門技術をもっていたが、正当な評価を受けないまま、下積み生活を余儀なくされた。父親を失ったとき、憶良は２７歳だったが、彼も無位、無姓の下級役であった。ここに、渡来人の悲哀をみる。憶良は４１歳まで経典を写す仕事に従事したと推測されている。</p>

<p> ところが、憶良が栄達を遂げる好機が到来するのである。遣唐使である。彼は、書記官の最下席を与えられた。４２歳の７０１（大宝元）年正月、遣唐少録となり、翌年、遣唐使粟田真人らに従って唐の都、長安に渡った。長年の文筆生活が役立ったというべきだろう。遣唐使は生死を賭けた旅路となった。無事、帰国すれば出世は間違いない。憶良は、その賭に勝った。以後、順風の道を歩み、臣という姓をもらい、位も従五位下に昇進した。５７歳のとき伯耆（いまの鳥取県）の長官になり、帰京後は東宮に。さらにその後には聖武天皇の教育係の一人にもなった。６７歳のとき筑前の国（現、福岡県）の長官にも任命され、大伴旅人らと筑紫歌壇を形成した。憶良が優れた歌人としての地位を確立したのは九州時代である。万葉集には長歌１１首、短歌５２首、旋頭歌１首、ほかに漢詩、漢文を残している。</p>

<p> 歌人、憶良の特徴について、歌人の木俣修氏は『万葉集　時代と作品』（日本放送出版協会）の中で、次のように指摘している。</p>

<p>「憶良は短歌よりもむしろ長歌を得意としている。内容的にいえば、自然の歌はわずか三首だで、他はもっぱら人事に関するものばかりである。しかし相聞の歌は全くなくて、子供に対する深い愛情を歌ったものが眼立っている。また病苦・貧窮・老死などの暗黒面を歌い、人生の問題や社会の問題に深く入っているところにその特徴が見られる」<br />
憶良の代表的な歌を幾つ紹介する。</p>

<p>・憶良らは今は罷らむ子泣くらんその彼（か）の母も吾を待つらむぞ<br />
・銀（しろがね）も金（くがね）も玉も何せむに勝（まさ）れる宝子に及（し）かめや　　も<br />
・世間（よのなか）を憂（う）しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば</p>

<p> 筑前から帰京した憶良は病の苦しみ、貧乏にも苦しめられる。７３３（天平５）年、病床に伏す憶良を、親友藤原八束が、見舞いの使者として河辺朝臣東人を使いにやった。そのとき、憶良がことばにした和歌が、次のようなものである。</p>

<p> 士（をのこ）やも空しくあるべき万代（よろづよ）に <br />
 語りつぐべき名は立てずして</p>

<p> 意味するところは、「男子たるもの、空しく朽ちはててはいけない。万代の後までも語り継がれるような名声も立てずに」という内容で、憶良のそれまでの生涯７４年間を集約したような一首であった。「空しさに抵抗しつつ、いま病床にある身に絶望しつつ、なお士への志を捨てなかったところに、憶良の生涯の暗示がある。この一首は辞世と自覚したものではないが、暗示的な一首をのこして、憶良はほどなく没したと思われる」（中西進『辞世のことば』中公新書）。<br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>  「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」10：嶋村初吉</title>
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    <published>2009-07-23T04:40:20Z</published>
    <updated>2009-07-23T04:45:44Z</updated>

    <summary> 「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」2   百済の滅亡後、王族の福信（ポクシン、武王の甥）や日本に派遣されていた王子豊璋らが、高句麗や大和朝廷の支援を受けて、６６４年まで執拗に新羅・唐連合軍と戦ってい...</summary>
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        <![CDATA[<p> <strong>「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」2</strong></p>

<p><br />
  百済の滅亡後、王族の福信（ポクシン、武王の甥）や日本に派遣されていた王子豊璋らが、高句麗や大和朝廷の支援を受けて、６６４年まで執拗に新羅・唐連合軍と戦っている。</p>

<p> ６６０年に、唐と新羅の連合軍が結成されたとき、平壌以南を新羅、以北をそれぞれ領有することにしていたが、これは表向きの約束で、唐は朝鮮全土を植民地にしようとする基本的な政策を掲げていた。唐は新羅軍を使って百済・高句麗を滅亡させただけではなく、新羅の軍事力を消耗させるため、苛酷な戦闘を強要し、少しでも約束が違うと、その間の事情を無視して責任だけを追及した。また、新羅の軍功は唐から無視されていた。<br />
新羅はついに対唐戦争に立ち上がり、朝鮮半島からその勢力を一掃し、６７６年から新羅滅亡の９３５年までの、およそ２６０年間、統一政権を保った。この時期の新羅は三国時代のそれとは政治的、社会的、文化的にも大きな変化があり、今日の朝鮮民族を形成する時代となった。</p>

<p> 一方、倭国は、新羅・唐の連合軍が攻め寄せてくることを予想して、防備を固める。いわゆる朝鮮式山城を金田城（対馬）、四王寺山（太宰府）、基肄城（基山町）を築いたが、それを技術的に指導したのは百済の遺民であった。当時、日本は中大兄皇子が支配権を握った天智朝で、天皇は百済の遺民を西日本一帯に移植させ、山野を開墾させた。<br />
『続日本紀』のは飛鳥の地域（高市郡あたり）は渡来人が８、９割を占めるほどと書いている。彼らのような、かなり高い朝鮮文化をもった集団が密集して、飛鳥のような文化の中心地帯をつくりあげた。なぜ、飛鳥を都に選んだのか。やはり渡来人たちが故郷を意識したのではないか。故郷に似たところ。百済の都、扶余は飛鳥によく似ている。大和三山のような三山が扶余にはある。盆地のなかの低い山である。そこに錦江戸（白馬江）という大きな川が流れている。百済の遺民たちは大和に来て、三山など山河を見て、望郷の思いを深くしたに違いない。大和を日本人の心のふるさととよく言うが、古代、そこに住んでいたのは百済人とか新羅人だった。心のふるさととは扶余や新羅の都、慶州とか指しているともいえる。</p>

<p> 飛鳥文化に最も影響を与えたのは高句麗、百済、新羅の３国のうちで、どこの国の色彩が濃いかといえば、百済といえる。日本が一番親しかったのは百済である。仏教文化が日本に来たのは、百済を通してだった。例えば石舞台のある島の宮を作ったのは百済の路子工（みちこのたくみ）といわれる。百済からは大工、陶工、金工、織物工など、たくさんの技能者が渡ってきた。</p>

<p><br />
 ここで、百済と新羅の比較をしたい。ソウルには百済を滅ぼしたときの新羅の将軍、キムユシンの銅像が、扶余には階伯（ケベク）将軍の銅像がそれぞれ建っている。階伯将軍はキムユシンが攻めてきたとき、十分の一ぐらいの兵力で戦って戦死した。今でも百済、扶余の文化人は新羅に対抗意識を持っている。百済文化再発見運動を熱心にやっている。その一人、郷土史家、李夕湖氏は司馬遼太郎の『街道をゆく２　韓のくに紀行』（朝日新聞社）にも出てくる。</p>

<p> ここに紹介する万葉歌人の山上憶良、文官の鬼室集斯は百済の遺民（亡命者）で、二人とも近江を拠点に活躍した人物である。</p>

<p><br />
</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」９：嶋村初吉</title>
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    <published>2009-07-15T05:49:24Z</published>
    <updated>2009-07-15T05:55:48Z</updated>

    <summary> 6月８日から２５日にかけ８回にわたり連載した嶋村初吉さん（ジャーナリスト）の「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」の第２弾は「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」です。通し番号で９回目...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/shimamura/">
        <![CDATA[<p> 6月８日から２５日にかけ８回にわたり連載した嶋村初吉さん（ジャーナリスト）の「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」の第２弾は「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」です。通し番号で９回目からスタートになります。８回連載の予定です。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　<strong>「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」</strong></p>

<p>　北朝鮮の金錫亨（キムソクヒョン）という歴史学者が、日本には朝鮮半島から渡来人が移り住み、朝鮮の三国が覇権を競った分国だったという説を提唱して話題になったことがある。その説によると、弥生時代以降、朝鮮の渡来人が日本で分国を形成した。いうまでもなく、朝鮮が母国で、日本はその母国の分国。北九州の二つの大きな分国があり、吉備（現在の岡山）、出雲（島根）も分国だった。そのうち北九州の分国が大和に移り、これが分国を征服して統一王朝をつくる。５世紀ぐらいの話である。日本の歴史学者、考古学者は冷ややかな受け止め方をしたが、かつてない大きな構想に基づく説である。江上波夫氏の「騎馬民族国家」説のような壮大さを感じた。</p>

<p>　１９７０年代、京都で在日の実業家、鄭詔文（チョンジョムン、高麗美術館の創始者）氏が雑誌『日本のなかの朝鮮文化』（季刊）を創刊し、それに在日朝鮮人作家、金達寿（キムタルス）が、その雑誌名を地でいく連載を始めた。ルーツを探る旅で、日本各地を歩き、関連書籍を跋渉して、朝鮮と関連する歴史を拾い集めていった。調べれば調べるほど、朝鮮と関わりのある事象に遭遇し、古代において日本と朝鮮は兄弟のような関係であることを明かしていった。鄭詔文氏の志に共鳴して、作家の司馬遼太郎をはじめ関西の文化人が編集委員に加わったり、執筆、対談に参加した。その一人、歴史学者の上田正昭・京都大学教授は１９６０年代後半に『帰化人』（中公新書）を出版して話題を呼んだ学者で、古代史の現場を歩くツアーで金達寿氏と競うように熱弁をふるい、古代史ファンの裾野を広げた。</p>

<p>　古代史の面白さは、東アジアを舞台にした交流文化論にある。海を越えて、人、モノが移動し、相互に刺激し合った。その中から、地域連合国家、さらには国内を統一する勢力が誕生する。</p>

<p>　７世紀の朝鮮半島。この時代、高句麗、百済、新羅の三国鼎立が崩れ、新羅が唐と組んで、半島の統一に向けて動き出す。６６０年、百済が新羅・唐の連合軍によって滅ぼされ、大量の遺民が倭国（日本）と渡った。倭国は百済の請を受けて援軍を送ったが、それも及ばなかった。<br />
６６０年の白村江の戦いについて、概略したい。井上秀雄著『古代朝鮮』（日本放送出版協会）を参考にした。</p>

<p>　６月１８日、唐は水陸１３万の大軍を動員して、山東半島の莱州（現在の山東省掖県）を出発。新羅軍は５月２６日、太宗武烈王自身が５万の水軍を率いて出陣。新羅軍は７月９日、黄山之原（現在の忠清南道論山郡連山面）で、唐の水軍は白江（現在の錦江の中流、扶余邑付近の別称）の伎伐浦で、それぞれ百済軍を破った。同月１２日から百済の王都、サビ（いまの扶余）城を攻撃した。百済の義慈王はいったん旧都、熊津城にのがれたが、同１８日には皇太子らとともに新羅・唐連合軍に降って、百済は滅亡した。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」総集編</title>
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    <published>2009-06-26T15:24:20Z</published>
    <updated>2009-06-22T15:30:36Z</updated>

    <summary>　８回にわたり連載した「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」は今回は総集編です。一挙連載します。...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/shimamura/">
        <![CDATA[<p>　８回にわたり連載した「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」は今回は総集編です。一挙連載します。</p>]]>
        <![CDATA[<p>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」<br />
　　　　　<br />
　　朝鮮の土となった日本人―浅川巧―<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
はじめに<br />
朝鮮半島から日本へと、大規模な人の移動が起こったのは、弥生時代、百済滅亡後、秀吉の朝鮮侵略、植民地時代がピークとなる。それによって生まれた新しい産業、新しい文化が日本社会に刺激を与えた。日韓の歴史は、秀吉の朝鮮侵略、近代の植民地時代を除くと、古代より長い友好交流の歴史が続いた。それを、「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」として紹介していきたい。</p>

<p>◆</strong>朝鮮の土となった日本人</strong><br />
秋田県に劇団「わらび座」がある。その代表、是永幹夫氏が今春、福岡市に来られたとき、映画「白磁の人」の話を聞いた。この映画は、江宮隆之氏が書いた同名の小説（河出書房新書）をもとに、神山征二郎監督がメガホンをとって制作されるというのである。小説は、山梨県高根町（旧北巨摩郡甲村）出身の浅川巧（たくみ）を主人公にした物語である。浅川巧は、日本が植民地支配していた朝鮮に渡った人で、朝鮮総督府林業試験場に勤め、林業技師として朝鮮の緑化に尽した。朝鮮語を取得して、朝鮮文化を愛し、兄の伯教（のりたか）とともに朝鮮の陶磁器、工芸品に朝鮮民族の美を見出し、民芸運動家の柳宗悦も巻き込みながら、日韓の懸け橋になった人である。以前、高崎宗司著『朝鮮の土となった日本人―浅川巧の生涯』（草風館、１９８２年刊）を読んで、浅川巧を知っていたことから、映画制作には興味が湧いた。映画制作には推進本部を組織。日韓の代表に長坂紘司氏＝（株）小泉社長＝と崔季煥氏を据えて、今年９月の完成に向けて制作が進んでいる。制作・配給はシネカノン、脚本は荒井晴彦氏が担当している。そのようなことを、是永氏から聞いた。<br />
昨秋、東京の友人が山梨県高根町を訪れ、浅川巧・伯教兄弟資料館を見学したときに入手したパンフレットをわざわざ送ってくれた。表紙には「朝鮮の山と民芸を愛し、朝鮮人を愛した弟」巧、「朝鮮の陶磁史の研究にその生涯を捧げた兄」伯教、と書かれていた。館内には、二人の著書や、植民地時代の韓国で二人が触れた韓国の様子、伯教の長女牧枝氏、次女の美恵子氏らが寄贈した資料、韓国陶芸界の巨匠といわれる池順鐸（チスンテク）、柳海剛（ユヘガン）両氏の寄贈品などが並ぶ。<br />
「池順鐸は、伯教の通訳兼案内役として窯跡調査に同行、陶芸の道に進んだ。柳海剛は、伯教と交友、陶芸の道に励んだ。共に高麗青磁、李朝白磁の再現に努め、多くの名作を残した。特に池順鐸は『私の今日あるは、浅川伯教先生のお陰です』と言い残している」（同館のパンフレットより）。<br />
浅川兄弟を通じて、高根町は「日韓友好親善の情報発信基地」でありたいと、韓国ゆかりの地との交流を進めている。</p>

<p>植民地時代、朝鮮の芸術に憧れた伯教は一家をあげて朝鮮に渡り、京城（現、ソウル）で尋常小学校教員になる。弟の巧も、兄を頼って京城に移住し、朝鮮総督府林業試験場に勤務する。兄弟が生活を送った朝鮮に、どんなドラマがあったのか。その足跡を追った。</p>

<p><strong>◆浅川巧（１８９１－１９３１）とは</strong><br />
朝鮮林業試験場技手、朝鮮工芸研究家。１９１４年、朝鮮陶磁研究家の兄、伯教（のりたか）を頼って朝鮮に渡った。朝鮮林業試験場に勤務して、養苗に従事し、『樹苗要請指針、第一号』などを書いた。１９２４年には柳宗悦とはかって、京城に朝鮮民族美術館を設置した。その後『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』を著した。（中略）ソウルにある浅川の墓は、今も朝鮮人によって守られている。　　　　　　　（『朝鮮人物事典』大和書房より）</p>

<p>浅川巧の生まれた家は農業兼紺屋を営んでいた。巧の誕生半年前に父の如作は３１歳という若さで病死していた。巧には７歳年上の兄、伯教、４歳年上の姉、栄がおり、母親のけいが亡夫の後を女手ひとつで守った。巧は、二人の祖父から感化を受けた。<br />
そのうちの独り、父方の祖父、小尾伝右衛門は農業を生業する傍ら、俳句をたしなんだ。連句は達者だったといわれる。村の世話役で、事件が起こると頼まれて行っては事件を片付けてくる。結婚のことから、夫婦喧嘩の仲裁、若い男女の駆け落ちまで、面倒をみた。働いて暇があれば読書に精を出し、眠りにつく前に、その日の出来事を俳句にまとめた。</p>

<p>「敬愛する祖父よ、生まれし時すでに、父の亡かりし私は、あなたの慈愛と感化とを多分に受けしことを思う。清貧に安んじ、働くことの悦び、郷党を導くに温情を以てし、村事に当つて公平無私なりしその生涯は追慕するだに嬉し」</p>

<p>生まれる前に父を亡くしていた巧は、祖父の愛情を受けて育ち、影響を受けた。<br />
「お爺さんの性質を最もよく受けて居るものは弟であった。年を拾ふに従つて益々お爺さんに似てきた」と兄の伯教は言っている。</p>

<p>浅川巧は、兄の伯教を頼って朝鮮に渡り、朝鮮総督府林業試験場に勤めるかたわら、陶磁器を通じて朝鮮の美の素晴らしさを伝えた。朝鮮語を習得した彼は、普段、朝鮮人と同じ服を着て過ごし、朝鮮の家庭料理を好んで食べた。彼と交わる朝鮮人は、偏見のない彼の心根に感動し、４１歳で亡くなるまで親しく接した。巧を朝鮮に呼び寄せた兄の伯教（のりたか）は教師を勤めながら、朝鮮各地の窯跡を探訪して、その復元にも取り組んだ。兄弟二人の活動は、哲学者であり民芸運動の指導者である柳宗悦の共感を呼び、朝鮮民族美術館運動に発展した。</p>

<p>浅川伯教・巧兄弟と深い付き合いのあった宗教哲学者で、民芸運動の指導者、柳宗悦は、巧の人柄を次のように語る。</p>

<p>「私は色々の人に廻り逢ったが、彼位い自分を殺すことの出来る人はなかった。そうしてその事程彼を活かしたものもなかった。大体人間は二様に分かれる傾きがある。どこ迄も自我を守って了う人といつまでも自分を棄てる事の出来る人とである。浅川は後者の典型的な人であった。不思議にもそれが浅川を素晴らしい人間に活かした。彼の徳望は此性格から湧き出たと思える。彼は実に謙譲だった。之が彼の存在を荘厳なものに変えた。少しも自分を傷めることなく自分を殺し得た彼には、不思議な力があった」（「挿絵小註」『工芸』第４０号より）</p>

<p>１９１３年５月、兄の浅川伯教が京城に居を構え、翌１９１４年５月、巧が朝鮮へ向かった。当時、在朝日本人は約２９万人。韓国併合から４年しか経っていなかった。</p>

<p>浅川伯教は京城で小学校教員をしながら、暇を見つけては骨董屋に出入りし、朝鮮陶磁器を蒐集していた。ある道具屋の前で、白い壺と出会った。穏やかに膨らんだ丸い壺に心ひかれ、店に入り、買って帰った。「高麗の青磁は過去の冷たい美しさだがこの白磁は現在の私の血に通ふ生きた友である。これには間違いない。私の眼が開けたのだ、よいものを見た」。こう伯教は小躍りした。これが日本人と李朝白磁との最初の出会いとなった。伯教は、白磁を携え、千葉県・我孫子の柳宗悦を訪ねた。手土産として差し出した「面取染付秋草文壺」に、柳宗悦はうなった。「まるで小さな貴婦人のようだ」。柳宗悦も、この白磁を通して朝鮮の美にのめりこんでいく。<br />
浅川伯教は後に、教員を辞め、朝鮮陶磁の窯場を調査して廻り、その成果を柳の雑誌に次々と書き、朝鮮陶磁器の歴史を日本に伝えていく。</p>

<p><strong>◆朝鮮を愛し、朝鮮通の巧</strong><br />
浅川巧の話に戻る。巧は職務上では林業試験場の雇員であった。２２年８月以降、亡くなる日まで判任官の技師で終わった。巧は出世することを望んでなかった。</p>

<p>「試験所で働く朝鮮人雇員の給料は、巧が考えていた額よりはるかに安かった。巧の給料でさえ当時の日本人中学校教師の初任給程度であったが、それでも朝鮮人雇員と比べたら大きな差があって、巧自身びっくりした。しかも巧には『外地手当』という名目で他の日本人職員同様に、給料の六割増しの手当が支給されていた。<br />
浅川巧は今までもこの『外地手当』を朝鮮人雇員の子供たちに『お年玉』や『旧盆のお小遣い』として与えていた（以下、省略）」（小説『白磁の人』より）</p>

<p>浅川巧は養苗の仕事が根から好きだった。巧は朝鮮人の人夫を連れて山林をよく歩いた。軍用材や坑木などの需要があがったため、朝鮮の国有林を手に入れた日本の山林資本家は山林の伐採を続けた。これが朝鮮の山を禿山にした一因ともなった。巧は朝鮮赤松の養苗法を考案した。「松かさの大きさ、松の実の多く採れる種類で、それまでは２年間育苗する必要のあったものを１年間に短縮する技術を開発した」。<br />
浅川巧は、林業試験場に入るに先立って、朝鮮語を学び始めた。書架に『朝鮮語の先生』あった。生活も朝鮮人のそれを取り入れた。キムチを好み、「朝鮮の漬物という論文も書いたほどだ。</p>

<p>「巧の家は官舎である。煉瓦造りの同じ形の建物が３棟並んでいる。その右端の家だ。そこにはいつも朝鮮人の、巧の友人が遊びに来た。税務署の吏員、妓生（キーセン）たちとその元締、尼寺の尼さんたちもいた。家の周りには貴木（ケヤキ）がたくさん植えてある。その官舎には時々、物売りがやってくる。」（江宮隆之著、小説『白磁の人』より）</p>

<p>「巧さんが、ビビンパブと云う朝鮮のゴモク飯を、実に手器用に美味しく造られた。私は今だにその美味しさが、桔梗の根と共に忘れられずにゐる」と友人は回想する。</p>

<p>朝鮮の山を愛して、朝鮮全国を歩いた。造林の生き字引といわれた。クリスチャンの巧は、しっかりした哲学をもって歩いた。<br />
「昼は林業試験場の仕事をし、休日を利用しては窯跡を歩いた。他に木工芸の美を見つけるという、一人三役以上もの毎日であった。原稿は主に夜書いた」（小説『白磁の人』より）</p>

<p>「『結局山林を自然法に帰せ、それより道はないのだ』、そう結論してゐたのを今も私は覚えてゐる。『神のものは神に帰せ』と云う聖書の句など思い出され、結局科学も宗教も工芸も道は一つなんだと云ふことを話し合ったことがある」（柳宗悦）</p>

<p>「巧さんは朝鮮通でね。（中略）お兄さんよか巧さんのほうが、朝鮮語をよく勉強なすってたと思います。朝鮮人と間違えられるくらい。見たとこが朝鮮人みたいなんです。終始白い服着て歩いてらしたから。（中略）あの方はほんとに朝鮮人でした」（柳宗悦の妻、兼子）</p>

<p><strong>◆三・一独立運動と関東大震災</strong><br />
植民地時代の朝鮮は、どんな社会となっていたか。<br />
１９１９年３月１日、朝鮮で独立運動が勃発した。朝鮮の人々の日本と総督府への不満が遂に爆発し、三・一運動は延々と１年間各地で続いた。犠牲者は３月１日から６月１日までの僅か３カ月間に、死者７５００人、負傷者１万６０００人、検挙者４万７０００人にのぼった。<br />
柳宗悦は「朝鮮人を想う」と題した文を読売新聞に寄稿した。「吾々の国が正しい人道を踏んでゐない」「独立が彼等の理想となるのは必然の結果であろう」<br />
三・一独立運動の後、日本政府は「文化政治」に転換し、朝鮮人に譲歩した政策をとり始めた。地方政治への参加を認め、朝鮮語新聞の発行を許可するなど、親日勢力の育成を通して支配の安定化を図った。１９１８年、米騒動にみられる日本の食糧危機を打開するため、朝鮮で米の増産を図り、日本に移入しようとした。<br />
浅川巧とともに、朝鮮服、パジ・チョゴリを着て教会に通った赤羽王郎は、ソウルの中央高等普通学校の教諭であった。日本語と美術を教え、生徒から「チョク（赤）先生」と慕われた。その彼が、２年間で教諭生活を投げ出し、帰国した。その理由は、こうだ。</p>

<p>「辞任の理由は、教育が行き詰まったからである。目にあまる日本人の横暴に耐えている生徒に<参ってはいけない、立派な行為をもって日本人に勝ち抜け！>とはいえなかった。トルストイの無抵抗主義を口にすることは、現地人の懐柔策として誤解されるおそれがあった。生徒に慕われれば慕われるほど、統治政策下にある学校生活は、心の重荷になった」</p>

<p>関東大震災で、朝鮮人が虐殺された。「不逞鮮人が放火した」「井戸に毒を投げ込んだ」とかデマが広まり、朝鮮人を探し出しては、殺した。<br />
このことを京城（ソウル）で聞いた、浅川巧は次のような思いを抱く。</p>

<p>「一体日本人は朝鮮人を人間扱いしない悪い癖がある。朝鮮人に対する理解が乏しすぎる」<br />
「自分は彼等の前に朝鮮人の弁護をするために行き度い気が切にする」</p>

<p>浅川巧は、朝鮮人の生活を豊かにすることを考え、朝鮮人と交わった。仏教に「陰徳陽報」という言葉があるが、まさに巧はそれを地でいった人であった。収入の大半は貧しい朝鮮人の為に費やされえた、彼は貧しくて進学できない学生に貢いで、彼らを卒業させた。自分の貧乏を知らないかのようであった。</p>

<p>「朝鮮服を着て居たので本府の玄関で巡査にとがめられた。一寸いやな気がした」（１９２２年１月１３日の巧の日記より）</p>

<p>浅川巧は、柳宗悦を通して白樺派の作家、武者小路実篤を知り、彼の「新しい村」に親近感を持った。新しい村の出発点は、「非暴力」の理念に根ざしていた。ヒューマニズムの立場から実篤は１９１８年１１月、宮崎県木城町の山間部に村を創設し、思想に共鳴する同志たちと共同生活を始めた。村を見下ろす峠にいまも実篤の文学碑が建つ。<br />
「山と山とが讃嘆し合うように人間と人間が讃嘆しあいたいものだ」<br />
新しい村の京城支部の会員となった巧は日記（１９２２年）に、こう記した。<br />
「武者よく云ふいまによくなる、ここ二、三年の辛抱だと云ふ様のことは考へて居てしならんことだ。人生の意義は行つた先きにあるのでなく行く途中にある。道程の一歩一歩が成就であり到達である」（８月１４日）<br />
「実際武者さんには会ひ度い気がしてゐる。そして色々聞いたり思つてゐること云つて見度い気がしてゐる」（８月２１日）</p>

<p>浅川巧らは、朝鮮趣味を語る会（のちの朝鮮工芸会）をつくった。１９２８年ごろである。<br />
「只数人の金にも名声にも縁のない善良な小市民が集って朝鮮を愛し、朝鮮人を愛し、殊に朝鮮の工芸に興味をもち、専ら其美を発掘し、内地に迄弘めて柳宗悦君等の民芸運動と、互に親しみ合ったグループであり、カマを持たぬ陶芸家（伯教）であり、銀行員（土井）あり、セロをひいたり、彫刻をしたりする靴屋（渡部）あり、先生（浜口）ありと云った風で、中心もなく分派もない会であった」（京城帝国大学教授、上野直昭の文より）</p>

<p>このグループには朝鮮人はいなかった。無邪気な、楽しい趣味の会といえばそれまでだが、朝鮮人の目からすれば、植民地支配の現実をみないという批判的な視線を浴びる会であったことは否めない。</p>

<p>植民地時代、京城で朝鮮人のようにして生活した浅川巧にも、限界があった。それは、独立運動についてである。当時の朝鮮人にとって、最も関心のある問題だったが、これについて、巧は論及していない。巧と共に、林業試験場で働いた金二万（キムイーマン）氏は、次のように言う。<br />
「独立運動に対する関心はなかったと思う。浅川氏自身は中学程度の学校しか出られず、非常に貧しく生きてきたので、韓国人労働者や同僚たちを暖かく世話をしたのではないかと思うが、独立運動に対して、深い理解があったとは思われない」</p>

<p>浅川伯教・巧兄弟は、柳宗悦を朝鮮の美の世界に導いた。<br />
「朝鮮人にとっては、小泉八雲の日本人におけるような人だと口にしておられました。<br />
そしてこの人なしにはこの民族博物館はできないと、もらしておられました」<br />
このようのに柳自身、自分を李朝陶磁器の美に導いてくれたのは浅川伯教・巧兄弟であったと繰り返し強調している。</p>

<p><strong>◆白は悲哀の色か</strong><br />
柳宗悦は、自分がこれまで朝鮮の美を見つめ、感じ、考察した見方から白の色に触れて、<br />
「朝鮮人が白色を好むのは、白に悲哀を見ているからで、この国の白色とは悲哀の美である」「悲哀に満ちた民族である」と美術雑誌『民芸』に書いた。この意見に伯教、巧も首を傾げた。釈然としないものがあったからだ。「むしろ、この国の人は根っから楽天的ではないのか」。二人はそう思った。<br />
「そして祭礼用の祭器もほとんど白磁であった。それは、神聖さと簡素とを旨とする用器に、清浄無垢な色として『白』を選んだことになる。そこに李朝の人々の心のありようを見てとれるし、今の朝鮮民族の心に根底から存在するものではないだろうか」<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（小説『白磁の人』より）<br />
柳宗悦と浅川兄弟の見解は対照的だった。柳は朝鮮の美にひかれながらも、朝鮮で生活をしたことがなかった。浅川兄弟は朝鮮・京城に住んで、朝鮮の人と交わり、朝鮮の文化に親しんでいたことが大きかった。白色についての見解は、この差によっていたと思われる。<br />
　ただし、朝鮮の伝統的な「恨」の心から、柳の「哀の白」説に共鳴する人もいる。朝鮮は厳しい階級社会。両班（ヤンバン）、中人、常人、賤民という身分制の桎梏が、民衆に大きくのしかかった。一握りの両班が牛耳る社会。「春香伝」には、善と悪を象徴する両班が登場し、その間で天国と地獄を見た妓生の生き様に、一喜一憂させられる。安東の仮面劇は両班を痛烈に皮肉ったもの。民衆は、「恨」の心を芸術に昇華させている。白磁の「白」も、その一つではないか。<br />
　このような見解に、うなってしまった。柳宗悦の見解は、時代を反映した、時代にとらわれたものではなかった。朝鮮の伝統的な民衆史観に立脚していたものなのか。<br />
確かに、柳の朝鮮を見詰める眼差しは、情熱的であり、深い。</p>

<p>「私は二三の朝鮮美術史に詳しい人々を知っている。私はいつもそれ等の人々の知識を尊敬するが、同時にそれ等の人々が作者たる民族に対して冷淡なのに驚かされる。その研究は全く自己の研究を満足させるのが為の努力であって、朝鮮の価値を守護し簡明しようとする希願ではあらぬ」　　　　　　　　　　（柳宗悦の「序『朝鮮とその芸術』」より）</p>

<p>「日本の古美術は朝鮮に恩を受けたのである。法隆寺や奈良の博物館を訪う人はその事実を熟知している。吾々が今国宝として海外に誇るものは殆ど支那と朝鮮との恩寵を受けないものはないであろう。然るに今日の日本は少なくとも酬いるのに固有な朝鮮芸術の破壊も以てしたのである」　　　　　　　　　　　　　　（柳宗悦『朝鮮人を想う』より）</p>

<p><strong>◆柳宗悦（１８８９－１９６１）とは</strong><br />
宗教哲学者で、朝鮮美術工芸研究家。民芸運動の創始者として知られている。１９１６年、はじめて朝鮮を旅行して、その美術に驚嘆し、以後、約２０回朝鮮を訪問した。朝鮮美術への思慕をつづった文章に「石仏寺の彫刻について」「朝鮮の美術」「失はれんとする一朝鮮建築のために」などがある。一国の人情を理解しようとするなら、その芸術を訪ねるのが最もいい、というのが彼の信条であった。１９２４年、浅川巧の協力を得て、京城に朝鮮民族博物館を設立した。<br />
１９１９年の３・１運動に際して発表された「朝鮮人を想ふ」は、日本による朝鮮同化政策を恐るべきこととし、こうしたことがつづくなら、独立が彼ら朝鮮人の理想となるのは必然の結果であろうと書いている。３・１独立運動に理解を示したのである。１９２０年、朝鮮旅行に先立って書かれた「朝鮮の友に贈る書」は、日本の不正を糾弾し、朝鮮人への連帯の意志を表わした文章であるが、官憲によって伏字だらけにさせられた。このころ、廉想渉や南宮璧と交遊関係を結んだ。<br />
韓国においても彼に対する評価は高く、『朝鮮とその芸術』は５回にわたって翻訳されている。また、韓国政府からは文化勲章が授与された。彼ののこした日本民芸館は、今も朝鮮の民芸品を常時陳列している。　　　　　　　　　　　（『朝鮮人物事典』大和書房より）<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />
浅川伯教から巧の日記をもらい、朝鮮戦争のさなか、背中に背負って避難したという金成鎮氏は、高根町に日記を寄贈するにあたり、「日記入手の経緯」の書き、巧を次のように評した。<br />
「過酷な日本帝国主義の植民政策の下、しいたげられた被圧迫民族に対して、温情を注ぐことさえも日本の官憲ににらまれる事であった時代に、韓国人を心から愛して下さった巧先生は、泥地に咲き出た一輪の白蓮と申すべきである。その崇高な人類愛の精神は先生（浅川巧のこと）を知る韓国人の胸の中に永遠に生き続けることを信じて疑わない」</p>

<p>１９３１年４月２日、巧は急性肺炎で亡くなった。その訃報を知った朝鮮人は嘆き悲しんだ。４月４日、出棺の日について、それに参列した柳宗悦は次のように回想する。</p>

<p>「彼の死が近くの村々に知らされた時、人々は、群をなして別れを告げに集まった。横たはる彼の亡躯を見て、慟哭した鮮人がどんなに多かった事か。日鮮の反目が暗く流れてゐる朝鮮の現状では見られない場面であつた。棺は申し出によつて悉く鮮人に担がれて、清里から里門里の丘へと運ばれた。余りに申し出の人が多く応じられない程であつた。その日は激しい雨であつた。途中村人から棺を止めて祭をしたいとせがまれたのもその時である。彼は彼の愛した朝鮮服を着たまま、鮮人の共同墓地に葬られた」</p>

<p><strong>◆忘憂里の巧の墓に参った詩人、茨木のり子</strong><br />
詩人の茨木のり子氏は、高崎宗司著『朝鮮の土となった日本人』を読んで浅川巧の人生を知り、巧が埋葬されているソウル・忘憂里（マンウーリ）を訪ねた。１９８８年、ソウル五輪を控え、喧騒に満ちた韓国の首都を抜け、郊外の林の中に眠る巧の墓に参った。そのとき、案内に立ったのが、巧と共に林業試験場で働いた金二万（キムイーマン）氏であった。彼は茨木氏にこう言った。<br />
「日帝時代のあの当時、およそ人間に対する差別ということのない人だった」<br />
巧の墓は最初、共同墓地の里門里（リムンリ）の丘に埋葬されたが、１０余年後、区画整理のため、現在の忘憂里公園墓地に移葬された。金二万氏は日本から突然訪ねてきた茨木氏ら２人の女性のために車を走らせ、忘憂山の斜面を登った。登ると、壺型の石碑、浅川巧功徳之碑が目に入る。そこには、こう刻まれていた。<br />
　　<br />
韓国が好きで　韓国人を愛し<br />
　　韓国の山と民芸に<br />
　　捧げた日本人<br />
ここに　韓国の<br />
土と　なる</p>

<p>忘憂里で、茨木氏は巧の生き方を次のように考えた。<br />
「浅川巧は、朝鮮における皇民化の激しくなる前、１９３１（昭和６）年に逝ったが、健在であればその後どう生きたか。またさかのぼって１９１９年の三・一独立運動をどう見たか。結局のところは山林一つをとってみても猛烈な収奪をやってのけた朝鮮総督府に属した一官吏にすぎなかったという観かたもあるだろう。<br />
だが、明晰な論文や弾劾文を発表すること、政治活動をすることだけがすべてではない。その時々の現象的な運動にかかわるだけがすべてではないだろう。言葉少なに、自分のできる範囲内でまわりに尽して、黙って死んでいったその行きかたには、なぜか私は強く惹かれる。」　　　　　　　　　　　　　　（茨木のり子『ハングルへの旅』朝日文庫より）</p>

<p><strong>◆朝鮮人に死を惜しまれた日本人</strong><br />
メソジストの伝道師、曾田嘉伊智（そだ・かいち）をご存知だろうか。「朝鮮孤児の父」として有名な人である。<br />
１８６７年、山口県生まれ。かつて台湾で生き倒れていたとき朝鮮人によって助けられた。その恩人の母国に心を引かれて、１９０５年に朝鮮へ渡った。朝鮮で曾田は伝道師となり、１９１９年の三・一独立運動に際しては、逮捕された朝鮮人の救援に尽力した。１９２１年、鎌倉保育園の京城支部長となり、以来、朝鮮孤児の養育にあたった。１９４５年の敗戦後も、特に韓国残留を許された。４７年、日本での伝道のため帰国したが、日韓国交樹立以前の１９６１年、韓国政府の特別のはからいで韓国に戻り、翌年、韓国で亡くなった。葬儀は韓国社会団体連合葬として盛大に行われ、政府・社会団体関係者や市民二千人が参列した。新聞は「国境と民族の壁を越えた真実の愛と奉仕」と大きく報道した。ソウルの楊花洞外人墓地に葬られている。なお、韓国政府は６２年、曾田に文化勲章を贈った。日本人への授章は初めてで、日韓正常化前の当時としては、異例のことであった。<br />
以上の話には、長崎県立大学シーボルト校の徐賢燮（ソヒョンソプ）教授から聞いたものを一部、盛り込んだ。徐氏は曾田の眠る墓地を訪ねた。ソウルの漢江沿い、楊花津（ヤンファジン）にそびえる岩場、切頭山（チョルトサン）に隣接するソウル外国人墓地公園に、曾田夫妻の墓があるという。墓には「孤児の慈父」という碑文が刻まれている。</p>

<p>「皮肉なことに、日韓の交流が盛んとなった現在、曾田嘉伊智を知る人は逆に少なくなった。私は『曾田の伝道師になるぞ』と心に決めて黙祷（もくとう）し、夕闇せまる墓地を後にした」（２００８年１０月３１日付、長崎新聞掲載「海風だより」より）</p>

<p>かつて韓国の外交官として活躍された徐氏とは、駐福岡韓国総領事を勤めておられた１９９８年から親交があり、大学で教えている日韓交流史、外交史の話を時々、メールでいただく。１９９０年、来日した盧泰愚大統領が宮中晩餐会の答礼で雨森芳洲を紹介したが、その草案は徐氏によって書かれた。徐氏は、韓国ではベストセラー『イルボヌン　イッタ<br />
（日本はある）』＝日本語版『日本の底力』光文社＝の著者として知られている。大変な読書家であり、現場主義にたった徐氏の書きものから常々刺激をもらっている。</p>

<p>朝鮮人によってこれほどまでに死を惜しまれた日本人としては、ほかに、水原でキリスト教を伝道した乗松雅休（まさやす）、朝鮮の孤児を育てた田内千鶴子、朝鮮人朴烈（パクヨル）の妻であった金子文子がいる。</p>]]>
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    <title>「日韓あわせ鏡の世界～韓国の中の日本、日本の中の韓国～」８</title>
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    <published>2009-06-24T15:13:23Z</published>
    <updated>2009-06-22T15:19:59Z</updated>

    <summary>  メソジストの伝道師、曾田嘉伊智（そだ・かいち）を紹介します。連載の最後では新たな人物を韓国人本外交官（現・大学教授）からの取材で知った人物である。 ...</summary>
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</p>]]>
        <![CDATA[<p><strong>◆朝鮮人に死を惜しまれた日本人</strong></p>

<p>メソジストの伝道師、曾田嘉伊智（そだ・かいち）をご存知だろうか。「朝鮮孤児の父」として有名な人である。</p>

<p>１８６７年、山口県生まれ。かつて台湾で生き倒れていたとき朝鮮人によって助けられた。その恩人の母国に心を引かれて、１９０５年に朝鮮へ渡った。朝鮮で曾田は伝道師となり、１９１９年の三・一独立運動に際しては、逮捕された朝鮮人の救援に尽力した。１９２１年、鎌倉保育園の京城支部長となり、以来、朝鮮孤児の養育にあたった。１９４５年の敗戦後も、特に韓国残留を許された。４７年、日本での伝道のため帰国したが、日韓国交樹立以前の１９６１年、韓国政府の特別のはからいで韓国に戻り、翌年、韓国で亡くなった。葬儀は韓国社会団体連合葬として盛大に行われ、政府・社会団体関係者や市民二千人が参列した。新聞は「国境と民族の壁を越えた真実の愛と奉仕」と大きく報道した。ソウルの楊花洞外人墓地に葬られている。なお、韓国政府は６２年、曾田に文化勲章を贈った。日本人への授章は初めてで、日韓正常化前の当時としては、異例のことであった。</p>

<p>以上の話には、長崎県立大学シーボルト校の徐賢燮（ソヒョンソプ）教授から聞いたものを一部、盛り込んだ。徐氏は曾田の眠る墓地を訪ねた。ソウルの漢江沿い、楊花津（ヤンファジン）にそびえる岩場、切頭山（チョルトサン）に隣接するソウル外国人墓地公園に、曾田夫妻の墓があるという。墓には「孤児の慈父」という碑文が刻まれている。</p>

<p>「皮肉なことに、日韓の交流が盛んとなった現在、曾田嘉伊智を知る人は逆に少なくなった。私は『曾田の伝道師になるぞ』と心に決めて黙祷（もくとう）し、夕闇せまる墓地を後にした」（２００８年１０月３１日付、長崎新聞掲載「海風だより」より）</p>

<p>かつて韓国の外交官として活躍された徐氏とは、駐福岡韓国総領事を勤めておられた１９９８年から親交があり、大学で教えている日韓交流史、外交史の話を時々、メールでいただく。１９９０年、来日した盧泰愚大統領が宮中晩餐会の答礼で雨森芳洲を紹介したが、その草案は徐氏によって書かれた。徐氏は、韓国ではベストセラー『イルボヌン　イッタ（日本はある）』＝日本語版『日本の底力』光文社＝の著者として知られている。大変な読書家であり、現場主義にたった徐氏の書きものから常々刺激をもらっている。</p>

<p>朝鮮人によってこれほどまでに死を惜しまれた日本人としては、ほかに、水原でキリスト教を伝道した乗松雅休（まさやす）、朝鮮の孤児を育てた田内千鶴子、朝鮮人朴烈（パクヨル）の妻であった金子文子がいる。<br />
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