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2009年11月 1日

「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」2;嶋村初吉

★李垠の波乱万丈の生涯 
英親王李垠殿下は、李朝26代の国王だった高宗皇帝の第3王子として生まれた。高宗は12歳で即位し、在位43年の間に波乱曲折のドラマに遭遇する。父大院君と王妃閔妃の執政権争い、閔妃殺害、清露日の対立抗争、王宮内の陰謀と暗躍。高宗は命を狙われる危険な目にもあった。その渦中、1897(明治30)年に李垠殿下は誕生された。

李垠殿下は10歳のとき、日本に旅立ち、56年間、異邦人として日本で生活し、病身のまま韓国に帰国し、亡くなった。運命に身を任せ、運命に忠実に生きた人で、政略結婚であったが、方子妃を心の底から愛し、日本人になり切ろうとした李王朝500年最後の皇太子であった。

第2王子が皇帝の位に即いて、第27代純宗となった年に、日韓協約が成立。朝鮮を日本の保護下に置く、布石が着々と打たれていた。韓太子、李垠殿下を日本で教育し、両国の親和に資せんとする画策が、伊藤博文によって進められた。その結果、1907(明治40)年12月、李垠殿下は日本留学の途に就いた。日本留学に反対する意見も多かったが、日本側に押し切られた。伊藤博文に伴われて来日するや、天皇に拝謁し、「今日わが皇太子、貴国に留学して隣邦の情誼ますます深し」との韓国皇帝の新書を奉呈した。英親王(李垠殿下)の取り扱いは。「万事、日本皇太子とご同様に」という方針に進んだ。伊藤博文は、殊の外、李垠殿下を愛し、李垠殿下もまた伊藤を親のように慕った。

伊藤博文(1841-1909)
明治期日本の最有力政治家で、朝鮮植民地を推進した。長州藩の貧農に生まれ尊攘・倒幕運動に参加、維新ののち明治6年および14年(1873・81)の政変をへて薩長藩閥の中心的存在となり、1885年には初代の内閣総理大臣に就任する。第二次内閣のとき、日清戦争を遂行、日本側全権として下関条約を結び朝鮮への勢力拡大につとめた。日露戦争後、日本政府はイギリス・アメリカ・ロシアなどの列強の承認を得て朝鮮の保護国化を決定、特命全権大使に任命された伊藤は1905年11月9日、保護条約の案文を持ってソウルに到着した。日本軍が演習をくりかえすなか国王に謁見した伊藤は、条約を拒否すれば朝鮮の将来は困難な境遇に陥るはずだと脅迫。条約の調印を強要した。

この保護条約(第二次日韓協約)によって、朝鮮の外交権は日本外務省に接収され、ソウルには韓国統監府が設置されるようになった。伊藤は初代統監となって1906年3月に着任、植民地支配のための基礎固めを推進する。 (『朝鮮人物事典』大和書房より)

京城(現ソウル)では、英親王李垠殿下がいなくなった修学院が廃止され、「一般世人慨歎せざるなし」と朝鮮の新聞は伝えた。
李垠殿下は、明治天皇に可愛がられ、天皇から召されて度々、皇居に度々出入りした。異国の地で、淋しくされているのを憂慮しての行為だった。

2009年11月 1日 01:10

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