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2009年11月 9日

「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」3:嶋村初吉

李完用(イワンニョン、1858-1926)
1905(明治38)年、伊藤博文が保護条約を強要した際、学部大臣として閣議で率先して賛意を表し、条約調印を認めた。韓国併合のとき、総理大臣。日本の植民地化政策に迎合した親日派官僚。日本にとっては勲功の士であるが、韓国民衆からは李賊宗賊と呼ばれた。

1910(明治43)年8月31日夜、勅使となった式部官子爵、稲葉正縄が京城に到着。李王は正盛の上侍従卿を従え、昌徳宮仁政殿に至った、11時、稲葉勅使は仁政殿の在来の王座で、寺内正毅統監列席のもと、天皇の、李王に封じるとの詔書、贈り物を呈し、冊封の式が終わった。

★朝鮮王朝最後の王女、徳恵姫
近年、対馬では日韓交流史跡の顕彰碑をつくる運動が広がり、かつての植民地時代の負の遺産、朝鮮王朝最後の王女・徳恵姫(御母福寧堂)と、宗家の嫡男・武志(たけゆき)の強制結婚を記念した御成婚奉祝記念碑も復元された。

対馬市・厳原町にある金石城跡に復元された、その石碑には、次のように記されている。「1931年(昭和6)年、新婚の宗武志と徳恵姫はそろって対馬を訪れ、島民の盛んな歓迎を受けた。徳恵姫は1912年5月25日生まれ、朝鮮王朝第26代高宗の王女(翁主)である。この碑は結婚を祝って当時対馬に住む韓国(朝鮮)の人々によって建てられた。また清水山城には対馬の人々による慶祝のツツジ植栽の記念碑が遺されている。その結婚は25年間にわたり、多くの困難にもかかわらず、一女正恵姫と共に信頼と愛情の絆で結ばれていた。

長女正恵が生まれた後、病気が再発、精神科の病院に入院。1955年やむなく離別に至った(武志公は、後に再婚)。成長した正恵は、明治大学を卒業後、学友と結婚したが、旅行先の山中で行方不明になった。徳恵姫は85年、故国に帰国した後、楽善斎の一室で意識喪失のまま長く起居した。英親王の不幸の知らせに接しても、そのことさえ理解できなかったので、周囲の人たちは泣いた。姫の不治の病は、それほど意識喪失状態だったのである。徳恵姫は、1989年に逝去された。

話が前後するが、王世子の妹君、徳恵姫は、渡日したことで心身を病んだ。1925(大正14)年春、日本に留学、上京したが、これは李王家の女性教育について心配した皇后の思いがきっかけとなった。当時14歳の徳恵姫は、李太王の晩年の子で、種々の事情のため、初め王家の籍に入れる手続きが厄介であった。しかし、6歳のころ、この問題も解決し、李垠殿下の唯一人の妹となった。東京・鳥居坂の王世子御殿では、すでに語学、音楽などの家庭教師の人選も終わり、方子妃も、実の妹のように衣裳調度を調えて、上京を待った。

「日鮮融和のためにーとの美名のもとに、李王家の血に日本の血を混ぜることを意図した三つの結婚のうち、二つまでが悲劇ともいえる結末をむかえねばならなかったことに、尽きぬ恨みをおぼえずにはいられません」(李方子自叙伝写真集『流れのままに』明恵会)

次回は11月13日です。

2009年11月 9日 00:19

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