2009年11月13日
日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~4:嶋村初吉
嶋村初吉さんの「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」は4回目です。
日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~
植民地時代の政略結婚
李王朝最後の皇太子、李垠と梨本宮方子
嶋村初吉
★李王世子と梨本宮方子妃の結婚
梨本宮方子が15歳、学習院中等科3年のとき、李王世子の妃殿下候補にあがり、新聞で大きく報道された。それは、垠殿下のご成婚を伝える記事で、垠殿下の写真と並んでいるのは、「まぎれもない私の写真」。方子は驚いてしまった。
1918(大正7)年12月5日、婚約が正式に勅許となり、同8日、納采(民間の結納)の儀がとどこうりなく完了。12月11日、鳥居坂御殿で方子女王は初めて王世子と対面。ときに王世子は満21歳、方子女王は満17歳であった。
翌年、ご婚礼の儀が予定されていたが、1月21日、京城から李太王が脳溢血で重体となったと特電が入り、さらには、治療の甲斐なく崩御された連絡が入った。
崩御した李太王は殯殿に30日間安置された後、李朝歴代の式典にのっとり、国葬の礼を行った。その間、万歳事件と名付けられた独立運動が起こった。そのきっかけは、李太王の死が毒殺という陰謀説だった。李太王は、日本の総督統治に不満を抱く民衆の苦衷を訴える密使をパリに送る計画を密かに進めていたが、それが日本側に発覚し、総督府の密命を受けた侍医の安商鎬が毒を盛ったといわれるが、真相は定かでない。しかし、毒殺説に朝鮮民衆は一斉に蜂起、「祖国朝鮮を日本の帝国主から解放しよう」「独立朝鮮万歳」と叫んだ。
二人の出発は、はじめから困難に満ちたものとなった。
1920(大正9)年4月28日、晴れのご成婚の儀式の日。母宮は「あなたの重い使命を決してお忘れにならぬよう。また、梨本宮家の名を汚さぬようにつとめて、りっぱな妃殿下になってください。苦しいことも、きっと多いでしょうが...」
日朝両国が固く結ばれあうためのくさびになる重い役目であることは、十分心得たつもりでも、現実にダイヤをちりばめた王冠の重みから、じかに受け取った勘当は、あらたな決意を固めさせたと方子は思った。
方子妃は後で、殿下には閔閨秀という許婚者がいたことを知る。朝鮮のならわしでは、いったん許婚者となった人は、一生独身で終わらなければならないおきてがあることだった。なんとも、残酷な。方子は、申し訳ないと思わざるをえなかった。
それともう一つ。婚礼の日に、方子妃の馬車に爆弾を投げ込もうとした未遂事件があったことだ。方子妃が生まれて、幼少時代を過ごした麹町3番町の家を建てた人が、閔妃殺害を計画し、指揮した三浦梧楼(駐韓特命全権公使)だったという朝鮮とつながる因縁めいたことがあった。
(次回は11月15日です)
2009年11月 9日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」3:嶋村初吉
李完用(イワンニョン、1858-1926)
1905(明治38)年、伊藤博文が保護条約を強要した際、学部大臣として閣議で率先して賛意を表し、条約調印を認めた。韓国併合のとき、総理大臣。日本の植民地化政策に迎合した親日派官僚。日本にとっては勲功の士であるが、韓国民衆からは李賊宗賊と呼ばれた。
1910(明治43)年8月31日夜、勅使となった式部官子爵、稲葉正縄が京城に到着。李王は正盛の上侍従卿を従え、昌徳宮仁政殿に至った、11時、稲葉勅使は仁政殿の在来の王座で、寺内正毅統監列席のもと、天皇の、李王に封じるとの詔書、贈り物を呈し、冊封の式が終わった。
★朝鮮王朝最後の王女、徳恵姫
近年、対馬では日韓交流史跡の顕彰碑をつくる運動が広がり、かつての植民地時代の負の遺産、朝鮮王朝最後の王女・徳恵姫(御母福寧堂)と、宗家の嫡男・武志(たけゆき)の強制結婚を記念した御成婚奉祝記念碑も復元された。
対馬市・厳原町にある金石城跡に復元された、その石碑には、次のように記されている。「1931年(昭和6)年、新婚の宗武志と徳恵姫はそろって対馬を訪れ、島民の盛んな歓迎を受けた。徳恵姫は1912年5月25日生まれ、朝鮮王朝第26代高宗の王女(翁主)である。この碑は結婚を祝って当時対馬に住む韓国(朝鮮)の人々によって建てられた。また清水山城には対馬の人々による慶祝のツツジ植栽の記念碑が遺されている。その結婚は25年間にわたり、多くの困難にもかかわらず、一女正恵姫と共に信頼と愛情の絆で結ばれていた。
長女正恵が生まれた後、病気が再発、精神科の病院に入院。1955年やむなく離別に至った(武志公は、後に再婚)。成長した正恵は、明治大学を卒業後、学友と結婚したが、旅行先の山中で行方不明になった。徳恵姫は85年、故国に帰国した後、楽善斎の一室で意識喪失のまま長く起居した。英親王の不幸の知らせに接しても、そのことさえ理解できなかったので、周囲の人たちは泣いた。姫の不治の病は、それほど意識喪失状態だったのである。徳恵姫は、1989年に逝去された。
話が前後するが、王世子の妹君、徳恵姫は、渡日したことで心身を病んだ。1925(大正14)年春、日本に留学、上京したが、これは李王家の女性教育について心配した皇后の思いがきっかけとなった。当時14歳の徳恵姫は、李太王の晩年の子で、種々の事情のため、初め王家の籍に入れる手続きが厄介であった。しかし、6歳のころ、この問題も解決し、李垠殿下の唯一人の妹となった。東京・鳥居坂の王世子御殿では、すでに語学、音楽などの家庭教師の人選も終わり、方子妃も、実の妹のように衣裳調度を調えて、上京を待った。
「日鮮融和のためにーとの美名のもとに、李王家の血に日本の血を混ぜることを意図した三つの結婚のうち、二つまでが悲劇ともいえる結末をむかえねばならなかったことに、尽きぬ恨みをおぼえずにはいられません」(李方子自叙伝写真集『流れのままに』明恵会)
次回は11月13日です。
2009年11月 3日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」3;嶋村初吉
日本にいては朝鮮の王族も、日本の皇族と同様に、男子は特別の身体の事情で陛下のお許しがある場合を除き、陸海軍いずれかの道を選ばなくてはならなかった。英親王は、近衛隊付に補せられた、陸軍で鍛えられ、昇進していく。
その間、伊藤は李垠殿下を伴って東北、北海道の各地を訪ねている。教育係りとして慕われた伊藤が、ロシアとの関係調整のために出掛けたハルピン駅頭で、義兵将・安重根の凶弾に落命する。1909(明治42)年10月26日午前10時。訃報を聞いた李垠殿下は、「伊藤公は実に誠実に世話してくれた。そして将来、私が勉学を終えて新しい知識を韓国に持ち帰り、故国に役立てることを期待して、そのような構想を考えておられたと思うが、その伊藤公が暗殺されたことは、韓国の運命を変えてしまったのではないかと思う。いたずらに軍国的な軍人総督によって、英国植民地政策の真似をしたようなことになって残念でならない」と晩年、方子妃に回顧している。
1917(大正6)年12月25日、李垠殿下は陸軍少尉に任官される。その翌日、彼はかつての伊藤博文の墓前に任官の報告をしている。
安重根(アンジュングン、1879-1910)
愛国烈士。黄海道・海州の名門両班の出身。幼いときから尚武的性格を持ち、甲午農民戦争では若干16歳で父の安泰勲に従い農民軍鎮圧に加わった。1905年の乙巳保護条約を契機に民族運動に目覚め愛国啓蒙運動に参加した。1909年、ハルビン駅で同志とはかって伊藤博文を射殺した。彼はその場で逮捕され、翌年3月26日処刑された。裁判では終始義勇兵であることを強調すうするとともに、鋭い舌鋒で東洋平和を乱したとして伊藤を非難した。 (『朝鮮人物事典』大和書房より)
★韓国併合
英親王李垠殿下12歳のとき、祖国の運命のときを迎えた。韓国併合である。
寺内正毅統監と李完用総理の間で、併合条約の調印が行われた。
韓国併合条約
第一条 韓国皇帝ハ、韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全カツ永久ニ日本国 皇帝陛下ニ譲与ス。
第二条 日本国 皇帝陛下ハ、前条ニ掲ゲタル譲与ヲ受諾シ、且ツ全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス。
第三条 日本国 皇帝陛下ハ、太皇帝陛下並ニ其后妃後裔ヲシテ、各其ノ地位ニ応ジ、相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ、且ツ之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スベキコトヲ約ス
第四条 日本国 皇帝陛下ハ、前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ、各相当ノ名誉及ビ待遇ヲ享有セシメ、且ツ之ヲ維持スルニ必要ナル資金ヲ供与スルコトヲ約ス。
第五条 日本国 皇帝陛下ハ、勲功アル韓人ニシテ特ニ表彰ヲ為スヲ適当ナルト認メタルモノニ対シ、栄爵ヲ授ケ且ツ恩金ヲ与フベシ。
(第六~八条は省略)
次回は11月9日です。
2009年11月 1日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」2;嶋村初吉
★李垠の波乱万丈の生涯
英親王李垠殿下は、李朝26代の国王だった高宗皇帝の第3王子として生まれた。高宗は12歳で即位し、在位43年の間に波乱曲折のドラマに遭遇する。父大院君と王妃閔妃の執政権争い、閔妃殺害、清露日の対立抗争、王宮内の陰謀と暗躍。高宗は命を狙われる危険な目にもあった。その渦中、1897(明治30)年に李垠殿下は誕生された。
李垠殿下は10歳のとき、日本に旅立ち、56年間、異邦人として日本で生活し、病身のまま韓国に帰国し、亡くなった。運命に身を任せ、運命に忠実に生きた人で、政略結婚であったが、方子妃を心の底から愛し、日本人になり切ろうとした李王朝500年最後の皇太子であった。
第2王子が皇帝の位に即いて、第27代純宗となった年に、日韓協約が成立。朝鮮を日本の保護下に置く、布石が着々と打たれていた。韓太子、李垠殿下を日本で教育し、両国の親和に資せんとする画策が、伊藤博文によって進められた。その結果、1907(明治40)年12月、李垠殿下は日本留学の途に就いた。日本留学に反対する意見も多かったが、日本側に押し切られた。伊藤博文に伴われて来日するや、天皇に拝謁し、「今日わが皇太子、貴国に留学して隣邦の情誼ますます深し」との韓国皇帝の新書を奉呈した。英親王(李垠殿下)の取り扱いは。「万事、日本皇太子とご同様に」という方針に進んだ。伊藤博文は、殊の外、李垠殿下を愛し、李垠殿下もまた伊藤を親のように慕った。
伊藤博文(1841-1909)
明治期日本の最有力政治家で、朝鮮植民地を推進した。長州藩の貧農に生まれ尊攘・倒幕運動に参加、維新ののち明治6年および14年(1873・81)の政変をへて薩長藩閥の中心的存在となり、1885年には初代の内閣総理大臣に就任する。第二次内閣のとき、日清戦争を遂行、日本側全権として下関条約を結び朝鮮への勢力拡大につとめた。日露戦争後、日本政府はイギリス・アメリカ・ロシアなどの列強の承認を得て朝鮮の保護国化を決定、特命全権大使に任命された伊藤は1905年11月9日、保護条約の案文を持ってソウルに到着した。日本軍が演習をくりかえすなか国王に謁見した伊藤は、条約を拒否すれば朝鮮の将来は困難な境遇に陥るはずだと脅迫。条約の調印を強要した。
この保護条約(第二次日韓協約)によって、朝鮮の外交権は日本外務省に接収され、ソウルには韓国統監府が設置されるようになった。伊藤は初代統監となって1906年3月に着任、植民地支配のための基礎固めを推進する。 (『朝鮮人物事典』大和書房より)
京城(現ソウル)では、英親王李垠殿下がいなくなった修学院が廃止され、「一般世人慨歎せざるなし」と朝鮮の新聞は伝えた。
李垠殿下は、明治天皇に可愛がられ、天皇から召されて度々、皇居に度々出入りした。異国の地で、淋しくされているのを憂慮しての行為だった。
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