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2009年8月13日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」15:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」7
★『日本書記』は古代の日韓交流史
『日本書記』には、朝鮮半島、中国との往来がいかに盛んだったかが、その記述の頻度の多さから分かる。それには、朝鮮、中国の史書からふんだんに引用している背景がある。朝鮮の史書としては、『百済記』『百済新撰』『百済本記』があげられる。
最近、加唐島(かからじま、佐賀県唐津市鎮西町)は、百済の武寧王(ムリョンワン)が生誕した島として、名護屋城博物館とともに日韓交流を担っている。
武寧王生誕の記事は、『日本書記』雄略天皇の項に記載されている。韓国・慶北大学教授が、武寧王墓誌の解析を通して『百済記』『百済遺事』よりも、『日本書記』の方が信憑性が高いという経過を論文に書いて発表したところから、一気に見直しが進んだ。『日本書記』には、次のように記されている。
六月の丙戊(ひのえいぬ)の朔に、身籠った婦が、はたして加須利君(かすりのきみ、コウロ王)の言ったように、筑紫の各羅嶋(かからのしま)で子を生んだ。そこで、この子を名づけて嶋君(せまきし)といった。ここに、軍君(こにきし)は、ただちに婦と同じ船で、嶋君を国に送った。これが武寧王である。百済人は、この嶋をよんで主嶋(にりむせま)といった。
軍君は加須利君(こうろ王)に、「おまえは、日本に行って天皇にお仕えしろ」といわれ、それに従った。渡日するにあたり、こうろ王の婦(みめ)を賜るようにお願いしたところ、こうろ王は妊娠した婦を娶らせた。
689年施行の浄御原令(きよみはらりょう)で、国の名前が倭国から日本と変わった。朝鮮、中国と関わることで、自分たちを相対的に見て、認識を変えていった。倭国、日本は孤立した島国ではなかった。人とモノは、列島の南北からも西からも絶えず流入してきた。それを受け止めながら国家形成に貢献した朝鮮渡来人の役割は大きかった。もちろん、地域によって渡来文化定着の度合いに濃淡はあるが、両者が融合・発展して、新たな日本文化を築きあげたのである。『日本書記』には、その痕跡が記されている。
(次回は総集編です)
2009年8月13日 00:40
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