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2009年7月26日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」12:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」4
★近江の石塔寺と朝鮮渡来人
朝鮮半島から日本に最初に来た渡来人の大集団は、弥生時代にみられる。記録上では新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)とされる。ヒメコソノミコトを追って、若狭湾に上陸し、西日本を彷徨して最後は、但馬に落ち着いた王族である。
近江には、百済からの渡来人が多く住んでいた。『日本書記』には、「(百済からの渡来人を)男女七百余人を遷して近江の国蒲生の郡におき」とある。蒲生郡は近江でも屈指の渡来人の里だった。白村江の戦いで滅んだ百済の遺民たちが移り住んだ。自らの優れた技術を発揮して、故国への思いを刻んだ。
例えば、石塔。蒲生町に石塔寺にある、わが国最古の石塔、三重石塔も、その一つ。司馬遼太郎に、「ぬっと立っている巨石の建造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの具象化された姿がそこの立っているようである」(『歴史を紀行する』文春文庫より)といわせた。この三重石塔は、天智天皇が都を開いた近江朝の時代、7世紀後半にできたと推定されている。この時代、石材を使った建造物はなく、百済の渡来人の造形したものとして知られる。なぜならば、この塔は花崗岩でできているからだ。凝灰岩を使っている日本の塔とは異なる。構造的にも、百済の古都、扶余に残っている塔とそっくりなのである。
寺伝によると、石塔寺はもともと本願成就寺といい、聖徳太子が近江に建立した四十八カ寺の最後のお寺だった。ところが、三重石塔ができたことから、七堂伽藍を再建して石塔寺と名付けたという。1006(寛弘3)年のことである。
司馬遼太郎は「近江商人を創った血の秘密」(『歴史を紀行する』(文春文庫所載)のなかで、この石塔を見て、次のように想起している。
「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについて、私は生涯わすれることができないだろう。頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである」
「塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江帰化人の一大記念碑であるがごとくであり、帰化人たちの居住区宣言であるような気もする」
2009年7月26日 00:04
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