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2009年7月24日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」11:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」3
★山上憶良
山上憶良を百済の渡来人と最初にいったのは、万葉学者の中西進氏である。現在、学会でも広く知られているが、その説によると、こうである。
百済から天智期に渡来し、近江朝に仕え、天武の侍臣にもなった医師、憶仁(おくに)が憶良の父であったとする。憶良は百済の都、扶余で660年に生まれ、百済王朝滅亡により4歳のときに父親に連れられて、日本に亡命渡来し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口町あたりに住んだとしている。
憶良が移住した甲賀の地は、それより80年ほど前、日本に仏教が公伝されたとき、
その功労者の一人として、「百済より来る鹿深臣(かふかのおみ)、名字をもらせり。弥勒(みろく)の石像一躯有(たま)てり」(『日本書記』より)とあるように、百済渡来豪族、鹿深氏(甲賀氏)の居住地であったといわれる。
敏達紀に、百済から鹿深臣がもってきた弥勒は石像だったと書いている。現在、残っていないが。
憶仁は686(朱鳥元)年5月に死亡した。彼は専門技術をもっていたが、正当な評価を受けないまま、下積み生活を余儀なくされた。父親を失ったとき、憶良は27歳だったが、彼も無位、無姓の下級役であった。ここに、渡来人の悲哀をみる。憶良は41歳まで経典を写す仕事に従事したと推測されている。
ところが、憶良が栄達を遂げる好機が到来するのである。遣唐使である。彼は、書記官の最下席を与えられた。42歳の701(大宝元)年正月、遣唐少録となり、翌年、遣唐使粟田真人らに従って唐の都、長安に渡った。長年の文筆生活が役立ったというべきだろう。遣唐使は生死を賭けた旅路となった。無事、帰国すれば出世は間違いない。憶良は、その賭に勝った。以後、順風の道を歩み、臣という姓をもらい、位も従五位下に昇進した。57歳のとき伯耆(いまの鳥取県)の長官になり、帰京後は東宮に。さらにその後には聖武天皇の教育係の一人にもなった。67歳のとき筑前の国(現、福岡県)の長官にも任命され、大伴旅人らと筑紫歌壇を形成した。憶良が優れた歌人としての地位を確立したのは九州時代である。万葉集には長歌11首、短歌52首、旋頭歌1首、ほかに漢詩、漢文を残している。
歌人、憶良の特徴について、歌人の木俣修氏は『万葉集 時代と作品』(日本放送出版協会)の中で、次のように指摘している。
「憶良は短歌よりもむしろ長歌を得意としている。内容的にいえば、自然の歌はわずか三首だで、他はもっぱら人事に関するものばかりである。しかし相聞の歌は全くなくて、子供に対する深い愛情を歌ったものが眼立っている。また病苦・貧窮・老死などの暗黒面を歌い、人生の問題や社会の問題に深く入っているところにその特徴が見られる」
憶良の代表的な歌を幾つ紹介する。
・憶良らは今は罷らむ子泣くらんその彼(か)の母も吾を待つらむぞ
・銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめや も
・世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
筑前から帰京した憶良は病の苦しみ、貧乏にも苦しめられる。733(天平5)年、病床に伏す憶良を、親友藤原八束が、見舞いの使者として河辺朝臣東人を使いにやった。そのとき、憶良がことばにした和歌が、次のようなものである。
士(をのこ)やも空しくあるべき万代(よろづよ)に
語りつぐべき名は立てずして
意味するところは、「男子たるもの、空しく朽ちはててはいけない。万代の後までも語り継がれるような名声も立てずに」という内容で、憶良のそれまでの生涯74年間を集約したような一首であった。「空しさに抵抗しつつ、いま病床にある身に絶望しつつ、なお士への志を捨てなかったところに、憶良の生涯の暗示がある。この一首は辞世と自覚したものではないが、暗示的な一首をのこして、憶良はほどなく没したと思われる」(中西進『辞世のことば』中公新書)。
2009年7月24日 09:28
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