2009年7月30日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」14:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」6
★鬼室集斯
鬼室集斯については、『日本書記』第二十七天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと) 天智天皇の項に、次のようにある。
この歳(天智天皇4年)、小錦中河内直鯨(かわちのあたいくじら)らを遣わして大唐(もろこし)に使させた。また、佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江国の蒲生郡に移住させた。
この月に、大錦下を、佐平余自信・沙宅紹明(法官大輔=のりのつかさのおおきすけ=、のちの式部大輔に相当)に授けた。小錦下を鬼室集斯(学職頭=ふみのつかさのかみ=、のちの大学頭に相当)に授けた。
学職頭は、律令制では大学寮の長官をあたる。現代でいえば、文部科学大臣兼大学総長をイメージできる。百済からの亡命者でこれだけの高い位階を与えられたのは異例である。百済王朝で、行政の中をになった亡命者たちは、法制、学術、兵法、医薬など幅広い分野で活躍した。
鬼室集斯については、司馬遼太郎も書いている。東大阪市に住む司馬は、在日韓国・朝鮮人と付き合いが深く、鄭詔文、貴文(キムン)兄弟が創刊した『日本のなかの朝鮮文化』に関わったし、この雑誌を通して在日朝鮮人作家、金達寿と歴史討論もしている。鬼室集斯は『街道をゆく2 韓のくに紀行』(朝日新聞社)に出てくる。1972年正月2日、京都にきた司馬は名古屋から車を飛ばしてきた友人の頼んで、蒲生郡日野町を訪ねる。
その探訪記を、『街道をゆく』から抜粋する。
(1)なにしろ鬼室集斯は百済王族だし、それに佐平余自信という王族も一緒にきており、朝廷としてはかれらを優遇したかったにちがいない。
なぜならば鬼室集斯がこの国にやってきたとき、天智朝廷は、「天智紀」の記述のごとく、
「佐平福信ノ功ヲ以テ、鬼室集斯ニ小錦下(せうきむげのくらゐ)ヲ授ク」
として、大層な位階をあたえているのである。小錦下とは、のちの従五位下に相当する。
さらに天智天皇のとき、まだ制度は粗笨ながら(建物もあったのかどうか)はじめて大学寮が設けられており、百済から逃れてきた鬼室集斯はいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである。
(2)この小野こそ蒲生野を拓いた百済人の最初の根拠地だったにちがいないが、しかし家数はかぞえるほどしかなく、どの農家も千年の伝統を感じさせるような風格があって、ゆゆしげにみえた。
たまたま私は、「蒲生郡桜谷奥津保小野村」という明治三十年代の村の地図をもっていた。その地図(とはいっても風景図だが)によると、
「朝鮮坊山」
という山の名も見える。村は谷間をひらいて耕地にしたもので、まだ山中から流れ落ちて初々しい蒲生川が流れている。その川のそばの崖に小さな森があり、田のあぜを通ってその森までゆくと、百坪足らずの境内にささやかな祠が建っていた。鬼室神社である。
(3)神体は七十糎(センチ)程度の石の杭である。八角形をなし、コケシ人形のようにくびにくびれがある。石は朝鮮産のものだというが、よくわからない。
江戸期の中期、江戸の儒者で村井古厳という人が文献でこの村を知り、わざわざ訪ねてきて調べたところ、
「これは日本古来の墳墓ではなく、儒礼による墳墓である。この石は墳碑ではなく、犠牲(にえ)をつなぐ形状をなしている」
と断定したらしいが、それは正しいであろう。
村井古厳がきたあと、文化年間になると江戸や京、あるいは地元の儒者の来訪が一時さかんになったらしく、文化二年、西生懐忠という儒医がこの風化した石に水をそそぎ、苔をはらい、苦心のすえ、刻文をさぐり、ついに
右 庶孫美成造
正面 鬼室集斯墓
左 朱鳥三年戊子十一年八日歿
という文字を読み下した。
その後文化六年四月十二日、当時このあたりを飛地領としておさめていた宮津藩主松平伯耆守が「わが領内に尊き学士の遺跡あるは家の面目なり」としてこの墓前で盛大な祭典を催し、漢学者をあつめて鬼室集斯をまつる漢文の会を催している。白村江を血で染めて百済が滅んでから千百四十六年目のことであり、亡国の王民の霊たちはこの日、ようやく慰められたかとおもわれる。
天智天皇が崩御し、壬申の乱で大海人皇子が即位して天武天皇となると、都も本家帰りして、飛鳥へと移った。天智天皇の側についていた鬼室集斯は、この権力闘争に巻き込まれるのを避けて、近江に留まり、日野の小野集落に隠棲した。死後、鬼室集斯を祀る神社ができ、「室徒株」という鬼室の家系の者が輪番で祭事を行っている。
日野町は1990年、韓国忠清南道・扶余郡恩山面と姉妹都市提携を行った。恩山面には鬼室集斯の父、福信を祀る祠(恩山別神堂)があり、日野には集斯の墓があることが提携の契機となった。
2009年7月29日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」13:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」5
★近江商人
江商人は、朝鮮渡来人の血を引いているといわれる。菅野和太郎著『近江商人の研究』には、次のようにある。
「商人的素質をもつ高麗の帰化人が中部(蒲生郡、坂田郡、愛知郡、犬上郡、野洲郡)に移住し、本国の制度でならって市(いち)を開設したが、後に延暦寺(叡山)と結んで市の専売権を確立し、商権を拡張して一大飛躍をとげた。この訓練をうけた住民は、農民、武士よりの転向組に加え、全国の行商行脚に力をのばした」
江商人は阪神で成功して芦屋をひらき、今日の高級住宅街のはしりとなった。伊勢商人も、もともとは近江商人が基となった。戦国武将、蒲生氏郷が根拠地の近江日野から伊勢12万石に転封となり、これに伴い日野商人がごっそりと伊勢に移住した。伊勢商人として大成した三井氏は、もとは近江蒲生郡の地侍、三井越後守高安である。彼は武士から商人に転じた一人である。近江商人の結束力は堅く、奉公人は近江から呼び集め、さらには丁稚を育てるために地元で寄宿舎訓練を行っている。また、屋敷の女中にも近江の女性を雇った。聡く、上品で、律儀だというのが富商たちの評価であった。
こで帰化人の「帰化」という意味を確認しておきたい。1960年代、上田正昭・京都大学教授が『帰化人』(中公新書)を刊行したとき、一部批判の声があがった。帰化という意味には、徳を慕って服属するという意味があるからだ。古代、朝鮮渡来人は祖国を離れざるを得ない事情が生じて、日本に渡ってきた人たちであり、何も日本を慕ってきたわけではない。現代、帰化とは外国籍の人が日本国籍を取得することをいう。国籍取得を古代にもってきても、当時、国という意識が未成熟であったから、帰化という言葉は疑問である。やはり、朝鮮半島から渡ってきた朝鮮人を「渡来人」と規定した方が相応しい。
それはともかく、上田氏は、同著のまえがきで、こう記している。
「日本へきた人々ならびにその後裔たちは、あるいは役人となり、あるいは農民や手工業者となって、古代日本のなりたちに少なからぬ影響をあたえていた。飛鳥文化や天平文化の背景には、彼らのもたらした新技術や新知識が渦巻いており、いわゆる『帰化人』の力は、古代日本人の生活におおきなはたらきをおよぼしている。もっと端的に表現するなら、日本古代国家の形成それ自体が、これら渡来者たちの母国の動向と付加いいつながりをもっていたのである」
2009年7月26日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」12:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」4
★近江の石塔寺と朝鮮渡来人
朝鮮半島から日本に最初に来た渡来人の大集団は、弥生時代にみられる。記録上では新羅の王子、天日槍(あめのひぼこ)とされる。ヒメコソノミコトを追って、若狭湾に上陸し、西日本を彷徨して最後は、但馬に落ち着いた王族である。
近江には、百済からの渡来人が多く住んでいた。『日本書記』には、「(百済からの渡来人を)男女七百余人を遷して近江の国蒲生の郡におき」とある。蒲生郡は近江でも屈指の渡来人の里だった。白村江の戦いで滅んだ百済の遺民たちが移り住んだ。自らの優れた技術を発揮して、故国への思いを刻んだ。
例えば、石塔。蒲生町に石塔寺にある、わが国最古の石塔、三重石塔も、その一つ。司馬遼太郎に、「ぬっと立っている巨石の建造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの具象化された姿がそこの立っているようである」(『歴史を紀行する』文春文庫より)といわせた。この三重石塔は、天智天皇が都を開いた近江朝の時代、7世紀後半にできたと推定されている。この時代、石材を使った建造物はなく、百済の渡来人の造形したものとして知られる。なぜならば、この塔は花崗岩でできているからだ。凝灰岩を使っている日本の塔とは異なる。構造的にも、百済の古都、扶余に残っている塔とそっくりなのである。
寺伝によると、石塔寺はもともと本願成就寺といい、聖徳太子が近江に建立した四十八カ寺の最後のお寺だった。ところが、三重石塔ができたことから、七堂伽藍を再建して石塔寺と名付けたという。1006(寛弘3)年のことである。
司馬遼太郎は「近江商人を創った血の秘密」(『歴史を紀行する』(文春文庫所載)のなかで、この石塔を見て、次のように想起している。
「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについて、私は生涯わすれることができないだろう。頂上は、三百坪ほどの平坦地である。まわりにも松がはえている。その中央に基座をおいてぬっと立っている巨石の構造物は、三重の塔であるとはいえ、塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである」
「塔は近江をひらき日本に商業をもちこんだ近江帰化人の一大記念碑であるがごとくであり、帰化人たちの居住区宣言であるような気もする」
2009年7月24日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」11:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」3
★山上憶良
山上憶良を百済の渡来人と最初にいったのは、万葉学者の中西進氏である。現在、学会でも広く知られているが、その説によると、こうである。
百済から天智期に渡来し、近江朝に仕え、天武の侍臣にもなった医師、憶仁(おくに)が憶良の父であったとする。憶良は百済の都、扶余で660年に生まれ、百済王朝滅亡により4歳のときに父親に連れられて、日本に亡命渡来し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口町あたりに住んだとしている。
憶良が移住した甲賀の地は、それより80年ほど前、日本に仏教が公伝されたとき、
その功労者の一人として、「百済より来る鹿深臣(かふかのおみ)、名字をもらせり。弥勒(みろく)の石像一躯有(たま)てり」(『日本書記』より)とあるように、百済渡来豪族、鹿深氏(甲賀氏)の居住地であったといわれる。
敏達紀に、百済から鹿深臣がもってきた弥勒は石像だったと書いている。現在、残っていないが。
憶仁は686(朱鳥元)年5月に死亡した。彼は専門技術をもっていたが、正当な評価を受けないまま、下積み生活を余儀なくされた。父親を失ったとき、憶良は27歳だったが、彼も無位、無姓の下級役であった。ここに、渡来人の悲哀をみる。憶良は41歳まで経典を写す仕事に従事したと推測されている。
ところが、憶良が栄達を遂げる好機が到来するのである。遣唐使である。彼は、書記官の最下席を与えられた。42歳の701(大宝元)年正月、遣唐少録となり、翌年、遣唐使粟田真人らに従って唐の都、長安に渡った。長年の文筆生活が役立ったというべきだろう。遣唐使は生死を賭けた旅路となった。無事、帰国すれば出世は間違いない。憶良は、その賭に勝った。以後、順風の道を歩み、臣という姓をもらい、位も従五位下に昇進した。57歳のとき伯耆(いまの鳥取県)の長官になり、帰京後は東宮に。さらにその後には聖武天皇の教育係の一人にもなった。67歳のとき筑前の国(現、福岡県)の長官にも任命され、大伴旅人らと筑紫歌壇を形成した。憶良が優れた歌人としての地位を確立したのは九州時代である。万葉集には長歌11首、短歌52首、旋頭歌1首、ほかに漢詩、漢文を残している。
歌人、憶良の特徴について、歌人の木俣修氏は『万葉集 時代と作品』(日本放送出版協会)の中で、次のように指摘している。
「憶良は短歌よりもむしろ長歌を得意としている。内容的にいえば、自然の歌はわずか三首だで、他はもっぱら人事に関するものばかりである。しかし相聞の歌は全くなくて、子供に対する深い愛情を歌ったものが眼立っている。また病苦・貧窮・老死などの暗黒面を歌い、人生の問題や社会の問題に深く入っているところにその特徴が見られる」
憶良の代表的な歌を幾つ紹介する。
・憶良らは今は罷らむ子泣くらんその彼(か)の母も吾を待つらむぞ
・銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめや も
・世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
筑前から帰京した憶良は病の苦しみ、貧乏にも苦しめられる。733(天平5)年、病床に伏す憶良を、親友藤原八束が、見舞いの使者として河辺朝臣東人を使いにやった。そのとき、憶良がことばにした和歌が、次のようなものである。
士(をのこ)やも空しくあるべき万代(よろづよ)に
語りつぐべき名は立てずして
意味するところは、「男子たるもの、空しく朽ちはててはいけない。万代の後までも語り継がれるような名声も立てずに」という内容で、憶良のそれまでの生涯74年間を集約したような一首であった。「空しさに抵抗しつつ、いま病床にある身に絶望しつつ、なお士への志を捨てなかったところに、憶良の生涯の暗示がある。この一首は辞世と自覚したものではないが、暗示的な一首をのこして、憶良はほどなく没したと思われる」(中西進『辞世のことば』中公新書)。
2009年7月23日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」10:嶋村初吉
「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」2
百済の滅亡後、王族の福信(ポクシン、武王の甥)や日本に派遣されていた王子豊璋らが、高句麗や大和朝廷の支援を受けて、664年まで執拗に新羅・唐連合軍と戦っている。
660年に、唐と新羅の連合軍が結成されたとき、平壌以南を新羅、以北をそれぞれ領有することにしていたが、これは表向きの約束で、唐は朝鮮全土を植民地にしようとする基本的な政策を掲げていた。唐は新羅軍を使って百済・高句麗を滅亡させただけではなく、新羅の軍事力を消耗させるため、苛酷な戦闘を強要し、少しでも約束が違うと、その間の事情を無視して責任だけを追及した。また、新羅の軍功は唐から無視されていた。
新羅はついに対唐戦争に立ち上がり、朝鮮半島からその勢力を一掃し、676年から新羅滅亡の935年までの、およそ260年間、統一政権を保った。この時期の新羅は三国時代のそれとは政治的、社会的、文化的にも大きな変化があり、今日の朝鮮民族を形成する時代となった。
一方、倭国は、新羅・唐の連合軍が攻め寄せてくることを予想して、防備を固める。いわゆる朝鮮式山城を金田城(対馬)、四王寺山(太宰府)、基肄城(基山町)を築いたが、それを技術的に指導したのは百済の遺民であった。当時、日本は中大兄皇子が支配権を握った天智朝で、天皇は百済の遺民を西日本一帯に移植させ、山野を開墾させた。
『続日本紀』のは飛鳥の地域(高市郡あたり)は渡来人が8、9割を占めるほどと書いている。彼らのような、かなり高い朝鮮文化をもった集団が密集して、飛鳥のような文化の中心地帯をつくりあげた。なぜ、飛鳥を都に選んだのか。やはり渡来人たちが故郷を意識したのではないか。故郷に似たところ。百済の都、扶余は飛鳥によく似ている。大和三山のような三山が扶余にはある。盆地のなかの低い山である。そこに錦江戸(白馬江)という大きな川が流れている。百済の遺民たちは大和に来て、三山など山河を見て、望郷の思いを深くしたに違いない。大和を日本人の心のふるさととよく言うが、古代、そこに住んでいたのは百済人とか新羅人だった。心のふるさととは扶余や新羅の都、慶州とか指しているともいえる。
飛鳥文化に最も影響を与えたのは高句麗、百済、新羅の3国のうちで、どこの国の色彩が濃いかといえば、百済といえる。日本が一番親しかったのは百済である。仏教文化が日本に来たのは、百済を通してだった。例えば石舞台のある島の宮を作ったのは百済の路子工(みちこのたくみ)といわれる。百済からは大工、陶工、金工、織物工など、たくさんの技能者が渡ってきた。
ここで、百済と新羅の比較をしたい。ソウルには百済を滅ぼしたときの新羅の将軍、キムユシンの銅像が、扶余には階伯(ケベク)将軍の銅像がそれぞれ建っている。階伯将軍はキムユシンが攻めてきたとき、十分の一ぐらいの兵力で戦って戦死した。今でも百済、扶余の文化人は新羅に対抗意識を持っている。百済文化再発見運動を熱心にやっている。その一人、郷土史家、李夕湖氏は司馬遼太郎の『街道をゆく2 韓のくに紀行』(朝日新聞社)にも出てくる。
ここに紹介する万葉歌人の山上憶良、文官の鬼室集斯は百済の遺民(亡命者)で、二人とも近江を拠点に活躍した人物である。
2009年7月15日
「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」9:嶋村初吉
6月8日から25日にかけ8回にわたり連載した嶋村初吉さん(ジャーナリスト)の「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」の第2弾は「百済の遺民、山上憶良と鬼室集斯」です。通し番号で9回目からスタートになります。8回連載の予定です。
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