'."\n" ?> 島村初吉の「ブログ」:「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」2
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2009年6月 9日

「日韓あわせ鏡の世界~韓国の中の日本、日本の中の韓国~」2

 朝鮮の土となった日本人―浅川巧― 2


                      


浅川巧(1891-1931)とは
朝鮮林業試験場技手、朝鮮工芸研究家。1914年、朝鮮陶磁研究家の兄、伯教(のりたか)を頼って朝鮮に渡った。朝鮮林業試験場に勤務して、養苗に従事し、『樹苗要請指針、第一号』などを書いた。1924年には柳宗悦とはかって、京城に朝鮮民族美術館を設置した。その後『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』を著した。(中略)ソウルにある浅川の墓は、今も朝鮮人によって守られている。       (『朝鮮人物事典』大和書房より)

浅川巧の生まれた家は農業兼紺屋を営んでいた。巧の誕生半年前に父の如作は31歳という若さで病死していた。巧には7歳年上の兄、伯教、4歳年上の姉、栄がおり、母親のけいが亡夫の後を女手ひとつで守った。巧は、二人の祖父から感化を受けた。
そのうちの独り、父方の祖父、小尾伝右衛門は農業を生業する傍ら、俳句をたしなんだ。連句は達者だったといわれる。村の世話役で、事件が起こると頼まれて行っては事件を片付けてくる。結婚のことから、夫婦喧嘩の仲裁、若い男女の駆け落ちまで、面倒をみた。働いて暇があれば読書に精を出し、眠りにつく前に、その日の出来事を俳句にまとめた。

「敬愛する祖父よ、生まれし時すでに、父の亡かりし私は、あなたの慈愛と感化とを多分に受けしことを思う。清貧に安んじ、働くことの悦び、郷党を導くに温情を以てし、村事に当つて公平無私なりしその生涯は追慕するだに嬉し」

生まれる前に父を亡くしていた巧は、祖父の愛情を受けて育ち、影響を受けた。
「お爺さんの性質を最もよく受けて居るものは弟であった。年を拾ふに従つて益々お爺さんに似てきた」と兄の伯教は言っている。

浅川巧は、兄の伯教を頼って朝鮮に渡り、朝鮮総督府林業試験場に勤めるかたわら、陶磁器を通じて朝鮮の美の素晴らしさを伝えた。朝鮮語を習得した彼は、普段、朝鮮人と同じ服を着て過ごし、朝鮮の家庭料理を好んで食べた。彼と交わる朝鮮人は、偏見のない彼の心根に感動し、41歳で亡くなるまで親しく接した。巧を朝鮮に呼び寄せた兄の伯教(のりたか)は教師を勤めながら、朝鮮各地の窯跡を探訪して、その復元にも取り組んだ。兄弟二人の活動は、哲学者であり民芸運動の指導者である柳宗悦の共感を呼び、朝鮮民族美術館運動に発展した。

浅川伯教・巧兄弟と深い付き合いのあった宗教哲学者で、民芸運動の指導者、柳宗悦は、巧の人柄を次のように語る。
「私は色々の人に廻り逢ったが、彼位い自分を殺すことの出来る人はなかった。そうしてその事程彼を活かしたものもなかった。大体人間は二様に分かれる傾きがある。どこ迄も自我を守って了う人といつまでも自分を棄てる事の出来る人とである。浅川は後者の典型的な人であった。不思議にもそれが浅川を素晴らしい人間に活かした。彼の徳望は此性格から湧き出たと思える。彼は実に謙譲だった。之が彼の存在を荘厳なものに変えた。少しも自分を傷めることなく自分を殺し得た彼には、不思議な力があった」(「挿絵小註」『工芸』第40号より)

1913年5月、兄の浅川伯教が京城に居を構え、翌1914年5月、巧が朝鮮へ向かった。当時、在朝日本人は約29万人。韓国併合から4年しか経っていなかった。

浅川伯教は京城で小学校教員をしながら、暇を見つけては骨董屋に出入りし、朝鮮陶磁器を蒐集していた。ある道具屋の前で、白い壺と出会った。穏やかに膨らんだ丸い壺に心ひかれ、店に入り、買って帰った。「高麗の青磁は過去の冷たい美しさだがこの白磁は現在の私の血に通ふ生きた友である。これには間違いない。私の眼が開けたのだ、よいものを見た」。こう伯教は小躍りした。これが日本人と李朝白磁との最初の出会いとなった。伯教は、白磁を携え、千葉県・我孫子の柳宗悦を訪ねた。手土産として差し出した「面取染付秋草文壺」に、柳宗悦はうなった。「まるで小さな貴婦人のようだ」。柳宗悦も、この白磁を通して朝鮮の美にのめりこんでいく。
浅川伯教は後に、教員を辞め、朝鮮陶磁の窯場を調査して廻り、その成果を柳の雑誌に次々と書き、朝鮮陶磁器の歴史を日本に伝えていく。(次回は17日に掲載します)

2009年6月 9日 02:00

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