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    <title>大山勝男の「フリムン通信」</title>
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    <title>ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」：大山勝男</title>
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    <published>2009-06-17T01:29:23Z</published>
    <updated>2009-06-17T01:34:28Z</updated>

    <summary>第八章《晩年》 真の姿は〝盤上の哲学者〟反骨無垢の生き方を貫く ◎坂田、「何を今さら木村が」と ▽木村会長の経済援助を拒否 　一九四一（昭和１６）年十二月に太平洋戦争が勃発し、戦局の悪化で将棋界も対局...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>第八章《晩年》<br />
真の姿は〝盤上の哲学者〟反骨無垢の生き方を貫く</strong></p>

<p><strong>◎坂田、「何を今さら木村が」と</strong><br />
▽木村会長の経済援助を拒否<br />
　一九四一（昭和１６）年十二月に太平洋戦争が勃発し、戦局の悪化で将棋界も対局、稽古先が減少し、棋士の生活も厳しい経済状況が続くことになる。四四年には将棋大成会の木村義雄会長が坂田の経済的な窮状を聞き、坂田門下の星田五段を通して、経済的援助を申し出るが坂田は断わっている。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p> 坂田は自ら「名人」を名乗っていたが、木村は認めていなかった。坂田は「何をいまさら木村が」と、ライバル心むき出しの言葉が出たという。坂田にとって当時の東京を中心とする将棋界への反骨心からでた魂の叫びの言葉だった。</p>

<p>◎戦時中もひょうひょうとした人間性変わらず<br />
▽初代通天閣、火災で焼失<br />
　第二次世界大戦中の一九四三（昭和１８）年一月、通天閣は脚下にあった映画館・大橋座の火災に巻き込まれて焼失。解体されることになり、鉄材は軍需資材として大阪府に「献納」という名目で一九四三年二月から塔は解体され、初代通天閣はその姿を消した。<br />
　戦時体制の中、四四年（昭和１９）年の晩秋、将棋観戦記者で当時は歩兵連隊の将校だった倉島竹二郎が、京都で偶然坂田を目撃した。倉島はその時の光景をこう語っている。</p>

<p>　「信玄袋をブラブラさせ、白扇で拍子をとるようにして、ユックリ、ユックリと岡崎の方に歩いていった。斜陽がその黒紋付きの後姿を赤々と染めていたが、私の目には広い街中に坂田翁だけしかいないように見えた。それほど大きく堂々と見えた（後略）」（『勝負師群像』「将棋の王さま」）<br />
　劇作家、北条が描く「王将」の三吉像とは違う。厳しい戦況の中にもかかわらず坂田はおしゃれに気を使い、飄々（ひょうひょう）とした人柄を垣間見せるひとコマである。</p>

<p>▽坂田、晩年まで将棋に命を掛ける<br />
　終戦の時の一九四五（昭和２０）年三月十三日、新世界一帯はアメリカ空軍による大阪大空襲で被災、壊滅した。<br />
　終戦の翌年にも、坂田の実直さを垣間見せるエピソードが残っている。<br />
　<br />
　坂田は終戦の翌年（１９４６年）七月、再び名人戦に出ようと主催する毎日新聞の学芸部を訪れた。応対に出たのは当時の学芸部長、藤田信勝であった。ただ、坂田は名刺をもらっても文字が読めなかった。坂田は藤田に「部長さんによろしく」と丁重に言って帰ったが、家に帰って娘の玉江さんにその名刺を見せて、新聞社の話をしたら、「お父さんが、今お会いした方が部長さんですよ」と教えてももらい、すぐさま坂田は電話で藤田に詫びたというエピソードが残っている。藤田も「ぜひ、坂田に指して貰おうと思っていた」という。<br />
　しかし、坂田はそれから一週間後の七月二十三日、奇しくも四カ月前に亡くなった終世のライバル、関根金次郎の後を追うように大阪市東住吉区田辺東之町の自宅で静かに息を引き取った。享年七十七歳、将棋に命を捧げた人生だった。</p>

<p>▽「そちらに行ったらお詫びします」と劇作家、北条<br />
　劇作家、北条秀司（１９０２年１１月―１９９６年５月）は坂田が死去後、「新国劇二月興行」筋書で「坂田翁への手紙」（一九五二年発行）でこう述懐している。</p>

<p>　「先生のご生涯はずいぶんと複雑な、波乱に富まれたご生涯でした。しかしそれがそのまま芝居になるというわけには行きませんでした。どうしてもいろいろと手を替え品を替えて、面白くしなくてはなりませんでした。そしてそれをやつたために、先生を知られる皆さんからずいぶん叱られました。しかし、もう一ぺん申しますが、わたしは先生を主人公にして、お客さんをただ面白がらせる芝居を書こうとしたのではありません」と北条自身、脚本家、創作者として「人間・坂田像」を迫ろうとした人物表現だったと弁明している。<br />
　そして、北条は自分の真意は「観る人を舞台に引き寄せて、先生という人の本当の姿を正しく掴（つか）ませようとしたのです。先生という不世出の天才の生涯を熟観させることによって観る人の胸に人間を愛する熱情、人生に対する感動を強く浸み込ませようと企んだのです」と脚本の真意を解説しながらも「（略）先生、本当に長い間ご迷惑でした。では、どうか安らかにお眠り下さい。そちらに行ったら色々とお詫びいたします」と記述している。</p>

<p>▽時の人気俳優が<br />
映画、舞台、テレビで三吉役を演じる<br />
　北条の戯曲「王将」は一九四七年六月「有楽座」で新国劇の舞台劇として辰巳柳太郎の主演で公演されたのを皮切りに、四八年には阪東妻三郎の主演で初映画化、その後も辰巳柳太郎、三国連太郎、緒形拳、長門裕之ら時の人気俳優が坂田を演じて映画化、舞台化、テレビ化されてきた。しかし、その描く三吉像は縁台将棋で越中ふんどし姿で将棋を打つ光景や、関根との名人戦でさえも将棋の駒を投げて「パチッ」と大きな音を出したり、駒をなめなめ考え込む三吉像を描く。<br />
　一方の関根はビシッとした紋付袴をつけ洗練された江戸っ子のイメージを醸し出す演出だ。<br />
　北条自身が「坂田翁への手紙」で書いているように、坂田を無学で粗野な奇人、変人を強調した「三吉像」として描かれてきた。<br />
　確かに「東京」に対する反権力的な象徴としての「ナニワの三吉」像は庶民の心情をくすぶる。しかし、本当の坂田は実力社会と言われた将棋界での〝差別〟との戦いであった。そして何よりも坂田は「我執を捨て、一切の力を抜けば蓮根（れんこん）の糸にも乗れる。そういう風にならねば本当の将棋ではない...。」と述懐するような哲学者の一面を持ち合わせていた。</p>

<p>▽反骨心旺盛な律義者<br />
「真っ直ぐな心情」と大山名人<br />
　確かに坂田はエピソードには事欠かない人物だった。実際の三吉は律儀で、電車に乗っていても世話になった人の家に近づくと、そちらに向かって深く頭を下げた。将棋観戦記者の倉島竹二郎の家を訪ねては「大阪の坂田でございます」といつまでも頭を下げたという。<br />
　逆に、訪ねてきた客が帰ると玄関先で送るのが普通だが、弟子の星田啓三八段は「師匠はどんな客でも必ず家を出て相手の姿が見えなくなるまで、ずっと立って見送った。雨の日も、雪が降っても変わることがなかった」（大阪日日新聞、連載「なにわの王将　坂田三吉」）と話している。</p>

<p>　坂田の対局の記録係を務めた大山康晴十五世名人（故人）は「昭和十二年初段になった私は、何度か記録係をさせて頂いた。その都度五円を小使いに、といってくださった。当時の五円と言えばうどんなら七十杯、カレーだと五十皿、銭湯だと優に百回、という金額であった。サラリーマンで月給が三十円もらう人は相当な地位の人だったと思う。非常に律儀で、とにかく『真っ直ぐ』な心情だ。」と坂田への思いを吐露している。</p>

<p>　当時、朝日新聞の政治記者だった水口正一は同社の将棋担当の嘱託だったころの坂田をこう評している。<br />
　「...ちょこなんとした、あまり風采（ふうさい）の上がらない、小商人のような背の低い風ぼう、謙虚なものごし、たくまざる素朴な言葉、まったく庶民そのものの姿がそこにうかがわれるのではないか」（大阪日日新聞１９７２年１１月、大阪人物史「なにわを築いた人々」の「なにわの王将　阪田三吉①」）</p>

<p>　日本将棋連盟理事を長く務めた岡崎史明八段（１９０７年―１９７９年）も坂田について「よく弟子を可愛がり、人づきあいもよく金の使い方もきれいでした。とくに世話になった人には立派な将棋盤とコマをプレゼントするなど義理人情をわきまえた人でした」（毎日新聞一九六二年七月二十二日）と回想している。</p>

<p>▽日本将棋連盟、坂田に「王将」を追贈<br />
今も墓碑へ多くの参拝の姿<br />
　坂田は生前、自分の将棋についてこう語っている。<br />
　「ぼく以外の人たちは、坂田が対局してどんな将棋を指すか、それは或いは興味ある事柄であろう。けれどもぼく自身は、そんな遊び半分なつもりで『負かしてやろう』とか、『勝ってやろう』とかいう単純な考えで対局を迫られては迷惑至極。ぼくの将棋は生命そのものなのだ」（「週刊朝日」１９３０年５月４日号）</p>

<p>　晩年の坂田は不遇であったが、死後十年経過した一九五五（昭和３０）年十月一日、日本将棋連盟（当時＝萩原淳会長）は、大阪府豊中市の市立服部霊園に坂田の墓碑を建立した。この墓碑には「明治大正の棋界不振時代に棋道一途に研鑽練磨（けんさんれんま）、その全盛時代には、日本一の棋力と謳われた。性温厚にして名人の風格を備え、奇行極めて多く、先生に傾倒する愛棋家少なからず、今なおその人柄を偲ぶ者多し―（略）」と刻まれている。今も、坂田の将棋一筋の反骨無垢な生き方に共鳴した人たちが参拝に訪れている。<br />
（おわり）</p>]]>
    </content>
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    <title>ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」：大山勝男</title>
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    <published>2009-06-16T16:59:39Z</published>
    <updated>2009-06-16T17:05:43Z</updated>

    <summary>第七章《悟り》㊦ 坂田、再び「端歩」を突くも敗戦 木村の不敗神話　〝常勝将軍〟と呼ばれるまでに ▽木村、第１期実力制名人に　 　「京都南禅寺」での木村義雄八段との戦いは坂田が終始劣勢だった。坂田は、火...</summary>
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        <![CDATA[<p><big>第七章《悟り》㊦</big></p>

<p><strong>坂田、再び「端歩」を突くも敗戦</strong></p>

<p><strong>木村の不敗神話　〝常勝将軍〟と呼ばれるまでに</strong></p>

<p>▽木村、第１期実力制名人に　</p>

<p>　「京都南禅寺」での木村義雄八段との戦いは坂田が終始劣勢だった。坂田は、火鉢の灰をかき回すなど焦りの色が濃く、付き添いの娘、玉枝をしきりに見ていたという。敗れた坂田は一九三七（昭和１２）年三月には三九歳の花田長太郎八段と京都・天龍寺で対局し、初手で木村戦と同じく「９四歩」と端歩を突くが敗れた。このあと花田八段を最終戦で破った木村八段が第一期実力制名人に就位した。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　当時、木村は三十一歳の若さだった。この名人戦は一九二七年創立の旧日本将棋連盟によってつくられた「名人戦」の初代名人を決めるリーグ戦の最中に行われた。坂田は当時、連盟には加入していない変則的なリーグ対局だった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogikurabu-thumb-150x200-154-155.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogikurabu-thumb-150x200-154-155.html','popup','width=150,height=200,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogikurabu-thumb-150x200-154-thumb-150x200-155.jpg" width="150" height="200" alt="shogikurabu.jpgのサムネール画像" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span></p>

<p>　その後、木村は「常勝将軍」と呼ばれるほどの不敗を誇り、大相撲の大横綱、双葉山と並んで国民からよく知られる存在となった。結局、木村は第十一期の名人戦で大山康晴に敗れ、「よき後継者を得た」の名文句を残して引退するまで将棋界の第一人者として活躍した。</p>

<p><br />
▽坂田が文壇の大御所、菊池の支援で<br />
名人戦挑戦者リーグに参戦</p>

<p>　太平洋（日中）戦争は泥沼化し、一九三八（昭和１３）年、日本は第一次近衛内閣の時に戦争遂行のため、「国家総動員法」を公布する。この法律は国家のすべての人的、物的資源を政府が統制運用できる戦争遂行のための法律だった。<br />
　この年の二月、坂田は文芸春秋社の社長で小説家の菊池寛（１８８８年―１９４８年）を訪ね再び、将棋対局の斡旋を依頼している。当時、菊池は、〝文壇の大御所〟的な存在だった。また、菊池は「人生は一局の将棋なり　指し直す能わず」という名文句を残すほど将棋にも造詣が深かった。<br />
　坂田に同情的な菊池の尽力もあり、坂田は第二期名人戦挑戦者決定八段リーグに参加した。この名人戦で坂田は前半五戦目までは一勝四敗と苦戦した。第六戦で花田長太郎八段と対局、坂田が勝ち、二勝六敗で何とか後半戦の参加資格を獲得することができた。当時のリーグ戦は二年かけての総当たり戦だった。この時の前半戦のリーグ戦は盤の則で雑音が入れる人物がいたので、十年以上のブランクがある坂田にとって、勝敗に大きく影響したと言われている。</p>

<p><br />
▽〝解放運動の父〟松本治一郎が立ち会い<br />
坂田へ無言の激励<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogibannzoutei-183.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogibannzoutei-183.html','popup','width=500,height=667,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogibannzoutei-thumb-150x200-183.jpg" width="150" height="200" alt="shogibannzoutei.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>松本に将棋盤一式贈呈</em></p>

<p>　二年目の後半戦の対局には、国会議員で「解放運動の父」と呼ばれた水平社運動の指導者、松本治一郎（１８８７年―１９６６年）が坂田の対局に立会った。<br />
　松本は坂田の同郷で、部落解放運動にまい進していた泉野利喜蔵（１９０２年―１９４４年）から、坂田の対局の立ち会いの依頼を受けた。そして、松本は三日間ぶっ通しで東京での坂田の対局の立ち会いを務め、坂田に無言の激励を送った。前半戦では負け込んだが坂田だが、松本が応援に駆けつけた後半戦は五勝二敗と大きく勝ち越した。坂田は、前半後半通して七勝八敗で総合四位と善戦した。<br />
　結局、リーグ戦では関根金次郎の一番弟子、土居市太郎（どいいちたろう＝名誉名人、１８８７年―１９７３年）が全勝で第一期名人木村義雄に挑戦したが、一勝四敗で敗れ、木村が初防衛に成功した。</p>

<p>　松本はその当時の経緯をこう話している。</p>

<p>「あのころ私とともに全国をまわっていた堺市の、いまは故人になった泉野利喜蔵君から『坂田がこう言っている』といってきたので、それじゃ立会いになってやろうと引き受けた訳だ。早速東京の将棋連盟事務所に行って『坂田は老人で気が弱くなっているから、なごやかに指してくれ』と頼み、立会の了解も得た。...」（一九五七年六月三日朝日新聞夕刊『王将』をめぐる秘話より）</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/kaihouunndou-186.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/kaihouunndou-186.html','popup','width=500,height=713,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/kaihouunndou-thumb-150x213-186.jpg" width="150" height="213" alt="kaihouunndou.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>解放運動家の３人</em></p>

<p>　堺市の舳松（へのまつ）人権歴史館の宮野好司さんは「当時の７０歳といえば、現在でいえば、８０、９０歳の年齢ですよ。」と話す。実際、当時の棋戦は将棋に勝つためには神経戦術や、相手の考えを乱すための妨害戦術がしばしば行われたという。すでに六十八歳の老齢の域に達していた坂田にとって、東京での戦いは肉体的にも精神的にも相当にきつかったと想像される。<br />
　坂田のそばで三日間、暗黙の励ましを送り続けた松本の存在は、坂田にとっては大きかった。舳松人権歴史館には、坂田が松本に感謝して寄贈した将棋の一式が展示されている。その将棋盤を覆う蓋の裏には黒々とした墨汁も鮮やかに「贈　松本治一郎氏　昭和十四年六月　名人　坂田三吉　」と揮毫（記号）され、印も押されている。</p>

<p><br />
▽菊池寛、将棋界の偏狭さを批判</p>

<p>　菊地寛は「将棋世界」の匿名欄で坂田の悪口が投書されていることに、坂田に同情し棋界を批判している。<br />
　「実戦に遠ざかること二十年近く、近代将棋を知らずと言われ、しかも七十を越した老人である。それがノコノコと出て来て、神田や萩原を負かすことは大手柄でその資質性の強靭（きょうじん）と、その全盛時代の棋力の充実とを思わせて何人も喝采してもいいことだと思う。それだのに、大成会公認と称する『将棋世界』の匿名欄などで機会あるごとに坂田の悪口を言っているなど、将棋界の偏狭（へんきょう）を示しているようで見苦しい（後略）」（一九三〇年「話の塵」）</p>]]>
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    <title>ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」：大山勝男</title>
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    <published>2009-06-16T16:51:05Z</published>
    <updated>2009-06-16T16:58:48Z</updated>

    <summary>第七章《悟り》㊤ 伝説の「９四歩」、坂田の反骨魂 京都・南禅寺の決戦で ▽坂田、木村待望の対戦 　戦時色が濃くなった一九三七（昭和１２）年二月、京都・南禅寺で坂田三吉と木村義雄八段（１９０５年―１９８...</summary>
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        <![CDATA[<p><big>第七章《悟り》㊤</big><br />
<strong>伝説の「９四歩」、坂田の反骨魂<br />
京都・南禅寺の決戦で</strong></p>

<p>▽坂田、木村待望の対戦</p>

<p>　戦時色が濃くなった一九三七（昭和１２）年二月、京都・南禅寺で坂田三吉と木村義雄八段（１９０５年―１９８６年）との特別対局が行われた。読売新聞社が主催した対局で一九三六年十二月二十四日の同紙上には「待望の巨人今ぞ起つ！　〝関西の棋聖〟坂田三吉氏　木村、花田両八段と闘う」と見出しが躍っている。当時の読売新聞はまだ、小さな新聞社で新聞紙面にはこの対局にかける並々ならぬ意気込みが感じられる。一方、名人戦を主催する東京日日新聞（現・毎日新聞）は棋界の最高権威である名人位の失墜を危惧して反発したが、最後は木村が「将棋大成会を脱退し、個人として参加する」ことを宣言したため、坂田との対局が実現したという。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sakatanohude-175.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sakatanohude-175.html','popup','width=500,height=375,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sakatanohude-thumb-150x112-175.jpg" width="150" height="112" alt="sakatanohude.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>坂田の筆</em></p>

<p>　この年の七月、太平洋戦争が始まった。ファシスト党首、ベニート・ムッソリーニ率いるイタリアが連合国側に対抗して日独防共協定に参加し、のちの日独伊三国同盟のきっかけとなる。また、国内に目を転ずれば戦時下における天皇直属の最高統帥機関「大本営」が設置され、日本は完全な戦時下体制に突入することになる。この戦争において、日本国内では、一九四五（昭和２０）年八月十四日までの三年九カ月の間、新聞・ラジオは大本営の発表をそのまま報じた。特に敗戦直前には戦果を誇張し、逆に被害は矮小化する傾向が顕著に現れていた。しかし、国民が大本営の発表に公然と疑いをはさむことは許されなかった。</p>

<p><br />
▽１手遅れの悪手</p>

<p>　ここで、木村の棋士歴に触れておく。木村は東京・浅草の将棋道場で指していたところを関根金次郎に見込まれた。極貧生活を体験した木村は、ハングリー精神も旺盛だった。坂田との対戦が実現した当時、すでに木村は近代将棋の第一人者と目されていた。それだけに木村と関西将棋の第一人者、坂田との一戦は戦前から大評判となっていた。<br />
　一九三七（昭和１２）年二月五日、持ち時間は各三十時間、対局七日間、外出禁止の死闘の幕が切っておとされた。三十一歳の木村に対し、当時の坂田はすでに六十七歳の高齢だった。のちに「南禅寺の決戦」と呼ばれることになるこの対局で、坂田は木村八段の初手「７六歩」に対し、二手目に「９四歩」と指した。一番右の「歩」を前に出し、将棋の素人でも「一手遅れの悪手」と思われた。しかし、この手はあくまで坂田三吉流の将棋手法の真骨頂ともいえた。坂田は振りゴマで後手番だったため、結局２手遅れだった。対局そのものは約二十年近く実践から遠ざかっていた坂田が終始劣勢だった。余裕を持って指すことができた木村は、三日目の終了後には報知新聞からの依頼記事を書いたり、酒を飲むほどリラックスしていたという。</p>

<p><br />
◎定跡を知らぬ、無学の坂田に勝てなかったのは事実であるまいか<br />
（坂田氏）</p>

<p>▽「興味無限の名手」と孫弟子、内藤９段</p>

<p>　坂田の孫弟子にあたる内藤国雄９段は、この対決を自著「坂田三吉名局集」（講談社）の中で、「三百七十年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と記している。世紀の一大対局は、熱戦の末、坂田が９５手で敗れた。坂田の「９四歩」の指し手を内藤九段は「『興味無限の名手』『新手の発見』です。あえて２手出遅れた初手を指した六十八歳の坂田先生は、将棋に対する挑戦をすることで将棋の世界を拡大しようとした」と解説し、坂田を賞賛した。</p>

<p>　一方で自分の将棋が批判されたことに対して坂田は「『坂田の将棋は定跡がない、だから坂田のは将棋じゃない』」とこう語っている。ぼくは心ひそかに笑ってやった。『今にこの坂田の信じる本当の将棋が分かるようになる』と、案の定そうなってきた。将棋じゃないといった将棋が、今東京では盛んに打たれている。実力の時代がきたのだ。定跡はいわば将棋の学問の一種だろう。しかし有難がっていた定跡を知らぬ、この一介の無学な坂田に勝てなかったのは事実であるまいか。定跡を多く知り、多く研究したものが強いのなら老人が一番強かろう」（「週刊朝日」１９３０年５月４日号）と坂田流の将棋の心髄を語っている。</p>

<p><br />
◎坂田は将棋の可能性の追究としては、最も飛躍していた<br />
（織田氏）<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/birikenn-178.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/birikenn-178.html','popup','width=480,height=640,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/birikenn-thumb-150x200-178.jpg" width="150" height="200" alt="birikenn.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>通天閣のビリケン像</em></p>

<p>▽作家、オダサクも坂田の「端歩」を賞賛</p>

<p>　坂田の「９四歩」の指し手は作家、織田作之助（１９１３年―１９４７年）の目にもとまった。<br />
織田は小説「夫婦善哉（めおとぜんざい）」などの作品で知られる大阪出身の無頼派と呼ばれた当時の流行作家。織田は一九四六（昭和２１）年十二月号の文芸誌「改造」に「可能性の文学」（のちに単行本『可能性の文学』昭和２２年カホリ書房　他、全集、講談社文芸文庫なども刊行）として文芸評論を発表した。その評論で織田は坂田流の「端歩」の将棋とフランスの哲学者、サルトルの実存主義をつなげて、「六十八歳の坂田三吉が実験した端の歩突きは、善悪を別として、将棋の可能性の追究としては、最も飛躍していた」と、木村との「京都南禅寺」での坂田流将棋を絶賛した。</p>

<p><br />
▽オダサク、文壇を批判</p>

<p>　そして、織田は文壇が幅を利かしていた当時の文学界の潮流に対して、「ところが、顧みて日本の文壇を考えると、今なお無気力なオルソドックスが最高権威を持っていて、老大家は定跡から一歩も出ない...『可能性の文学』は果たして可能であろうか」と、当時の文壇を痛烈に批判した。<br />
　そして、自らの文学を省みて「しかし、われわれは『可能性の文学』を日本の文学の可能としなければ、もはや近代の仲間入りはできない。...白紙にもどって、はじめて虚無の強さよりの『可能性の文学』の創造が可能になり、小説本来の面白さというものが近代の息吹をもって日本の文壇に生まれるのではあるまいか」と自らの文学論を展開した。この評論が文学評論としては三三歳で早世した織田の最後の作品となった。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」：大山勝男</title>
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    <published>2009-06-16T16:44:23Z</published>
    <updated>2009-06-16T16:50:29Z</updated>

    <summary>第六章《坂田、将棋名人就位》 坂田、名人位就位強行 ▽東京将棋連盟反発 　戦前の将棋界は団体がばらばらで１９２４年（大正１３）に有力三派が一本化して「東京将棋連盟」が設立された。関西には「東京将棋連盟...</summary>
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        <![CDATA[<p><big>第六章《坂田、将棋名人就位》</big><br />
<strong>坂田、名人位就位強行</strong></p>

<p>▽東京将棋連盟反発</p>

<p>　戦前の将棋界は団体がばらばらで１９２４年（大正１３）に有力三派が一本化して「東京将棋連盟」が設立された。関西には「東京将棋連盟」のような組織はなかったが、坂田が主宰する将棋道場を中心に政財界と大阪朝日新聞が中心になって東京への対抗意識をむきだしにしていた。小野名人は関根金次郎（１８６８年－１９４６年）を嫌い生前、坂田を名人に推挙していた。このため、「坂田を名人に」という気運は関西を中心に高まっていたが、１９２１（大正１０）年に小野が亡くなると、坂田より二歳年上の関根が名人に就任した。坂田自身も「心・技・体」が揃った関根が名人にふさわしいと分かっていた。関根の名人就位の時には坂田も上京し、祝いの席に参列した。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　ところが、四年後の一九二五（大正１４）年四月十日、大阪市東区平野町の「堺卯楼（さかうろう）」で「坂田名人推薦及び祝賀開会」が強行された。この名人就位には坂田の後援者、柳沢保恵（やなぎさわ・やすとし＝１８７０年―１９３６年）伯爵や後の通産大臣高橋龍太郎、大阪朝日新聞、京阪神と東京の財界有力者八十余人が参列し、坂田の名人就任を主張した。坂田はこれらの支援の声を背景に名人就任を強行した。</p>

<p>◎永くとはいわぬ、名人位は関根氏に<br />
（関根の弟子、大崎７段）<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sekine-169.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sekine-169.html','popup','width=500,height=624,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sekine-thumb-150x187-169.jpg" width="150" height="187" alt="sekine.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>６章関根金次郎名人</em></p>

<p>　坂田のこの突然の名人就位は、東京将棋連盟の意思を無視する形で強行された、。この強行の背景には坂田と東京将棋連盟の大崎熊雄七段との密約説があげられる。<br />
　坂田は名人就位を強行した背景をこう暴露した。<br />
　「（前略）そのとき大崎氏（熊雄七段）が『永くとはいわぬ、今回の名人位は関根氏の棋功を認めて譲られたい』と懇請して来たのだ。坂田もこれを承諾した。そこで、関根氏は名人となったのだが『永くとはいわぬ』が実現しない（後略）」（「週刊朝日」一九三〇年五月四日号）</p>

<p>　一方、坂田の名人就位について東京将棋連盟は「決議　東京将棋連盟はさきに坂田八段の名人昇格の風説ありたるに対し、反対の決議を為したるも、坂田氏は何等顧慮する事なくして名人披露を為したり。東京将棋連盟は飽くまで斯かる暴挙を承認せず。」（大正十四年四月十六日東京将棋連盟）と決議文を発表した。</p>

<p><br />
◎「あんたは将棋が命や。阿呆な将棋は指しなはんなや」と妻コユウ<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/tuma-166.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/tuma-166.html','popup','width=500,height=672,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/tuma-thumb-150x201-166.jpg" width="150" height="201" alt="tuma.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>三吉の妻、コユウ。映画や戯曲では「小春」と呼ばれた</em></p>

<p>▽掛けがいのないコユウの存在</p>

<p>　一八二七（昭和２）年三月、坂田は名人として坂田三吉講評「将棋大全」を発行した。一方、東西に分裂していた将棋界も同年に「東京将棋連盟」と大阪の木見金治郎八段派の「棋正会」がひとつになり「日本将棋連盟」を創立。会長は関根金治郎、大阪支部長に木見が就任した。<br />
　こんな中、坂田を支え続けた妻コユウが同年十一月十九日、享年四十六歳の若さで亡くなった。坂田が名人に就位した二年七カ月後だった。</p>

<p>　坂田はコユウについて「亭主思いで、随分苦労をしてくれたが今やっと生活も楽になり、これから子供の立身出世も見られようという時になってヤレヤレと思う間もなく死んでしまったのである。全く苦労しに生まれて来た女である。それを思うと気の毒でならぬ。」と悲しんだ。<br />
　そしてコユウの最後の言葉として「アレは死ぬ時わたしを枕元に呼んで『あんたは将棋が命や。阿呆（あほ）な将棋は指しなはんなや』といって励みをつけてくれた」と回想し、その後の坂田は一局、一局を全身全霊で戦い、生涯、「名人」に恥じない将棋を指し続けた。坂田にとってコユウの存在は掛けがいのない存在だった。</p>

<p><br />
▽坂田、大阪朝日新聞の嘱託に</p>

<p>　坂田はコユウの死後、大阪朝日新聞社の招請で一九二八年四月から「将棋に関する事務嘱託」となり、月百五十円の手当を受けた。当時としては高給で坂田は「朝日大盤将棋大会」で大盤講義をしたり、新聞紙上で「坂田名人実話・将棋哲学」を連載した。また、週刊朝日には「将来、東京とは対局するが...時期が来ていない」と当時の坂田の心情が掲載された。<br />
　坂田が大阪朝日新聞の嘱託となった二八年には、第一回の普通選挙が実施された。一方で、政府による社会主義者、共産主義者への弾圧事件「３・１５事件」が起こった。この事件は社会主義的な政党の活動に危機感を抱いた時の田中義一内閣が、同年三月十五日に治安維持法違反容疑で日本共産党（当時は非合法）、労働農民党などの関係者千六百人が一斉に検挙された事件。<br />
　プロレタリア作家、小林多喜二は「３・１５事件」を題材に雑誌「戦旗」（１９２８年１１月・１２月号、のちに発売禁止）に作品「一九二八年三月十五日」を発表。この作品は特別高等警察（特高）による拷問の描写が描かれており、特高の怒りを買ったといわれる。<br />
　また、世界に目を転ずれば「世界恐慌」が始まっていた。さらに三一年「満州事変」、三二年「上海事変」が勃発。翌三三年には日本は国際連盟を脱退するなど太平洋戦争へ向けて、走り出していた。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sakatahude-172.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sakatahude-172.html','popup','width=500,height=667,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/sakatahude-thumb-150x200-172.jpg" width="150" height="200" alt="sakatahude.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>内藤９段坂田の筆を見学</em>　</p>

<p>▽坂田の最大の後援者、柳沢死去</p>

<p>　坂田の後援者だった柳沢伯爵は一九三四（昭和９）年八月の文芸春秋八月号で「坂田名人の為に」を寄稿した。<br />
　同誌上には「（前略）大阪名人坂田三吉氏に対し、近頃種々の手段を講じて同氏と在京の高段の棋士との対局を望む向きがすこぶる多く、現に某々新聞社長、或いは大阪に赴いて直接運動を進め、又は東京において策動して何とか坂田氏対それら高段者の試合を実現したいものだと奔走されたことを聞いている。（後略）」と当時の棋界の状況を述べている。</p>

<p>　一九三五（昭和１０）年三月、日本将棋連盟は総会を開き、棋道改革案を決議。伝統の一世名人制を廃止し、短期名人制度の導入などを発表した。同年六月には日本将棋連盟、東京日日新聞（のちの毎日新聞）、大阪毎日新聞が主催して短期名人制度の新名人決定「八段特別リーグ制」が開幕した。三六年五月には坂田の最大の後援者だった柳沢が亡くなった。柳沢は名人・小野五平に坂田の八段昇段を斡旋し、小野没後の名人継承では関根の就位には最後まで反対し、坂田が名人就位時の八十余名の推薦者の一人だった。<br />
　柳沢が亡くなった三六年には陸軍皇道派の青年将校によるクーデーター「２・２６事件」が起こった。また、同年十一月二十五日には日本、ドイツの間で共産インターナショナルに対する「日独防共協定」が調印された。翌年の三七年十一月にはイタリアが参加し、日独伊三国防共協定に発展し、日本は一気に太平洋戦争への道を突き進んでいくことになる。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」：大山勝男</title>
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    <published>2009-06-16T16:37:14Z</published>
    <updated>2009-06-16T16:43:54Z</updated>

    <summary>第五章《関西から関東へ》㊦ 坂田、故郷へ凱旋 ▽准名人に関根、坂田ら３人 　坂田は一九一三（大正２）年七月には、大阪朝日新聞社主催で兵庫県・箕面（みのお）の「朝日倶楽部」で関根八段とハンディのない平手...</summary>
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        <![CDATA[<p><big>第五章《関西から関東へ》㊦</big><br />
<strong>坂田、故郷へ凱旋</strong></p>

<p>▽准名人に関根、坂田ら３人</p>

<p>　坂田は一九一三（大正２）年七月には、大阪朝日新聞社主催で兵庫県・箕面（みのお）の「朝日倶楽部」で関根八段とハンディのない平手で対局し、平手対局二戦目で初めて関根を降した。これで、坂田は関根との対戦成績を十二勝十二敗一分と五分となった。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　四十五歳の時、坂田は柳沢保恵（やすとし）の推薦で小野五平名人から八段免許を授与された。<br />
　将棋界の序列は名人小野、准名人の八段は井上義雄（５２歳）、関根金次郎（４６歳）と坂田（４５歳）だった。坂田は一九一五年に、再び上京し井上八段と対局し勝利を収めた。<br />
　坂田が四十六歳の時に、娘フサエが誕生。その翌年坂田は三度目の上京し、関根八段と初の八段対局に挑み、二勝一敗で勝ち越した。また四十八歳の時の四度目の対局でも関根に二勝一敗と勝ち越すなど坂田にとってこの時期、最も脂の乗っていた時期だった。</p>

<p><br />
▽坂田、関西将棋界の明星</p>

<p>　坂田の活躍は奈良県の融和団体・大和同志会の機関誌「明治之光」に「名物男阪田八段」と紹介され、被差別部落の人物評伝「部落の人豪」にも「関西将棋界の明星、将棋八段坂田三吉」と紹介されるなど、被差別部落出身者にとっても坂田の活躍は大きな力添えを与えた。<br />
　一九二〇年十月、小野名人の九十歳誕生の祝賀会が東京の上野常磐華壇で開かれるため、坂田は上京した。また祝賀会で大崎熊雄七段と香落ち披露対局で自らが指した「角頭（かくとう）の歩突き」を坂田は「常套手段を脱する趣向である」と評した。</p>

<p><br />
▽名人位問題<br />
「先輩の関根８段が至当」と坂田</p>

<p>　翌一九二一（大正１０）年一月、小野名人が九十一歳で亡くなると名人位問題が起こった。小野は次期名人には、自身の名人就位のときに異論を唱え、免状発行でも軋轢（あつれき）のあった関根ではなく、坂田を考えていたようだ。しかし、江戸幕府によって制度化された将棋「名人」は明治以後、一九三五（昭和１０）年まで規定がつくられていなかったため、小野没後も誰が名人に就くかで棋界は紛糾した。<br />
　名人候補である準名人八段には関根金次郎、坂田三吉と関根門下の土居市太郎の三人がいた。関根を推す者は「有力なる門下生を多く輩出せしめ、棋界の功労」を主張した。一方、坂田を推す者は「賭と妥協の棋界よりの絶滅を極力強調して棋士品性の陶冶と関根氏を凌（しの）ぐ実力とによって名人就位当然説」を唱えた。</p>

<p>　坂田自身は名人就位についてどう考えていたのか。</p>

<p>　一九二一年一月三十日付の大阪朝日新聞紙上で坂田は「昨年十月名人が九十歳の祝賀大棋界に私が参加した際（中略）、名人の継承の事も生あるうちに考慮して置かなねば甚だ心縣（こころがか）りだとの事に、私は先輩関根八段が継ぐのが至当なる事を力説しました（後略）」と関根の名人就位に異論ないとの見解を紹介している。もう一人の八段の土居市太郎も関根の一番弟子であることなどから関根を推し結局、関根の名人就位が決まった。</p>

<p><br />
▽関根に草履を贈る</p>

<p>　同年五月八日、関根金次郎が将棋名人位に就き、名人披露式が東京・日比谷の「大松閣」で行われ、坂田も上京した。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/settajpg-157.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/settajpg-157.html','popup','width=500,height=544,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/settajpg-thumb-150x163-157.jpg" width="150" height="163" alt="settajpg.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></a></span><em>坂田の雪駄</em></p>

<p>　坂田はその祝賀会の席上、関根の名人就位を祝って自らが編んだ草履（ぞうり）を贈った。<br />
　「人はカネだけじゃない、心だ」と考える坂田にとって、自分ができる最大の心づくしは自らが子供の時から、生業としてきた草履を贈ることだった。その心情には、被差別部落出身である坂田の堅固なまでの人間としてのプライドを垣間みることができる。</p>

<p><br />
▽水平社運動の指導者、西光万吉、戯曲「浄火」で三吉を紹介</p>

<p>　この時期、社会情勢に目を向ければ一九二二（大正１１）年三月三日、京都で全国水平社創立大会が開かれ「水平社宣言」が宣言された。この宣言は日本の歴史上、初めて被差別部落民自身が自主的な運動で解放を勝ち取ることを高らかに謳っている。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/suiheisya-160.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/suiheisya-160.html','popup','width=500,height=516,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/suiheisya-thumb-150x154-160.jpg" width="150" height="154" alt="suiheisya.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>水平社宣言</em></p>

<p>　宣言は「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」で始まり、「人間は勦（いたわ）るものでなく尊敬すべきものだ」と謳われ、最後に「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」で締めくくっている。小説「橋のない川」で知られる作家の住井すゑ（故人）は水平社宣言は「わが国が誇る世界で初めての世界人権宣言」と絶賛した。そして住井は生前、講演会などで市民を前に「地球人類が、地球生物の一種として『平等』なのは〝法則〟です。人間社会の差別は、人為で、法則に背くものです」と差別を糾弾した。<br />
　しかし、現実には被差別部落を猟奇的に描いた雑誌「オールロマンス事件」が起こるなど差別事件は頻発していた。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/all-163.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/all-163.html','popup','width=500,height=375,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/all-thumb-150x112-163.jpg" width="150" height="112" alt="all.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>オールロマンス事件</em></p>

<p>　翌二三年には水平社宣言を起草した西光万吉（さいこうまんきち、本名清原一隆、１８９５年４月―１９７０年３月）が戯曲「浄火」を出版。浄火の舞台は坂田の出身地、堺市舳松（へのまつ）村の被差別地域で文中には三吉を幼少時の愛称「三んき」として紹介している。<br />
　この年、東京では関東大震災が発生したが、翌年九月東京に三つあった将棋組織、土居市太郎率いる「将棋同盟社」、大崎熊雄七段の「東京将棋研究会」、関根名人の「東京将棋倶楽部」が一つになり「東京将棋連盟」が創設された。</p>]]>
    </content>
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    <title>ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」：大山勝男</title>
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    <published>2009-06-16T16:28:34Z</published>
    <updated>2009-06-16T16:36:17Z</updated>

    <summary>　第五章《関西から関東へ》㊤ 坂田、決死の覚悟で初上京 ▽筆頭に、関西将棋研究会発足 　坂田は一九〇八（明治４１）年七月、六段の時に初めて関東（神奈川県）に遠征し、川井房郷六段、蓑太七郎五段らと対局。...</summary>
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        <![CDATA[<p>　<big>第五章《関西から関東へ》㊤</big><br />
<strong>坂田、決死の覚悟で初上京</strong></p>

<p>▽筆頭に、関西将棋研究会発足</p>

<p>　坂田は一九〇八（明治４１）年七月、六段の時に初めて関東（神奈川県）に遠征し、川井房郷六段、蓑太七郎五段らと対局。〇九年、坂田が三十九歳の時に息子義雄が誕生している。<br />
　この年の八月、東京では明治以後初めての将棋組織「将棋同盟社」が萬（よろず）朝報社を背景に井上義雄（八段）、関根金次郎ら棋士二十三人によって創立された。しかし、翌年十月には「将棋同盟社」（旧同盟会）を離脱した井上義雄が「将棋同志会」を組織したため、東京では将棋団体が二つとなった。</p>]]>
        <![CDATA[<p>▽坂田、自ら７段の実力と新聞に発表</p>

<p>　一方、四十歳の坂田は一九一〇（明治４３）年七月七日、自ら「優に七段の実力がある」と信じ東西の朝日新聞紙上に七段を発表。その後、大阪朝日新聞社（当時）が関根八段との対局を企画するが、関根が香香平（香落ち対局二番と平手対局一番）を望んだことから対局が実現しなかった。坂田にしてみれば、関根の言う「香香平」の対局条件では当時の段差では六段七分（ぶ）で坂田が望む「七段」の棋力が認められないことになる。坂田はこの勝負を断念することになった。<br />
　同年十月には坂田を筆頭に「関西将棋研究会」を福田箔昇斎ら十六人の正会員で発足した。翌年には、関西将棋研究会の機関誌「将棋雑誌」を創刊した。また、一二年に坂田は「将棋草薙之巻」「将棋虎之巻」を出版。京阪の将棋界は神戸新聞、大阪朝日新聞、大阪時事新報など各新聞社が後援するなどして繁栄した。<br />
　</p>

<p><br />
▽通天閣が建立、新世界一帯は歓楽街の様相<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/truutennkaku-148.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/truutennkaku-148.html','popup','width=500,height=667,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/truutennkaku-thumb-150x200-148.jpg" width="150" height="200" alt="truutennkaku.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></a></span><em>通天閣界隈（ジャンジャン横丁）</em></p>

<p>　一九一二（明治４５）年の七月に大阪・新世界には遊園地「ルナパーク」（月の園）が完成し、そのシンボルとなる通天閣も完成した。通天閣の電灯工事には当時、十七歳で大阪電灯に勤務していた松下幸之助（後に松下電器産業の創業者）が配線工として働いていた。一九二〇年からは二代目通天閣と同じように側面に「ライオン歯磨」の巨大なネオン広告が灯った。<br />
　この時の通天閣は凱旋門の上にフランス・パリのエッフェル塔を載せた様子を真似た形で現在の通天閣と外見が異なる。また、建つ位置も現在のものよりも南側にあった。<br />
　当時、東洋一の高さを誇った通天閣（９１㍍）からルナパークまではロープウェイで結ばれ、ルナーパーク内に置かれた〝幸運の神さま〟「ビリケン像」と共に人気を呼んだ。通天閣とルナパークの開業で、新世界界隈（かいわい）には芝居小屋や映画館、飲食店が集まりだした。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/tobita-151.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/tobita-151.html','popup','width=500,height=375,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/tobita-thumb-150x112-151.jpg" width="150" height="112" alt="tobita.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></a></span><em>飛田新地にある元遊郭</em></p>

<p>　また、現在のフェスティバルゲートのやや北あたりに国技館も建設された。一方、周辺地域でも市立天王寺動物園（１９１５年）、飛田遊郭（とびたゆうかく＝１９５８年）が開業するなど新世界一帯は大歓楽街地帯として栄えるようになった。しかし、ルナパークは現在のフェスティバルゲート（民事再生中）を彷彿（ほうふつ）させるように振るわず、一九二三（大正１２）年に閉園した。　</p>

<p><br />
▽「坂田が盤上で泣く」の名文句も</p>

<p>　一九一三（大正２）年四月、七段の実力を声明した坂田に、関根八段と対局する機会が巡って来た。初めて上京する坂田はその時の心境をこう回顧している。<br />
　<br />
　その時、坂田はプラットホームで見かけた男性に心打たれる。その男は乗客が走り騒ぐ駅で、懐手で空を見上げている。対局前の緊張で寝汗をかいた坂田は、その男を思い出し、ハッと気付く。「敵を前に自分はカチカチになりすぎている。一つ瓢箪（ひょうたん）の栓を抜いて、ふわっとした気持ちにならなければならない」と自分を叱り付ける。<br />
　<br />
　坂田没後の一九六一（昭和３６）年十一月、村田英雄がレコード「王将」を発表。作詞は当時の売れっ子作詞家だった西条八十が担当し、「吹けば飛ぶような　将棋の駒に／賭けた命を　笑えば笑え～」そして、歌詞は「明日は東京に　出ていくからは／なにがなんでも　勝たねばならぬ　／空に灯がつく　通天閣に／おれの闘志が　また燃える」と続く。坂田が初めて上京するときの心境は歌に託したものだ。</p>

<p>　坂田は、関根八段と歓迎会記念対局で関根の「香落ち」の手合いで勝った。この時の対局は坂田にとって厳しい戦いで、のちに「駒になった坂田が盤上で泣く」と名文句が生まれた。坂田に同行した高浜作蔵は対局を振り返り「先生の４八角（棋譜では６二角）！あれは実に古今の名手でしたね。あの一手で、形勢が一変した」と話した。</p>

<p>　坂田自身、この一手について朝日新聞紙上での連載「将棋哲学六、坂田名人実話」でこう紹介している。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogikurabu-154.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogikurabu-154.html','popup','width=500,height=667,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/shogikurabu-thumb-150x200-154.jpg" width="150" height="200" alt="shogikurabu.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>将棋クラブ</em><br />
　「その時自分は二五の銀という手を打った、その銀は進退窮まって出た銀だった。出るに出られず、引くに引かれず斬死（きりじに）の覚悟で捨て身に出た銀であった。ただの銀じゃない。それは坂田が銀になって、うつ向いて泣いてる銀だ。それは駒と違う、坂田三吉が銀になっているのだ。その銀という駒に坂田の魂がぶち込まれているのだ。―その駒が泣いている、涙を流して泣いている。」<br />
　同年７月、坂田は東京での関根との死闘を制し、舳松村へ凱旋（がいせん）里帰りして、羽織、袴姿で村中をあいさつして回った。</p>]]>
    </content>
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    <title>ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」：大山勝男</title>
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    <published>2009-06-16T15:59:48Z</published>
    <updated>2009-06-16T16:27:30Z</updated>

    <summary>第四章《千日手で開眼》 坂田、関根との「千日手」勝負で魂の開眼 ▽小野８段、政財界の推挙で将棋名人に就位　 全国からアマ棋士が集う坂田三吉名人将棋大会 　将棋家元制度は江戸時代の徳川幕府によってつくら...</summary>
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        <![CDATA[<p><big>第四章《千日手で開眼》</big></p>

<p><strong>坂田、関根との「千日手」勝負で魂の開眼</strong></p>

<p>▽小野８段、政財界の推挙で将棋名人に就位　<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/taikai-139.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/taikai-139.html','popup','width=500,height=667,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/taikai-thumb-200x266-139.jpg" width="200" height="266" alt="taikai.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>全国からアマ棋士が集う坂田三吉名人将棋大会</em><br />
　将棋家元制度は江戸時代の徳川幕府によってつくられた、このため段位免状をだす資格は将棋三家から選ばれた名人（九段）と決まっていた。一八七九（明治１２）年、幕府将棋制度外の最初の名人として東京の伊藤宗印（いとうそういん）が就位した。翌年の八〇年には江戸時代の家元、大橋宗金から小野五平が八段の免許を受けた。八一年には伊藤名人が「将棋新報」を創刊。そして九三年に伊藤名人は亡くなったが、九六年には小野五平八段が「萬（よろず）朝報」に詰め将棋の連載を日刊紙として初めて始めている。そして小野八段は九八年に政財界人の推挙で将棋名人に就位した。同年、名人といわれた大阪の小林東伯斎が亡くなっている。</p>

<p><br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>▽坂田、９年ぶりに関根と対戦</p>

<p>　一九〇〇（明治３３）年、小野五平名人の披露将棋会が東京「中村楼」で催された。この時、小野の名人就位に不服を唱えていた関根金次郎も、和解して会に参加している。関根自身も五段、六段、七段ともに名人から段位を許されたものでなかった。<br />
　坂田と関根は一八九四年の初手合わせ以来、一九〇三年に九年ぶりに大阪・新町の「岡本楼」「九軒亭」などで五局戦った。手合い割は七段の関根が角落ちか香車落ちで対戦し、坂田が二勝三敗の戦績を残している。坂田はこの時期、無段を通したが関根は坂田を「素人流に評して五段半ぐらい」と棋力を評価した。<br />
　関根は〇五年八月、江戸時代の家元大橋宗金から八段の免許を受けている。<br />
　</p>

<p>▽「指し掛け」で中止、坂田納得せず</p>

<p>　翌年の一九〇六（明治３９）年四月四日に坂田は、大阪・西野田の「藤浪亭（ふじなみてい）」で関根八段と「香落ち」で対局したが、九二手で「指し掛け」として勝負無しとされた。坂田は勝負の指し継ぎを望んだが結局、後日指し継ぐ約束も反故（ほご）になってしまった。坂田は「今後は知らず、この一番は明らかに自分の勝ちに帰すべき望みあれば、優劣なしとして中止さるるは面白からず」（「大阪時事新報」１９０６年４月６日）と勝利に自信のある内容で相当に口惜しかったようだ。<br />
　これに対し、関根は「この将棋、未だ敗と決したるんもあらず。自分は少し見込みあり」と語ったという。これまでの二人の戦績は坂田の五勝六敗だがこの年は三戦して坂田の二勝一敗。無段を通す坂田に勢いがあった。<br />
　この対局が「指し掛け」となった経緯は関根が長考し、次の一手を下さなかったのを会主が関根に配慮したからだといわれている。</p>

<p>　<br />
▽「千日手」でマスコミ各社は関根を批判<br />
坂田に〝同情〟</p>

<p>　同時事新報には「今回の手合いも亦（また）前日の如く香々角にして午後一時先ず片香に始りしに最初は阪田頗（すこぶ）る優勢に見えしも後に漸く手の進むに従い関根の蘇生となり双方相対峙し六時に至るも猶（な）ほ勝敗を決せず阪田の九十一手に対し関根九十二手を下さんとして深く考ふる所あり其間三十七分を経過するも関根さらに手を下さるより世話人勝浦松之助（四段）吉田一歩（五段半）の諸氏は気の毒なりとて両氏の間を交渉し遂に勝負無しに引き分けなしたるが（略）」と紹介されている。<br />
　また、神戸新聞には「関根八段再び敗局せんか棋界おける立場を失う」と両紙ともに関根には厳しい内容となっている。</p>

<p>　坂田は十八日後の同月二十二日、大阪・阿弥陀池の「藤の茶屋」で「香落ち」で関根と悶々（もんもん）とした気持ちのまま改めて二局指したが連敗。二局目は坂田の「千日手（せんにちて）」で敗れている。千日手は、将棋で双方が他の指して手をすると不利になる時、双方同じ指し方が繰り返されることをいう。将棋の解説書「将棋絹篩」（１８０６年発行）には、「同じ手が三度目になったときは、仕掛けたほうから変えなければならない」と記されている。<br />
　関根は坂田に「千日手は仕掛けた方が指し方を変えなければならない」と発言し、坂田は１２８手目に「５二金右」と千日手打開のため指し手を変えている。 </p>

<p><br />
▽坂田、妻コユウに「棋士で生きる」と決意</p>

<p>　坂田自身は「千日手」で負けたことについて平将門（たいらのまさかど）が自の態度を侮られ、将門の家来になろうとした俵藤太に弓で討たれた故事にたとえてこう話している。</p>

<p>　「関根さんは千日手になることをチャンと見抜いていたのだ。（中略）向こうは堂々たる七段（ママ）こっちは四段とか四段半とかいって、それも免状を貰っているわけじゃない。いわば素人だ。それを相手に堂々と戦い終えないで千日手だからといって勝負を打切り（ママ）自分の勝ちにしてしまうなんて男らしくない。ようし見ておれ、今に仇を討ってやる。また討てると思った」（「将棋哲学」坂田名人実話、一九二九年一月八日、大阪朝日新聞）と、悔しい心中を吐露している。</p>

<p>　関根の七段というのは坂田の思い違いで関根はすでに八段を就位していた。坂田は「千日手」で敗れた日、妻のコユウに棋士として生きていく決意を語った。</p>

<p>　「俺は今日から本当の将棋指しになる。今まではなろうかなるまいかと迷っていた。が、今日からはっきり自分の行く道が決まった」</p>

<p><br />
▽「共々に苦労したい」と妻のコユウ<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/chinchin-142.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/chinchin-142.html','popup','width=500,height=375,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/chinchin-thumb-200x150-142.jpg" width="200" height="150" alt="chinchin.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><em>〝チンチン電車〟。坂田もこの電車に揺られ対局を重ねた</em><br />
　坂田は「千日手」で関根に敗れた日から仕事を辞め、賭将棋も絶ち、将棋修行一筋に打ち込むことを誓った。また、この年に長女タマエを出産したコユウにこうも話した。「立派な将棋指しになってみせる。ところで、お前だが、俺が将棋ばかり指すとなると、どんな難儀なことになるかもしれない。だから今のうちに夫婦別れして出て行ってもらいたい。今は子供一人だからよいが、この上子供がふえると、余計苦労しなければならぬといった」。この言葉にコユウは「そんなことは構わぬ、共々に苦労したい」といって、三吉を励ましたという。<br />
　坂田にとって関根との「千日手」による敗戦が将棋指しになった土台である。いわばその日、その時から本当に将棋指しとしての生活が開けた。それ以前から将棋を熱心に指してはいた。が、坂田にとってその時までは目標がなかった。</p>

<p><br />
　「『関根』という目標がついてからは一層魂をぶちこむことができた。（略）関根さんとの『千日手』勝負は、ワシの魂の眼を開いてくれた。将棋に活を入れてくれたのだ。関根さんはこの意味からわたしの恩人である、導師である、と思っている。が、それは只今での心持ちである。その時はそうは思わなかった。」（「将棋哲学」坂田名人実話、大阪朝日新聞一九二九年一月八日）<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/pro-145.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/pro-145.html','popup','width=500,height=375,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/ooyama/assets_c/2009/06/pro-thumb-200x150-145.jpg" width="200" height="150" alt="pro.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></a></span><em>坂田三吉記念室で坂田ゆかりの将棋盤を観賞するプロの棋士ら</em><br />
　坂田は一九〇七（明治４０）年十月二十一日に神戸市の「山手倶楽部」で小菅剣之助八段と対局し勝っている。しかし、同年十一月三日には、今度は神戸の「相生倶楽部」で関根金次郎八段と対局したが敗れた。坂田は午後十時に終局した後、敗れたのがよほど口惜しかったのか深夜にもかかわらず、大阪まで徒歩で帰ったと伝えられている。　<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」：大山勝男</title>
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    <published>2009-06-07T07:15:28Z</published>
    <updated>2009-06-07T07:29:39Z</updated>

    <summary>　ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」の一括掲載です。...</summary>
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        <![CDATA[<p>　ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士　坂田三吉伝」の一括掲載です。</p>]]>
        <![CDATA[<p><strong>はじめに</strong></p>

<p>　坂田三吉は演歌や映画、演劇、テレビドラマなど数多く登場する伝説の棋士。明治期から昭和初期に棋界で大きな足跡を残した。三吉、ゆかりの地である浪速・通天閣界隈はたくさんの映画や劇画の舞台になっている。三吉の出身地は堺市で彼は幼少から将棋を好み、棋界に大きな足跡を残した。貧しい家に生まれた彼は、満足に学習する環境に恵まれず、自分の名前も書けず、駒の字と数字しか読めなかったと言われている。しかし、将棋の世界では驚異的な強さを発揮し、宿命のライバル、東京の関根金次郎七段や、木村義雄との「南禅寺の決戦」など、今も語り継がれる名勝負を繰り広げた。その天衣無縫の人柄とともに、その名を天下にとどらかせた。</p>

<p>　「わしの銀が泣いている」「天から降った角」「興味無限の名手」「新手の発見」などの名文句も彼によるものだ。三吉は一九五五年（昭和三十）、日本将棋連盟から名人位、王将位を贈られた。</p>

<p>　しかし、現代人にとって三吉のイメージといえば、通天閣の下の貧しい長屋で育って、無学で、将棋しか頭にない男とのイメージが強い。かつて北条秀司という高名な劇作家が「王将」という物語の中で三吉をこのように描いた。北条の描く「王将」は、新国劇の舞台に始まりその後も映画のシリーズになり、テレビドラマも北条が描く、三吉像を踏襲してきた。しかし、実像の坂田はそうではなかった。彼は将棋盤の上で学んだ哲学者で何よりも現実の「差別」と闘った人物だった。彼の生き様を〝現代の鏡〟を通して写してみた。</p>

<p><br />
<strong>Vol.1 《新世界・通天閣》</strong></p>

<p>　大阪市営地下鉄の御堂筋線「動物園前」で下車、駅前の青空市場のように骨董やスケッチ絵、中古服、中古レコードを売っている路上店が並ぶ短い地下道を抜けると、〝ジャンジャン横丁〟がある。串焼き屋や居酒屋が建ち並ぶ三十㍍ほどの商店街で、かつて「三味線で『ジャン、ジャン』とかき鳴らして客引きをした」ことからそう呼ばれているとのいい伝えがある。 </p>

<p>　横丁には飲み屋と並んで将棋倶楽部が二軒開店し、ガラスの窓越しから対局を観戦する人も多い。将棋倶楽部「王将」もそのひとつで、倶楽部内には将棋盤が二十席ほど並び、駒を「パチン、パチン」と鳴らしながら熱心に対局する光景がみられる。店内の壁にそっと眼を向けると対局姿の坂田三吉の写真が掲げられている。実際に素人将棋を打っていると、坂田が対局をみつめているような気分になる。</p>

<p>　この写真は戦後まもなく開店した将棋倶楽部「王将」の先代の主人、矢本博三さん（故人）が坂田の家族にお願いして戴いたものという。現在は二代目の矢本喜彦さん（六〇）が店を継いでいる。「両親がやっていた昭和四十、五十年代は一階、二階の席も満席でした。十数年、新世界を舞台にしたNHKの朝ドラ『ふたりっ子』が放映されていた時は将棋ブームが起こりましたが、最近は客が減っています」と寂しそうだ。</p>

<p>　ただ、土曜や日曜、休日ともなると関西をはじめ全国から若者が「新世界」を訪れ、新世界名物の「元祖串カツの店」や〝ビリケン人形〟をかたどった串かつ店の前に長蛇の列をつくるほどの人気だ。</p>

<p>　ジャンジャン横丁を通り抜け、左に折れ、さらに右に折れると、フランスのエッフェル塔を模した通天閣がそびえる。通天閣の左側の地下には新世界・演芸劇場がある。その入り口の左側、通天閣の足元には棋士、坂田三吉を顕彰する大きな王将の駒と碑文を刻んだ王将碑が建つ。この碑は一九六九（昭和四十四）年に地元「新世界」の有志の人たちによって建立された。毎年、三吉の命日にあたる七月二十三日には「王将祭り」が開かれ多くの将棋ファンらが集う。</p>

<p>　碑文にはこう記されている。</p>

<p>　「王将坂田三吉は明治三年六月堺市に生れる　幼少より将棋一筋に見きわめ恵まれた　天分と努力は世の人をして鬼才といわしむ　性温厚にして妻小春と共に相扶け貧困と　すべての逆境を克服する　昭和二十一年七月（七十七才）大阪市東住吉区に没す　同三十年十月生前の偉業をたたえられて　日本将棋連盟より棋道最高の名人位　王将位を追贈される　翁によって大阪人の土根性の偉大さを　しらしめたる功績は私たちの追慕しやまざるところ　ここに由縁の地通天閣下にこれを顕彰する　昭和四十四年十月吉日」</p>

<p>　「わてが死んだら映画や芝居にしよりまっせ」と坂田</p>

<p>　碑文は「王将」碑となっているが、生前の坂田は「王将」や「関西名人」ではなく、「名人」を名乗っていた。また、坂田といえば、通天閣を背景にした新世界の街とイメージがだぶるが、坂田の生まれは碑文に刻まれているように堺市だが、古い将棋ファンで坂田の名前を知っている人でも坂田と堺市とのイメージは重ならない。</p>

<p>　その理由の多くがこれまで芝居や映画、テレビで数多く演じられてきた新世界を舞台に坂田を風変わりで粗野な人物として描かれているところが大きい。</p>

<p>　坂田は十九年間の交流があった書道家、中村浩に「『わてが死んだら映画や芝居にしよりまっせ』」と語るなど彼自身、自分自身の生き方をかなり意識していたらしい。中村は「彼は単なる勝負師でなく預言者のような人でもありました」と坂田の人となりを述べる。</p>

<p><br />
<strong>Ｖｏｌ．２《新世界・通天閣　２》</strong></p>

<p>　実像の坂田はセンスがありおしゃれ。「映画、芝居の『王将』はみたくない」と３女の美代子さん。坂田の晩年、坂田と父娘二人で暮らし坂田の最期を看取った三女、美代さんは父への思いをこう記している。</p>

<p>　「父は貧しい生まれで無学だったため、文字を読めず、自分の意思をうまくことばに表現できず、そうしたもどかしさからでしょう、周囲に当たりちらすということがあり、わがままな人だとの誤解を受けていた面が多かったと思います。が、身近で知るかぎりとても純粋で素直な人だったと思います。父のイメージは、貧しいゆえに身なりも構わぬように見られた若いころの話が一般化されているようですが、私たちが見て知っている晩年の父は、すごくセンスのある人でした」と娘として身近でみる父三吉の実像に言及する。</p>

<p>　坂田は名人戦に復帰したときはすでに六十代の後半だった。それまで十数年間も真剣勝負を指していなかった。そして美代子さんによると、坂田は戦いを前にして「『負けても構わぬが、年をとっているからと哀れみを受けるのは残念だから』」といって、手のツメに丹念に油をぬっていたという。</p>

<p>　また、ファンから贈られた高価なラクダのシャツやズボン下なども、「和服の上から見えるのをきらって、袖口や襟元、膝下などを切り取って着ていました。頭髪も『勝負師がシラガ頭ではみじめだ』といって、一本もないように心がけていましたし、肌もみがいて......それはおしゃれでした」という。</p>

<p>　美代子さんは、実像の坂田とは違う坂田像を描く映画や芝居の『王将』に対して「あんまり見たくありません。好きなように生ききってグチひとついわずに、なんの執着も未練もないようすで、きれいに逝ったああいう死にかたができた父は、それだけでもとても偉い人だと思うんです。何か一つの道に秀でた人のもつ風格がじゅうぶんある人でした」（月刊誌「潮」一九七四年八月号）と父への慈愛の思いのたけを述べている。</p>

<p>　通天閣の真下にあった通天閣「囲碁将棋センター」は二〇〇一（平成一三）年七月二十三日の「王将祭」を最後に閉鎖、今では演歌が中心の通天閣劇場だけになった。ＮＨＫ連続朝ドラマ「ふたりっ子」（９６年１０月―９７年３月放映）は新世界を舞台にしたドラマで〝新世界の歌姫〟叶麗子や伝説の将棋指し太田学さんが描かれた。</p>

<p>　その伝説の将棋指し太田さん（故人）に会った。太田さんは、一九一四年（大正三）、鳥取県倉吉市生まれで、かつては賭け将棋で生活する「最後の真剣師」だった。「戦後のどさくさ時代には最盛期で一日五、六十番も真剣で指しよったこともあります。三十四、五歳のころは平手で五段、六段のプロと指していましたから。そのころが実力では最盛期でしょう」</p>

<p>　実際、当時の太田さんの棋力はプロ六段に相当し、「将棋連盟の顔役から、プロ転向の誘いもあった」と言うが、「年齢的にも峠を超えているし、大成しないと断わりました」という。太田さんは将棋センターで指導料名目で対局料を稼ぎ生活をしてきた伝説の将棋指しだった。</p>

<p>　週末の地下演芸場では、叶麗子が歌う「王将」を聴きに中高年世代の熱心なファンが詰掛ける。また、休日には他府県からの観光客も増え、デートコースとして若い男女カップルの姿も多くみられるようになった。</p>

<p><br />
<strong>Ｖｏｌ．３《新世界・通天閣 ３》</strong></p>

<p>　幼少時の〝さんきい〟大人の将棋を見て覚え才能を開花　</p>

<p>　坂田は一八七〇（明治三）年六月三日、和泉国大鳥郡舳松（へのまつ）村、現在の堺市堺区協和町で卯之吉（うのきち）、クニの第三子、姉二人妹六人の三番目、長男として誕生した。坂田は幼少時から妹の子守りや、家業の草履表づくりを手伝いながら、狭い路地裏で大人が指す将棋を見て覚え、生来の才能を開花させ、頭角をあらわした。現在生家跡に舳松社会教育会館（協和町）が建ち、坂田の顕彰碑が建てられている。除幕式には坂田三吉に可愛がられた大山康晴十五世名人も出席した。</p>

<p>　大山名人は「広報おおさかNO.20」（１９９１年）に坂田への思いを馳せた文章を寄せている。</p>

<p>　「南禅寺で、木村八段、天竜寺で、花田八段との一週間かけて、三十時間に及ぶ棋戦は余りにも有名な話であるが、のんびりとした、古きよき時代だったから実現したのだろう。私はまだ入門して二年程だったから、のぞき見が出来なかった。その後正式に名人戦参加を許され、浪人でなくなった阪田翁は、差し盛りの人を相手に八勝八勝等という底力を見せつけたのである。昭和十三年の出来事であった。三十年近くも厳しい大局もない人が、関根名人を相手に勝ち越したという事は、いかに強かったかを実証できたのである。本人はきっと嬉しかったことだろう。その辺りに歌や、芝居に脚色される原点を見たと云えよう」</p>

<p>　坂田の深い読みと鋭い攻めは、乱戦に強い独特の坂田将棋を生み出した。</p>

<p>　坂田は幼少の頃、愛着を込めて「さんきい」と呼ばれていた。村の古老は親しく幼子に「さんきい」の少年期のことや村の生活を昔語りで暖かく語った。</p>

<p>　　坂田の幼少時代を舳松村の古老が語った「さんきい物語―へのまつ村の阪田三吉―」(部落解放同盟大阪府連合会堺支部・歴史編さん室／スタジオ３０３＝代表・阪本ニシ子)から坂田の幼少時を紹介してみよう。</p>

<p>　「三吉ったんの生まれた家は、いま舳松集会所あるやろ、あそこのまん中へんのところやな。そこで生まれたんや。家は、間口二間、奥ゆき二間半いうから、せまい家や。戸をガラッとあけるやろ、そしたらそこが、ふみこみ庭や。いまでいうと玄関や。そんで、右のほうにせまい台所があって左に四畳の間があるわけや。畳がしいてあるわけやない、ゴザや。そのよこが押入れ。右の奥の方に二畳の間。それだけの家や」（「さんきいの家」より）</p>

<p>　確かに古老の話からは幼少時の坂田がいかに経済的には厳しかったかがうかがえる。</p>

<p><br />
<strong>Ｖｏｌ．４《坂田は中世の自由都市、堺の出身》</strong></p>

<p>〝チンチン電車〟で通って将棋の真剣勝負</p>

<p>　堺は中世の自由都市として栄えた。この地からは歌人の与謝野晶子（１８７８年―１９４２年）、茶の千利休（１５２２年―１５９１年）、東大寺大仏建立事業にも加わった民衆布教の高僧、行基（６６８年―７４９年）ら日本の歴史を彩る多士済々の人物を輩出している。</p>

<p>　坂田の生まれ故郷を目指して大阪・市営地下鉄「天王寺」駅から日本初の私鉄阪堺鉄道（阪堺線）の〝チンチン電車〟に乗った。電車に揺られて外の景色に目を向けていると、「内藤（国雄九段）先生は優しいから嫌な顔ひとつせずに笑顔で将棋ファンにサインをしていたよ」と二人の素人棋士の話し声が聴こえた。</p>

<p>　三吉の生誕の地で坂田ゆかりの将棋大会の会場がある「御陵前」駅で降りた。坂田もこの阪堺電車に乗り、将棋の強豪を求めた。坂田が生きた当時とはすっかり風景は変わったが、電車に揺られ坂田は何を思ったのだろうか、感慨深い。駅から東南の方向に約十分歩くと、茶色の建物、舳松（へのまつ）歴史資料館（堺市立解放会館内）がある。資料館は三吉の生家とも近い。</p>

<p><br />
<strong>Vol.5≪第２１回阪田三吉名人杯将棋大会開催≫</strong></p>

<p>　アマ棋士が棋力を競う</p>

<p>　この日は、坂田三吉の故郷でアマチュアの将棋大会では、全国規模を誇る「第二十一回阪田三吉名人杯将棋大会」の開催の日だった。会場となった体育館には国内各地から招待されたアマ強豪を含む約六百人が参加。開会に先立ち三吉の孫弟子にあたる内藤国雄九段から三吉の故郷、堺市に三吉愛用の筆が、寄贈された。</p>

<p>　この筆は三吉の孫吉田陽子さん＝神戸市＝が保管してきた筆で、直径二㌢、長さ三十五㌢。昨秋、ロンドン在住の陽子さんの長女のバイオリンコンサートに、内藤九段が足を運んだのをきっかけに交流が始まった。二〇〇八年春、内藤九段が贈った扇子のお礼にと、陽子さんから筆が渡された。</p>

<p>　内藤九段は筆を堺市に贈呈した経緯についてこう話す。</p>

<p>　「筆はわたしの机の上に立てていました。この筆で（坂田三吉が）〝馬〟の字を練習していた。あるとき、就寝していたわたしに師匠の藤内金吾が夢で現れて、堺の坂田三吉記念室に贈呈して多くの人にみてもらったほうがいいという夢をみました。（坂田さんならではで）筆一本の贈呈がたくさんの新聞で報道された」と話す。</p>

<p><br />
<strong>Vol.６≪孫弟子、内藤９段「王将」を熱唱≫</strong></p>

<p>　「阪田三吉名人杯将棋大会」の開会式で審判長を務める内藤九段から堺市へ坂田の筆が寄贈された。内藤九段は参加したアマ棋士を前に、「大学教授から羽生（善治）７冠と坂田三吉はどちらが強いかと質問されました。今も日本中で坂田三吉を知らない人はいないくらい有名」と、孫弟子として坂田が今も語り継がれることに歓迎の意を表明しながらも、「不思議なことに今も坂田は通天閣生まれであるとたくさんの人が思っている。その原因の多くが村田英雄が歌った『王将』の曲の影響が大きい」と話した。</p>

<p>　そして、内藤九段は自ら「王将」三番の歌詞を―。</p>

<p>　「空に灯がつく　通天閣に／おれの闘志が　また燃える～」と美声を響かせ歌い上げると、館内からは多くの拍手が起こった。</p>

<p>　実際、坂田が新世界界隈に居住していた当時は、まだ通天閣は建設されていなかった。初代の通天閣（１９１２年）が建ったときには、坂田はすでに大阪府吹田市に転居して借家の一戸建てに住んでいた。</p>

<p>　坂田三吉記念室がある舳松歴史資料館には部落解放運動に立ち上がった舳松の人々と現在の協和町の様子を年表や写真パネル、模型などで展示し紹介している。この資料館に坂田ゆかりの将棋盤や駒と坂田が愛用していた雪駄、壺と菓子器などが展示されている。</p>

<p>　贈呈された三吉愛用の筆は、同市の阪田三吉記念室で展示された。記念室に設置された筆を観賞していた内藤九段は「坂田三吉さんが生きていた時、わたしはまだ五歳か、六歳くらい。師匠から（坂田三吉の）お話は聞いていました。師匠の家には瓢箪（ひょうたん）とか三吉さんゆかりの貴重な品が多くあったのを記憶しています。今では散逸してしまった。筆は十本も残っていない。もっと保管しておくべきでしたね」と悔しい表情をみせる。</p>

<p><br />
<strong>Vol.7《雪駄は茶人、千利休の考案と伝聞》</strong></p>

<p>　ここで舳松村の歴史にふれておこう。</p>

<p>　一九七四（明治七）年、坂田が六歳の時に舳松村の願専寺（がんせんじ）内に泉州第九十番小学校が、創設された。しかし、坂田は家の生計を支えるために就学できず十分に文字を習い覚えることができなかった。 </p>

<p>　明治、大正期から昭和中ごろまで舳松村の仕事は小作を主とした農業に加え、雪駄（せった）や下駄（げた）、靴修理などの履物の「直（なお）し」が主だった。雪駄は藁（わら）と竹の皮で編み込んだ草履で「堺鏡」によれば、「雪踏（せった）」とも書かれ、茶人、千利休の考案とも伝えられている。</p>

<p>　一八（大正七）年内務省が各府県の被差別部落の実態をまとめた「部落台帳」によると、履物関係の仕事の従事者は住民全体の５６・４％で、次いで日雇いや雑業などが１７％、牛や豚などを解体する「と蓄業」や食肉販売、行商などの従事者が１０％とされている。</p>

<p>　明治政府「解放令」発令<br />
　厳しい生活環境変わらず</p>

<p>　一八七〇（明治三）年、明治政府は平民に苗字の使用許可を出した。翌年の七一（明治四）年には解放令が発布されたが長年、被差別部落出身者への差別意識は払拭されずに、現実にはと蓄や清掃などの厳しい肉体労働や天候によって収入が大きく左右される行商、履物直し業、日雇いなどの仕事で生活を支えていた。</p>

<p>　一九一八（大正七）年の「部落台帳」によると、舳松村の総戸数五百四十五戸のうち「下駄・靴直し」が百九十戸（３５％）「下駄表づくり」が九十四戸（１８％）で全戸数の半分以上が履物の仕事に従事していた。</p>

<p>　坂田の家も雪駄の「表づくし」が家業で坂田も幼少のころから仕事を手伝った。当時、村の中を「直し、直し」と声を掛けながらボテ（籠）を背負い行商に出かけ、注文があると、他人の家の軒先を借りて雪駄直しの仕事をしていた。</p>

<p>　当時、「直（なお）し殺すにゃ刃物はいらん　雨の三日も降ればいい」という歌まででき、雨が降ると収入がなくその日の生活にも困り果てたという。</p>

<p>　「さんきい物語」から当時の「下駄直し」の仕事を紹介すると―。</p>

<p>　「男の仕事というと、下駄なおしもあった。なおしというと朝はようから、近ぺんに『なおしー』いうて歩いていきはるわけや。おとくさんのある人は、ええほうや。午前中まわったら、もう仕事あらへんわけや。それでも雨ふったら休み。そないして、男のひとは仕事がない。そんで、なおしから帰りはった人なんか、もう昼から将棋さしてるんや。さんきいはな、そないして七つ八つの時分におとなのなかに入って、将棋をみておぼえはったわけや。」</p>

<p><br />
<strong>Vol.８《坂田、「字の形」で駒の動かし方を覚える》</strong></p>

<p>　坂田は草履職人として働きながら、幼少から将棋を好んだ。坂田の青年期になるまでの詳しい消息はあまり記録に残されていない。坂田が将棋を覚えたのは裏長屋でのいわゆる〝へぼ将棋〟を指す縁台将棋だった。漢字を読めない坂田は駒に書いてある字がわからない。縁台将棋の仲間に駒の動かし方を教えられ、坂田は一つ一つ字の形で駒の動かし方を覚えた。</p>

<p>　母おくに、三吉の将棋の上達を喜ぶ</p>

<p>　「さんきい物語」では坂田の幼少時代に流行った縁台将棋についてこう語っている。</p>

<p>　「むらの将棋仲間は、みんなつよかったもんや。『四天王（してんのう）』『八天狗（はってぐ）』『九人衆（くにんしゅう）』」という名をかっていにつけおうて。さんきいは、うでをあげていった。おとなたちもかなわなんだと。そやから、ときどき横から口をだして、そのため負けそうやった人が逆転がちになったわけや。『なんや、さんきい、お前のおかげでまけてしまうたがな。お母（か）ぁにいうで―』『かまへんよ』と、さんきい。お母ぁのおくにさんは、そのたびにあやまったわけや。そやけど、お母ぁのおくにさんは、三吉が強くなっていくことを喜んでんねん。」（「縁台将棋」より）</p>

<p>　坂田の将棋の上達は目覚しかった。手ほどきを受けた〝長屋のおっさん〟たちが坂田にばたばたと敗れ、おっさんたちは舌を巻いた。十二、十三歳の時にはすでに初段の実力をもち、堺を中心に所きらわず指して回り、すでに坂田の敵はいなかった。</p>

<p>　その当時、こんなエピソードが残っている。</p>

<p>　当時、坂田は堺の乳守（ちちもり）の遊郭に、小松山という将棋好きの力士りに度々招かれという。相手は力士だけに六尺の巨体で、将棋に負けると、悔しさからギリギリと歯ぎしりをしてを口惜しがる。その光景を見ていた、遊郭の女将（おかみ）がやきもきして「お前が将棋を指すとわしは肩が凝って病気になる」といって腹を立てたが、当の小松山は、「何、構うもんか、負けてもこんな面白いことはない」といってとり合わずに毎日盛んに将棋を指したという。</p>

<p><br />
<strong>Vol.９坂田の好きな駒「馬」　サインは「三」</strong></p>

<p>　坂田は駒の中でも桂馬の動かし方に興味を覚え生涯、二文字の漢字しか書き残していない。それが、三吉の「三」と桂馬の「馬」だった。 </p>

<p>　坂田は六十歳を過ぎてから、書家の中村眉山に書を習った。字を書くと、大きく書いた。ファンに色紙を求められると、ただ「馬」とだけ書いた。サインは「三」とだけ書いた。この「馬」と「三」の字は舳松歴史資料館や大阪市立博物館に所蔵する三吉由来の将棋盤の蓋の裏書や板書き、色紙、扇子、壷と菓子器にその文字が残されている。三吉が書く「馬」の字は三吉の覚え方があった。「これが頭、これが首、これが胴体、これが尻尾、これが足」というように絵として覚え、書いた。そして、「尻尾を体の内側に巻くのは元気がない」として六画目を右に跳ねるようになった。三吉の書く、「馬」はまさに走っているように表現している。</p>

<p>　後に宿命のライバルとなる関根金次郎は「龍」の文字を残しており、坂田の「角行」（馬）と関根の「飛車」（龍）の闘いとなる。</p>

<p><br />
<strong>Vol．10　《認定の段位免状　愛用の将棋盤　すべて「坂田」姓》</strong></p>

<p>　坂田の姓が「坂田」と「阪田」と署名や坂田を紹介した本で分かれているのは、戸籍を新しくした際に「阪田」と誤って書かれたためだった。舳松人権歴史館の宮野好司さんは「江戸時代に大坂が大阪に変わったように、『坂』の方が縁起がいいと変えたのではないのでしょうか」とみる。大正、昭和の新聞でも「坂」「阪」と混ぜこぜに使われている。</p>

<p>　坂田自身は字が書けなかったため書家の中村眉山の代筆によるが、坂田が認定した段位免状や坂田愛用の将棋盤に認められているのは全て名人「坂田」姓である。</p>

<p>　坂田自身は字を知らないことについては「知らないのは学校へ行かなんだからである。一体ワシは読み書きが大嫌いで学校へは半年ばかり通ったけれど勉強がいやでいやでならない」と語っている。</p>

<p>　坂田にはこんなエピソードが残っている。</p>

<p>　坂田は学校から帰るなり、二階へあがり習字の手習いを始めた。坂田がいつに似ず神妙に手習いをしているので、親が不思議に思って、「お前、何を勉強してきた？」と聞くと、坂田は「今まで、学校で教わってきた字を草紙に全部書いてみせた」という。ところが、坂田が差し出した草紙を見て両親は驚いてしまった。</p>

<p>　坂田自身、この時の状況をこう述べる。</p>

<p>　 「二、三十枚の草紙へもってきて真黒になるほど同じ二つの文字を、しかも何千というほどぎっちり書いてある。何という二字だったか忘れたが、それが半年間に覚えた字の全部だと聞いて親たちも腰を抜かしてしまったのだ。これは一体なんだということだといって涙を流して泣いた。が、本人にてんで勉強する気がないのだから仕方がない。とうとう親たちもへこたれて学校をやめさせてくれた」（一九二九年一月九日、大阪朝日新聞『将棋哲学（二）』）</p>

<p><br />
<strong>Ｖｏｌ．１１《〝永遠のライバル〟関根との出合い》</strong></p>

<p>　棋界という勝負の世界へ<br />
　坂田人生をゆだねる</p>

<p>　坂田は一九〇五（明治３８）年、三十五歳の時に、十歳下の竹田コユウと結婚した。戯曲や映画では三吉の妻は「小春（こはる）」と呼ばれているが、それは北條秀司（ひでじ）の原作の戯曲「王将」によるものだ。この頃の坂田はもう将棋に夢中で家業の草履作りの仕事は手につかなかった。</p>

<p>　将棋の会があれば交通費をやりくり算段して駆けつけた。坂田は将棋の会で「おれは初段だ」「おれは二段の腕前がある」と自慢する〝将棋天狗〟の鼻を打ち負かし賞品を持ち帰ってきた。しかし、現実の生活は家業に身がはいらないため家の生活は苦しくなるばかりだった。</p>

<p>　一九三三（昭和８）年から三年間、坂田の内弟子として寝食をともにした一番弟子、星田啓三八段はこの当時の坂田の生活の困窮ぶりをこう回顧している。</p>

<p>　「それはみじめな生活だったようです。メシを炊こうにもコメがない。毎度のことなので、師匠が〝メシくわしてんか〟というと、奥さんは黙って将棋盤といっても板盤だがこれをおヒツの上にふたをするようにパチンと置いたそうです。『きょうはご飯を炊くコメがありません』という合図なんです」</p>

<p><br />
<strong>Ｖｏｌ．１２　《〝近代将棋の父〟関根　日本将棋隆盛の基礎を築く》</strong></p>

<p>　宿命のライバルとなる関根金次郎（１８６８年―１９４６年）は坂田より二年早い一八六八（明治元年）年四月、千葉県関宿町の農家の子供として生まれている。将棋好きの関根は、小学校の先生との将棋を楽しみに通学する子供で十一歳の時に上京。後の名人、伊藤宗印（当時八段）に三番稽古（けいこ）の教えを受け、将棋会生活を始めている。関根は十七歳の時、他流試合を思い立ち力のある将棋相手を求めて東京近郊を武者修業に巡っている。一八九〇（明治２３）年に四段の免許を受け、翌年伊藤の指示で初来阪、当時名人といわれた小林東白斎との角落ち対局で二番負け、その悔しさから武者修行のため四国へ旅立っている。三年後の一八九四（明治２７）年再び小林と対局し、今度は角、香落ちの二番勝負でともに関根が勝った。 </p>

<p>　その後の関根は江戸時代から続いた終世名人制、いわゆる世襲制を実力名人制に改革し、自ら十三世名人を退き、実力で決める実力名人制を導入した。関根は現在の将棋の隆盛の礎を築き上げ、多くの棋士や名人を育て「近代将棋の父」といわれることになる。関根が編み出した定跡は今も使われている。</p>

<p>　十五世名人、大山康晴（故人）は実力名人制の導入について、「十三世名人関根金次郎の大英断で、実力名人制に改革されようとしていたのである。それまでは、一度名人になった者が終生名人として君臨していたのである。これは将棋界ばかりでなく、世の中全体が新風を吹き込まれていたせいかも知れない」（「広報おおさか」１９９１年）と関根の将棋界の改革を評価している。<br />
 <br />
<strong>Vol.13《将棋を通して「関根と世間に勝つ」と坂田》</strong></p>

<p>　坂田が関根金次郎四段と初手合わせしたのは一八九四（明治２７）年、堺大浜の料亭「一力樓（いちりきろう）」と言われている。坂田が二十四歳、関根が二十六歳の時だった。一説には対局年、場所も異説があるが関根は対局時、プロ棋士であることを告げずに三度対局して戦績は坂田の一勝二敗だった。</p>

<p>　坂田は関根がどういう人物か知らずに将棋を指した。初戦は坂田の一方勝ちで十円の賞金を手にすることができた。ところが二戦目、三戦目は逆に坂田が一方的に敗れ、前日の二倍の二十円のかけ金をとられることになった。その当時の坂田は負け知らずで〝将棋天狗〟になっていた。</p>

<p>　それだけに、その場で、ふたりの対局を最後まで息をつめて見守っていた人の中から「『さんきい。あの人だれやしってるか。本職の将棋さし、関根金次郎やで』」と教えられた三吉は、くやしさで胸の中が燃え上がった。そして三吉はその後の将棋人生で何よりも「関根に勝つのや、きっと勝ったる。世間にも勝ったるで」という思いが心の中を占めることになる。</p>

<p>　坂田はこの時のことをこう回顧している。</p>

<p>　 「二十五、六の時である。堺のある所で知らぬ人と指さされた。ただそこへ連れて行かれたのであった。相手は色の白い、役者のような綺麗な男。指して見ると、強い。苦心惨憺(くしんさんたん)してやっと三番に一番だけ勝てたが、あまりにももがいたものだから十日ほど病気になって酷い目に遭（あ）った。あとでその相手は関根さんだということがわかったが、何故関根さんが覆面して（名乗らずに）やって来たのかいまだにわからない。兎（と）に角その時は病気するまで戦って勝てなんだのだから関根さんとは腕前の上で非常に違ってたことは事実である。」（阪田名人実話『将棋哲学』大阪朝日新聞夕刊一九二九年一月十日）</p>

<p>　小林名人から「恐ろしい奴」と評価</p>

<p>　坂田は十六歳で父を亡くし、その当時の坂田にとって将棋は一家八人の生活を支える生活の糧となっていた。それだけに敗戦は相当なショックを受けたことは想像できる。</p>

<p>　関根はこの時の経緯を大阪の後援者から「素人だが、滅法力の強い男がおるからぜひ指してみるようにと堺の宿屋に連れられて来た」と話し、関根が二勝一敗と勝ち越し、「将棋に天狗になっている坂田の鼻をへし折った」という風聞が流れた。</p>

<p>　ただ、後日談がある。後にその譜を関根が大阪の小林七段のところへ持って行って見せたところ、坂田の潜在的な将棋の実力に小林が驚いたという。</p>

<p>　坂田はその当時をこう述懐する。</p>

<p>　「（小林七段は）こいつは恐ろしい奴だ、将来ものになる。一ぺん、その男に会って見たいという伝言（ことづて）があったので小林さんの所へ行くと、お前の将棋はなかなか面白い。この上、角と飛車とを等分によく使うことができるようになれば将来第一人者になれる。そのつもりで勉強せよと、親切にいってくれた。それがどれだけ励みになったか知れん」（「将棋哲学」（三）坂田名人実話、一九二九年一月十日大阪朝日新聞夕刊） （大山勝男）</p>]]>
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    <title>ご挨拶：ジャーナリスト・ネット事務局</title>
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    <published>2009-05-14T13:37:30Z</published>
    <updated>2009-05-14T13:39:14Z</updated>

    <summary>新しいブログが完成しました。...</summary>
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