2009年6月17日
ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男
第八章《晩年》
真の姿は〝盤上の哲学者〟反骨無垢の生き方を貫く
◎坂田、「何を今さら木村が」と
▽木村会長の経済援助を拒否
一九四一(昭和16)年十二月に太平洋戦争が勃発し、戦局の悪化で将棋界も対局、稽古先が減少し、棋士の生活も厳しい経済状況が続くことになる。四四年には将棋大成会の木村義雄会長が坂田の経済的な窮状を聞き、坂田門下の星田五段を通して、経済的援助を申し出るが坂田は断わっている。
坂田は自ら「名人」を名乗っていたが、木村は認めていなかった。坂田は「何をいまさら木村が」と、ライバル心むき出しの言葉が出たという。坂田にとって当時の東京を中心とする将棋界への反骨心からでた魂の叫びの言葉だった。
◎戦時中もひょうひょうとした人間性変わらず
▽初代通天閣、火災で焼失
第二次世界大戦中の一九四三(昭和18)年一月、通天閣は脚下にあった映画館・大橋座の火災に巻き込まれて焼失。解体されることになり、鉄材は軍需資材として大阪府に「献納」という名目で一九四三年二月から塔は解体され、初代通天閣はその姿を消した。
戦時体制の中、四四年(昭和19)年の晩秋、将棋観戦記者で当時は歩兵連隊の将校だった倉島竹二郎が、京都で偶然坂田を目撃した。倉島はその時の光景をこう語っている。
「信玄袋をブラブラさせ、白扇で拍子をとるようにして、ユックリ、ユックリと岡崎の方に歩いていった。斜陽がその黒紋付きの後姿を赤々と染めていたが、私の目には広い街中に坂田翁だけしかいないように見えた。それほど大きく堂々と見えた(後略)」(『勝負師群像』「将棋の王さま」)
劇作家、北条が描く「王将」の三吉像とは違う。厳しい戦況の中にもかかわらず坂田はおしゃれに気を使い、飄々(ひょうひょう)とした人柄を垣間見せるひとコマである。
▽坂田、晩年まで将棋に命を掛ける
終戦の時の一九四五(昭和20)年三月十三日、新世界一帯はアメリカ空軍による大阪大空襲で被災、壊滅した。
終戦の翌年にも、坂田の実直さを垣間見せるエピソードが残っている。
坂田は終戦の翌年(1946年)七月、再び名人戦に出ようと主催する毎日新聞の学芸部を訪れた。応対に出たのは当時の学芸部長、藤田信勝であった。ただ、坂田は名刺をもらっても文字が読めなかった。坂田は藤田に「部長さんによろしく」と丁重に言って帰ったが、家に帰って娘の玉江さんにその名刺を見せて、新聞社の話をしたら、「お父さんが、今お会いした方が部長さんですよ」と教えてももらい、すぐさま坂田は電話で藤田に詫びたというエピソードが残っている。藤田も「ぜひ、坂田に指して貰おうと思っていた」という。
しかし、坂田はそれから一週間後の七月二十三日、奇しくも四カ月前に亡くなった終世のライバル、関根金次郎の後を追うように大阪市東住吉区田辺東之町の自宅で静かに息を引き取った。享年七十七歳、将棋に命を捧げた人生だった。
▽「そちらに行ったらお詫びします」と劇作家、北条
劇作家、北条秀司(1902年11月―1996年5月)は坂田が死去後、「新国劇二月興行」筋書で「坂田翁への手紙」(一九五二年発行)でこう述懐している。
「先生のご生涯はずいぶんと複雑な、波乱に富まれたご生涯でした。しかしそれがそのまま芝居になるというわけには行きませんでした。どうしてもいろいろと手を替え品を替えて、面白くしなくてはなりませんでした。そしてそれをやつたために、先生を知られる皆さんからずいぶん叱られました。しかし、もう一ぺん申しますが、わたしは先生を主人公にして、お客さんをただ面白がらせる芝居を書こうとしたのではありません」と北条自身、脚本家、創作者として「人間・坂田像」を迫ろうとした人物表現だったと弁明している。
そして、北条は自分の真意は「観る人を舞台に引き寄せて、先生という人の本当の姿を正しく掴(つか)ませようとしたのです。先生という不世出の天才の生涯を熟観させることによって観る人の胸に人間を愛する熱情、人生に対する感動を強く浸み込ませようと企んだのです」と脚本の真意を解説しながらも「(略)先生、本当に長い間ご迷惑でした。では、どうか安らかにお眠り下さい。そちらに行ったら色々とお詫びいたします」と記述している。
▽時の人気俳優が
映画、舞台、テレビで三吉役を演じる
北条の戯曲「王将」は一九四七年六月「有楽座」で新国劇の舞台劇として辰巳柳太郎の主演で公演されたのを皮切りに、四八年には阪東妻三郎の主演で初映画化、その後も辰巳柳太郎、三国連太郎、緒形拳、長門裕之ら時の人気俳優が坂田を演じて映画化、舞台化、テレビ化されてきた。しかし、その描く三吉像は縁台将棋で越中ふんどし姿で将棋を打つ光景や、関根との名人戦でさえも将棋の駒を投げて「パチッ」と大きな音を出したり、駒をなめなめ考え込む三吉像を描く。
一方の関根はビシッとした紋付袴をつけ洗練された江戸っ子のイメージを醸し出す演出だ。
北条自身が「坂田翁への手紙」で書いているように、坂田を無学で粗野な奇人、変人を強調した「三吉像」として描かれてきた。
確かに「東京」に対する反権力的な象徴としての「ナニワの三吉」像は庶民の心情をくすぶる。しかし、本当の坂田は実力社会と言われた将棋界での〝差別〟との戦いであった。そして何よりも坂田は「我執を捨て、一切の力を抜けば蓮根(れんこん)の糸にも乗れる。そういう風にならねば本当の将棋ではない...。」と述懐するような哲学者の一面を持ち合わせていた。
▽反骨心旺盛な律義者
「真っ直ぐな心情」と大山名人
確かに坂田はエピソードには事欠かない人物だった。実際の三吉は律儀で、電車に乗っていても世話になった人の家に近づくと、そちらに向かって深く頭を下げた。将棋観戦記者の倉島竹二郎の家を訪ねては「大阪の坂田でございます」といつまでも頭を下げたという。
逆に、訪ねてきた客が帰ると玄関先で送るのが普通だが、弟子の星田啓三八段は「師匠はどんな客でも必ず家を出て相手の姿が見えなくなるまで、ずっと立って見送った。雨の日も、雪が降っても変わることがなかった」(大阪日日新聞、連載「なにわの王将 坂田三吉」)と話している。
坂田の対局の記録係を務めた大山康晴十五世名人(故人)は「昭和十二年初段になった私は、何度か記録係をさせて頂いた。その都度五円を小使いに、といってくださった。当時の五円と言えばうどんなら七十杯、カレーだと五十皿、銭湯だと優に百回、という金額であった。サラリーマンで月給が三十円もらう人は相当な地位の人だったと思う。非常に律儀で、とにかく『真っ直ぐ』な心情だ。」と坂田への思いを吐露している。
当時、朝日新聞の政治記者だった水口正一は同社の将棋担当の嘱託だったころの坂田をこう評している。
「...ちょこなんとした、あまり風采(ふうさい)の上がらない、小商人のような背の低い風ぼう、謙虚なものごし、たくまざる素朴な言葉、まったく庶民そのものの姿がそこにうかがわれるのではないか」(大阪日日新聞1972年11月、大阪人物史「なにわを築いた人々」の「なにわの王将 阪田三吉①」)
日本将棋連盟理事を長く務めた岡崎史明八段(1907年―1979年)も坂田について「よく弟子を可愛がり、人づきあいもよく金の使い方もきれいでした。とくに世話になった人には立派な将棋盤とコマをプレゼントするなど義理人情をわきまえた人でした」(毎日新聞一九六二年七月二十二日)と回想している。
▽日本将棋連盟、坂田に「王将」を追贈
今も墓碑へ多くの参拝の姿
坂田は生前、自分の将棋についてこう語っている。
「ぼく以外の人たちは、坂田が対局してどんな将棋を指すか、それは或いは興味ある事柄であろう。けれどもぼく自身は、そんな遊び半分なつもりで『負かしてやろう』とか、『勝ってやろう』とかいう単純な考えで対局を迫られては迷惑至極。ぼくの将棋は生命そのものなのだ」(「週刊朝日」1930年5月4日号)
晩年の坂田は不遇であったが、死後十年経過した一九五五(昭和30)年十月一日、日本将棋連盟(当時=萩原淳会長)は、大阪府豊中市の市立服部霊園に坂田の墓碑を建立した。この墓碑には「明治大正の棋界不振時代に棋道一途に研鑽練磨(けんさんれんま)、その全盛時代には、日本一の棋力と謳われた。性温厚にして名人の風格を備え、奇行極めて多く、先生に傾倒する愛棋家少なからず、今なおその人柄を偲ぶ者多し―(略)」と刻まれている。今も、坂田の将棋一筋の反骨無垢な生き方に共鳴した人たちが参拝に訪れている。
(おわり)
2009年6月17日 10:29
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