'."\n" ?> 大山勝男の「フリムン通信」:ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男
大山勝男の「フリムン通信」

<< ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男 |メイン| ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男 >>

2009年6月17日

ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男

第七章《悟り》㊦

坂田、再び「端歩」を突くも敗戦

木村の不敗神話 〝常勝将軍〟と呼ばれるまでに

▽木村、第1期実力制名人に 

 「京都南禅寺」での木村義雄八段との戦いは坂田が終始劣勢だった。坂田は、火鉢の灰をかき回すなど焦りの色が濃く、付き添いの娘、玉枝をしきりに見ていたという。敗れた坂田は一九三七(昭和12)年三月には三九歳の花田長太郎八段と京都・天龍寺で対局し、初手で木村戦と同じく「9四歩」と端歩を突くが敗れた。このあと花田八段を最終戦で破った木村八段が第一期実力制名人に就位した。

 当時、木村は三十一歳の若さだった。この名人戦は一九二七年創立の旧日本将棋連盟によってつくられた「名人戦」の初代名人を決めるリーグ戦の最中に行われた。坂田は当時、連盟には加入していない変則的なリーグ対局だった。

shogikurabu.jpgのサムネール画像

 その後、木村は「常勝将軍」と呼ばれるほどの不敗を誇り、大相撲の大横綱、双葉山と並んで国民からよく知られる存在となった。結局、木村は第十一期の名人戦で大山康晴に敗れ、「よき後継者を得た」の名文句を残して引退するまで将棋界の第一人者として活躍した。


▽坂田が文壇の大御所、菊池の支援で
名人戦挑戦者リーグに参戦

 太平洋(日中)戦争は泥沼化し、一九三八(昭和13)年、日本は第一次近衛内閣の時に戦争遂行のため、「国家総動員法」を公布する。この法律は国家のすべての人的、物的資源を政府が統制運用できる戦争遂行のための法律だった。
 この年の二月、坂田は文芸春秋社の社長で小説家の菊池寛(1888年―1948年)を訪ね再び、将棋対局の斡旋を依頼している。当時、菊池は、〝文壇の大御所〟的な存在だった。また、菊池は「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」という名文句を残すほど将棋にも造詣が深かった。
 坂田に同情的な菊池の尽力もあり、坂田は第二期名人戦挑戦者決定八段リーグに参加した。この名人戦で坂田は前半五戦目までは一勝四敗と苦戦した。第六戦で花田長太郎八段と対局、坂田が勝ち、二勝六敗で何とか後半戦の参加資格を獲得することができた。当時のリーグ戦は二年かけての総当たり戦だった。この時の前半戦のリーグ戦は盤の則で雑音が入れる人物がいたので、十年以上のブランクがある坂田にとって、勝敗に大きく影響したと言われている。


▽〝解放運動の父〟松本治一郎が立ち会い
坂田へ無言の激励
shogibannzoutei.jpg松本に将棋盤一式贈呈

 二年目の後半戦の対局には、国会議員で「解放運動の父」と呼ばれた水平社運動の指導者、松本治一郎(1887年―1966年)が坂田の対局に立会った。
 松本は坂田の同郷で、部落解放運動にまい進していた泉野利喜蔵(1902年―1944年)から、坂田の対局の立ち会いの依頼を受けた。そして、松本は三日間ぶっ通しで東京での坂田の対局の立ち会いを務め、坂田に無言の激励を送った。前半戦では負け込んだが坂田だが、松本が応援に駆けつけた後半戦は五勝二敗と大きく勝ち越した。坂田は、前半後半通して七勝八敗で総合四位と善戦した。
 結局、リーグ戦では関根金次郎の一番弟子、土居市太郎(どいいちたろう=名誉名人、1887年―1973年)が全勝で第一期名人木村義雄に挑戦したが、一勝四敗で敗れ、木村が初防衛に成功した。

 松本はその当時の経緯をこう話している。

「あのころ私とともに全国をまわっていた堺市の、いまは故人になった泉野利喜蔵君から『坂田がこう言っている』といってきたので、それじゃ立会いになってやろうと引き受けた訳だ。早速東京の将棋連盟事務所に行って『坂田は老人で気が弱くなっているから、なごやかに指してくれ』と頼み、立会の了解も得た。...」(一九五七年六月三日朝日新聞夕刊『王将』をめぐる秘話より)

kaihouunndou.jpg解放運動家の3人

 堺市の舳松(へのまつ)人権歴史館の宮野好司さんは「当時の70歳といえば、現在でいえば、80、90歳の年齢ですよ。」と話す。実際、当時の棋戦は将棋に勝つためには神経戦術や、相手の考えを乱すための妨害戦術がしばしば行われたという。すでに六十八歳の老齢の域に達していた坂田にとって、東京での戦いは肉体的にも精神的にも相当にきつかったと想像される。
 坂田のそばで三日間、暗黙の励ましを送り続けた松本の存在は、坂田にとっては大きかった。舳松人権歴史館には、坂田が松本に感謝して寄贈した将棋の一式が展示されている。その将棋盤を覆う蓋の裏には黒々とした墨汁も鮮やかに「贈 松本治一郎氏 昭和十四年六月 名人 坂田三吉 」と揮毫(記号)され、印も押されている。


▽菊池寛、将棋界の偏狭さを批判

 菊地寛は「将棋世界」の匿名欄で坂田の悪口が投書されていることに、坂田に同情し棋界を批判している。
 「実戦に遠ざかること二十年近く、近代将棋を知らずと言われ、しかも七十を越した老人である。それがノコノコと出て来て、神田や萩原を負かすことは大手柄でその資質性の強靭(きょうじん)と、その全盛時代の棋力の充実とを思わせて何人も喝采してもいいことだと思う。それだのに、大成会公認と称する『将棋世界』の匿名欄などで機会あるごとに坂田の悪口を言っているなど、将棋界の偏狭(へんきょう)を示しているようで見苦しい(後略)」(一九三〇年「話の塵」)

2009年6月17日 01:59

ご意見・ご感想は読者の広場もしくは、下記のコメント欄へ

コメントする

なお、著作権上問題があるおそれがある内容、特定の個人・民族・法人等への誹謗中傷、またアダルト・サイトへの誘導などの書き込みがあった場合、管理人の判断で断りなく削除します。

Untitled Page