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2009年6月17日
ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男
第七章《悟り》㊤
伝説の「9四歩」、坂田の反骨魂
京都・南禅寺の決戦で
▽坂田、木村待望の対戦
戦時色が濃くなった一九三七(昭和12)年二月、京都・南禅寺で坂田三吉と木村義雄八段(1905年―1986年)との特別対局が行われた。読売新聞社が主催した対局で一九三六年十二月二十四日の同紙上には「待望の巨人今ぞ起つ! 〝関西の棋聖〟坂田三吉氏 木村、花田両八段と闘う」と見出しが躍っている。当時の読売新聞はまだ、小さな新聞社で新聞紙面にはこの対局にかける並々ならぬ意気込みが感じられる。一方、名人戦を主催する東京日日新聞(現・毎日新聞)は棋界の最高権威である名人位の失墜を危惧して反発したが、最後は木村が「将棋大成会を脱退し、個人として参加する」ことを宣言したため、坂田との対局が実現したという。
この年の七月、太平洋戦争が始まった。ファシスト党首、ベニート・ムッソリーニ率いるイタリアが連合国側に対抗して日独防共協定に参加し、のちの日独伊三国同盟のきっかけとなる。また、国内に目を転ずれば戦時下における天皇直属の最高統帥機関「大本営」が設置され、日本は完全な戦時下体制に突入することになる。この戦争において、日本国内では、一九四五(昭和20)年八月十四日までの三年九カ月の間、新聞・ラジオは大本営の発表をそのまま報じた。特に敗戦直前には戦果を誇張し、逆に被害は矮小化する傾向が顕著に現れていた。しかし、国民が大本営の発表に公然と疑いをはさむことは許されなかった。
▽1手遅れの悪手
ここで、木村の棋士歴に触れておく。木村は東京・浅草の将棋道場で指していたところを関根金次郎に見込まれた。極貧生活を体験した木村は、ハングリー精神も旺盛だった。坂田との対戦が実現した当時、すでに木村は近代将棋の第一人者と目されていた。それだけに木村と関西将棋の第一人者、坂田との一戦は戦前から大評判となっていた。
一九三七(昭和12)年二月五日、持ち時間は各三十時間、対局七日間、外出禁止の死闘の幕が切っておとされた。三十一歳の木村に対し、当時の坂田はすでに六十七歳の高齢だった。のちに「南禅寺の決戦」と呼ばれることになるこの対局で、坂田は木村八段の初手「7六歩」に対し、二手目に「9四歩」と指した。一番右の「歩」を前に出し、将棋の素人でも「一手遅れの悪手」と思われた。しかし、この手はあくまで坂田三吉流の将棋手法の真骨頂ともいえた。坂田は振りゴマで後手番だったため、結局2手遅れだった。対局そのものは約二十年近く実践から遠ざかっていた坂田が終始劣勢だった。余裕を持って指すことができた木村は、三日目の終了後には報知新聞からの依頼記事を書いたり、酒を飲むほどリラックスしていたという。
◎定跡を知らぬ、無学の坂田に勝てなかったのは事実であるまいか
(坂田氏)
▽「興味無限の名手」と孫弟子、内藤9段
坂田の孫弟子にあたる内藤国雄9段は、この対決を自著「坂田三吉名局集」(講談社)の中で、「三百七十年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と記している。世紀の一大対局は、熱戦の末、坂田が95手で敗れた。坂田の「9四歩」の指し手を内藤九段は「『興味無限の名手』『新手の発見』です。あえて2手出遅れた初手を指した六十八歳の坂田先生は、将棋に対する挑戦をすることで将棋の世界を拡大しようとした」と解説し、坂田を賞賛した。
一方で自分の将棋が批判されたことに対して坂田は「『坂田の将棋は定跡がない、だから坂田のは将棋じゃない』」とこう語っている。ぼくは心ひそかに笑ってやった。『今にこの坂田の信じる本当の将棋が分かるようになる』と、案の定そうなってきた。将棋じゃないといった将棋が、今東京では盛んに打たれている。実力の時代がきたのだ。定跡はいわば将棋の学問の一種だろう。しかし有難がっていた定跡を知らぬ、この一介の無学な坂田に勝てなかったのは事実であるまいか。定跡を多く知り、多く研究したものが強いのなら老人が一番強かろう」(「週刊朝日」1930年5月4日号)と坂田流の将棋の心髄を語っている。
◎坂田は将棋の可能性の追究としては、最も飛躍していた
(織田氏)
通天閣のビリケン像
▽作家、オダサクも坂田の「端歩」を賞賛
坂田の「9四歩」の指し手は作家、織田作之助(1913年―1947年)の目にもとまった。
織田は小説「夫婦善哉(めおとぜんざい)」などの作品で知られる大阪出身の無頼派と呼ばれた当時の流行作家。織田は一九四六(昭和21)年十二月号の文芸誌「改造」に「可能性の文学」(のちに単行本『可能性の文学』昭和22年カホリ書房 他、全集、講談社文芸文庫なども刊行)として文芸評論を発表した。その評論で織田は坂田流の「端歩」の将棋とフランスの哲学者、サルトルの実存主義をつなげて、「六十八歳の坂田三吉が実験した端の歩突きは、善悪を別として、将棋の可能性の追究としては、最も飛躍していた」と、木村との「京都南禅寺」での坂田流将棋を絶賛した。
▽オダサク、文壇を批判
そして、織田は文壇が幅を利かしていた当時の文学界の潮流に対して、「ところが、顧みて日本の文壇を考えると、今なお無気力なオルソドックスが最高権威を持っていて、老大家は定跡から一歩も出ない...『可能性の文学』は果たして可能であろうか」と、当時の文壇を痛烈に批判した。
そして、自らの文学を省みて「しかし、われわれは『可能性の文学』を日本の文学の可能としなければ、もはや近代の仲間入りはできない。...白紙にもどって、はじめて虚無の強さよりの『可能性の文学』の創造が可能になり、小説本来の面白さというものが近代の息吹をもって日本の文壇に生まれるのではあるまいか」と自らの文学論を展開した。この評論が文学評論としては三三歳で早世した織田の最後の作品となった。
2009年6月17日 01:51
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