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大山勝男の「フリムン通信」

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2009年6月17日

ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男

第六章《坂田、将棋名人就位》
坂田、名人位就位強行

▽東京将棋連盟反発

 戦前の将棋界は団体がばらばらで1924年(大正13)に有力三派が一本化して「東京将棋連盟」が設立された。関西には「東京将棋連盟」のような組織はなかったが、坂田が主宰する将棋道場を中心に政財界と大阪朝日新聞が中心になって東京への対抗意識をむきだしにしていた。小野名人は関根金次郎(1868年-1946年)を嫌い生前、坂田を名人に推挙していた。このため、「坂田を名人に」という気運は関西を中心に高まっていたが、1921(大正10)年に小野が亡くなると、坂田より二歳年上の関根が名人に就任した。坂田自身も「心・技・体」が揃った関根が名人にふさわしいと分かっていた。関根の名人就位の時には坂田も上京し、祝いの席に参列した。

 ところが、四年後の一九二五(大正14)年四月十日、大阪市東区平野町の「堺卯楼(さかうろう)」で「坂田名人推薦及び祝賀開会」が強行された。この名人就位には坂田の後援者、柳沢保恵(やなぎさわ・やすとし=1870年―1936年)伯爵や後の通産大臣高橋龍太郎、大阪朝日新聞、京阪神と東京の財界有力者八十余人が参列し、坂田の名人就任を主張した。坂田はこれらの支援の声を背景に名人就任を強行した。

◎永くとはいわぬ、名人位は関根氏に
(関根の弟子、大崎7段)
sekine.jpg6章関根金次郎名人

 坂田のこの突然の名人就位は、東京将棋連盟の意思を無視する形で強行された、。この強行の背景には坂田と東京将棋連盟の大崎熊雄七段との密約説があげられる。
 坂田は名人就位を強行した背景をこう暴露した。
 「(前略)そのとき大崎氏(熊雄七段)が『永くとはいわぬ、今回の名人位は関根氏の棋功を認めて譲られたい』と懇請して来たのだ。坂田もこれを承諾した。そこで、関根氏は名人となったのだが『永くとはいわぬ』が実現しない(後略)」(「週刊朝日」一九三〇年五月四日号)

 一方、坂田の名人就位について東京将棋連盟は「決議 東京将棋連盟はさきに坂田八段の名人昇格の風説ありたるに対し、反対の決議を為したるも、坂田氏は何等顧慮する事なくして名人披露を為したり。東京将棋連盟は飽くまで斯かる暴挙を承認せず。」(大正十四年四月十六日東京将棋連盟)と決議文を発表した。


◎「あんたは将棋が命や。阿呆な将棋は指しなはんなや」と妻コユウ
tuma.jpg三吉の妻、コユウ。映画や戯曲では「小春」と呼ばれた

▽掛けがいのないコユウの存在

 一八二七(昭和2)年三月、坂田は名人として坂田三吉講評「将棋大全」を発行した。一方、東西に分裂していた将棋界も同年に「東京将棋連盟」と大阪の木見金治郎八段派の「棋正会」がひとつになり「日本将棋連盟」を創立。会長は関根金治郎、大阪支部長に木見が就任した。
 こんな中、坂田を支え続けた妻コユウが同年十一月十九日、享年四十六歳の若さで亡くなった。坂田が名人に就位した二年七カ月後だった。

 坂田はコユウについて「亭主思いで、随分苦労をしてくれたが今やっと生活も楽になり、これから子供の立身出世も見られようという時になってヤレヤレと思う間もなく死んでしまったのである。全く苦労しに生まれて来た女である。それを思うと気の毒でならぬ。」と悲しんだ。
 そしてコユウの最後の言葉として「アレは死ぬ時わたしを枕元に呼んで『あんたは将棋が命や。阿呆(あほ)な将棋は指しなはんなや』といって励みをつけてくれた」と回想し、その後の坂田は一局、一局を全身全霊で戦い、生涯、「名人」に恥じない将棋を指し続けた。坂田にとってコユウの存在は掛けがいのない存在だった。


▽坂田、大阪朝日新聞の嘱託に

 坂田はコユウの死後、大阪朝日新聞社の招請で一九二八年四月から「将棋に関する事務嘱託」となり、月百五十円の手当を受けた。当時としては高給で坂田は「朝日大盤将棋大会」で大盤講義をしたり、新聞紙上で「坂田名人実話・将棋哲学」を連載した。また、週刊朝日には「将来、東京とは対局するが...時期が来ていない」と当時の坂田の心情が掲載された。
 坂田が大阪朝日新聞の嘱託となった二八年には、第一回の普通選挙が実施された。一方で、政府による社会主義者、共産主義者への弾圧事件「3・15事件」が起こった。この事件は社会主義的な政党の活動に危機感を抱いた時の田中義一内閣が、同年三月十五日に治安維持法違反容疑で日本共産党(当時は非合法)、労働農民党などの関係者千六百人が一斉に検挙された事件。
 プロレタリア作家、小林多喜二は「3・15事件」を題材に雑誌「戦旗」(1928年11月・12月号、のちに発売禁止)に作品「一九二八年三月十五日」を発表。この作品は特別高等警察(特高)による拷問の描写が描かれており、特高の怒りを買ったといわれる。
 また、世界に目を転ずれば「世界恐慌」が始まっていた。さらに三一年「満州事変」、三二年「上海事変」が勃発。翌三三年には日本は国際連盟を脱退するなど太平洋戦争へ向けて、走り出していた。
sakatahude.jpg内藤9段坂田の筆を見学 

▽坂田の最大の後援者、柳沢死去

 坂田の後援者だった柳沢伯爵は一九三四(昭和9)年八月の文芸春秋八月号で「坂田名人の為に」を寄稿した。
 同誌上には「(前略)大阪名人坂田三吉氏に対し、近頃種々の手段を講じて同氏と在京の高段の棋士との対局を望む向きがすこぶる多く、現に某々新聞社長、或いは大阪に赴いて直接運動を進め、又は東京において策動して何とか坂田氏対それら高段者の試合を実現したいものだと奔走されたことを聞いている。(後略)」と当時の棋界の状況を述べている。

 一九三五(昭和10)年三月、日本将棋連盟は総会を開き、棋道改革案を決議。伝統の一世名人制を廃止し、短期名人制度の導入などを発表した。同年六月には日本将棋連盟、東京日日新聞(のちの毎日新聞)、大阪毎日新聞が主催して短期名人制度の新名人決定「八段特別リーグ制」が開幕した。三六年五月には坂田の最大の後援者だった柳沢が亡くなった。柳沢は名人・小野五平に坂田の八段昇段を斡旋し、小野没後の名人継承では関根の就位には最後まで反対し、坂田が名人就位時の八十余名の推薦者の一人だった。
 柳沢が亡くなった三六年には陸軍皇道派の青年将校によるクーデーター「2・26事件」が起こった。また、同年十一月二十五日には日本、ドイツの間で共産インターナショナルに対する「日独防共協定」が調印された。翌年の三七年十一月にはイタリアが参加し、日独伊三国防共協定に発展し、日本は一気に太平洋戦争への道を突き進んでいくことになる。

2009年6月17日 01:44

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