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2009年6月17日
ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男
第五章《関西から関東へ》㊤
坂田、決死の覚悟で初上京
▽筆頭に、関西将棋研究会発足
坂田は一九〇八(明治41)年七月、六段の時に初めて関東(神奈川県)に遠征し、川井房郷六段、蓑太七郎五段らと対局。〇九年、坂田が三十九歳の時に息子義雄が誕生している。
この年の八月、東京では明治以後初めての将棋組織「将棋同盟社」が萬(よろず)朝報社を背景に井上義雄(八段)、関根金次郎ら棋士二十三人によって創立された。しかし、翌年十月には「将棋同盟社」(旧同盟会)を離脱した井上義雄が「将棋同志会」を組織したため、東京では将棋団体が二つとなった。
▽坂田、自ら7段の実力と新聞に発表
一方、四十歳の坂田は一九一〇(明治43)年七月七日、自ら「優に七段の実力がある」と信じ東西の朝日新聞紙上に七段を発表。その後、大阪朝日新聞社(当時)が関根八段との対局を企画するが、関根が香香平(香落ち対局二番と平手対局一番)を望んだことから対局が実現しなかった。坂田にしてみれば、関根の言う「香香平」の対局条件では当時の段差では六段七分(ぶ)で坂田が望む「七段」の棋力が認められないことになる。坂田はこの勝負を断念することになった。
同年十月には坂田を筆頭に「関西将棋研究会」を福田箔昇斎ら十六人の正会員で発足した。翌年には、関西将棋研究会の機関誌「将棋雑誌」を創刊した。また、一二年に坂田は「将棋草薙之巻」「将棋虎之巻」を出版。京阪の将棋界は神戸新聞、大阪朝日新聞、大阪時事新報など各新聞社が後援するなどして繁栄した。
▽通天閣が建立、新世界一帯は歓楽街の様相
通天閣界隈(ジャンジャン横丁)
一九一二(明治45)年の七月に大阪・新世界には遊園地「ルナパーク」(月の園)が完成し、そのシンボルとなる通天閣も完成した。通天閣の電灯工事には当時、十七歳で大阪電灯に勤務していた松下幸之助(後に松下電器産業の創業者)が配線工として働いていた。一九二〇年からは二代目通天閣と同じように側面に「ライオン歯磨」の巨大なネオン広告が灯った。
この時の通天閣は凱旋門の上にフランス・パリのエッフェル塔を載せた様子を真似た形で現在の通天閣と外見が異なる。また、建つ位置も現在のものよりも南側にあった。
当時、東洋一の高さを誇った通天閣(91㍍)からルナパークまではロープウェイで結ばれ、ルナーパーク内に置かれた〝幸運の神さま〟「ビリケン像」と共に人気を呼んだ。通天閣とルナパークの開業で、新世界界隈(かいわい)には芝居小屋や映画館、飲食店が集まりだした。
また、現在のフェスティバルゲートのやや北あたりに国技館も建設された。一方、周辺地域でも市立天王寺動物園(1915年)、飛田遊郭(とびたゆうかく=1958年)が開業するなど新世界一帯は大歓楽街地帯として栄えるようになった。しかし、ルナパークは現在のフェスティバルゲート(民事再生中)を彷彿(ほうふつ)させるように振るわず、一九二三(大正12)年に閉園した。
▽「坂田が盤上で泣く」の名文句も
一九一三(大正2)年四月、七段の実力を声明した坂田に、関根八段と対局する機会が巡って来た。初めて上京する坂田はその時の心境をこう回顧している。
その時、坂田はプラットホームで見かけた男性に心打たれる。その男は乗客が走り騒ぐ駅で、懐手で空を見上げている。対局前の緊張で寝汗をかいた坂田は、その男を思い出し、ハッと気付く。「敵を前に自分はカチカチになりすぎている。一つ瓢箪(ひょうたん)の栓を抜いて、ふわっとした気持ちにならなければならない」と自分を叱り付ける。
坂田没後の一九六一(昭和36)年十一月、村田英雄がレコード「王将」を発表。作詞は当時の売れっ子作詞家だった西条八十が担当し、「吹けば飛ぶような 将棋の駒に/賭けた命を 笑えば笑え~」そして、歌詞は「明日は東京に 出ていくからは/なにがなんでも 勝たねばならぬ /空に灯がつく 通天閣に/おれの闘志が また燃える」と続く。坂田が初めて上京するときの心境は歌に託したものだ。
坂田は、関根八段と歓迎会記念対局で関根の「香落ち」の手合いで勝った。この時の対局は坂田にとって厳しい戦いで、のちに「駒になった坂田が盤上で泣く」と名文句が生まれた。坂田に同行した高浜作蔵は対局を振り返り「先生の4八角(棋譜では6二角)!あれは実に古今の名手でしたね。あの一手で、形勢が一変した」と話した。
坂田自身、この一手について朝日新聞紙上での連載「将棋哲学六、坂田名人実話」でこう紹介している。
将棋クラブ
「その時自分は二五の銀という手を打った、その銀は進退窮まって出た銀だった。出るに出られず、引くに引かれず斬死(きりじに)の覚悟で捨て身に出た銀であった。ただの銀じゃない。それは坂田が銀になって、うつ向いて泣いてる銀だ。それは駒と違う、坂田三吉が銀になっているのだ。その銀という駒に坂田の魂がぶち込まれているのだ。―その駒が泣いている、涙を流して泣いている。」
同年7月、坂田は東京での関根との死闘を制し、舳松村へ凱旋(がいせん)里帰りして、羽織、袴姿で村中をあいさつして回った。
2009年6月17日 01:28
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