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大山勝男の「フリムン通信」

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2009年6月 7日

ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」:大山勝男

 ルポルタージュ「ナニワの反骨の棋士 坂田三吉伝」の一括掲載です。

はじめに

 坂田三吉は演歌や映画、演劇、テレビドラマなど数多く登場する伝説の棋士。明治期から昭和初期に棋界で大きな足跡を残した。三吉、ゆかりの地である浪速・通天閣界隈はたくさんの映画や劇画の舞台になっている。三吉の出身地は堺市で彼は幼少から将棋を好み、棋界に大きな足跡を残した。貧しい家に生まれた彼は、満足に学習する環境に恵まれず、自分の名前も書けず、駒の字と数字しか読めなかったと言われている。しかし、将棋の世界では驚異的な強さを発揮し、宿命のライバル、東京の関根金次郎七段や、木村義雄との「南禅寺の決戦」など、今も語り継がれる名勝負を繰り広げた。その天衣無縫の人柄とともに、その名を天下にとどらかせた。

 「わしの銀が泣いている」「天から降った角」「興味無限の名手」「新手の発見」などの名文句も彼によるものだ。三吉は一九五五年(昭和三十)、日本将棋連盟から名人位、王将位を贈られた。

 しかし、現代人にとって三吉のイメージといえば、通天閣の下の貧しい長屋で育って、無学で、将棋しか頭にない男とのイメージが強い。かつて北条秀司という高名な劇作家が「王将」という物語の中で三吉をこのように描いた。北条の描く「王将」は、新国劇の舞台に始まりその後も映画のシリーズになり、テレビドラマも北条が描く、三吉像を踏襲してきた。しかし、実像の坂田はそうではなかった。彼は将棋盤の上で学んだ哲学者で何よりも現実の「差別」と闘った人物だった。彼の生き様を〝現代の鏡〟を通して写してみた。


Vol.1 《新世界・通天閣》

 大阪市営地下鉄の御堂筋線「動物園前」で下車、駅前の青空市場のように骨董やスケッチ絵、中古服、中古レコードを売っている路上店が並ぶ短い地下道を抜けると、〝ジャンジャン横丁〟がある。串焼き屋や居酒屋が建ち並ぶ三十㍍ほどの商店街で、かつて「三味線で『ジャン、ジャン』とかき鳴らして客引きをした」ことからそう呼ばれているとのいい伝えがある。

 横丁には飲み屋と並んで将棋倶楽部が二軒開店し、ガラスの窓越しから対局を観戦する人も多い。将棋倶楽部「王将」もそのひとつで、倶楽部内には将棋盤が二十席ほど並び、駒を「パチン、パチン」と鳴らしながら熱心に対局する光景がみられる。店内の壁にそっと眼を向けると対局姿の坂田三吉の写真が掲げられている。実際に素人将棋を打っていると、坂田が対局をみつめているような気分になる。

 この写真は戦後まもなく開店した将棋倶楽部「王将」の先代の主人、矢本博三さん(故人)が坂田の家族にお願いして戴いたものという。現在は二代目の矢本喜彦さん(六〇)が店を継いでいる。「両親がやっていた昭和四十、五十年代は一階、二階の席も満席でした。十数年、新世界を舞台にしたNHKの朝ドラ『ふたりっ子』が放映されていた時は将棋ブームが起こりましたが、最近は客が減っています」と寂しそうだ。

 ただ、土曜や日曜、休日ともなると関西をはじめ全国から若者が「新世界」を訪れ、新世界名物の「元祖串カツの店」や〝ビリケン人形〟をかたどった串かつ店の前に長蛇の列をつくるほどの人気だ。

 ジャンジャン横丁を通り抜け、左に折れ、さらに右に折れると、フランスのエッフェル塔を模した通天閣がそびえる。通天閣の左側の地下には新世界・演芸劇場がある。その入り口の左側、通天閣の足元には棋士、坂田三吉を顕彰する大きな王将の駒と碑文を刻んだ王将碑が建つ。この碑は一九六九(昭和四十四)年に地元「新世界」の有志の人たちによって建立された。毎年、三吉の命日にあたる七月二十三日には「王将祭り」が開かれ多くの将棋ファンらが集う。

 碑文にはこう記されている。

 「王将坂田三吉は明治三年六月堺市に生れる 幼少より将棋一筋に見きわめ恵まれた 天分と努力は世の人をして鬼才といわしむ 性温厚にして妻小春と共に相扶け貧困と すべての逆境を克服する 昭和二十一年七月(七十七才)大阪市東住吉区に没す 同三十年十月生前の偉業をたたえられて 日本将棋連盟より棋道最高の名人位 王将位を追贈される 翁によって大阪人の土根性の偉大さを しらしめたる功績は私たちの追慕しやまざるところ ここに由縁の地通天閣下にこれを顕彰する 昭和四十四年十月吉日」

 「わてが死んだら映画や芝居にしよりまっせ」と坂田

 碑文は「王将」碑となっているが、生前の坂田は「王将」や「関西名人」ではなく、「名人」を名乗っていた。また、坂田といえば、通天閣を背景にした新世界の街とイメージがだぶるが、坂田の生まれは碑文に刻まれているように堺市だが、古い将棋ファンで坂田の名前を知っている人でも坂田と堺市とのイメージは重ならない。

 その理由の多くがこれまで芝居や映画、テレビで数多く演じられてきた新世界を舞台に坂田を風変わりで粗野な人物として描かれているところが大きい。

 坂田は十九年間の交流があった書道家、中村浩に「『わてが死んだら映画や芝居にしよりまっせ』」と語るなど彼自身、自分自身の生き方をかなり意識していたらしい。中村は「彼は単なる勝負師でなく預言者のような人でもありました」と坂田の人となりを述べる。


Vol.2《新世界・通天閣 2》

 実像の坂田はセンスがありおしゃれ。「映画、芝居の『王将』はみたくない」と3女の美代子さん。坂田の晩年、坂田と父娘二人で暮らし坂田の最期を看取った三女、美代さんは父への思いをこう記している。

 「父は貧しい生まれで無学だったため、文字を読めず、自分の意思をうまくことばに表現できず、そうしたもどかしさからでしょう、周囲に当たりちらすということがあり、わがままな人だとの誤解を受けていた面が多かったと思います。が、身近で知るかぎりとても純粋で素直な人だったと思います。父のイメージは、貧しいゆえに身なりも構わぬように見られた若いころの話が一般化されているようですが、私たちが見て知っている晩年の父は、すごくセンスのある人でした」と娘として身近でみる父三吉の実像に言及する。

 坂田は名人戦に復帰したときはすでに六十代の後半だった。それまで十数年間も真剣勝負を指していなかった。そして美代子さんによると、坂田は戦いを前にして「『負けても構わぬが、年をとっているからと哀れみを受けるのは残念だから』」といって、手のツメに丹念に油をぬっていたという。

 また、ファンから贈られた高価なラクダのシャツやズボン下なども、「和服の上から見えるのをきらって、袖口や襟元、膝下などを切り取って着ていました。頭髪も『勝負師がシラガ頭ではみじめだ』といって、一本もないように心がけていましたし、肌もみがいて......それはおしゃれでした」という。

 美代子さんは、実像の坂田とは違う坂田像を描く映画や芝居の『王将』に対して「あんまり見たくありません。好きなように生ききってグチひとついわずに、なんの執着も未練もないようすで、きれいに逝ったああいう死にかたができた父は、それだけでもとても偉い人だと思うんです。何か一つの道に秀でた人のもつ風格がじゅうぶんある人でした」(月刊誌「潮」一九七四年八月号)と父への慈愛の思いのたけを述べている。

 通天閣の真下にあった通天閣「囲碁将棋センター」は二〇〇一(平成一三)年七月二十三日の「王将祭」を最後に閉鎖、今では演歌が中心の通天閣劇場だけになった。NHK連続朝ドラマ「ふたりっ子」(96年10月―97年3月放映)は新世界を舞台にしたドラマで〝新世界の歌姫〟叶麗子や伝説の将棋指し太田学さんが描かれた。

 その伝説の将棋指し太田さん(故人)に会った。太田さんは、一九一四年(大正三)、鳥取県倉吉市生まれで、かつては賭け将棋で生活する「最後の真剣師」だった。「戦後のどさくさ時代には最盛期で一日五、六十番も真剣で指しよったこともあります。三十四、五歳のころは平手で五段、六段のプロと指していましたから。そのころが実力では最盛期でしょう」

 実際、当時の太田さんの棋力はプロ六段に相当し、「将棋連盟の顔役から、プロ転向の誘いもあった」と言うが、「年齢的にも峠を超えているし、大成しないと断わりました」という。太田さんは将棋センターで指導料名目で対局料を稼ぎ生活をしてきた伝説の将棋指しだった。

 週末の地下演芸場では、叶麗子が歌う「王将」を聴きに中高年世代の熱心なファンが詰掛ける。また、休日には他府県からの観光客も増え、デートコースとして若い男女カップルの姿も多くみられるようになった。


Vol.3《新世界・通天閣 3》

 幼少時の〝さんきい〟大人の将棋を見て覚え才能を開花 

 坂田は一八七〇(明治三)年六月三日、和泉国大鳥郡舳松(へのまつ)村、現在の堺市堺区協和町で卯之吉(うのきち)、クニの第三子、姉二人妹六人の三番目、長男として誕生した。坂田は幼少時から妹の子守りや、家業の草履表づくりを手伝いながら、狭い路地裏で大人が指す将棋を見て覚え、生来の才能を開花させ、頭角をあらわした。現在生家跡に舳松社会教育会館(協和町)が建ち、坂田の顕彰碑が建てられている。除幕式には坂田三吉に可愛がられた大山康晴十五世名人も出席した。

 大山名人は「広報おおさかNO.20」(1991年)に坂田への思いを馳せた文章を寄せている。

 「南禅寺で、木村八段、天竜寺で、花田八段との一週間かけて、三十時間に及ぶ棋戦は余りにも有名な話であるが、のんびりとした、古きよき時代だったから実現したのだろう。私はまだ入門して二年程だったから、のぞき見が出来なかった。その後正式に名人戦参加を許され、浪人でなくなった阪田翁は、差し盛りの人を相手に八勝八勝等という底力を見せつけたのである。昭和十三年の出来事であった。三十年近くも厳しい大局もない人が、関根名人を相手に勝ち越したという事は、いかに強かったかを実証できたのである。本人はきっと嬉しかったことだろう。その辺りに歌や、芝居に脚色される原点を見たと云えよう」

 坂田の深い読みと鋭い攻めは、乱戦に強い独特の坂田将棋を生み出した。

 坂田は幼少の頃、愛着を込めて「さんきい」と呼ばれていた。村の古老は親しく幼子に「さんきい」の少年期のことや村の生活を昔語りで暖かく語った。

  坂田の幼少時代を舳松村の古老が語った「さんきい物語―へのまつ村の阪田三吉―」(部落解放同盟大阪府連合会堺支部・歴史編さん室/スタジオ303=代表・阪本ニシ子)から坂田の幼少時を紹介してみよう。

 「三吉ったんの生まれた家は、いま舳松集会所あるやろ、あそこのまん中へんのところやな。そこで生まれたんや。家は、間口二間、奥ゆき二間半いうから、せまい家や。戸をガラッとあけるやろ、そしたらそこが、ふみこみ庭や。いまでいうと玄関や。そんで、右のほうにせまい台所があって左に四畳の間があるわけや。畳がしいてあるわけやない、ゴザや。そのよこが押入れ。右の奥の方に二畳の間。それだけの家や」(「さんきいの家」より)

 確かに古老の話からは幼少時の坂田がいかに経済的には厳しかったかがうかがえる。


Vol.4《坂田は中世の自由都市、堺の出身》

〝チンチン電車〟で通って将棋の真剣勝負

 堺は中世の自由都市として栄えた。この地からは歌人の与謝野晶子(1878年―1942年)、茶の千利休(1522年―1591年)、東大寺大仏建立事業にも加わった民衆布教の高僧、行基(668年―749年)ら日本の歴史を彩る多士済々の人物を輩出している。

 坂田の生まれ故郷を目指して大阪・市営地下鉄「天王寺」駅から日本初の私鉄阪堺鉄道(阪堺線)の〝チンチン電車〟に乗った。電車に揺られて外の景色に目を向けていると、「内藤(国雄九段)先生は優しいから嫌な顔ひとつせずに笑顔で将棋ファンにサインをしていたよ」と二人の素人棋士の話し声が聴こえた。

 三吉の生誕の地で坂田ゆかりの将棋大会の会場がある「御陵前」駅で降りた。坂田もこの阪堺電車に乗り、将棋の強豪を求めた。坂田が生きた当時とはすっかり風景は変わったが、電車に揺られ坂田は何を思ったのだろうか、感慨深い。駅から東南の方向に約十分歩くと、茶色の建物、舳松(へのまつ)歴史資料館(堺市立解放会館内)がある。資料館は三吉の生家とも近い。


Vol.5≪第21回阪田三吉名人杯将棋大会開催≫

 アマ棋士が棋力を競う

 この日は、坂田三吉の故郷でアマチュアの将棋大会では、全国規模を誇る「第二十一回阪田三吉名人杯将棋大会」の開催の日だった。会場となった体育館には国内各地から招待されたアマ強豪を含む約六百人が参加。開会に先立ち三吉の孫弟子にあたる内藤国雄九段から三吉の故郷、堺市に三吉愛用の筆が、寄贈された。

 この筆は三吉の孫吉田陽子さん=神戸市=が保管してきた筆で、直径二㌢、長さ三十五㌢。昨秋、ロンドン在住の陽子さんの長女のバイオリンコンサートに、内藤九段が足を運んだのをきっかけに交流が始まった。二〇〇八年春、内藤九段が贈った扇子のお礼にと、陽子さんから筆が渡された。

 内藤九段は筆を堺市に贈呈した経緯についてこう話す。

 「筆はわたしの机の上に立てていました。この筆で(坂田三吉が)〝馬〟の字を練習していた。あるとき、就寝していたわたしに師匠の藤内金吾が夢で現れて、堺の坂田三吉記念室に贈呈して多くの人にみてもらったほうがいいという夢をみました。(坂田さんならではで)筆一本の贈呈がたくさんの新聞で報道された」と話す。


Vol.6≪孫弟子、内藤9段「王将」を熱唱≫

 「阪田三吉名人杯将棋大会」の開会式で審判長を務める内藤九段から堺市へ坂田の筆が寄贈された。内藤九段は参加したアマ棋士を前に、「大学教授から羽生(善治)7冠と坂田三吉はどちらが強いかと質問されました。今も日本中で坂田三吉を知らない人はいないくらい有名」と、孫弟子として坂田が今も語り継がれることに歓迎の意を表明しながらも、「不思議なことに今も坂田は通天閣生まれであるとたくさんの人が思っている。その原因の多くが村田英雄が歌った『王将』の曲の影響が大きい」と話した。

 そして、内藤九段は自ら「王将」三番の歌詞を―。

 「空に灯がつく 通天閣に/おれの闘志が また燃える~」と美声を響かせ歌い上げると、館内からは多くの拍手が起こった。

 実際、坂田が新世界界隈に居住していた当時は、まだ通天閣は建設されていなかった。初代の通天閣(1912年)が建ったときには、坂田はすでに大阪府吹田市に転居して借家の一戸建てに住んでいた。

 坂田三吉記念室がある舳松歴史資料館には部落解放運動に立ち上がった舳松の人々と現在の協和町の様子を年表や写真パネル、模型などで展示し紹介している。この資料館に坂田ゆかりの将棋盤や駒と坂田が愛用していた雪駄、壺と菓子器などが展示されている。

 贈呈された三吉愛用の筆は、同市の阪田三吉記念室で展示された。記念室に設置された筆を観賞していた内藤九段は「坂田三吉さんが生きていた時、わたしはまだ五歳か、六歳くらい。師匠から(坂田三吉の)お話は聞いていました。師匠の家には瓢箪(ひょうたん)とか三吉さんゆかりの貴重な品が多くあったのを記憶しています。今では散逸してしまった。筆は十本も残っていない。もっと保管しておくべきでしたね」と悔しい表情をみせる。


Vol.7《雪駄は茶人、千利休の考案と伝聞》

 ここで舳松村の歴史にふれておこう。

 一九七四(明治七)年、坂田が六歳の時に舳松村の願専寺(がんせんじ)内に泉州第九十番小学校が、創設された。しかし、坂田は家の生計を支えるために就学できず十分に文字を習い覚えることができなかった。

 明治、大正期から昭和中ごろまで舳松村の仕事は小作を主とした農業に加え、雪駄(せった)や下駄(げた)、靴修理などの履物の「直(なお)し」が主だった。雪駄は藁(わら)と竹の皮で編み込んだ草履で「堺鏡」によれば、「雪踏(せった)」とも書かれ、茶人、千利休の考案とも伝えられている。

 一八(大正七)年内務省が各府県の被差別部落の実態をまとめた「部落台帳」によると、履物関係の仕事の従事者は住民全体の56・4%で、次いで日雇いや雑業などが17%、牛や豚などを解体する「と蓄業」や食肉販売、行商などの従事者が10%とされている。

 明治政府「解放令」発令
 厳しい生活環境変わらず

 一八七〇(明治三)年、明治政府は平民に苗字の使用許可を出した。翌年の七一(明治四)年には解放令が発布されたが長年、被差別部落出身者への差別意識は払拭されずに、現実にはと蓄や清掃などの厳しい肉体労働や天候によって収入が大きく左右される行商、履物直し業、日雇いなどの仕事で生活を支えていた。

 一九一八(大正七)年の「部落台帳」によると、舳松村の総戸数五百四十五戸のうち「下駄・靴直し」が百九十戸(35%)「下駄表づくり」が九十四戸(18%)で全戸数の半分以上が履物の仕事に従事していた。

 坂田の家も雪駄の「表づくし」が家業で坂田も幼少のころから仕事を手伝った。当時、村の中を「直し、直し」と声を掛けながらボテ(籠)を背負い行商に出かけ、注文があると、他人の家の軒先を借りて雪駄直しの仕事をしていた。

 当時、「直(なお)し殺すにゃ刃物はいらん 雨の三日も降ればいい」という歌まででき、雨が降ると収入がなくその日の生活にも困り果てたという。

 「さんきい物語」から当時の「下駄直し」の仕事を紹介すると―。

 「男の仕事というと、下駄なおしもあった。なおしというと朝はようから、近ぺんに『なおしー』いうて歩いていきはるわけや。おとくさんのある人は、ええほうや。午前中まわったら、もう仕事あらへんわけや。それでも雨ふったら休み。そないして、男のひとは仕事がない。そんで、なおしから帰りはった人なんか、もう昼から将棋さしてるんや。さんきいはな、そないして七つ八つの時分におとなのなかに入って、将棋をみておぼえはったわけや。」


Vol.8《坂田、「字の形」で駒の動かし方を覚える》

 坂田は草履職人として働きながら、幼少から将棋を好んだ。坂田の青年期になるまでの詳しい消息はあまり記録に残されていない。坂田が将棋を覚えたのは裏長屋でのいわゆる〝へぼ将棋〟を指す縁台将棋だった。漢字を読めない坂田は駒に書いてある字がわからない。縁台将棋の仲間に駒の動かし方を教えられ、坂田は一つ一つ字の形で駒の動かし方を覚えた。

 母おくに、三吉の将棋の上達を喜ぶ

 「さんきい物語」では坂田の幼少時代に流行った縁台将棋についてこう語っている。

 「むらの将棋仲間は、みんなつよかったもんや。『四天王(してんのう)』『八天狗(はってぐ)』『九人衆(くにんしゅう)』」という名をかっていにつけおうて。さんきいは、うでをあげていった。おとなたちもかなわなんだと。そやから、ときどき横から口をだして、そのため負けそうやった人が逆転がちになったわけや。『なんや、さんきい、お前のおかげでまけてしまうたがな。お母(か)ぁにいうで―』『かまへんよ』と、さんきい。お母ぁのおくにさんは、そのたびにあやまったわけや。そやけど、お母ぁのおくにさんは、三吉が強くなっていくことを喜んでんねん。」(「縁台将棋」より)

 坂田の将棋の上達は目覚しかった。手ほどきを受けた〝長屋のおっさん〟たちが坂田にばたばたと敗れ、おっさんたちは舌を巻いた。十二、十三歳の時にはすでに初段の実力をもち、堺を中心に所きらわず指して回り、すでに坂田の敵はいなかった。

 その当時、こんなエピソードが残っている。

 当時、坂田は堺の乳守(ちちもり)の遊郭に、小松山という将棋好きの力士りに度々招かれという。相手は力士だけに六尺の巨体で、将棋に負けると、悔しさからギリギリと歯ぎしりをしてを口惜しがる。その光景を見ていた、遊郭の女将(おかみ)がやきもきして「お前が将棋を指すとわしは肩が凝って病気になる」といって腹を立てたが、当の小松山は、「何、構うもんか、負けてもこんな面白いことはない」といってとり合わずに毎日盛んに将棋を指したという。


Vol.9坂田の好きな駒「馬」 サインは「三」

 坂田は駒の中でも桂馬の動かし方に興味を覚え生涯、二文字の漢字しか書き残していない。それが、三吉の「三」と桂馬の「馬」だった。

 坂田は六十歳を過ぎてから、書家の中村眉山に書を習った。字を書くと、大きく書いた。ファンに色紙を求められると、ただ「馬」とだけ書いた。サインは「三」とだけ書いた。この「馬」と「三」の字は舳松歴史資料館や大阪市立博物館に所蔵する三吉由来の将棋盤の蓋の裏書や板書き、色紙、扇子、壷と菓子器にその文字が残されている。三吉が書く「馬」の字は三吉の覚え方があった。「これが頭、これが首、これが胴体、これが尻尾、これが足」というように絵として覚え、書いた。そして、「尻尾を体の内側に巻くのは元気がない」として六画目を右に跳ねるようになった。三吉の書く、「馬」はまさに走っているように表現している。

 後に宿命のライバルとなる関根金次郎は「龍」の文字を残しており、坂田の「角行」(馬)と関根の「飛車」(龍)の闘いとなる。


Vol.10 《認定の段位免状 愛用の将棋盤 すべて「坂田」姓》

 坂田の姓が「坂田」と「阪田」と署名や坂田を紹介した本で分かれているのは、戸籍を新しくした際に「阪田」と誤って書かれたためだった。舳松人権歴史館の宮野好司さんは「江戸時代に大坂が大阪に変わったように、『坂』の方が縁起がいいと変えたのではないのでしょうか」とみる。大正、昭和の新聞でも「坂」「阪」と混ぜこぜに使われている。

 坂田自身は字が書けなかったため書家の中村眉山の代筆によるが、坂田が認定した段位免状や坂田愛用の将棋盤に認められているのは全て名人「坂田」姓である。

 坂田自身は字を知らないことについては「知らないのは学校へ行かなんだからである。一体ワシは読み書きが大嫌いで学校へは半年ばかり通ったけれど勉強がいやでいやでならない」と語っている。

 坂田にはこんなエピソードが残っている。

 坂田は学校から帰るなり、二階へあがり習字の手習いを始めた。坂田がいつに似ず神妙に手習いをしているので、親が不思議に思って、「お前、何を勉強してきた?」と聞くと、坂田は「今まで、学校で教わってきた字を草紙に全部書いてみせた」という。ところが、坂田が差し出した草紙を見て両親は驚いてしまった。

 坂田自身、この時の状況をこう述べる。

  「二、三十枚の草紙へもってきて真黒になるほど同じ二つの文字を、しかも何千というほどぎっちり書いてある。何という二字だったか忘れたが、それが半年間に覚えた字の全部だと聞いて親たちも腰を抜かしてしまったのだ。これは一体なんだということだといって涙を流して泣いた。が、本人にてんで勉強する気がないのだから仕方がない。とうとう親たちもへこたれて学校をやめさせてくれた」(一九二九年一月九日、大阪朝日新聞『将棋哲学(二)』)


Vol.11《〝永遠のライバル〟関根との出合い》

 棋界という勝負の世界へ
 坂田人生をゆだねる

 坂田は一九〇五(明治38)年、三十五歳の時に、十歳下の竹田コユウと結婚した。戯曲や映画では三吉の妻は「小春(こはる)」と呼ばれているが、それは北條秀司(ひでじ)の原作の戯曲「王将」によるものだ。この頃の坂田はもう将棋に夢中で家業の草履作りの仕事は手につかなかった。

 将棋の会があれば交通費をやりくり算段して駆けつけた。坂田は将棋の会で「おれは初段だ」「おれは二段の腕前がある」と自慢する〝将棋天狗〟の鼻を打ち負かし賞品を持ち帰ってきた。しかし、現実の生活は家業に身がはいらないため家の生活は苦しくなるばかりだった。

 一九三三(昭和8)年から三年間、坂田の内弟子として寝食をともにした一番弟子、星田啓三八段はこの当時の坂田の生活の困窮ぶりをこう回顧している。

 「それはみじめな生活だったようです。メシを炊こうにもコメがない。毎度のことなので、師匠が〝メシくわしてんか〟というと、奥さんは黙って将棋盤といっても板盤だがこれをおヒツの上にふたをするようにパチンと置いたそうです。『きょうはご飯を炊くコメがありません』という合図なんです」


Vol.12 《〝近代将棋の父〟関根 日本将棋隆盛の基礎を築く》

 宿命のライバルとなる関根金次郎(1868年―1946年)は坂田より二年早い一八六八(明治元年)年四月、千葉県関宿町の農家の子供として生まれている。将棋好きの関根は、小学校の先生との将棋を楽しみに通学する子供で十一歳の時に上京。後の名人、伊藤宗印(当時八段)に三番稽古(けいこ)の教えを受け、将棋会生活を始めている。関根は十七歳の時、他流試合を思い立ち力のある将棋相手を求めて東京近郊を武者修業に巡っている。一八九〇(明治23)年に四段の免許を受け、翌年伊藤の指示で初来阪、当時名人といわれた小林東白斎との角落ち対局で二番負け、その悔しさから武者修行のため四国へ旅立っている。三年後の一八九四(明治27)年再び小林と対局し、今度は角、香落ちの二番勝負でともに関根が勝った。

 その後の関根は江戸時代から続いた終世名人制、いわゆる世襲制を実力名人制に改革し、自ら十三世名人を退き、実力で決める実力名人制を導入した。関根は現在の将棋の隆盛の礎を築き上げ、多くの棋士や名人を育て「近代将棋の父」といわれることになる。関根が編み出した定跡は今も使われている。

 十五世名人、大山康晴(故人)は実力名人制の導入について、「十三世名人関根金次郎の大英断で、実力名人制に改革されようとしていたのである。それまでは、一度名人になった者が終生名人として君臨していたのである。これは将棋界ばかりでなく、世の中全体が新風を吹き込まれていたせいかも知れない」(「広報おおさか」1991年)と関根の将棋界の改革を評価している。

Vol.13《将棋を通して「関根と世間に勝つ」と坂田》

 坂田が関根金次郎四段と初手合わせしたのは一八九四(明治27)年、堺大浜の料亭「一力樓(いちりきろう)」と言われている。坂田が二十四歳、関根が二十六歳の時だった。一説には対局年、場所も異説があるが関根は対局時、プロ棋士であることを告げずに三度対局して戦績は坂田の一勝二敗だった。

 坂田は関根がどういう人物か知らずに将棋を指した。初戦は坂田の一方勝ちで十円の賞金を手にすることができた。ところが二戦目、三戦目は逆に坂田が一方的に敗れ、前日の二倍の二十円のかけ金をとられることになった。その当時の坂田は負け知らずで〝将棋天狗〟になっていた。

 それだけに、その場で、ふたりの対局を最後まで息をつめて見守っていた人の中から「『さんきい。あの人だれやしってるか。本職の将棋さし、関根金次郎やで』」と教えられた三吉は、くやしさで胸の中が燃え上がった。そして三吉はその後の将棋人生で何よりも「関根に勝つのや、きっと勝ったる。世間にも勝ったるで」という思いが心の中を占めることになる。

 坂田はこの時のことをこう回顧している。

  「二十五、六の時である。堺のある所で知らぬ人と指さされた。ただそこへ連れて行かれたのであった。相手は色の白い、役者のような綺麗な男。指して見ると、強い。苦心惨憺(くしんさんたん)してやっと三番に一番だけ勝てたが、あまりにももがいたものだから十日ほど病気になって酷い目に遭(あ)った。あとでその相手は関根さんだということがわかったが、何故関根さんが覆面して(名乗らずに)やって来たのかいまだにわからない。兎(と)に角その時は病気するまで戦って勝てなんだのだから関根さんとは腕前の上で非常に違ってたことは事実である。」(阪田名人実話『将棋哲学』大阪朝日新聞夕刊一九二九年一月十日)

 小林名人から「恐ろしい奴」と評価

 坂田は十六歳で父を亡くし、その当時の坂田にとって将棋は一家八人の生活を支える生活の糧となっていた。それだけに敗戦は相当なショックを受けたことは想像できる。

 関根はこの時の経緯を大阪の後援者から「素人だが、滅法力の強い男がおるからぜひ指してみるようにと堺の宿屋に連れられて来た」と話し、関根が二勝一敗と勝ち越し、「将棋に天狗になっている坂田の鼻をへし折った」という風聞が流れた。

 ただ、後日談がある。後にその譜を関根が大阪の小林七段のところへ持って行って見せたところ、坂田の潜在的な将棋の実力に小林が驚いたという。

 坂田はその当時をこう述懐する。

 「(小林七段は)こいつは恐ろしい奴だ、将来ものになる。一ぺん、その男に会って見たいという伝言(ことづて)があったので小林さんの所へ行くと、お前の将棋はなかなか面白い。この上、角と飛車とを等分によく使うことができるようになれば将来第一人者になれる。そのつもりで勉強せよと、親切にいってくれた。それがどれだけ励みになったか知れん」(「将棋哲学」(三)坂田名人実話、一九二九年一月十日大阪朝日新聞夕刊) (大山勝男)

2009年6月 7日 16:15

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