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    <title>夏史邦の「こりあ・とーく」</title>
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    <title>夏史邦の「こりあ・とーく」／金大中さんを悼む／英雄が故郷に入れられるとき</title>
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    <published>2009-08-24T22:40:46Z</published>
    <updated>2009-08-24T22:42:06Z</updated>

    <summary>　８月２３日、ソウルで行われた金大中さんの葬儀に参列させてもらった。月並みになってしまうが、まさに「巨星墜つ」の地響きに全身を打たれたという思いである。...</summary>
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        <![CDATA[<p>　８月２３日、ソウルで行われた金大中さんの葬儀に参列させてもらった。月並みになってしまうが、まさに「巨星墜つ」の地響きに全身を打たれたという思いである。</p>]]>
        <![CDATA[<p><br />
　会場で、いろいろと回想にふけっているうちに、なぜか、２０年前に金大中さんの口から直接聞いたある一言、<br />
　「英雄は、故郷には入れられない」<br />
　という言葉がその場面の情景とともに鮮明に思い起こされてきた。<br />
　１９９０年１月、ソウル駐在日本人特派員の一人として新年の懇談会に招かれた、その席でのことだった。金大中さんは、故郷に入れられなかった英雄の例としてキリストや釈迦を挙げ、「彼らは石をもって故郷を追われた...」と具体的に、熱を込めて説いたのだった。<br />
　当時、金大中さんは野党・平民党の総裁だった。８７年暮れの２度目の大統領選挑戦に敗れて２年余、次への展望も決して明るいとはいえない状況にあった。「キリストや釈迦も...」という熱弁からは、自らをそこに重ねる自負と、韓国民に分かってもらえないことの無念さが伝わってきた。<br />
　そんな金大中さんが最後に何を思い、仮にこの国葬のことを知ったとすれば、どう思ったか。<br />
　歴史の大きな流れの中で「いま」を位置づけ、そこで自らの果たすべき役割をいつも意識していた人だった。そして、その役割のうちの最大のものが分断された国と民族の統一であると心得ていた。<br />
　「われわれは決して統一を放棄できない。１３００年間、統一国家をなしてきたこの民族がどうして５０年の分断で統一を放棄できようか」（２０００年の「３・１独立運動」記念式演説）<br />
　「近代史の１００年は、わが民族にとって過酷な試練の連続だった。日帝の植民地支配がそうだった。分断と戦争がそうだった。...すべては１９世紀末の朝鮮王朝末期、民族的団結と近代化の改革を求める歴史の要請に顔を背けたところにその原因があった。...いま、この１００年の間わが民族が流し続けた涙を止めるときがきたのだ」（００年６月１４日、平壌での南北首脳会談の際の夕食会のあいさつ）<br />
　「首脳会談で南北は民族の問題を自主的に解決することに合意した。自主というのは外国勢力の排除ではない。世界、とくに周辺の米日中ロの４大国と協力して友好関係を維持するなか、わが民族同士でわれわれの運命を決めようという意味だ」（００年６月２５日、朝鮮戦争勃発５０周年にさいしての演説）<br />
　「統一」をめぐる主張は、民族主義をかき立てがちだが、金大中さんのそれは偏狭さとは無縁の「開かれた民族主義」といえるものだった。<br />
　金大中さんの非凡さは、一つには目標達成への執念と、その忍耐強さにあった。国会議員は、初出馬から１０年をかけ５度目の挑戦で初当選を果たした。大統領は２６年がかり、「４度目の正直」で射止めた。忍耐については、金大中さん自らその著書で「私の人生は耐える人生だった」と、次のように書いている。<br />
　「人は耐えなければならない理由、耐える意味を認識していれば、どんな苦痛が襲ってこようとも忍耐を放棄することはない」（金容権訳『新しき出発』）<br />
　高い理想の一方で、現実に即した柔軟さがあった。政治家の心得として後輩に「書生の問題意識と商人の現実感覚を」と説き、自らその手本を示した。<br />
　野党時代、反政府運動の先頭に立ちながら、過激に走る一部勢力を「敵を利するだけだ」と必死にいさめる場面が何度もあった。<br />
　４度目の挑戦となった９７年の大統領選では、理念と経歴のうえで水と油ほども違う宿敵、金鍾泌氏と手を握るという離れ業で最後のチャンスをものにした。<br />
　大統領になって実現させた南北首脳会談では、その直前に北側へ５億ドルの「不正送金」があったことが後に明らかになったとき、「和解と協力のためには非公開に法の枠外で処理せざるを得ない場合がある」と釈明した。実際、北朝鮮を「反国家団体」と定めた冷戦以来の法の枠内では和解へのあの歴史的な一歩は踏み出せなかったといえる。<br />
　そんなもろもろの卓抜さが２０００年６月の南北首脳会談と、そこでの「南北共同宣言」（「６・１５共同宣言」）に結実し、ノーベル平和賞という評価に結びついたのだったが、韓国内ではそれが必ずしも正当に評価されてきたとはいえない。<br />
　最晩年も「後顧の憂えなし」というわけにはいかなかった。<br />
　昨年２月発足した李明博政権は、金大中さんから盧武鉉前大統領へと積み重ねた「太陽政策」と相いれない対北政策をとり、南北首脳会談の成果を無視あるいは否定するような態度をとった。結果、南北関係は破綻し、北朝鮮が再び核実験を強行するという最悪の状況を招いてきた。<br />
　金大中さんはそんな南北関係に心を痛め、李明博政権の対北政策を厳しく批判し、「６・１５共同宣言」の実行などを求めていた。<br />
　北朝鮮の核問題など朝鮮半島の諸問題を平和的に解決するには、どう考えても「太陽政策」で南北関係を解きほぐすしかない。<br />
　金大中さんは、なぜそれがわかってもらえないのかという気持ちだったろう。あるいは、あの「英雄、故郷に...」という思いは最後まで残ったかもしれない。<br />
　国葬の席で、わたしはそんなことを考えながら金大中さんの遺影と向き合い、次のようなことも思った。<br />
　いま、この国葬の席に李明博大統領をはじめ金泳三、全斗煥両元大統領が列席している。北朝鮮の弔問団が運んできた金正日国防委員長からの弔花も金大中さんの遺影のすぐ近くで、金泳三元大統領と潘基文国連事務総長の弔花の間に並んでいる。<br />
　金大中さんが生前、「故郷に真に受け入れられた」時として思い描いたのは、あるいはこのセレモニーの中で実現した世界が現実のものになった時ではなかったか。</p>]]>
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    <title>夏史邦の「こりあ・とーく」／『坂の上の雲』のテレビドラマ化</title>
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    <published>2009-08-14T07:41:53Z</published>
    <updated>2009-08-14T07:44:22Z</updated>

    <summary>　司馬遼太郎の『坂の上の雲』がＮＨＫでテレビドラマ化され、この１１月から３年間にまたがって放送されることになったという。 　日露戦争を舞台回しに、明治の日本人のメンタリティーを「坂の上にかがやく雲に向...</summary>
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        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/natsu/images/rekishikan.gif"><img alt="rekishikan.gif" src="http://j-net.obei.jp/natsu/assets_c/2009/08/rekishikan-thumb-200x288-354.gif" width="200" height="288" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>　司馬遼太郎の『坂の上の雲』がＮＨＫでテレビドラマ化され、この１１月から３年間にまたがって放送されることになったという。<br />
　日露戦争を舞台回しに、明治の日本人のメンタリティーを「坂の上にかがやく雲に向かっていくような...」とたとえた長編小説である。むかし、「明治日本の基礎知識」として一読したが、そこに登場する朝鮮があまりにもみじめで、どこか、あと味の悪さがのこったことを覚えている。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　この作品の映像化については司馬自身、「誤解を招く恐れがある」と拒否するようなことを語っていたのをどこかで読んだ記憶がある。それをＮＨＫが今回、「映像化が許された」（ＮＨＫのホームページ）のだという。いったい、どんなものができるのか...。<br />
　と、そんな思いでいたところへ、この作品に現れた「司馬史観」の問題点と、いまこの時点でテレビドラマ化することの危うさを明快に指摘した本が出版された。<br />
　朝鮮史研究の第一人者、中塚明・奈良女子大名誉教授著の『司馬遼太郎の歴史観―その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』（高文研、本体１７００円）である。<br />
　『坂の上の雲』で、司馬が展開しているのは「明治栄光論」だ。日露戦争（１９０４～０５年、明治３７～３８年）を「祖国防衛戦争」と位置づけ、一方で、その日露戦争後に日本の「痴呆化」が始まり、それが「昭和の暴走」へとつながり、太平洋戦争における、あの惨憺たる敗北を招いていったと説いていくのである。日本の近代史を日露戦争を境にその前と後で区切り、最後に行き着いた太平洋戦争の敗北を「明治の遺産」ではなく、「明治への背信」ととらえる史観である。<br />
　中塚さんの著書は、それに異を唱える。司馬が言うところの「日本の痴呆化」は、なにも日露戦争後に始まったわけではない。それ以前に、日清戦争（１８９４～９５年、明治２７～２８年）の段階ですでに暴走の萌芽があった。日清戦争で、日本は朝鮮において何をしたのか。『坂の上の雲』には、日本の「明治の栄光」は、朝鮮の犠牲の上に成り立っていたという視点が欠けている――というのである。<br />
　日清戦争は「日本の勃興」と「朝鮮の没落」を決定づけた。中塚さんは、自らの半世紀におよぶ日本近代史研究の中で掘り起こした数々の史料をもとに、その日清戦争を読み解く「３つのキー」を提示し、具体的かつ実証的、そして何よりも分かりやすいことばで、その実態を淡々と暴いていく。かいつまんで言えば、次のようのことだ。<br />
　▽朝鮮王宮の占領<br />
　日清戦争における日本軍の「第一撃」は朝鮮の王宮、景福宮の占領で始まった。「清国を追い出してくれ」とする朝鮮国王の公式文書を手に入れるためだった。<br />
　▽東学農民軍蜂起と皆殺し作戦<br />
　日本で「東学党の乱」といわれた朝鮮の農民軍の、１８９４年秋からの第２次蜂起は大規模な抗日民族闘争であり、日本がその後、アジア各地で直面する民族的・大衆的な抗日闘争の最初のものだった。日本軍はそれを皆殺しにする作戦に出、それによって３万人以上が犠牲になった。<br />
　▽王妃（閔妃）殺害<br />
　下関条約調印から半年後の１８９５年１０月、景福宮で起きた閔妃惨殺事件は、川上操六・参謀次長ら日本の政府・軍部総がかりで起こしていた。</p>

<p>　詳細は著書に譲るが、中塚さんの問いかけの中で、とくに心に刻んでおきたいのは、いまなぜ、『坂の上の雲』なのか、ということだ。<br />
　この小説の連載が産経新聞紙上で始まったのは１９６８年４月だった。折しも、その半年後の同年１０月には「明治改元以来１００年にわたる日本の近代化の成果」をたたえる政府主催の「明治百年記念式典」が催されたのだった。新聞の連載は７２年８月まで、足かけ５年間にわたり、その「栄光物語」は、日本の高度経済成長の気分とオーバーラップしていったのだった。<br />
　来年、２０１０年は日本による「韓国併合」１００周年にあたる。ＮＨＫはそれにぶつけるように、この『坂の上の雲』を放送しようというのである。<br />
　ＮＨＫのホームページによると、「スペシャルドラマ」と銘打ち、１１月２９日（日）に第１回の「少年の国」を放送。以後、１２月２７日まで日曜日ごとに年内に５回、毎回９０分ずつを予定。来年以降も続け、３年間で計１３回を考えているという。<br />
　中塚さんは著書の中で、この作品の映像化を嫌った司馬遼太郎の次のような発言も紹介している。<br />
　「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品でもあります。うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね」（ＮＨＫ出版『「昭和」という国家』）<br />
　司馬遼太郎が生きていたら、いま、テレビドラマ化を認めたか、どうか。中塚さんは、司馬には生前、在日韓国・朝鮮人の学者・文化人との交遊があったことを指摘する。８９年、訪韓して盧泰愚大統領（当時）と対談した際、通訳をつとめた姜在彦さんもその一人で、対談内容も引用している。<br />
　「私なども、李氏朝鮮が日本の悪しき侵略に遭う（１９１０年）まで朝鮮といえば朱子学の一枚岩で、そこには開化思想や実学（産業を重んじ、物事を合理的に考える学派）などはなかったと思っていた。いまは、だれもそうは思っていない。この功の多くは、ときに少年のような表情をする姜在彦教授（京都・花園大学）に負っている。...」（『文藝春秋』８９年８月号）<br />
　そして中塚さんは、次のように推測する。<br />
　――（盧泰愚大統領との対談で示された）この認識は、『坂の上の雲』で書いた「韓国自身の意思と力でみずらかの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった」というのとは、明らかに違う。司馬が映像化を欲しなかったのは、こうした在日韓国・朝鮮人との交遊やそれによる彼自身の朝鮮認識のゆらぎもあったからではないか、などと思うのは私の深読みか？</p>

<p>　ＮＨＫは、司馬の気持ちにどこまで思いを致し、どんなドラマに仕立て上げようというのだろうか。</p>]]>
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    <title>ご挨拶：ジャーナリスト・ネット事務局</title>
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    <published>2009-05-14T13:28:48Z</published>
    <updated>2009-05-14T13:32:12Z</updated>

    <summary>新しくブログを作成いたしました。...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="bannerMini.gif" src="http://j-net.obei.jp/natsu/images/bannerMini.gif" width="117" height="28" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>新しくブログを作成いたしました。]]>
        5年目に入ったジャーナリスト・ネットは更なる飛躍を目指してまい進いたします。２００５年５月からスタートしたジャーナリスト・ネットは５年目に入り、またメールマガジンも２００号を記録したことは、５年目というのが大きな節目になる年であることを示していると感じております。　個人ブログの集積をさらに進化させるとともに意見を双方向で交わす場がネットの特徴を生かし、読者の皆様からの様々な注文、批判、提言、激励を糧にいたしたいと存じます。　今後ともご愛読いただきますこと、御願い致します。 
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