'."\n" ?> 南亭駄樂の「柿愁庵雑記」:「ゆとり教育批判」は日本の教育をよくするか:南亭駄樂
南亭駄樂の「柿愁庵雑記」

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2009年7月29日

「ゆとり教育批判」は日本の教育をよくするか:南亭駄樂

 「ゆとり教育」という言葉が葬り去られようとしている。だが、雑談の中で聞いた話なので責任を持てる話ではないが、文部科学省のなかでは"ゆとり教育派"と"反ゆとり教育派"の勢力が拮抗しているらしい。教育政策に限らず、揺れ戻し現象はどこでも見られることだが、本質的な課題からずれたところで教育問題が論じられ、教育政策がいじられているように思うので、少し整理しておきたい。

 この間の議論をみると、"詰め込み教育"批判から"ゆとり教育"の方針へと変わり、続いて低学力問題の原因はゆとり教育だという大合唱が起こり、今回の学習指導要領では学習量が増加することになった。特に理数分野や英語に力を入れ、教科の学習量を増やすために「総合的な学習の時間」は半減、道徳は教科にはならなかったがより重視、などの内容が報じられている。文部科学省によると、ゆとり教育で強調された"生きる力"の看板は取り下げたわけではなく、むしろ重視されているという。

●本来のねらいからはずれた「ゆとり教育」

 ここでゆとり教育とはなんだったのかということを考えてみたい。私の理解では、知識偏重、競争激化などの弊害から脱するために学習量を軽減し、その代わりにじっくりと考え、課題に取り組むプロセス、すなわち「知への関心」を呼び起こし、「学びの方法」を体得することをめざしたはずだった。そのことによって"考える力"を身につけ、OECDが実施しているPISAなどの試験でも成績を上げ、教育界の国際競争力にも対応できるはずだった。従って、全体の学習量は減るものの、取り組む課題についてはじっくりと詳しく、丁寧な学びが行われるはずだった。
 だがゆとり教育が導入されるとき、文部科学省で取材して聞いたことは、時間数が削減される割合で教科書で取り扱う内容も削減されるということだった。案の定、子どもが持ってきた教科書はうすっぺらなものだった。私は開いてみて驚いた。たとえば歴史の流れがわからない。途中の説明がない。脚注や写真や資料が少ない。発展学習がない。自分が勉強したときには、重要事項の間を埋めるエピソードや説明が面白かった。それは覚える必要がない分気楽に見ることができ、また本文の重要なことを理解したり覚えたりするのに役に立った。それがなくなり、本文自体がかなり削減されている。これはゆとり教育に逆行するものではないか、と思った。
 私が受け止めたゆとり教育ならば、教科書は詳しくなり、学び方がわかる内容になるはずである。ただし、授業では大テーマをA,B,C,Dと網羅的に扱うのではなく、時間数が少なくなった分はテーマ数を削減、Aだけとか2つだけとかに絞り、そのテーマを深く掘り下げることになる。子どもは授業時間外も余裕ができているので、自学自習や関心のある他のテーマに同じ手法で取り組み、考える力や生きる力、すなわち課題発見・探究・解決能力を身につけることができるというのが社会の期待であったと思う。
ゆとり教育が導入されるとき、「総合的な学習の時間」の教科書はなかった。学校現場ではこの間試行錯誤で実践を重ね、やっと最近になっていい実践が多くなり、その苦労が実り始めたところである。優秀で熱心で献身的な教員がやっと認められる、と思った瞬間、今度は学力が大事と「総合的な学習の時間」が半減する。これでは現場でまじめに取り組んでいる教員が浮かばれない。

●現場の実践の積み重ねを大事にすべき

 全国一斉の学力テストが実施され、"夜スペ"やら補習やらがもてはやされている。土曜日の授業を復活しよう、という声も聞かれる。では、それで詰め込み教育批判のときの問題は解決するのだろうか。ゆとり教育のねらいでもあった考える力は獲得されるのだろうか。文部科学省は生きる力も課題発見・課題解決能力の旗も降ろしてはいない。増えた時間に理科の実験をやれと文部科学省は言う。だが、現場の教員で理科実験ができる人は年配の人しかいないと聞く。国は実験器具の予算をつけたが、学校現場ではほこりをかぶるだろうと言っている。休みになった土曜日に地域のボランティアや各種教育機関が積み重ねてきた自然観察や実験、体験講座などの活動を支援したほうがずっといいではないか。このままでは土曜日に学力テスの成績を伸ばす活動をしよう、という流れになっていきそうな気がする。それでは元の木阿弥、知識偏重に逆戻り、しかも昔のような実績は挙がらない、ということになるだろう。

●最良の教育改革は「変えないこと」

 私がこれまでの文教行政を見てきて思うのは、極端に言えば「最良の教育改革は教育制度を変えないこと」ということである。大学入試にしても共通一次試験が導入されるとき、多くの人が「大学の序列化」が整備されることになるとわかっていた。始まるとすぐに"偏差値輪切り教育"が批判され、小手先の改革が繰り返され、現在の大学入試センター試験になった。いまは屋上屋を重ねる「高校卒業資格試験」が取りざたされている。そして、文科省は大学卒業時の大学生の質を問題にし、授業の質と出口の管理をしっかりするように大学に求めている。それはOECDが実施しようとしている大学生の能力検査で日本の学生が見劣りがしてしまうことを恐れているからでもある。現状では、日本の学生の学力はインドや中国の学生よりも低いとみているのである。国の文教政策は、人材の国際競争力につながっている。
 実は、大学教育の国際競争力をもっとも意識しているのは東京大学で、国の教育・研究予算はかなりの割合で東大につぎ込まれている。最近、京都大学がそれに気づき、iPS細胞の話題沸騰と総長交代を機に予算獲得に奔走、成果を挙げている。

●地域から社会のあり様を考えよう

 日本の教育のレベルを上げること、その根本は教育現場のいい実践の積み重ねであると思う。保護者や地域社会が一緒になって学校教育に取り組み、地域教育、家庭教育に取り組むことである。その評価は、数値目標が不要とは言わないが、自分たちの地域の子どもたちを総合的にみる目を持ち、言葉で表現する方法論を獲得することであろう。そして、子どもたちの将来像と期待感から自分たちの評価を自信を持って世の中に公開することが重要だ。そのことが私たち自身が求める「社会のあり様」を浮き彫りにする作業につながるだろう。いたずらに目先の競争や狭隘な言葉に右顧左眄するべきではない。
 社会のあり様を考えないで進める目先の改革は、現場と地域社会を混乱させるばかりである。

2009年7月29日 06:41

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