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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-22.html">
<title>編集局からの手紙「カフカに近づく」：川瀬俊治</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/30/</link_daily>
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<description>　丸谷才一さんの編の『私の選んだ文庫　ベスト３』（毎日新聞社）という本の中で作家の古井由吉さんがフランツ・カフカの３作品をあげている。その解説が面白い。 ...</description>
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<![CDATA[<p>　丸谷才一さんの編の『私の選んだ文庫　ベスト３』（毎日新聞社）という本の中で作家の古井由吉さんがフランツ・カフカの３作品をあげている。その解説が面白い。<br />
</p>]]>
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<![CDATA[<p>『変身』『城』『審判』の３作品を選んでいるのだが、昭和の終わりに３作品を原文で読み、「かつては超現実のときめきをもって読んだ作品を、今ではきわめて現実の心で読んでいる自分を見出した。われわれの生活が、カフカに近づいたらしい」と書いている。</p>

<p>ここに大いなる文学の本質のカギがあるようだ。現実の心で読む文学世界。それはそのとおりなのだが、書き手の側は現実世界をはるか超える作品を書かないと、現実に支配された言語世界になる。古井さんが言う「カフカに近づいたらしい」われわれの世界は、カフカの天才を呑み込んでしまう現実を生み出していることの証しではないのか。</p>

<p>ここで勇気ある作家は現実世界をとらえてそれを越える言語で物語を編み出そうとする。それが今の時代なのかもしれない今年生誕１００年をむかえた太宰治の文学作品が、いまも新しいのは、現実をこえる言語世界が展開されているからだろう。</p>

<p>現実をこえるためには現実に正直でなければならない。嘘があってはならない。虚飾で飾ることは、人間のありのままの姿を覆い隠すことだ。その正反対に太宰がいたといえる。現実に正直な太宰がいる。</p>

<p>『私の選んだ文庫　ベスト３』が出たのは１９９５年である。古井さんが現実のカフカ化をあげてから１４年たつ。カフカの寓話が当たり前になり、虚空に行き交う情報をアクセスすることに明け暮れている。しかし、一昔前、五木寛之さんが文学のテーマとしたデラシネ（根無し草）とは、別の局面にある。</p>

<p>デラシネは故郷に根を下ろさずふわふわしている存在をさすが、いまは一軒家に居てデラシネなのだ。内向の世代と言われた古井さんの作品は、近代の人間はデラシネだから、そのことにたまらず死とか虚無を描く作品が多いのだろう。文学作品は寓話化するか、究極の存在から照射することで、やっと現実の言語を越える階梯をえるのである。</p>]]>
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<dc:date>2009-06-30T17:41:11+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-10.html">
<title>カフカの世界に近づく</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/29/</link_daily>
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<description>　丸谷才一さんの編の『私の選んだ文庫　ベスト３』（毎日新聞社）という本の中で作家の古井由吉さんがフランツ・カフカの３作品をあげている。その解説が面白い。...</description>
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<![CDATA[<p>　丸谷才一さんの編の『私の選んだ文庫　ベスト３』（毎日新聞社）という本の中で作家の古井由吉さんがフランツ・カフカの３作品をあげている。その解説が面白い。</p>]]>
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<![CDATA[<p>　『変身』『城』『審判』の３作品を選んでいるのだが、昭和の終わりに３作品を原文で読み、「かつては超現実のときめきをもって読んだ作品を、今ではきわめて現実の心で読んでいる自分を見出した。われわれの生活が、カフカに近づいたらしい」と書いている。</p>

<p>ここに大いなる文学の本質のカギがあるようだ。現実の心で読む文学世界。それはそのとおりなのだが、書き手の側は現実世界をはるか超える作品を書かないと、現実に支配された言語世界になる。古井さんが言う「カフカに近づいたらしい」われわれの世界は、カフカの天才を呑み込んでしまう現実を生み出していることの証しではないのか。</p>

<p>ここで勇気ある作家は現実世界をとらえてそれを越える言語で物語を編み出そうとする。それが今の時代なのかもしれない今年生誕１００年をむかえた太宰治の文学作品が、いまも新しいのは、現実をこえる言語世界が展開されているからだろう。</p>

<p>現実をこえるためには現実に正直でなければならない。嘘があってはならない。虚飾で飾ることは、人間のありのままの姿を覆い隠すことだ。その正反対に太宰がいたといえる。現実に正直な太宰がいる。</p>

<p>『私の選んだ文庫　ベスト３』が出たのは１９９５年である。古井さんが現実のカフカ化をあげてから１４年たつ。カフカの寓話が当たり前になり、虚空に行き交う情報をアクセスすることに明け暮れている。しかし、一昔前、五木寛之さんが文学のテーマとしたデラシネ（根無し草）とは、別の局面にある。</p>

<p>デラシネは故郷に根を下ろさずふわふわしている存在をさすが、いまは一軒家に居てデラシネなのだ。内向の世代と言われた古井さんの作品は、近代の人間はデラシネだから、そのことにたまらず死とか虚無を描く作品が多いのだろう。文学作品は寓話化するか、究極の存在から照射することで、やっと現実の言語を越える階梯をえるのである。<br />
</p>]]>
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<dc:date>2009-06-29T22:49:59+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-21.html">
<title>コラム「風」加速する新聞の危機：川瀬俊治</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/27/</link_daily>
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<description>　新聞の危機は実に深刻だ。アメリカでは地方紙が次々と廃刊していくなか、財政支援の法律が地方議会で可決したりしているが、それでも危機は回避できない。...</description>
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<![CDATA[<p>　新聞の危機は実に深刻だ。アメリカでは地方紙が次々と廃刊していくなか、財政支援の法律が地方議会で可決したりしているが、それでも危機は回避できない。</p>]]>
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<![CDATA[<p>　日本では全国紙ではまずその傾向があらわれ、赤字を出さないことでも有名であった新聞が赤字転落によりボーナスは大分カットされると聞いた。退社奨励に応じた社員には多額のボーナスが支給される会社もある。</p>

<p>　ある地方紙では現有職員が３割減少策を検討しているといい、支局が総合されて合理化を図った地方支局もあるという。</p>

<p>何よりも深刻なのは広告収入の落ち込みである。赤字広告でしのいだり（広告代が入らない自社宣伝の広告など）、下段３段ほどは広告で埋まるところが、ノーズロ（すべて）記事で埋めるしかないなど、不況の影響は顕著だ。</p>

<p>お隣の韓国でも深刻さは日本以上で、ネット大国だからだろうが、新聞離れが加速している。タブロイド版に切り替えた大手紙もある。『中央日報』だ。６月２４日でタブロイド版に切り替えて１００日目を迎えた。２４日紙面はその成果を強調する「１００の記録」を特集していたが、さてどのような販売傾向を生むのか。</p>

<p>　日本の全国紙でタブロイド版に転換するところはいまのところないようだ。形態の変化は相当勇気がいる。夕刊紙がこのタブロイド版を導入しており、「夕刊紙の真似をするのか」といった意見や、「従来の形態なら新聞を広げて総合的な観点から記事を読もことになるが、タブロイド版は細切れ情報を載せることになるのでは......」という心配の声も聞く。</p>

<p>　しかし、落ち着いて新聞を読むという時代はもう去ったのかもしれない。情報氾濫の時代に、その時代にどう情報を整理して載せるか。論説で読者の注目を受けることと、確かな販売戦略を立てないとますますじり貧になるのかもしれない。新聞の読者は、まずは論説、記事の面白さで新聞を買うのである。この原点に返らねばならないのではとも思う。</p>]]>
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<dc:date>2009-06-27T17:39:24+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-20.html">
<title>日曜新聞読書欄簡単レビュー：川瀬俊治</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/21/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-20.html</link_Individual>
<description>「慰霊の日」が迫ってきた。沖縄戦から６４年をたつ。沖縄の新聞からまず読書欄紹介をしたい。 ...</description>
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<![CDATA[<p>「慰霊の日」が迫ってきた。沖縄戦から６４年をたつ。沖縄の新聞からまず読書欄紹介をしたい。<br />
</p>]]>
</content>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p>　琉球新報の読書欄は日曜付けだ。4冊を紹介している。うち2冊は沖縄関連。評者か本のテーマが沖縄関連だ。16日の読書欄では共同通信配信とひと目でわかる哲学者東浩紀の評する宮台真司の集英社新書『日本の難点』の紹介は省略する。沖縄関連をあげよう。</p>

<p>作家又吉栄喜が評しているのが湯川豊の『須賀敦子を読む』（新潮社、１６８０年）である。須賀は聖心女学院３年のころキリスト教の洗礼を受けヨーロッパの文化に傾倒したと又吉は書く。さらに須賀のモチーフは「貧困がもたらす社会的不平等」をモチーフとしたという。１９９１年、６１歳のとき初のエッセーを書く。魅力的な人物を書いた。又吉が表現したいのは以下の文章だ。「エッセー群は、過去の回想ではなく、須賀敦子がパリ留学時代や戦時中の日本をまさに｢生き直している｣完結した人間のドラマ、長編小説の趣を湛えている」。又吉は小説の骨法に大きな示唆を受けると評している。さて須賀敦子を読みたくなった。又吉の評がうまいのである。</p>

<p>「あざみ屋・ミンサー記念事業」委員会編『ミンサー全書』（南山舎、３９９０円）は宮田正子が評している。竹富村を中心に織られたミンサー帯は知らなかった。「紺碧の糸と白雲色の２色だけで織り成す」と宮田は書く。それは潔さを海、沖縄をイメージする究極のデザインだおつだ。本書は４章からなり宮田は要約して書く。ミンサーを伝統工芸に高めた新絹枝さんなどの聞き書きを評して「ジェンダーを超えた魅力がある」と書く。ミンサーとは細帯をいうが、読谷山ミンサー、伊波ミンサー、首里ミンサーなどある。細帯文化圏は本島、奄美諸島、東南アジア、チベットまでも広がるという。紋織ミンサーは八重山地域の特徴と宮田は書く。</p>

<p>しかし通信社の配信、あるいは全国紙の統一読書欄で本が画一して紹介される時代に、こうした地域文化の織物が紹介されることの稀有さをかみしめる。地方紙が大きな意味をもつことをこの琉球新報は示している。ちなみに沖縄タイムス読書欄は毎週土曜日掲載だが、関西で読めるのは近畿大学だけ。だから自分で直接購読するしかない。</p>

<p>村上龍『無趣味のすすめ』（幻冬舎、１２６０円）にしても村上春樹『ＩＱ８４』（新潮社）にしても（いずれも朝日）、現実との葛藤の中で作品が生み出されていることがわかる。前者は弱者の立場にたつことをこの箴言集で語られているし、後者は印象的は証言を紹介している。『アンダーグランド』（講談社文庫）にある証言だが、取材して聞き書きをすすめる村上春樹に対して１人のサリン事件の証言者はすでに事件出現の社会風土を感じ取っていたとの言葉をいい、わからないという村上にそれでは少し勉強されたら、と語ったという。その答えの一つがこの小説なのかもしれない（読書欄「扉」から）</p>

<p>　文学ということでは、毎日がＪ・ヒリス・ミラー『文学の読み方』（岩波書店、２５２０円）と藤平育子『フォークナーのアメリカ幻想』（研究社、５２５０円）、ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』世界文学全集Ⅱー０３（河出書房新社、２５２０円）を載せている。まず最初の２書は脱構築派批評の旗頭であるＪ・ヒリス・ミラーは英文学者がドストエフスキー、ベヤミン、ブランショ、デリダを論じる。評者富山太●夫が評価するのは「比較による読み方、あるいは骨折り損をすること」の章だ。『スイスのロビンソン』と２つのアリス物語りとクッツシェーの『フォー』、さらに『ロビンソン・クルーソー』を比較する。その理論的分題を肩肘張らずに考えることができると評者はいう。藤平育子の章はフォークナーの『アブロサム、アブロサム！』を読み解こうとする専門書。藤平は『アブロサム、アブロサム！』の中には現代の階級、ジェンダー、暴力、貧困、伝染病、環境、民族の諸問題が潜在しているばかりか、それらの難問への解決ん糸口さえほのみえるーというのだ。途中で読むのを諦めた私には刺激的な指摘だ。そういえば、中上健次がこの作品を高く評価していた。「路地」を描くという意味ではない。人間の丸ごととらえる想像上の土地が『アブロサム、アブロサム！』にあるのかもしれない。丸谷才一が評者なのが最後のミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』だ。あの宗教学者が書いた作品だ。自伝的性格が濃いこの作品は初恋を描いたものだ。さまざまな恋の様相を華奢な筆図解づかいで描いたーと丸谷はいう。</p>

<p>斎藤環『関係の科学としての文学』（新潮社、２２００円）ー日経は、大澤真幸が評者。大澤の評を読むと、数学がわからないとだめな感じを受けるのは私の理数科恐怖症かもしれない。しかし斎藤が桐野夏生『残虐記』から学んだ方法は、文学の本質へと一直線で進めるのかもしれない。中上健次の作品を「父ー息子関係」が実は「母ー娘関係」に近いとする。父子関係を母子関係に還元したことについて大澤は「関係の可視化したもの、私の考えでは、それはあらゆる関係に内在する性的差異の謎である。男は愛の対象を所有しようし、女は愛の対象と関係しようとする。関係はすべて、女の関係の原点をもつ」。</p>

<p>読売は橋本五郎が不破哲三の『マルクスは生きている』（平凡社新書、７２０円）を紹介している。６０年前に刊行された小泉信三の『共産主義批判の常識』と合わせて読むことを薦めている。ホンマタカシ『たのしい写真　よい子のための写真教室』（平凡社、１６００円）ー読売ーはワークショップ編が興味が引かれる。好きな写真と同じ構造をもつ写真を撮るというのだ。一回限りの写真を反復してみる実験なのだ。写真の特性がここに出てくる。評者田中純は「虚実皮膜」の薄い「皮膜」が写真と結ぶ。ポストモダン的な私的な小さな物語が「今日の写真」というのが著者の考えなようだ。</p>]]>
</content>
<dc:date>2009-06-21T17:28:16+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-9.html">
<title>韓国映画『母なる証明』でウォンビン主演</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/20/</link_daily>
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<description>　　韓国でヒットしている映画『母なる証明』を観た。スターのウォンビンが主演する映画だ。...</description>
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<![CDATA[<p>　　韓国でヒットしている映画『母なる証明』を観た。スターのウォンビンが主演する映画だ。</p>]]>
</content>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p><br />
　朝鮮語の力がないのか、最後の結末がよくわからなかった。ウォンビンの母親が息子の無罪を信じることでは真犯人を探しに懸命に追う。映画追撃者でも舞台が「タルトンエ」（月に近い町）だったが、この映画でもそうだった。よく似合うこの町が。人間のはだかの姿が。</p>

<p>犯行現場で目撃していた老人宅を焼き討ちした母親の行為は、あってはならない現実の否定なのか。最後の母親のバス車内での踊りは、現実とは異なる逃避なのか。どうも理解が及ばない。私には。</p>

<p>映画のテーマは母の執念を描いたわけだが、もう１つのテーマは知的障害者の問題を映像化した実に社会性が高い映画と思った。ウォンビンがそういう意味では好演を見せている。監督はポン・ジュノ、脚本もポン・ジュノとパク・ウンキョが担当。母親役は名優のキム・ヘジャ。ウォンビンファンには新たな演技にこの映画で出会えるだとろう。もう少しもう１つのテーマについて考えたい。<br />
</p>]]>
</content>
<dc:date>2009-06-20T00:46:46+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/--.html">
<title>「イヤだ！監視される社会 -入管法、住基法の改悪を止めよう」</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/19/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/--.html</link_Individual>
<description>「イヤだ！監視される社会 -入管法、住基法の改悪を止めよう-」が27日（土）午後1:30-3:30に日本バプテスト京都教会（京都市上京区荒神口通り河原町東入る122-1　京阪丸太町駅から徒歩10分、阪急河原町駅からバス10分、http://...</description>
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<![CDATA[<p>「イヤだ！監視される社会 -入管法、住基法の改悪を止めよう-」が27日（土）午後1:30-3:30に日本バプテスト京都教会（京都市上京区荒神口通り河原町東入る122-1　京阪丸太町駅から徒歩10分、阪急河原町駅からバス10分、http://church.ne.jp/bapren-kyoto/）で開かれます、以下詳細です。</p>

<p><br />
</p>]]>
</content>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p><br />
日本政府は2009年3月に「住民基本台帳法」と「出入国管理及び難民認定法」等の改定<br />
案を閣議決定し、通常国会に上程しました。これらの改定案については、一般市民と<br />
りわけこの改定によって大きな影響をうける外国籍住民に対する説明は全く行われて<br />
いません。日本語のマスコミですらこれまで法改定のことが記事になったことは反対<br />
を唱える人の訴えやデモの姿のみです。いったいこの法改定とは何なのでしょうか？<br />
誰がどう影響を受けるのでしょうか？日本社会はどのような方向に向っているので<br />
しょうか？<br />
今回の法改定の動きについて、近畿各地での学習会で講演を行っている草加道常さん<br />
に説明していただきます。誰も何も知らないこの法改定について知るまたとない機会<br />
です。<br />
是非ご参加ください。</p>

<p>■■■◇◇◇開催詳細■■■◇◇◇<br />
日時：2009年6月27日（土）1:30-3:30pm.<br />
場所：日本バプテスト京都教会<br />
　　　京都市上京区荒神口通り河原町東入る122-1<br />
             京阪丸太町駅から徒歩10分、阪急河原町駅からバス10分、<br />
             http://church.ne.jp/bapren-kyoto/<br />
参加費：\500　</p>

<p>■■■◇◇◇プログラム■■■◇◇◇<br />
I 部：「入管法、住基法改悪とは何か？　誰がどう困るのか？」<br />
　　　講師：草加道常さん（すべての外国人労働者とその家族の人権を守る関西ネッ<br />
トワーク・RINK 事務局）<br />
II部：入管法、住基法改悪について私はこう思う　<br />
　　　発言者：移住者の支援活動を行っている市民団体<br />
　　　　　　　日本に暮らしている外国籍住民<br />
　　　　　　　その他<br />
Ⅲ部：I部の講師とII部の発言者とともに質疑応答、意見交換、行動提起　</p>

<p>■■■◇◇◇主催■■■◇◇◇<br />
「イヤだ！監視される社会」集会実行委員会　連絡先：Tel.090-5966-3165（青木）<br />
</p>]]>
</content>
<dc:date>2009-06-19T10:21:10+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-19.html">
<title>日曜新聞読書欄簡単レビュー：川瀬俊治</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/07/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-19.html</link_Individual>
<description>　今回は日経、朝日、産経から書評紹介します。 ...</description>
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<![CDATA[<p>　今回は日経、朝日、産経から書評紹介します。<br />
</p>]]>
</content>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p>　今橋理子『秋田欄画の近代』（東京大学出版会、６５００円）ー日経ーは、評者の河野元昭が「とにかくおもしろい」と表する作品。秋田欄画というジャンルをこの書評に出会うまで知らなかった。河野によればほとんどの人がそうなのだが、日本絵画史上特筆されるジャンルだそうだ。秋田欄画の発見である平福百穂『日本洋画曙光』から本書は説き起こしそこに秋田欄画の真の発見者狩野亮吉が登場、彼は小野直武の血が流れる。「血」とは絵画精神のことだが、小野の畢竟の傑作「不忍池図」は重要文化財に指定された作品。この作品の謎を解かれていく。浮世絵であることや、不忍池が秋田と関連してつながることなど、秋田欄画研究が一気に広がった感をする力作なのだ。</p>

<p>　パンカジ・ゲマワット『コークの味は国ごとに違うべきか』（文芸春秋、１９０５円）ーはグローバル化する世界をどうとらえるかがテーマだ。トーマス・フリードマン『フラット化する世界』で、グローバル化により世界はフラット化して人々は場所の制約を受けることなく仕事や機械を見いだすことができるーとしたが、著者はフラット化に真っ向から反対する。冷蔵庫一つとっても、ドイツ人はアメリカ人より収納スペースが広く、インド人は匂いが混じらないものを好むーという具合だ。評者小川進は『フラット化する世界』が蟻なら、<br />
本書は蝶だという。どうも読者は両書を読むことでグローバル化した世界を考えねばならない感じだ。</p>

<p>　日経が「学歴格差」の処方箋について何冊か紹介している。学歴格差の問題は、①子どもの学歴の階層差②進学機会の階層差③学歴により生ずる所得、地位の格差ーの３点からの考察から、志水宏吉『「力のある学校」の探求』（大阪大学出版、２００９年）、小林雅之『進学格差』（ちくま新書、２００８年）、吉川徹『学歴分断社会』（ちくま新書、２００９年）の３冊で迫る。志水の本は①について底学力の子どもたちの学力を引き上げることに成功した学校の研究である。現場の力を説く。小林の書は②で、教育費の公的負担問題の貧弱さをあげ、多様な奨学金制度、教育費の公的支出の在り方の見直しを説く。吉川の書は③についてだが、高校卒と大学卒の学歴分断社会の現実を見据えて、労働市場の安定化を説く。</p>

<p>　雑誌の次々の休刊が続く。「大航海」、「国文学」が休刊する。大航海の編集主幹三浦雅士のコメントが載っている。「経済が文化の下部構造という位置づけを超えて全面化し、文化は顧みられなくなった。この地殻変動の衝撃はあまりにも大きく、あまりにも深刻」（日経）。さらに「今どんな特集を仕掛けても反応が薄い」という。国文学の版元学燈社の肥田尚昭は「日本文学への親しみや小説を読む習慣のようなものまで失われつつある」（日経）と語る。えらい時代に入ったものだ。</p>

<p>　文学関係では朝日が村上春樹『１Ｑ８４』１・２（新潮社、各１８９０円）を鴻巣友季子が評者として書いている。村上が目指した三人称で書く初の完全な三人称小説だ。村上は近年、三人称で書くことで精神の全体を見通したいと語ったことがあったが、この小説こそその三人称小説なのだ。全体小説といえば、野間宏が文学論を展開、『青年の環』８０００枚に完結させた。サルトルの影響は言うまでもないが、日本の差別問題に挑んだ記念碑的作品なのだが、村上の全体を描くこの三人称小説とはどん小説なのか。様々な人の視点が混じる。「オーエルの『１９８４』的な思想統制の恐怖と根源悪を追究した犯ディスピア小説」と評者は紹介している。さらに現実と虚構は境をなくし、因果関係が反転する。作者の扱ってきたテーマがつまっていると評者は続ける。娯楽性も高いというからこれは１、２巻はすぐ読めそうだ。３もあるのではとの期待もおきる。「本作には、書かれた物語と書かれなかった物語が同じくらい豊潤に含まれている。読み手の中でいつまでも「書き直して」いける作品、それこそが傑作の菜に値するのだ」（評者）。全体が見通せない視野狭窄の壁が越えたということか。成功した村上作品であるようだ。</p>

<p>　マイケル・シェイボン『ユダヤ警察同盟』上・下（新潮文庫、上６２０円、下６６０円）ー日経、産経ーはＳＦとミステリーを横断した物語で、アメリカのユダヤ人自治区が舞台。だいたいアメリカにユダヤ人自治区はない。つまり架空の物語なのだがリアリティーがあるから実際に舞台の町があるように錯覚する。それほどユダヤ人社会が活写されている。主要なＳＦ賞を独占した作品だが、殺人事件を追う刑事の物語なのだ。産経の評者細谷正充は「警察小説の醍醐味・・・ひとりの男の内面の遍歴も、本書の大きな魅力となっている」と書いている。</p>

<p>　ＣＤ集『吉本隆明五十度の講演』（東京糸井重里事務所）ー産経ーは世界一長いオーディオブックとしてギネス世界記録に認定されたそうだが、ＣＤ１１５枚に「幻想としての国家」から「中原中也・立原道造ー自然と恋愛」までの約３０年にわたる講演を収録した。昨年８月３０００セット発売で半分が売れたという。</p>]]>
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<dc:date>2009-06-07T17:19:52+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-8.html">
<title>日曜新聞読書欄簡単レビュー</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/07/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-8.html</link_Individual>
<description>　今回は日経、朝日、産経から話題の村上春樹の新作も含めて紹介します（敬称略）。...</description>
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<![CDATA[<p>　今回は日経、朝日、産経から話題の村上春樹の新作も含めて紹介します（敬称略）。</p>]]>
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<![CDATA[<p> <strong>今橋理子『秋田欄画の近代』（</strong>東京大学出版会、６５００円）ー日経ーは、評者の河野元昭が「とにかくおもしろい」と表する作品。秋田欄画というジャンルをこの書評に出会うまで知らなかった。河野によればほとんどの人がそうなのだが、日本絵画史上特筆されるジャンルだそうだ。秋田欄画の発見である平福百穂『日本洋画曙光』から本書は説き起こしそこに秋田欄画の真の発見者狩野亮吉が登場、彼は小野直武の血が流れる。「血」とは絵画精神のことだが、小野の畢竟の傑作「不忍池図」は重要文化財に指定された作品。この作品の謎を解かれていく。浮世絵であることや、不忍池が秋田と関連してつながることなど、秋田欄画研究が一気に広がった感をする力作なのだ。</p>

<p> <strong>パンカジ・ゲマワット『コークの味は国ごとに違うべきか』（</strong>文芸春秋、１９０５円）ーはグローバル化する世界をどうとらえるかがテーマだ。トーマス・フリードマン『フラット化する世界』で、グローバル化により世界はフラット化して人々は場所の制約を受けることなく仕事や機械を見いだすことができるーとしたが、著者はフラット化に真っ向から反対する。冷蔵庫一つとっても、ドイツ人はアメリカ人より収納スペースが広く、インド人は匂いが混じらないものを好むーという具合だ。評者小川進は『フラット化する世界』が蟻なら、<br />
本書は蝶だという。どうも読者は両書を読むことでグローバル化した世界を考えねばならない感じだ。</p>

<p> 日経が「学歴格差」の処方箋について何冊か紹介している。学歴格差の問題は、①子どもの学歴の階層差②進学機会の階層差③学歴により生ずる所得、地位の格差ーの３点からの考察から、志水宏吉『「力のある学校」の探求』（大阪大学出版、２００９年）、小林雅之『進学格差』（ちくま新書、２００８年）、吉川徹『学歴分断社会』（ちくま新書、２００９年）の３冊で迫る。志水の本は①について底学力の子どもたちの学力を引き上げることに成功した学校の研究である。現場の力を説く。小林の書は②で、教育費の公的負担問題の貧弱さをあげ、多様な奨学金制度、教育費の公的支出の在り方の見直しを説く。吉川の書は③についてだが、高校卒と大学卒の学歴分断社会の現実を見据えて、労働市場の安定化を説く。</p>

<p> 雑誌の次々の休刊が続く<strong>。「大航海」、「国文学」</strong>が休刊する。大航海の編集主幹三浦雅士のコメントが載っている。「経済が文化の下部構造という位置づけを超えて全面化し、文化は顧みられなくなった。この地殻変動の衝撃はあまりにも大きく、あまりにも深刻」（日経）。さらに「今どんな特集を仕掛けても反応が薄い」という。国文学の版元学燈社の肥田尚昭は「日本文学への親しみや小説を読む習慣のようなものまで失われつつある」（日経）と語る。えらい時代に入ったものだ。</p>

<p> 文学関係では朝日が<strong>村上春樹『１Ｑ８４』１・２</strong>（新潮社、各１８９０円）を鴻巣友季子が評者として書いている。村上が目指した三人称で書く初の完全な三人称小説だ。村上は近年、三人称で書くことで精神の全体を見通したいと語ったことがあったが、この小説こそその三人称小説なのだ。全体小説といえば、野間宏が文学論を展開、『青年の環』８０００枚に完結させた。サルトルの影響は言うまでもないが、日本の差別問題に挑んだ記念碑的作品なのだが、村上の全体を描くこの三人称小説とはどん小説なのか。様々な人の視点が混じる。「オーエルの『１９８４』的な思想統制の恐怖と根源悪を追究した犯ディスピア小説」と評者は紹介している。さらに現実と虚構は境をなくし、因果関係が反転する。作者の扱ってきたテーマがつまっていると評者は続ける。娯楽性も高いというからこれは１、２巻はすぐ読めそうだ。３もあるのではとの期待もおきる。「本作には、書かれた物語と書かれなかった物語が同じくらい豊潤に含まれている。読み手の中でいつまでも「書き直して」いける作品、それこそが傑作の菜に値するのだ」（評者）。全体が見通せない視野狭窄の壁が越えたということか。成功した村上作品であるようだ。</p>

<p> <strong>マイケル・シェイボン『ユダヤ警察同盟』上・下</strong>（新潮文庫、上６２０円、下６６０円）ー日経、産経ーはＳＦとミステリーを横断した物語で、アメリカのユダヤ人自治区が舞台。だいたいアメリカにユダヤ人自治区はない。つまり架空の物語なのだがリアリティーがあるから実際に舞台の町があるように錯覚する。それほどユダヤ人社会が活写されている。主要なＳＦ賞を独占した作品だが、殺人事件を追う刑事の物語なのだ。産経の評者細谷正充は「警察小説の醍醐味・・・ひとりの男の内面の遍歴も、本書の大きな魅力となっている」と書いている。</p>

<p>　<strong>ＣＤ集『吉本隆明五十度の講演』（</strong>東京糸井重里事務所）ー産経ーは世界一長いオーディオブックとしてギネス世界記録に認定されたそうだが、ＣＤ１１５枚に「幻想としての国家」から「中原中也・立原道造ー自然と恋愛」までの約３０年にわたる講演を収録した。昨年８月３０００セット発売で半分が売れたという。</p>]]>
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<dc:date>2009-06-07T11:08:47+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-7.html">
<title>冤罪逮捕時の足利事件報道を検証する</title>
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<description>栃木県足利市で１９９０年におきた幼女殺害事件（足利事件）でＤＮＡが犯人のものと不一致とわかり、冤罪で１７年の獄中にあった菅家利和さん（６２）が釈放された。もし進化したＤＮＡ鑑定がなければ依然として「確定された無期刑」ままだと思うと背筋がゾク...</description>
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<![CDATA[<p>栃木県足利市で１９９０年におきた幼女殺害事件（足利事件）でＤＮＡが犯人のものと不一致とわかり、冤罪で１７年の獄中にあった菅家利和さん（６２）が釈放された。もし進化したＤＮＡ鑑定がなければ依然として「確定された無期刑」ままだと思うと背筋がゾクゾクとする。<br />
</p>]]>
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<![CDATA[<p><br />
逮捕当時の新聞報道を見てみたが、どのように冤罪が作り上げていったかがわかる。</p>

<p> そこには容疑者のプライバシーなどあったためしがないし、容疑を「立証」あるいは「関連」する情報（まったく不確かなもの）が、逮捕という事実を補強するものとして編集されている。こうして読者は冤罪の加担されていくのがわかるから、これはたまらない。</p>

<p> その演出をさせられたのがメディアということなのか。</p>

<p> 具体的報道を個々あげるのはためらう。なぜなら菅家さんんを再度傷つけるからだ。プライバシー侵害を再度を犯すからだ。ただ特徴的な点を列挙することは許されるだろう。</p>

<p>①容疑者が浮かんだということで、逮捕前に報道が数社が行っている。▼「重要参考人近く聴取」―朝日新聞社会面トップ（１２月１日朝刊）、「元運転手、きょうにも聴取」（毎日新聞１２月１日朝刊）</p>

<p>②なぜ前打ち記事が出されたのか。事件から１年半余、急に逮捕報道の記事を出すより、読者の関心をひくため報じられたと考える方が妥当だろう。警察側のリーク記事である。</p>

<p>③容疑者としての怪しさを「演出」する記事がちりばめられた。「無職」だとする報道は、「怪しさ」を演出するものだが、何のことはない、捜査内定を知った幼稚園側が、送迎バス運転として勤めていたのを解雇したもので（朝日１２月２日夕刊）、冤罪捜査で解雇されたものだ。冤罪ということがなければ解雇されることはない。どんな落ち度が菅家さんにあるというのか。</p>

<p>④事件のことが話題になっているのに無関心だったーとの冤罪捜査が引き金になり解雇された幼稚園長の談話が報じられている(毎日１２月２日朝刊）。単なる幼稚園長の主観的な感想であるが、それは無関心だから事件に対して忘れようとしていたとの記事の報道として用意されているとしか考えられない。単なる感想が犯人に仕立て上げるための「道具」として用いられている。</p>

<p>⑤幼児殺害事件だから、その特異性と関連づけたいとする記事が出される。裏づけられたものではない。それが、さも真実のように流される。犯人に仕立て上げるものだ。菅谷さんの人格を傷つけるものであると同時に、親類縁者はたまったものではない。公権力とメディアは菅家さんの人生と、菅家さんの親類縁者の人生を奈落の底に突き落とした。この反省がいまあるのか。とりわけメディアでは微塵もない。そうした検証がいまのところないからだ。冤罪とわかった段階で過去の報道検証を少しでもする気があれば紙面であらわれるはすだ。</p>

<p>⑥週刊誌報道も菅家さんの人格を傷つける奈落の底に突き落とす報道であった。「週刊朝日」の報道は特集として１本記事をたてている。宣伝見出しか見ていないが、その報じ方に嫌悪感を感じる。当時の編集部はそれでよしとしたのだろう。</p>

<p>⑦当時のテレビのワイドショーも事件を報じただろうが、検証できない。</p>

<p>⑧私が報道のその現場にいたら、同じことをしていたかもしれない。ＤＮＡ鑑定で認定されたと警察が報じたからだ。これを不確かだと見て支援していった人、弁護士には頭が下がる。科学の権威は一度つくと全てを黙らす。当時の報道で警察のＤＮＡ鑑定に疑義をさしはさむものはない。<br />
</p>]]>
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<dc:date>2009-06-06T18:36:15+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-6.html">
<title>「丹波マンガン記念館閉館はニュースでないのか」</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/02/</link_daily>
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<description>　　丹波マンガン記念館の閉館と報道について問う。...</description>
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<![CDATA[<p>　　丹波マンガン記念館の閉館と報道について問う。</p>]]>
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<![CDATA[<p>　丹波マンガン記念館が31日、２０年の歴史を閉じた。この日は閉館式だっったが、テレビ取材を見かけることなく、多くのメディアは沈黙した。そこには歴史意識が色濃く映し出された。</p>

<p>　丹波マンガン記念館の閉館は入場者の減少が最大の理由。年間のメンテナンスは何１００万とかかるから、赤字が積み重なったきた。これ以上継続することは無理だろう。閉館もやむなしかもしれない。</p>

<p>　しかし、朝鮮人強制連行の現場を在日朝鮮人が保存して博物館として立ち上げたのは、日本ではこの記念館が唯一だ。それだけに日本人の側の反応がおづだったのかが問われるところだろう。行政は一切の補助もしなかったし、歴史の現場に学ぶための重要な施設として公教育の現場で位置付けられることもなかった。</p>

<p>　そういう意味では李龍植館長が31日の挨拶で「レジスタンスだ」と言った思いがよくわかった。強固な岩盤を砕かないと日本の戦争責任や植民地支配の歴史の反省が表面化しない社会。それへの抵抗の２０年だったのだ。</p>

<p>　31日の閉館式には３００人くらいの参加者があっただろうか。しかしテレビクルーの取材などメディアの取材はみられなかった。毎日新聞の写真記者がシャッターを押して懸命に取材していたのが目立った程度だ。</p>

<p>　丹波マンガン記念館の閉館はメデイアにとりニュースではないのだ。その日の夕方のテレビニュースにかける値打ちもないということなのか。そういう判断だからテレビの取材が出なかったのではないか。閉館のニュースはそんなにも軽いものなのか。</p>

<p>　ニュースは社会意識を映し出す鏡だ。朝鮮人強制連行問題や植民地支配問題を問うことは社会の意識の底に沈殿してしまったようだ。李館長が31日午後の最後の挨拶で流した涙は何だったのか。日本社会への悲しみの涙ではあってはならない。</p>]]>
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<dc:date>2009-06-02T20:41:21+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/kawase/2009/06/post-18.html">
<title>編集局からの手紙「丹波マンガン記念館閉館はニュースでないのか」；川瀬俊治</title>
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<description>　丹波マンガン記念館が31日、２０年の歴史を閉じた。この日は閉館式だっったが、テレビ取材を見かけることなく、多くのメディアは沈黙した。そこには歴史意識が色濃く映し出された。 ...</description>
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<![CDATA[<p>　丹波マンガン記念館が31日、２０年の歴史を閉じた。この日は閉館式だっったが、テレビ取材を見かけることなく、多くのメディアは沈黙した。そこには歴史意識が色濃く映し出された。<br />
</p>]]>
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<![CDATA[<p>　丹波マンガン記念館の閉館は入場者の減少が最大の理由。年間のメンテナンスは何１００万とかかるから、赤字が積み重なったきた。これ以上継続することは無理だろう。閉館もやむなしかもしれない。</p>

<p>　しかし、朝鮮人強制連行の現場を在日朝鮮人が保存して博物館として立ち上げたのは、日本ではこの記念館が唯一だ。それだけに日本人の側の反応がおづだったのかが問われるところだろう。行政は一切の補助もしなかったし、歴史の現場に学ぶための重要な施設として公教育の現場で位置付けられることもなかった。</p>

<p>　そういう意味では李龍植館長が31日の挨拶で「レジスタンスだ」と言った思いがよくわかった。強固な岩盤を砕かないと日本の戦争責任や植民地支配の歴史の反省が表面化しない社会。それへの抵抗の２０年だったのだ。</p>

<p>　31日の閉館式には３００人くらいの参加者があっただろうか。しかしテレビクルーの取材などメディアの取材はみられなかった。毎日新聞の写真記者がシャッターを押して懸命に取材していたのが目立った程度だ。</p>

<p>　丹波マンガン記念館の閉館はメデイアにとりニュースではないのだ。その日の夕方のテレビニュースにかける値打ちもないということなのか。そういう判断だからテレビの取材が出なかったのではないか。閉館のニュースはそんなにも軽いものなのか。</p>

<p>　ニュースは社会意識を映し出す鏡だ。朝鮮人強制連行問題や植民地支配問題を問うことは社会の意識の底に沈殿してしまったようだ。李館長が31日午後の最後の挨拶で流した涙は何だったのか。日本社会への悲しみの涙ではあってはならない。</p>]]>
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<dc:date>2009-06-02T17:17:03+09:00</dc:date>
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