本澤二郎の「日本の風景」の最近のブログ記事

<胡さん来訪>
 北京に行くと、多忙な時間をさいて筆者に会いにやってくる胡さんが、今回も盧溝橋から戻ると外交学院国際交流中心に訪ねてきてくれた。以前、国際シンポジウムでの筆者の見解に賛同してくれて、俄然ファンのようになってくれた日本研究者だ。「勇気」に感動してくれたというのだが、実際は人間としての当たり前のことを発言したまでだった。ありがたいことに、いつも貧者に対して食事に誘ってくれる優しい人物である。そこでの四方山話に興味と関心を抱いてくれる。もっとも最近は子供の教育のことで、それも研究を兼ねながらだから、てんてこ舞いの日常生活らしい。パートナーのお陰で広い住宅と車も所有する、昨今の中国中流家庭の代表のような存在でもある。
 



<娘の日本印象>
 高校生の娘がいる。今夏、両親は日本留学中の大学を中心に旅をさせたそうだ。中学生を海外旅行させる中国の中流家庭にも驚きである。むろん、浦安のディズニーランドにも足を向けた。これほどのテーマパークはまだ北京にはないので、大いに驚き楽しんだという。筆者でも新聞記者時代、ここを経営するオリエンタルランドから招待券をもらい、何度も足を運んだ。大人でも楽しめるのだから、子供や若者の人気は今も続いている。
 だが、それ以外で何か特別に興味を抱いたり、あるいは驚いたり、感心するところがあったろうか。そこに当方の関心があった。
 「街が清潔だった」が唯一の印象であったという。これは何を意味するであろうか。
 今の北京には何もかもが揃っている、ということを裏付けているのである。
 80年代を思い出す。まだ何もない中国だった。特にお土産には女性のストッキングが最高に喜ばれたものである。一度、大失敗したことがある。中国青年報の社長へのお土産に成田空港で置時計を買った。なんとそれは中国製だった。

 胡さん宅に岐阜県の高校生が数日、ホームステイをした。最近のことだという。片言の英語と筆談での高校生同士の交流が始まった。日本人高校生は北京の街中を見学して驚いてしまった。「岐阜市の高層ビルは1か所だけ」がその理由だった。
<東アジア共同体>
 鳩山由紀夫の民主党がぶち上げた東アジア共同体構想に目下、中国の学者たちは自由に発言し、その可能性と困難さを論じている。もとはといえばマレーシア首相のマハティールが提唱したEUのアジア版構想である。
 中国や韓国の反応はすばやく、これに向けた布石を打っている。ワシントンに操作されてきた日本政府は、どちらかというと構想に水をかけてきた。したがって、これは夢のまた夢の絵空事のような印象を内外に与えてきた。
 この間、中国や韓国はASEANと関係を強化して、かつての日本のお株を奪ってしまった。国家主義的な右翼政権は、もっぱら日米同盟強化というワシントン服従外交に邁進してきたからである。だが、そのアメリカが衰退、同時に自民党も政権を失ってしまった。
 もはやアメリカ相手のみの経済貿易・同盟外交では日本は生きてはいけなくなってしまった。アジアに重心を移すしか日本人は生活できなくなっている。東アジア共同体を推進するしか、日本の生きる道はないのである。したがって民主党の政策判断は、何も特別な狙いで打ち出したものではないと思う。日本はそこへと針路を向けるしか手はないのであるから、それを同党は選挙公約に掲げただけのことである。筆者の理解である。アジアの日本としては、明治以来の福沢諭吉の脱亜入欧路線はしなびたリンゴでしかないのだ。小学生でもわかる理屈であろう。
 しかし、そのことを北京には十分に伝わっていない。それを胡さんの話からもわかった。
 「共通の価値観を持つことが出来るのかどうか。そのためには民間交流が重要である。NPOやNGOなどの民間指導者の交流もとても大事」という。すなわち、72年に国交を正常化している日中だが、民間の交流はまだまだ不十分ではないか、という指摘である。
 小泉後遺症の大きさを言っているのである。靖国効果である。

 思えば国交回復は田中―大平連合で実現した。当時、岸―福田連合が強く反対した。小泉は後者の思いを靖国参拝で反撃したのであろう。両国民を72年以前に引き戻したのである。小泉の罪は大きい。反共勢力の第一人者としては申し分ないだろうが、安心・安全の生活を求めるだけの国民にとって、とても迷惑なことなのだ。東アジア共同体構想に向けた方針を打ち出した現政権にとって、ものすごく高い壁となっている。
 こうした指摘は、両国の指導者間の合意だけでは構想そのものが進展しないことを物語っている。
<映画「南京、南京」>
 今年の夏の北京映画の話題作品というと「南京、南京」だったという。
 どんな内容・筋書きだったのか。どうやら真実を伝えるものではなかったようだ。創作映画であった。
 「南京を占領した日本軍の一兵士に焦点を当てたものだった。その兵士はクリスチャンで大虐殺する日本軍の蛮行に耐えられず、遂に自殺するとう筋書きである。しかし、自殺した兵士は日本軍を代表していないのは明らかだった」
 監督は、ハンサムなクリスチャン兵士をヒーローに仕立て上げて「日本兵の中にもいい兵士がいたのだ」ということを中国人民に訴えたかったらしい。当然、専門家は批判している。その批判を理解できるが、このような映画が中国でヒットすることに仰天するばかりである。これも改革の成果なのか。
 ちなみに胡さんは共産党員ではない。民主党派のメンバーである。「共産党に建設的提言を行っている」という。政治改革への助走なのか。
2009年11月10日9時20分記
<抗日戦争記念館>
 副館長の李宗遠の執務室に招かれた。顔を見て、彼とはもう数回会っていることが確認できた。南京大虐殺記念館などでも偶然の出会いをしていた。彼は日中戦争史の学者・日本研究者でもあった。鋭い分析に舌を巻いたことも記憶している。かつての記念館若手のホープは、いまや記念館全体を運営する主役になっていた。
 そういえば、シンボルの巨大な黒獅子の石像は記念館の前に広がる広場に移動していた。周囲の住宅は跡形もなく消えていた。若者たちの教育基地としての地位をほぼ完璧に確立していたのである。



 確か記念館の日本人向けのパンフレットの文章を頼まれたことがあった。しかし、2005年の大改装で展示物も一新してあった。盧溝橋と抗日戦争記念館は、過去の歴史の証拠を現代に伝える教育的価値だけでなく、観光資源ともなっていた。
 出版物も多く出していた。以前のものには筆者の「中国の大警告」の贈呈場面も写真で紹介してくれていた。今回も3冊いただいた。筆者も中国語に翻訳した著書5冊と今は倒産した健友館が出版してくれた「平成の妖怪 大勲位 中曽根康弘」を贈呈した。
<無人区も展示>
 既に紹介した希望小学校・見才溝小学校のある河北省興隆県教育局長の劉海民から「このあたりは無人区でした」という話を聞いたことがある。其の時「無人区」という聞いたこともない言葉に驚いた。
 「それは何のことですか」と問い返した。「日本侵略軍は、河北省山間部の地区に住む農民たち全てを殺害と追放によって、中国人は一人として住めなくしたのです。それを無人区と呼んでいます。日本軍以外住んではならないという意味です」という説明に腰を抜かしてしまった。取材をしようとしたが無人区ゆえに、証言者を現地で見つけることは不可能だった。仕方なくあきらめざるを得なかった。日本軍の生存者でこれを語れる人物が、今もいるのかどうか。もう80歳か90歳以上のはずである。
 空想する必要などない。無数の無辜の民が理由もなく殺害・追放されていったのであろう。突然に人生を奪われた人たち、特に女子供たちの無念さを考えると、人間としていたたまれない。忠君愛国の論語教育と神社・神道による宗教教育で、とことん「天皇の軍隊」に変身させられ、野獣と化した関東軍にいたぶられ殺害された中国人のことを、今を生きる日本人は断じて忘却してはなるまい。
 無人区のことを記念館に展示してあるかどうかを確かめたことがある。関係者は全く知らなかった。「調べて事実であれば展示すべきではないか」と指摘させてもらった。同時に、いい場所に希望小学校を再建できたことに感謝したものである。

 副館長を待つ間、日本語で案内をしてくれている館員の張栓中が、大改装した記念館の展示物を急いで説明してくれた。そのさい、無人区のことを尋ねてみた。「ありますよ。展示してあります」といって、そこへと連れて行ってくれた。無人区地図の展示も確認できた。良かったと思った。今日において事実を消し去ることはできない。真実から目をそらさずに、そこから教訓を学んでいくのも人間なのだから。
<李宗遠副館長>
 副館長の李宗遠に最近の様子を尋ねてみた。「2005年に大改築を終えました。みなさんからの桜は、毎年咲いています。陳列してある内容を大分変えました。最新の成果を展示しました。共産党と国民党による抗日戦争、台湾人民の抗日運動も、新たに加えました。記念館周囲の環境も大きく変わりました。改装を100日間でやり遂げたのです。無人区も展示しましたよ」と語ってくれた。外交学院4年の秀才君が見事に通訳してくれた。
 見学者の様子を聞いてみた。
 「今年1月から31万人ほどになります。毎日報告を受けていますが、昨日は656人でした。中国人は6割が学生です。外国人はこれまで20万人ほどですが、大部分が日本人です。最近少なくなっていますが」
 改めて記念館の開設時期を尋ねた。「1987年7月7日に開館しました。それから1500万人が見学しています」という答えが返ってきた。7月7日は盧溝橋で日中戦争が勃発した日である。鈴木内閣で歴史教科書問題が起き、続く86年8月15日に中曽根首相の靖国神社公式参拝が引き金となって、この記念館は若者の歴史教育基地として誕生したものなのだ。中曽根のお陰である。
<少ない中日韓の青年交流>
 小泉がその悪しき後継者となったのだが、さすがに「2001年からの小泉靖国参拝で日本人の見学は少なくなった」という。小泉効果がまだ続いているのだという。
 「北京観光客に宣伝してみてはどうか。中日の観光会社にも働き掛けてはどうか」
 「それはほとんどしていません。外国人が利用するホテルなどにパンフレットを置かせてもらっていますが。また日本人留学生の講座を通じて伝えるようにしています」
 「日本は今でも近現代史を本気になって教えていません。政府にも問題がありますね」
 「確かに日本の教育は少なすぎます。この方面についての知識はほとんどありません」
 「ここを見学する日本人の対応はどうですか」
 「反発する人はいません。涙を流す日本人もいます。男性は沈黙する人が多い。女性は自分の感想・意見をいいますね。改めて感じることは、まだまだ交流が少ないということです。日本の若者は近現代史がわからない。中韓の若者は戦後日本の平和の道を理解していない。3国の青年交流を活発化して日本軍侵略を勉強してほしいですね」
<鳩山内閣の実行?>
 館員の張栓中は若い。2008年から正式に日本語ガイドになったという。彼は戦後の日本について高く評価してくれた。「日本の戦後は主に平和の道を歩んできた。中国に対しても助けてくれました」と口走った。実際は複雑でそうでもなかったのだが、確かに自衛隊が発砲せずに外国人を殺害しなかった点は評価できるだろう。ただし、それは日本国憲法の賜物なのである。
 副館長は花岡事件の鹿島についで、西松建設の中国人強制労働事件に対する最近の前向きな対応を評価した。さらに「鳩山総理は歴史を直視すると言ってくれました。麻生前総理は靖国を参拝しました。東アジア共同体のことですが、私の個人的な考えは中日の歴史を解決しないと困難だと思います。国民感情が重要です。これを乗り越えないと将来の道は険しいと思います。鳩山首相の前向きな姿勢に注目していますが、我々は実際の行動を見ています」とも付け加えた。
 言行一致になるのか、それとも不一致なのか。そこを見ている中国といっていい。戦後の「ドイツ」になれるのか、であろう。
 「中国人の歴史観は決して厳しいものではありません。しかし、日本側による挑発に対して、それを感情的に受け入れられることは出来ないのです」
 真っ当な歴史教育をすれば、問題は解決するというのである。皇国史観など論外というものである。

 彼は意外な話をした。アメリカ在住のウイグル族の女性指導者を日本に招いたミズタニという女性と会見したことがあるという。国費留学生として4年間、人民大学で面倒を看たのだが、日本に戻ると、変身して中国批判の中心人物になってしまった、というのである。「恩を仇で返された」と言って笑った。小泉もここにきて「忠怨」と署名した。その意味は靖国参拝で返されたのだ。
 それでも小泉の写真は記念館に飾ってあった。
<中国の課題>
 現在の中国の課題について聞いてみた。むろん、彼個人の見解だが、改革開放の影の部分を「普通の国民にとって地価(住宅)が高すぎる。給料と消費のレベルが合わなければならないが、あっという間に給料の5倍に跳ね上がってしまった。北京では高いところは1平方メートル当たり6万元もする。政府は土地を売り収入を得ている。農民から買い取って開発業者に高く売るので、住宅価格は高くなる一方である」という。
 中国の土地は国有である。業者は国から使用権を購入して開発をするのだが、そのさい、法外な値段で売っているという。腐敗も起きる。こうしたことがどれほど長く続くのであろうか。
 「教育・住宅・医療・老人問題・就職問題がとても厳しい。この問題にあと10年で解決できれば、新しい未来が約束されるだろう」と語ってくれた。
 中国もまた政治の舵取りが容易でないのである。筆者の目には日本の状態はもっとひどいのであるが。国民が気付かないか、気付こうとしないだけである。
2009年11月8日17時50分記
<改憲と東アジア共同体は矛盾>
 中日関係史学会との交流では、とても大事な示唆を受けた。それは日本の財閥と右翼の政治家・言論人・学者らが連携して、日本の唯一の誇りである平和憲法をたたき潰そうとする野望と東アジア共同体構想の関係についてである。憲法改悪の動きが小泉-安倍時代のように表面化すれば、東アジア共同体構想は進行しない、それどころか頓挫する、という鋭い指摘である。筆者の深刻な懸念でもあり、同感である。共同体は平和と繁栄が鍵なのだ。



 右翼勢力は、これまでも財閥からの隠れた莫大な資金をテコにして世論操作、改憲への潮流を作りだしてきた。ブッシュのワシントンは、公然と日本政府に改憲を働き掛けてきた。「米軍配下として海外派兵する自衛隊」が、ワシントンのお目当てだろう。小泉内閣が戦争法制の制定に突進した背景でもあった。安倍内閣は改憲に向けた若者教育のための教育基本法を改悪し、その後に改憲のための国民投票法を強行、とうとう国会内に憲法審査会を設置した。国家主義が牙をむいた場面だった。
 こんなきわどい危険な局面で政権は交代した。これは日本・アジアにとって幸運なことであった。

 今回、護憲勢力の社民党が新政権に参画した。このことによって改憲の流れはひとまず止まった。しかし、来年7月以降の動きは不透明である。民主党内の改憲派の動向いかんでは、政界再編論を含めて再び表面化するかもしれないのである。
 現に「壮大なる無駄」である軍事予算はほとんど削減対象になっていない。表向きの北朝鮮脅威論を利用しているのである。ここをしっかりと把握していないと、鳩山内閣の友愛政治の本質も見えてこないことを理解すべきであろう。岡田や菅からは改憲論は聞こえてきたことはないが、前原ら政経塾の動向が要注意だ。背後の資金供給スポンサー・京セラの稲盛の判断、そして鳩山や小沢がどう出てくるのか。筆者にもまだわからない。
 そういえば松下政経塾の松沢・神奈川県知事は訪米して国防総省高官と会見した後、講演(10月7日)で前政権同士の間で合意した普天間基地移設での処理をぶち上げて、従来のワシントン服従外交を側面支援した。政経塾として岡田外交にかみついた格好でもある。反共親米を再び誇示して見せたことになる。むろん親米といっても、彼らの相手は共和党右派やペンタゴンに寄り添う政経塾なのである。リベラルではない。
<鍵握る北京とワシントン>
 平和を愛する、過去を直視する人々は引き続き警戒を怠ってはなるまい。中国の日本研究者も、そのことに言及したものである。ちなみに、この点を強く指摘したのは苑崇利教授らである。
 筆者は最終的にはアジアの判断、とりわけ中国政府と人民の対応いかん、さらには北京とワシントンの出方が、改憲の行方を決定づけると見ている。改憲の先には核軍拡競争が待ち構えているだろう。改めて確認したい。9条憲法は、日本のアジア侵略と不可分の国際政治力学が実現させた、人類の悲願ともいえる最高の条文である。「世界に冠たる平和憲法」(鈴木善幸首相)、「核時代におけるいい憲法」(宮澤喜一首相)なのである。

 軍事力を背景にした国際的ビジネスと軍事利権に、あくこともなく執着する財閥と、日本帝国の再現を夢見る一部極右勢力は、こうした国際的な枠組みと政治力学を全く理解していない。日本は平和国家、アジアのスイス化が唯一平和と繁栄を約束してくれることを、この機会に悟るべきだろう。鳩山と小沢も改憲軌道を修正するしかない。そこへと針路を、舵を切るべきなのである。そうしてこそ東アジア共同体は花開くのである。
 米国を含め各国と平和友好条約を結ぶ日本である。丁民さんは、生前の後藤田正晴と親しく交流していたが、後藤田も「日本は中立国になるのが一番だ」と語っていたという。筆者と同じ立場である。
<盧溝橋>
 随分と御無沙汰していた盧溝橋にある抗日戦争記念館へ出かけた。苑さんの配慮による。車を大学が用意してくれた。通訳に4年の秀才君がついてきてくれた。10月30日の9時30分にでかけた。この5~6年の間、館長が何人も代わった。筆者は97年に例の「中国の大警告」(データハウス)の翻訳本贈呈で、記念館として相応に評価してくれるようになったらしい。バックに控える北京市幹部らと親しくなった。
 その関係で記念館幹部が会ってくれることになった。盧溝橋も久しぶりである。記念館の周囲は一変していた。筆者の御無沙汰がいかに長期に及んでいたかを思い知らされてしまった。近くには小渕恵三が贈呈した友好林もある。
 このあたりの風景は大きく変わっていた。それでも再開発は現在も続けられていた。変わらなかったのは、橋の下を流れているはずの川が干し上がったままだったことくらいである。
<学生の生活費>
 記念館に向かう途中、傳魏然君に学生の生活費がどのようなものかを尋ねてみた。改めて、行き届いている中国の大学教育に感心してしまった。筆者も毎日利用している学食は、学生らの場合、平均朝5元、昼と夜が7元という。月に食費は400元から500元。年間授業料5000元、寮費が年間150元という。
彼は来年から院生になるが、院生の授業料は無料、寮費が650元である。これもすばらしい。アルバイトをしなくてもいい中国の学生である。語学が上達するわけである。
 「地方の大学の授業料は1万元。私立大学は4年間に10万元もかかるところがある」とも。国立に入れないものは私立か海外留学するしかない。昔は全て無料だったというが、それにしても国立の優遇は別格のようである。
 奨学金制度も優秀学生には用意されている。「私は2年間利用しました。年1000元。返す必要はありません」といった。日本も見習うといい。筆者も奨学金をもらった人間だが、必ず国に返還しなければならなかった。
 ついでに住宅事情を聞いてみた。彼の故郷では1平方メートル3000元だったものが、今は5000元、北京では2万元、3万元もするという。不動産バブルは地方都市にも伝染している。
<桜は健在>
 予定の時刻よりも早く着いた。10時前後になると、北京でも下り線は渋滞から開放されていた。肌寒い曇り空の天候である。
 事務棟に入った。すると昔出会った女性職員が応対してくれた。元気そうで、とても喜んでくれた。「もう結婚はしました」といった。桜のことを尋ねた。「元気にしています」というので、是非見たいと申し出ると、彼女は即座に案内してくれた。
 桜のことを話すと、話が長くなる。「中国の大警告」を100冊贈呈したあとのことである。記念館の最高責任者から資金集めの相談を受けた。資料集めにかかる経費を市民からの献金で賄っていたのだが、当時の北京では財力のある市民は少なかった。そこで海外に協力者を求めていたのである。
 筆者は宇都宮さんの会社、JR東日本の労働組合、資本豊かな宗教団体に声をかけた。喜んで応じてくれたのが、JR東労組が加盟しているJR総連だった。宗教団体は応じてくれなかったのが、いまでも不思議に思うばかりである。
 平和運動に取り組んでいる真っ当な労働組合は、中国に希望小学校を20校近く建設、その実績は日本一である。組合員の献金でおよそ100万円を集めることが出来て、記念館に寄付した。そのさい、彼らは記念の植樹をしたい、とも提案してきた。日中平和交流21事務局長に交渉してもらうとOKが出た。何がいいか。記念館の方から「桜を」と言ってきた。かくして6本の桜を記念館の一角に植樹をした。
 この桜が枯れることなく生きているというのであるから、これはかかわった者にとって感動ものである。
 北京は寒い。関東のようではない。桜の最北限のはずである。それでも6本の桜を確認できた。「春には咲いている」という職員の話にほっとした。カメラに収めた。平和労組の思いは立派に生き続けてくれていた。仲介人として、これはとてもうれしいことである。
 この労働組合は松崎明という稀有な労働指導者によって、今日がある。右翼や公安当局に追い回されても、決してひるむことなどない。恐ろしいくらいの精神力の持ち主である。平和運動が労組の大事な使命だと信じている。彼によってJRの労働組合は、今も健全さを保持できている。
 河本敏夫流に言わせると「1本のローソク」である。
2009年11月7日20時40分記
<抗日戦争記念館>
 副館長の李宗遠の執務室に招かれた。顔を見て、彼とはもう数回会っていることが確認できた。南京大虐殺記念館などでも偶然の出会いをしていた。彼は日中戦争史の学者・日本研究者でもあった。鋭い分析に舌を巻いたことも記憶している。かつての記念館若手のホープは、いまや記念館全体を運営する主役になっていた。
 そういえば、シンボルの巨大な黒獅子の石像は記念館の前に広がる広場に移動していた。周囲の住宅は跡形もなく消えていた。若者たちの教育基地としての地位をほぼ完璧に確立していたのである。



 確か記念館の日本人向けのパンフレットの文章を頼まれたことがあった。しかし、2005年の大改装で展示物も一新してあった。盧溝橋と抗日戦争記念館は、過去の歴史の証拠を現代に伝える教育的価値だけでなく、観光資源ともなっていた。
 出版物も多く出していた。以前のものには筆者の「中国の大警告」の贈呈場面も写真で紹介してくれていた。今回も3冊いただいた。筆者も中国語に翻訳した著書5冊と今は倒産した健友館が出版してくれた「平成の妖怪 大勲位 中曽根康弘」を贈呈した。
<無人区も展示>
 既に紹介した希望小学校・見才溝小学校のある河北省興隆県教育局長の劉海民から「このあたりは無人区でした」という話を聞いたことがある。其の時「無人区」という聞いたこともない言葉に驚いた。
 「それは何のことですか」と問い返した。「日本侵略軍は、河北省山間部の地区に住む農民たち全てを殺害と追放によって、中国人は一人として住めなくしたのです。それを無人区と呼んでいます。日本軍以外住んではならないという意味です」という説明に腰を抜かしてしまった。取材をしようとしたが無人区ゆえに、証言者を現地で見つけることは不可能だった。仕方なくあきらめざるを得なかった。日本軍の生存者でこれを語れる人物が、今もいるのかどうか。もう80歳か90歳以上のはずである。
 空想する必要などない。無数の無辜の民が理由もなく殺害・追放されていったのであろう。突然に人生を奪われた人たち、特に女子供たちの無念さを考えると、人間としていたたまれない。忠君愛国の論語教育と神社・神道による宗教教育で、とことん「天皇の軍隊」に変身させられ、野獣と化した関東軍にいたぶられ殺害された中国人のことを、今を生きる日本人は断じて忘却してはなるまい。
 無人区のことを記念館に展示してあるかどうかを確かめたことがある。関係者は全く知らなかった。「調べて事実であれば展示すべきではないか」と指摘させてもらった。同時に、いい場所に希望小学校を再建できたことに感謝したものである。

 副館長を待つ間、日本語で案内をしてくれている館員の張栓中が、大改装した記念館の展示物を急いで説明してくれた。そのさい、無人区のことを尋ねてみた。「ありますよ。展示してあります」といって、そこへと連れて行ってくれた。無人区地図の展示も確認できた。良かったと思った。今日において事実を消し去ることはできない。真実から目をそらさずに、そこから教訓を学んでいくのも人間なのだから。
<李宗遠副館長>
 副館長の李宗遠に最近の様子を尋ねてみた。「2005年に大改築を終えました。みなさんからの桜は、毎年咲いています。陳列してある内容を大分変えました。最新の成果を展示しました。共産党と国民党による抗日戦争、台湾人民の抗日運動も、新たに加えました。記念館周囲の環境も大きく変わりました。改装を100日間でやり遂げたのです。無人区も展示しましたよ」と語ってくれた。外交学院4年の秀才君が見事に通訳してくれた。
 見学者の様子を聞いてみた。
 「今年1月から31万人ほどになります。毎日報告を受けていますが、昨日は656人でした。中国人は6割が学生です。外国人はこれまで20万人ほどですが、大部分が日本人です。最近少なくなっていますが」
 改めて記念館の開設時期を尋ねた。「1987年7月7日に開館しました。それから1500万人が見学しています」という答えが返ってきた。7月7日は盧溝橋で日中戦争が勃発した日である。鈴木内閣で歴史教科書問題が起き、続く86年8月15日に中曽根首相の靖国神社公式参拝が引き金となって、この記念館は若者の歴史教育基地として誕生したものなのだ。中曽根のお陰である。
<少ない中日韓の青年交流>
 小泉がその悪しき後継者となったのだが、さすがに「2001年からの小泉靖国参拝で日本人の見学は少なくなった」という。小泉効果がまだ続いているのだという。
 「北京観光客に宣伝してみてはどうか。中日の観光会社にも働き掛けてはどうか」
 「それはほとんどしていません。外国人が利用するホテルなどにパンフレットを置かせてもらっていますが。また日本人留学生の講座を通じて伝えるようにしています」
 「日本は今でも近現代史を本気になって教えていません。政府にも問題がありますね」
 「確かに日本の教育は少なすぎます。この方面についての知識はほとんどありません」
 「ここを見学する日本人の対応はどうですか」
 「反発する人はいません。涙を流す日本人もいます。男性は沈黙する人が多い。女性は自分の感想・意見をいいますね。改めて感じることは、まだまだ交流が少ないということです。日本の若者は近現代史がわからない。中韓の若者は戦後日本の平和の道を理解していない。3国の青年交流を活発化して日本軍侵略を勉強してほしいですね」
<鳩山内閣の実行?>
 館員の張栓中は若い。2008年から正式に日本語ガイドになったという。彼は戦後の日本について高く評価してくれた。「日本の戦後は主に平和の道を歩んできた。中国に対しても助けてくれました」と口走った。実際は複雑でそうでもなかったのだが、確かに自衛隊が発砲せずに外国人を殺害しなかった点は評価できるだろう。ただし、それは日本国憲法の賜物なのである。
 副館長は花岡事件の鹿島についで、西松建設の中国人強制労働事件に対する最近の前向きな対応を評価した。さらに「鳩山総理は歴史を直視すると言ってくれました。麻生前総理は靖国を参拝しました。東アジア共同体のことですが、私の個人的な考えは中日の歴史を解決しないと困難だと思います。国民感情が重要です。これを乗り越えないと将来の道は険しいと思います。鳩山首相の前向きな姿勢に注目していますが、我々は実際の行動を見ています」とも付け加えた。
 言行一致になるのか、それとも不一致なのか。そこを見ている中国といっていい。戦後の「ドイツ」になれるのか、であろう。
 「中国人の歴史観は決して厳しいものではありません。しかし、日本側による挑発に対して、それを感情的に受け入れられることは出来ないのです」
 真っ当な歴史教育をすれば、問題は解決するというのである。皇国史観など論外というものである。

 彼は意外な話をした。アメリカ在住のウイグル族の女性指導者を日本に招いたミズタニという女性と会見したことがあるという。国費留学生として4年間、人民大学で面倒を看たのだが、日本に戻ると、変身して中国批判の中心人物になってしまった、というのである。「恩を仇で返された」と言って笑った。小泉もここにきて「忠怨」と署名した。その意味は靖国参拝で返されたのだ。
 それでも小泉の写真は記念館に飾ってあった。
<中国の課題>
 現在の中国の課題について聞いてみた。むろん、彼個人の見解だが、改革開放の影の部分を「普通の国民にとって地価(住宅)が高すぎる。給料と消費のレベルが合わなければならないが、あっという間に給料の5倍に跳ね上がってしまった。北京では高いところは1平方メートル当たり6万元もする。政府は土地を売り収入を得ている。農民から買い取って開発業者に高く売るので、住宅価格は高くなる一方である」という。
 中国の土地は国有である。業者は国から使用権を購入して開発をするのだが、そのさい、法外な値段で売っているという。腐敗も起きる。こうしたことがどれほど長く続くのであろうか。
 「教育・住宅・医療・老人問題・就職問題がとても厳しい。この問題にあと10年で解決できれば、新しい未来が約束されるだろう」と語ってくれた。
 中国もまた政治の舵取りが容易でないのである。筆者の目には日本の状態はもっとひどいのであるが。国民が気付かないか、気付こうとしないだけである。
2009年11月8日17時50分記
<前門散策>
 北京の新しい観光スポットとなった前門を、偶然NHKが放映していたのを知った。庶民の街のはずである。東京の浅草のような印象である。それが一変していた。随分と立派な建造物で衣替えしていたものだから、苑さんにおねだりすると、二人の院生を案内役に指名してくれた。張剣、鄭暁蕾両君である。



 大学のイスラム食堂で饅頭と粥を胃袋に入れると、地下鉄・阜成門駅まで歩き始めた。「庶民の街が消えた」とがっかりする市民も少なくないようだが、百聞は一見に如かず、である。地下鉄・前門駅で下車すると、確かに当たり一面整頓・整備されている。
 鄭君は北京市出身という理由でガイドに指名されたものらしい。気の毒でならないが、普段は勉強の虫で構内から飛び出すことは少ないのだろう。北京五輪で変わった北京など知る由もないかもしれない。便所を探すのにも、辺りかまわず近くの市民に尋ねるしか方法がないのである。張君はというと、ここいらは初めてなのだから筆者並みのおのぼりさんでしかない。
 前門は北京城の真南にそびえている。そこから真っすぐ南に歩行者天国のような広い道路が延びていて、その両側に古い街並みを模した華麗な建造物が立ち並んでいる。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。数日後、中国青年報幹部夫妻の再案内で大分この周辺の通になったが、このときは見事な建造物に見とれるだけだった。
 とはいえ、周囲を散策しているうちに庶民向けの店舗を見つけることが出来た。2元ショップといえる店である。なんでも2元である。せっかくだからメモ用のノート、名刺入れ、電話帳などを購入した。鄭君は絵葉書を買ってくれた。感謝感激だった。優しい思いやりに、人間は感動するものである。そういえば、この二人とも1年前に訪問した時も、5人の院生ともども天安門広場や王府井を案内してくれていた。いい将来を祈るばかりである。
<毛沢東記念堂>
 辺りかまわず散策していると、胡同(フートン)に紛れ込む。昔ながらの庶民の臭いがふんぷんとして伝わってくる。妙な懐かしさがこみ上げてくるのがわかる。ふと上方を見ると、そこには高層の建物がそびえていた。
 前門から天安門に向かうと、すごい人の行列が延々と続いているのが目にとまった。そういえば、地下道から広場に向かう際には手荷物を警察官が検査している。警備怠りなし、という印象を与えている。大行列が毛沢東記念堂に向かっていることを、間もなく確認できた。
 今年は建国60年である。地方からの観光客必見の観光スポットなのだろう。筆者は79年に大平訪中に同行した時に記念堂に入っている。中曽根訪中ではどうだったか。すっかり忘れている。確か85年だったと思う。
<天安門近くの便所>
 ありがたいことに天安門の左右に大きな便所がある。入口に人々の目が彼方のテレビに釘付けになっている。なんだろうと見上げると、そこは観光客向けのお店で、先頃の国慶節での軍事パレードのCDを宣伝しながら販売していたのである。映像には次々と兵士らの分列行進が軽快な行進曲に合わせて登場してくる。しばし、見とれていると、不思議にも目に熱いものがにじみ出てきた。
 なぜなのか?恐らくアヘン戦争以来、列国の植民地になり、ついで日本軍国主義の耐えがたい屈辱と大災害に遭遇、さらに国共内戦へと突入、新中国になっても厳しい苦難を生きてきた人民が、160年にしてようやくG2とも呼ばれる大国になった、今や侵略という2字を弾き飛ばした、文字通り大中国になったことへの日中友好派の感慨かもしれなかった。
 それは日本の右翼に一喜一憂することのない大中国である。
 店の棚に「南京大屠殺」というCDを見つけた。張君に手伝ってもらい購入した。友人への土産である。
 便所は奥の方に広がっていた。さすがは天安門そばの巨大便所である。
 天安門は観光客で賑わっていた。一目見ると安心する場所なのだ。いつ見ても、何度でもあきない。中国の安定度を測定できる所なのである。
 歩いて北京飯店まで来て、そこから左に折れると、有名な王府井である。しっかりと確認したわけではないが、観光客は前門に大分流れているような印象を受けてしまった。ここからバスに乗って大学に戻った。
<公開講演会>
 午後3時から筆者の公開講演会を開いた。100人ほどの学生は階段式のホールに集まっていた。司会を苑崇利教授がしてくれた。通訳は院生の賀君である。JALで数年働いた後、さらなる向学心から院生になって語学力と国際関係・日本問題に取り組んでいるらしい。通訳は初めてという。
 筆者があらかじめ用意していた原稿を、賀君が翻訳してくれていたお陰で順調に1・5時間の講演会を終了することが出来た。この機会に上海・復旦大学の先生が、講義のお礼にいただいた龍と鳳凰の刺繍の施されている見事なネクタイをつけた。肖向前先生宅の弔問に用意してきたものである。
 既に20人ほどの院生とは、講義と宿舎での勉強会であらかた顔を覚えていたので、彼らのほとんどが姿を見せていてくれてるのがわかった。「自民敗北と政権交代」について講演、その後に活発な質問を受けた。この中には数人の教官も混じっていた。周永生・日本研究中心副所長もおり、再会を喜んでくれた。彼は現在、創価大に滞在している武漢大の熊教授の友人だった。世間は広いようで狭い。
 日本政治・日米中関係などに質問が集中した。実によく勉強している学生たちに囲まれて幸せな時間を過ごすことが出来た。
2009年11月2日17時55分記(北京時間)
<二人の院生>
 12時30分過ぎに学食に入ってみた。勘が当たっていた。既に大半の学生は食事を済ませていた。念願のサツマイモを注文した。日本のそれと比べると、中身が黄色でやわらかく、すこぶる甘いのが特徴である。幼い時代を思い出す。両親が小さい畑で栽培、秋にはサツマイモ掘りを何度も手伝った。しかし、澱粉生産向けがほとんどで味はよいものではなかった。そういえば、学食の粥には芋が入っていた。



 午後には院生2年の張剣、楊晶晶両君が部屋にやってきた。彼らは卒論の相談だった。前者は天皇制の問題、後者は日本衰退にからんでの問題を追及・分析をしようとしていた。二人とも野心満々の課題である。筆者には、この二つとも中国の日本研究者のみならず、日本の学者もマスコミも回避しているように感じるものだから、大いに成果を期待できそうに思えた。頼もしい限りである。
 特に前者に対しては、日本の学者の全てが右翼に配慮している。真実を報道する義務のあるマスコミさえも逃げているという情けない状態にある。21世紀の学問がこれでいいわけがない。
 筆者の最近の出雲取材などから、天皇族は朝鮮半島からの渡来勢力とほぼ断定できる。彼らは中国から仕入れた鉄文化でもって列島の原住民・豪族を支配下に入れて、天皇中心の歴史を想像したものだろう。古事記や日本書紀はそうして作成されたものとみていい。
 朝鮮から仏教と儒教のほか、シャーマンのような神社・神道も天皇族とともに入ったものだろう。出雲に立つと、そのことが明瞭に見えてくる。日本古代史は根本的に書き改めねばなるまい。皇太子妃が占いの神事に抵抗しているとも聞くが、当たり前のことだろう。神事など止めれば問題は解決するはずである。
<外交学院OB>
 中国外交部OBで肖向前さんと同じ瀋陽出身の劉さんが、わざわざ訪ねて来てくれた。彼は飯田橋にある中日友好会館の理事長を最後に北京に戻ってきた。東京・元麻布にある中国大使館時代、ビザの件でお世話になった記憶がある。
 彼がここまで来てくれた理由の一つは、外交学院は彼が卒業した大学だからである。日本語を学んだ源流なのだ。構内の一角は昔のままというから、余計に懐かしさがこみ上げてくるのであろう。
 ひとつ予想外だったことは、彼はロビーで身分証明書を預けなければならなかった。外部の来訪者はたとえOBといえども、チェックが厳しいのである。裏返すと、ここにいると安全ということにもなる。ましてや筆者の部屋には赤じゅうたんまで敷いてあるではないか。このこともOBの驚きだった。他面、母校の発展に目を細めていた。
 数年前、北京で会ったさい、バブルを心配していた。今回は違った。
 「広東省では人手不足が伝えられている」というのである。同省にはアメリカ向けの輸出産業がたくさんあった。金融危機で大量倒産、失業が多く出た。それでいて、もう新たな展開が起きている、というのである。
 「都市と地方の格差が財政出動による支援策で購買力が上がっている。穀物も例年を上回っている。低かった発展レベルが幸いしている」「東北の農村を視察してみると、年収8000元という。かなり豊かになっている」などと語った。
 劉さんはバブルへの不安に対して楽観的になっていた。
<東アジア共同体>
 鳩山がぶち上げた東アジア共同体構想について彼の見解を質してみた。
 彼はやや厳しい見方を披歴した。「体制が異なるということ、そして国民感情・人心をまとめられるのか。日本人の本音はどうなのか。本当にアジアに戻れるのか、アメリカから離脱できるのか」という厚い壁をいくつか並べた。
 北京の視点の一つなのであろう。従来、対日政策は自民党とのパイプを介在して形成してきた。突然の政権交代に戸惑う北京なのであろう。従って、こうした懸念が出るのも当然といえよう。民主党に北京パイプがないか、細いのである。
 民主党政権はワシントンにも、北京にもパイプがないに等しい。まずは交流と対話、それも頻繁にすることである。
<方向は正しい>
 「方向は正しい」ともいった。筆者も、同感である。肖向前さんのかねてからの持論である。日本も中国も、東アジア共同体へと突き進まないと、平和と繁栄が約束されることはない。誰もが承知していることである。しかし、それには日本の努力・条件整備が先行しなければ、なかなかアジアの人民を巻き込むことは無理というものである。劉さんの話を聞いていてそう感じた。
 「なぜドイツのように心から謝罪できないのか」「教育であるが、文部省の頑固さにはあきれる。こうした壁を乗り越えられるのか、民主党はこれらを4年の間にできるであろうか」
 以上のような課題に果たして民主党は対応可能だろうか。筆者は連立のパートナーである社民党の存在にわずかな期待をかけている。小沢がこれに理解を示すことができるのか。過去を直視する教育が、ドイツのように出来るのか。ここが一番重要のように思える。
 彼はいいことを指摘してくれた。
 「大平さん(元首相)はわかっていた。いま大平さんのような政治家がいない」
 大平正芳の偉大さを力説していた中国の外交官は肖向前さんだった。筆者などは柳の下のドジョウで気付かず、彼に教えられた方である。劉さんも同じかもしれない。
 甘いといわれるかもしれないが、外務大臣の岡田克也にやや大平的な手法を見て取れる。
 バランス感覚に優れている。基礎的な教養もあり、政策に明るい。勉強家でもある。大平のような寛容さを持ち合わせている、とみたい。池田内閣で官房長官・外務大臣に就任した大平の目標は、あげて田中内閣での決着に向けた布石だった。岡田はどうか。
 劉さんはいい話をしてくれた。   2009年11月2日11時10分記(北京時間)
<院生6人来訪>
 午前中、大学院1年生男女6人が宿舎に押しかけてくれた。願ってもない来客である。男女それぞれ3人、語学の天才たちばかりである。日ごろ疑問に思っている課題について次から次へと質問を受け、答えていると、たちまちのうちに昼時になってしまった。ありがたいことに退屈せずに時間を過ごすことが出来た。学生たちは十分ではないものの、多少なりとも認識を深めてくれた。同時に中国の若者の関心がどういうものであるかを、日本人として勉強できた。双方に有益な意見交換の場ともなった。むろん、これは苑さんの知恵でもあろう。



 日本では裃を脱いでの交流を重視する。お互い本音をぶつけ合っての対話である。外交辞令ほど無意味なことはないのだから。裸の付き合いという方法も重視される。いつの日か、日中間の政治指導者もこうした関係を確立できれば、問題を難なく処理することが出来るだろう。民間は当然だろう。
 もっとも、日本政治は経済が衰退する過程に比例して政権が安定することがなかった。小泉内閣がかろうじて長期政権を維持したが、これはマスコミに負うところが大きかった。実際の政治は国民生活を不安に陥れているだけだった。
 後継の安倍内閣は改憲のための国民投票法を強行制定した。さらに、教育基本法を改悪するなど数の横暴も重なって、参院選挙で国民は反対票を投じた。日本国民が初めて目覚めた証拠で、文字通りそれは画期的なことだった。
 その先に、今回8月30日の総選挙で政権が交代した。投票で野党第一党が圧倒的勝利を収めて、政権を勝ち取った最初の出来事ともなった。日本の民主革命とも言えなくもない。
<日本は金持ち>
 学生との対話は、時に意外な、不思議な認識をしていることに出食わすことができる。
 その一つが「日本はお金持ち」という20年前の日本認識が、まだ通用していることだった。国家財政は破綻、もしくは破綻寸前にある。日本政府やマスコミがあまり触れないようにしているからなのであろう。
 日本政府の現在は、子供や孫たちの分まで借金をしながら舵とりをしてきている。官僚にコントロールされた自民党政治の、深刻かつ哀れな結果である。もはや隠しようもない実態である。傷ついて息も絶え絶えの子羊でしかない。それなのに、ふさふさとした、借りてきた毛皮を覆って、いかにも健康そうに見せかけているだけでしかない。
 それを表からだけ見ている中国人の中には、マスコミの影響でもあろうが、相変わらず「日本は金持ち」と信じて疑わないものもいるという事実を知った。筆者にはとても参考になった。
<なぜ米軍基地>
 外国人にとって独立国に外国の軍事基地があるなどということは驚きの一つである。とりわけ中国人には不思議な事柄であろう。日本は独立国、そして国連の分担金もしっかりと納めている。アメリカについで2番目の拠出国である。いざという場合、国際社会で相応の支援を受けられるだろう。だいたい万一の事態など近い将来、予想も出来ないのだが。
 「北朝鮮脅威論」が、ためにするものであることは、多少なりとも国際関係を理解している者にとって詐欺的な主張でしかないことがわかる。
 戦後の日本はどう見ても半独立国ではなかろうか。「どうして日本に外国の軍事基地があるのか」という疑問は、外国人には不可解なことなのである。筆者も同じ思いである。そう思われないための小さな努力が、政権交代後に起きている。米国との軋轢に屈しない新政権であって欲しい。
 自立する、二本足で立つ日本でないと、世界の物笑いの種でしかない。恥を知る日本であらねばならないのである。
<おかしい中国脅威論>
 日本が中国を脅威と受け止めている?一体どういうことか。
 こうした質問も学生から飛び出した。もっともなことである。
 久しく日本はアジア諸国に対して「軍事大国にはならない。専守防衛に徹する」と合唱してきた。そういいながら軍事費大国の代表となってきた。米国から高額な最新鋭の武器を購入、あまつさえ「米国の核の傘」を標榜してきた。
 経済衰退しても軍事費のレベルはほとんど変わらなかった。すると、今度は中国の軍事力をあげつらって脅威論を喧伝している。狙いは軍拡予算の確保である。背後の軍需財閥がマスコミなどに国民向けの閃電をしているのであると見るべきだろう。
 死の商人への警戒を怠るな、というメッセージなのだ。
<永世中立国>
 「日本が先生の言うように永世中立国になれば、アジアに真の平和と安定がもたらされると思う。東アジア共同体も実現するでしょう。でも、東アジア共同体を、と日本政府がぶちあげると、どうしても中国人は真っ先に大東亜共栄圏を連想してしまう」という指摘があった。
 このことは、依然として日本に対する中国人の厳しい目を裏付けている。日本の努力不足はドイツに比べると、いかんともしがたい。これを理解せずにいくらすばらしい構想を訴えても、人々は聞き入れてはくれまい。
 筆者は2つのことを提案したい。日本の為政者らが自らの心の発露としての南京訪問とそこでの心からの謝罪である。もう1つは近現代史、特に侵略戦争の真実を学校教育でしっかりと教えることである。
 どうだろう。鳩山内閣の総理・閣僚の靖国参拝はなくなった。1歩前進に違いない。まだその先が待ち構えている。侵略戦争の負債はとてつもなく大きいのである。
2009年11月1日22時05分記(北京時間)
<語学の天才たち>
 今日は授業が始まる月曜日(10月26日)である。学食に8時ごろの空いている時間を狙って駆け込んだ。学生はどうしているだろうか。興味半々で広い学生食堂に入った。日曜日とは違った。授業開始目前でも学生の姿があった。しかし、急いでいる様子はその仕草を見ればわかる。胃に負担がかかろうが、かかるまいがお構いなしである。授業優先の食事である。



 筆者は学生らの間隙をぬって、粥と麦粉か米粉のパンの間に、ソーセージと卵をはさんだ栄養価の高いのを注文してしまった。それに豆乳2パックである。
 ばたばたあたふたと食事をとる学生たちに混じって、ゆっくりと時間をかける自分が許せないのだが、他方で語学の天才らと食事をすることに、ある種の快感を覚えるようなのである。時間厳守に徹する学生は、手に持てる料理を買い込むと、そのまま教室にまっしぐらだ。昔の自分を見ているような感じさえする。
 筆者の人生には、こうした語学への取り組みなど想像さえできなかった。語学を活用出来るような人生などは、夢のまた夢だった。それゆえの羨望なのかもしれなかった。しかし、彼らのお陰で今、こうしてここにいることを許されているのである。思えば筆者も不思議な糸に操られているのであろうか。
<翻訳本贈呈>
 食後、部屋に戻ると苑さんから電話が入った。「外事弁公室への表敬」という。多くの日本人にはわからないことだが、中国の政府関係機関が外国人を招待する場合、必ずこの部門の了解がないと実現することは不可能なようである。
 中国には贈り物の文化がある。しかし筆者にはその能力などないので、東京から中国語に翻訳した5冊の本と筆者の生活を奪った「平成の妖怪」という日本語本を持参、それを外事弁公室主任に贈呈した。喜んでくれるのかどうかは不明である。
 主任は前にも紹介した王燕さんである。悲しいかな苑さんの通訳での会話だから、細かい話はできない。英語を少しく勉強していればよかったと反省するばかりである。日本での英語教育の失敗を嘆くしかないし、第一英語を使うと便利だという認識など全くなくて大人になった日本人である。
 ともあれ苑さんの働きかけに彼女がOKを出してくれたお陰で北京に来ることが出来た。そして中国外交部OBの最長老・肖向前さん宅への弔問ができたのだから、心から感謝せねばならない。そのことを伝えられなかったのが残念至極だった。世界は小さくなってしまったのだから、語学は戦争のない、対立のない社会になるために、どうしても大事なのである。
 肖向前さんの日本語は亡くなるまで健在だった。幸運と実力が重ねあった人生を送ったことになろう。
 この日、念願のパソコンが使えるようになった。世界・日本の動きが手に取るようにわかる。パソコン時代は地球のどこにいても時代に遅れることはない。日本語だけでも不便を感じることはないのである。インターネットを発明した人物を知らないが、実に革命的で有益なことである。
<11時30分の昼食>
 苑さんと一緒に学食に行った。おいしい麺が出ているのを見つけた。それを頼んでくれた。トマトと卵などで出来たスープをかけると、さしずめトマトラーメンである。
 早くも学生がかなり入っていた。日本の若者が朝飯を食べないように、中国の学生も太るのを気にして食べないのだとすると、昼飯に殺到することになる。その影響かもしれない。もし、そうだとすると間違いである。脳の働きを低下させるからである。栄養学的には一番まずい習慣といえよう。
 間もなくして、苑さんが11時30分に食堂に連れて来てくれた理由が判明した。11時40分になると、授業の終わった学生で食堂が膨れ上がるからである。案の定、10分後に筆者のテーブル前に女子学生が立った。彼女の両手には料理がいっぱい詰まった盆を支えていた。
 彼女のためにトマトラーメンを急いで食べた。初めての味だが、なかなかいいものだった。トマトは前立腺のがんにいいらしい。健康食品でもある。
<院生に初講義>
 13時10分から院生向けの講義を担当した。1、2年生である。238号教室だ。学生数は20人ほどだった。外交学院の日本語使いのプロである。みな賢そうな顔つきをしている。真剣なまなざしが筆者の五体を射てくる。これが中国人エリートのたまらなくすばらしい特性である。
 新聞記者を辞めた後、6年間ほど教壇にたった経験者にとって、比較できるから胸がドキドキする瞬間なのだ。「21世紀は中国の時代なのだ」と実感できる場面でもある。むろん、日本の学生にも真面目なものもいるが、そうでない学生がほとんどといっていい。そして教師の質、教え方にも問題がある。
 民主党政権下の日米関係という課題をいただいての講義である。学生に混じって苑さんも聞いてくれている。時々メモも取っている。この真摯な態度にはあきれるばかりである。教師が真面目だから学生も大真面目なのだ。
 日本の大学の教員は中国で研修するといい。中学・高校の先生も、である。

 夕食に苑さんは、学食に比べて一段ランクの高い食堂に案内してくれた。久しく家族のことなども含めておしゃべりしてしまった。お茶の水女子大学で栄養学を学んでいる娘のことも、酒の肴にしてしまった。2人でビールを2本空けてしまった。
 この日の夜、パソコンで「北京日記」をスタートさせることが出来た。退屈しないで済む。        2009年11月1日10時10分(北京時間)

<北京の音楽会>
 苑さんが2枚の招待券をくれた。同夫妻の分を筆者に「是非行くように」という、いつもながらの配慮である。目の前の二人の学生が案内してくれる、というのである。しかし券は2枚である。どうしたものか?「音楽好きはどちら」と聞くと、陳梅君が手を挙げた。「まだ音楽会は行ったことがない」という院生である。決まると、小躍りして喜んでくれている。

 10月25日午後7時30分に会場の幕が開くというので、宿舎の国際交流中心のロビーに1時間前に会う約束をした。お目当ては北京音楽庁である。が、どのような音楽を聞かせてくれるのか、筆者には見当もつかない。場所もどこかも知らない。それゆえの陳君の案内である。バスでゆっくり出かけるのかと思いきや、案内人は大学前でタクシーを拾った。天津で1年働いていた成果であろう、なかなか格好のいい服装をしている。音楽会向けと思ってのことだろう。
 特別の招待券のようである。値段が書いてあった。680元だ。日本円にしておよそ1万円である。中国の庶民にとっては目が飛び出るほどの高額券である。交響楽団の演奏かも知れないと予想した。会場の舞台を見て予想がはずれたことを知らされた。中国の民族楽器による演奏だった。果たして理解出来るものか?

 最初はわからなかった。しかし、次第に慣れてくると古典民族楽器の威力に魅せられてしまった。琵琶・胡弓・琴・横笛・太鼓に笙(しょう)という見慣れない楽器も登場していた。西洋楽器のベースも加わっていた。ということは、低温の魅力を醸し出すベースの特別出演ということは、中国の古典楽器には低温のそれがないということなのだろう。
 太鼓とベースは男性の演奏者で、それ以外は全て若い美女があでやかな絹のドレスを着こなして演奏していた。映像向けであるのが寂しい感じがしないではない。むろん、だからと言って彼女らの演奏する技能が劣っているというものではない。
 琵琶の奏者、横笛の奏者がそれぞれ全体の楽団を率いる場面に聴衆は酔いしれた。
<2回目の経験>
 90年代の初めのころか、北京での演奏会に初めて招かれたことがある。ドイツの交響楽団の演奏だった。中国青年報の徐啓新記者が券を3枚持っていたからである。もう一人は同青年報の孫文清記者夫人の王さんだった。彼女にとって交響楽団の演奏は初めてだった。
 交響楽団の演奏はほとんどの人民にとって無縁のものだったようだ。したがって、西洋音楽を聞くようなしゃれた会場などなかった。どこで演奏会を開いたのか、というと、中国のお偉方が集う場所で知られる人民大会堂だった。
 こうした音楽会は初めてという聴衆ばかりだから、子供連れも多かった。曲の途中で拍手をしたり、演奏中の咳払いがあったりと、実に騒々しい音楽会だった。
 今回はというと、場所が北京音楽庁という本格的な音楽を聞くための会場だった。中央にはパイプオルガンまで取り付けてあった。聴衆も慣れたものだから、筆者もゆったりと聞くことが出来た。
 もっとも、デジタルカメラを持参している聴衆も少なくなく、演奏場面を記録するものもいた。陳梅君もその一人だった。
 文字通りの古典音楽は物悲しい、それでいて優雅な音色をかなでる曲目がほとんどである。ところが、ラテンやサンバに編曲したものになると、俄然、うきうきするような躍動的な演奏へと変わる。ロシア民謡の編曲もわかり安くて美しくて申し分なかった。
<四川の幸運>
 陳梅君の故郷がどこかを尋ねてみて仰天してしまった。かの巨大地震のあった四川省というのである。はちきれそうな明るさと光り輝く目は、人を愛しているときのものである。そこからわびしさ・悲しみを感じることはない。そのはずだった。
 「両親とも無事でした。家に亀裂が出来ましたけれど、倒壊は免れた」というのである。親類にも被害は少なかったらしい。ということは、同じ四川省でも幸運な人はいたのである。陳家もその仲間だったのだ。
 幸運と不運が混在する人間社会である。誰が決めたものでもないだろう。人生・社会とはそういうものなのである。神仏に祈ってみたところで、どうなるものでもない。だからといって、諦観するのも負け犬のようでいただけない。知恵と努力が人間にはある。特権なのである。
<バブル?>
 天津の日系企業の重役秘書をしていた陳梅君は、他の学生に比べて多くの知識や情報を身につけているようだ。その上で「バブルが気になる」と言った。学生仲間が集まると、そうした話題が出ている、というのである。
 日本事情に詳しい中国人は「日本のバブルの前兆のようである。心配である」という。他方、「中国と日本は違う。都市と地方の格差が大きい。あるいは土地が国有なので、国の収入も其の分、増えている。そんなに心配する必要はない」という見方も存在している。
 とはいえ世界は大不況の渦中にあり、もだえ苦しんでいる。政権の交代はアメリカ、日本、ついでイギリスでも起きるだろう。どこもかしこも元気がない。そんな中で一人気を吐く中国である。これが長続きするだろうか。
 筆者は日本の教訓を学んでほしいと希望している。金融政策の失敗が、いうところの中曽根バブルを破裂させてしまった。超低金利政策をやり過ぎて資金を市場にだぶつかせると株と不動産が異常に跳ね上がる。同じ失敗をしてほしくない。
2009年10月31日20時00分記(北京時間)
<学生食堂>
 昨日のバス旅行の疲れが出たのか、起きるのが遅れて8時少し前に学生食堂に駆け込んだ。10月25日は日曜日だから学生の姿は少ない。料理を頼むのが楽である。サツマイモの具の入った粥を2杯、それに豆乳を2パックで済ませた。食堂のテレビが大声を挙げていた。客が少ないことを良いことにテレビ観戦する服務員もいた。のんびりとした日曜の学食風景である。



<図書館>
 校内を散歩することにした。この大学は北京大学や清華大学などと比べると、キャンパスは随分と小さい。数分で校内の端に到達してしまいそうだ。食堂から図書館までの距離がそうだった。

 以前、体調を壊しながら図書館の会議室のような部屋で講演をしたことがある。油断して食中毒を起こしてしまったのだ。福建省出身の祝さんが「今人気の料理」をとってくれた。余りを部屋に持ち込んだ。其の時の部屋には冷蔵庫がなかった。翌日それを食べて中毒になってしまった。薬など用意していない。だいたい食中毒がどういうことかも知らない人間である。結局、ベッドから数十回も便所に飛び込んでやり過ごしたが、実に辛い思いをした。その後の講演だったものだから、終わった後の祝宴にも途中抜け出すしかなかった。食中毒の恐怖は一度体験すると、二度としないものだろう。それほどきつい。

 そんな思い出を振り返りながら日曜日早朝の図書館に行くと、ちょうど8時から開館したばかりだった。夜の22時まで使用できる。既に学生が自習室で本を広げていた。席取りの学生は、周囲に本やカバンを乗せていた。勉強熱心さにはあきれるばかりである。
 日本の教室というと、授業中でもまるで雀の学校のように騒々しい。教師がよほどしっかりしないと授業などまともにはできない。荒れている中学校は、高校を経由して大学にも及んでいる。だが、中国の学生はまるで違う。彼らは21世紀の世界を先取りしているかのようである。
 踊り場では語学の発音練習をしている学生が目にとまった。北京大学では校内の中の森で大声を出している姿を見かけたが、都心にある外交学院にはそんな場所はない。窓際の隅で外に向かって発音練習をするしかないのだ。いじらしいようにも思えるが、そのすさまじいばかりの語学への気迫が胸に迫ってきた。
<盆栽>
 図書館から正門に出ると、正面玄関前に陳毅外交部長の胸像が建っている。その前を右手にやり過ごして西方の裏手に回ると、低い生垣で仕切った場所になんと盆栽が幾鉢も置かれていた。
 最近、イギリスなどで盆栽が流行しているという報道を見た。日本文化がイギリスに花開いているという解説がなされていた。だが、それを北京で見つけてみると、果たしてそうなのか、という疑問府が付く。北京にも日本の盆栽が輸入されたと決めつけるのは、あまりにも強引すぎるだろう。
 想像だが、清代以前の中国にはもともと盆栽文化があったのではないだろうか。新中国のもとで一時消滅していたが、改革開放の豊かさのもとで復活したのではないだろうか。これが大学の一角に無造作に置かれていることからすると、筆者の予想が当たっていないとも限らない。

 盆栽というと、母方の祖父が大好きで近くの山からほじくり出してきた木々を植木や盆栽にしていた。丹精込めた盆栽は、家族の病人の治療代に消えて行った。戦後の貧しい時代の生活の糧でもあった。しかし、祖父は孫の筆者にも10本の植木をくれた。中学生のころだ。リヤカーで運んできた。その一部は実家と我が家に1本ずつ残っている。祖父の忘れ形見である。
<再開発>
 西門を出て道路を渡り、近くの路地に入ってみた。庶民の臭いのするアパート街である。よく見ると、その4階建てほどの大きな住宅は壁が破損して、中から赤茶けた煉瓦が覗いていた。中国の戦後建設された住宅の壁面に煉瓦が主要な建設材料であったことを、今に伝えている。地震のない北京だからであろう。
 これから崩壊して再建される鉄筋コンクリートの高層マンションは、相当な高額な値段で売却されるであろう。このあたりは北京の一等地なのだから。住宅・不動産バブルの不安をよそに次々と建設される大都市の再開発は、いつまで続くのであろうか。
 バブルがはじけないことを願うばかりだが、経験者の日本人の目からすると、中国の金融政策は、かなりきわどい場面に立たされていないだろうか。

 路地を歩いていると、おばさんが犬の散歩に精を出している姿を見かけた。豊かさの象徴のようであるが、これは日本でもおなじみの光景である。
 筆者も実家のある田舎に引っ込んだころ、番犬用にボクサー犬を飼ったことがある。小屋まで建てた。夏には蚊よけのため蚊取り線香まで用意したが、毛の薄い犬には効果がなかった。病気にかかり、かわいそうに最期は保健所に連れて行ってもらうしかなかった。
 以来、生き物を飼うことには抵抗するような人間になっている。犬を散歩させる時間があるのであれば、パソコンを打つ方を選びたい現在の自分である。
 大学のゲストハウスに戻ると、何人かの学生は両手にいっぱい果物の入った買い物袋をぶら下げて通り過ぎて行った。筆者が学んだ60年代の終わりごろに比べると、ずっと豊かな中国の学生を印象付けていた。
<昼の学食>
 12時10分過ぎに再び学食に行ってみた。お腹の調子よりも半分は興味先行である。休日の昼食に学生は食堂に押し掛けているものか。それとも?やはり朝と同じくらい静かだった。筆者の前には5人程度の学生しかいなかった。
 おいしそうに見えたいため麺を指差して、これを無事に購入した。服務員は相手が男と見てか盆に山盛りにして出してきた。平らげられるだろうか、という心配である。豆乳を注文するのを忘れたほどである。日本ではソース味に慣れさせられているため、日本人の舌にはいま一、であった。それでいながら全部食べてしまった。残すことにためらいのある世代である何よりの証拠だ。
 麺の中にはキャベツや肉の細切れも入っていた。栄養満点である。帰国時の体重が早くも心配になってきた。ここ4カ月ほどの運動で3キロほど減量に成功している。元に戻ることの恐怖である。
 中部大学から日本語教師として赴任しているというFさんが「1・5年で4キロ太ってしまった」と言っていたことを思い出してしまった。清東陵見学会でのことである。

 周囲を見渡すと、おいしそうなラーメンを食べている学生がいるではないか。隣がよく見えてくるものである。だが、注文の仕方がわからない。あきらめるしかない。第一、もう腹は膨らんでしまっている。別のコーナーを見ると、ふかしたようなサツマイモを出ている。これも今回はあきらめるしかなかった。
 思うに人間は生きるために食べる。そのために働く。食を軸に動いている動物なのである。思索などは、付加価値でしかないのか。
2009年10月31日8時15分記(北京時間)

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち本澤二郎の「日本の風景」カテゴリに属しているものが含まれています。

次のカテゴリは翻訳です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

「ジャーナリスト同盟」通信アーカイブ

ウェブページ