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    <title>「ジャーナリスト同盟」通信</title>
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    <subtitle>ジャーナリスト同盟通信Web機関紙</subtitle>
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（14）</title>
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    <published>2009-11-14T15:35:43Z</published>
    <updated>2009-11-14T15:37:08Z</updated>

    <summary>＜胡さん来訪＞　北京に行くと、多忙な時間をさいて筆者に会いにやってくる胡さんが、...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜胡さん来訪＞</b><br />　北京に行くと、多忙な時間をさいて筆者に会いにやってくる胡さんが、今回も盧溝橋から戻ると外交学院国際交流中心に訪ねてきてくれた。以前、国際シンポジウムでの筆者の見解に賛同してくれて、俄然ファンのようになってくれた日本研究者だ。「勇気」に感動してくれたというのだが、実際は人間としての当たり前のことを発言したまでだった。ありがたいことに、いつも貧者に対して食事に誘ってくれる優しい人物である。そこでの四方山話に興味と関心を抱いてくれる。もっとも最近は子供の教育のことで、それも研究を兼ねながらだから、てんてこ舞いの日常生活らしい。パートナーのお陰で広い住宅と車も所有する、昨今の中国中流家庭の代表のような存在でもある。<br />　<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br /><b>＜娘の日本印象＞</b><br />　高校生の娘がいる。今夏、両親は日本留学中の大学を中心に旅をさせたそうだ。中学生を海外旅行させる中国の中流家庭にも驚きである。むろん、浦安のディズニーランドにも足を向けた。これほどのテーマパークはまだ北京にはないので、大いに驚き楽しんだという。筆者でも新聞記者時代、ここを経営するオリエンタルランドから招待券をもらい、何度も足を運んだ。大人でも楽しめるのだから、子供や若者の人気は今も続いている。<br />　だが、それ以外で何か特別に興味を抱いたり、あるいは驚いたり、感心するところがあったろうか。そこに当方の関心があった。<br />　「街が清潔だった」が唯一の印象であったという。これは何を意味するであろうか。<br />　今の北京には何もかもが揃っている、ということを裏付けているのである。<br />　８０年代を思い出す。まだ何もない中国だった。特にお土産には女性のストッキングが最高に喜ばれたものである。一度、大失敗したことがある。中国青年報の社長へのお土産に成田空港で置時計を買った。なんとそれは中国製だった。<br /><br />　胡さん宅に岐阜県の高校生が数日、ホームステイをした。最近のことだという。片言の英語と筆談での高校生同士の交流が始まった。日本人高校生は北京の街中を見学して驚いてしまった。「岐阜市の高層ビルは１か所だけ」がその理由だった。<br /><b>＜東アジア共同体＞</b><br />　鳩山由紀夫の民主党がぶち上げた東アジア共同体構想に目下、中国の学者たちは自由に発言し、その可能性と困難さを論じている。もとはといえばマレーシア首相のマハティールが提唱したEUのアジア版構想である。<br />　中国や韓国の反応はすばやく、これに向けた布石を打っている。ワシントンに操作されてきた日本政府は、どちらかというと構想に水をかけてきた。したがって、これは夢のまた夢の絵空事のような印象を内外に与えてきた。<br />　この間、中国や韓国はASEANと関係を強化して、かつての日本のお株を奪ってしまった。国家主義的な右翼政権は、もっぱら日米同盟強化というワシントン服従外交に邁進してきたからである。だが、そのアメリカが衰退、同時に自民党も政権を失ってしまった。<br />　もはやアメリカ相手のみの経済貿易・同盟外交では日本は生きてはいけなくなってしまった。アジアに重心を移すしか日本人は生活できなくなっている。東アジア共同体を推進するしか、日本の生きる道はないのである。したがって民主党の政策判断は、何も特別な狙いで打ち出したものではないと思う。日本はそこへと針路を向けるしか手はないのであるから、それを同党は選挙公約に掲げただけのことである。筆者の理解である。アジアの日本としては、明治以来の福沢諭吉の脱亜入欧路線はしなびたリンゴでしかないのだ。小学生でもわかる理屈であろう。<br />　しかし、そのことを北京には十分に伝わっていない。それを胡さんの話からもわかった。<br />　「共通の価値観を持つことが出来るのかどうか。そのためには民間交流が重要である。NPOやNGOなどの民間指導者の交流もとても大事」という。すなわち、７２年に国交を正常化している日中だが、民間の交流はまだまだ不十分ではないか、という指摘である。<br />　小泉後遺症の大きさを言っているのである。靖国効果である。<br /><br />　思えば国交回復は田中―大平連合で実現した。当時、岸―福田連合が強く反対した。小泉は後者の思いを靖国参拝で反撃したのであろう。両国民を７２年以前に引き戻したのである。小泉の罪は大きい。反共勢力の第一人者としては申し分ないだろうが、安心・安全の生活を求めるだけの国民にとって、とても迷惑なことなのだ。東アジア共同体構想に向けた方針を打ち出した現政権にとって、ものすごく高い壁となっている。<br />　こうした指摘は、両国の指導者間の合意だけでは構想そのものが進展しないことを物語っている。<br /><b>＜映画「南京、南京」＞</b><br />　今年の夏の北京映画の話題作品というと「南京、南京」だったという。<br />　どんな内容・筋書きだったのか。どうやら真実を伝えるものではなかったようだ。創作映画であった。<br />　「南京を占領した日本軍の一兵士に焦点を当てたものだった。その兵士はクリスチャンで大虐殺する日本軍の蛮行に耐えられず、遂に自殺するとう筋書きである。しかし、自殺した兵士は日本軍を代表していないのは明らかだった」<br />　監督は、ハンサムなクリスチャン兵士をヒーローに仕立て上げて「日本兵の中にもいい兵士がいたのだ」ということを中国人民に訴えたかったらしい。当然、専門家は批判している。その批判を理解できるが、このような映画が中国でヒットすることに仰天するばかりである。これも改革の成果なのか。<br />　ちなみに胡さんは共産党員ではない。民主党派のメンバーである。「共産党に建設的提言を行っている」という。政治改革への助走なのか。<br />２００９年１１月１０日９時２０分記<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（13）</title>
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    <published>2009-11-13T15:00:00Z</published>
    <updated>2009-11-13T10:25:06Z</updated>

    <summary>＜抗日戦争記念館＞　副館長の李宗遠の執務室に招かれた。顔を見て、彼とはもう数回会...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜抗日戦争記念館＞</b><br />　副館長の李宗遠の執務室に招かれた。顔を見て、彼とはもう数回会っていることが確認できた。南京大虐殺記念館などでも偶然の出会いをしていた。彼は日中戦争史の学者・日本研究者でもあった。鋭い分析に舌を巻いたことも記憶している。かつての記念館若手のホープは、いまや記念館全体を運営する主役になっていた。<br />　そういえば、シンボルの巨大な黒獅子の石像は記念館の前に広がる広場に移動していた。周囲の住宅は跡形もなく消えていた。若者たちの教育基地としての地位をほぼ完璧に確立していたのである。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　確か記念館の日本人向けのパンフレットの文章を頼まれたことがあった。しかし、２００５年の大改装で展示物も一新してあった。盧溝橋と抗日戦争記念館は、過去の歴史の証拠を現代に伝える教育的価値だけでなく、観光資源ともなっていた。<br />　出版物も多く出していた。以前のものには筆者の「中国の大警告」の贈呈場面も写真で紹介してくれていた。今回も３冊いただいた。筆者も中国語に翻訳した著書５冊と今は倒産した健友館が出版してくれた「平成の妖怪　大勲位　中曽根康弘」を贈呈した。<br /><b>＜無人区も展示＞</b><br />　既に紹介した希望小学校・見才溝小学校のある河北省興隆県教育局長の劉海民から「このあたりは無人区でした」という話を聞いたことがある。其の時「無人区」という聞いたこともない言葉に驚いた。<br />　「それは何のことですか」と問い返した。「日本侵略軍は、河北省山間部の地区に住む農民たち全てを殺害と追放によって、中国人は一人として住めなくしたのです。それを無人区と呼んでいます。日本軍以外住んではならないという意味です」という説明に腰を抜かしてしまった。取材をしようとしたが無人区ゆえに、証言者を現地で見つけることは不可能だった。仕方なくあきらめざるを得なかった。日本軍の生存者でこれを語れる人物が、今もいるのかどうか。もう８０歳か９０歳以上のはずである。<br />　空想する必要などない。無数の無辜の民が理由もなく殺害・追放されていったのであろう。突然に人生を奪われた人たち、特に女子供たちの無念さを考えると、人間としていたたまれない。忠君愛国の論語教育と神社・神道による宗教教育で、とことん「天皇の軍隊」に変身させられ、野獣と化した関東軍にいたぶられ殺害された中国人のことを、今を生きる日本人は断じて忘却してはなるまい。<br />　無人区のことを記念館に展示してあるかどうかを確かめたことがある。関係者は全く知らなかった。「調べて事実であれば展示すべきではないか」と指摘させてもらった。同時に、いい場所に希望小学校を再建できたことに感謝したものである。<br /><br />　副館長を待つ間、日本語で案内をしてくれている館員の張栓中が、大改装した記念館の展示物を急いで説明してくれた。そのさい、無人区のことを尋ねてみた。「ありますよ。展示してあります」といって、そこへと連れて行ってくれた。無人区地図の展示も確認できた。良かったと思った。今日において事実を消し去ることはできない。真実から目をそらさずに、そこから教訓を学んでいくのも人間なのだから。<br /><b>＜李宗遠副館長＞</b><br />　副館長の李宗遠に最近の様子を尋ねてみた。「２００５年に大改築を終えました。みなさんからの桜は、毎年咲いています。陳列してある内容を大分変えました。最新の成果を展示しました。共産党と国民党による抗日戦争、台湾人民の抗日運動も、新たに加えました。記念館周囲の環境も大きく変わりました。改装を１００日間でやり遂げたのです。無人区も展示しましたよ」と語ってくれた。外交学院４年の秀才君が見事に通訳してくれた。<br />　見学者の様子を聞いてみた。<br />　「今年１月から３１万人ほどになります。毎日報告を受けていますが、昨日は６５６人でした。中国人は６割が学生です。外国人はこれまで２０万人ほどですが、大部分が日本人です。最近少なくなっていますが」<br />　改めて記念館の開設時期を尋ねた。「１９８７年７月７日に開館しました。それから１５００万人が見学しています」という答えが返ってきた。７月７日は盧溝橋で日中戦争が勃発した日である。鈴木内閣で歴史教科書問題が起き、続く８６年８月１５日に中曽根首相の靖国神社公式参拝が引き金となって、この記念館は若者の歴史教育基地として誕生したものなのだ。中曽根のお陰である。<br /><b>＜少ない中日韓の青年交流＞</b><br />　小泉がその悪しき後継者となったのだが、さすがに「２００１年からの小泉靖国参拝で日本人の見学は少なくなった」という。小泉効果がまだ続いているのだという。<br />　「北京観光客に宣伝してみてはどうか。中日の観光会社にも働き掛けてはどうか」<br />　「それはほとんどしていません。外国人が利用するホテルなどにパンフレットを置かせてもらっていますが。また日本人留学生の講座を通じて伝えるようにしています」<br />　「日本は今でも近現代史を本気になって教えていません。政府にも問題がありますね」<br />　「確かに日本の教育は少なすぎます。この方面についての知識はほとんどありません」<br />　「ここを見学する日本人の対応はどうですか」<br />　「反発する人はいません。涙を流す日本人もいます。男性は沈黙する人が多い。女性は自分の感想・意見をいいますね。改めて感じることは、まだまだ交流が少ないということです。日本の若者は近現代史がわからない。中韓の若者は戦後日本の平和の道を理解していない。３国の青年交流を活発化して日本軍侵略を勉強してほしいですね」<br /><b>＜鳩山内閣の実行？＞</b><br />　館員の張栓中は若い。２００８年から正式に日本語ガイドになったという。彼は戦後の日本について高く評価してくれた。「日本の戦後は主に平和の道を歩んできた。中国に対しても助けてくれました」と口走った。実際は複雑でそうでもなかったのだが、確かに自衛隊が発砲せずに外国人を殺害しなかった点は評価できるだろう。ただし、それは日本国憲法の賜物なのである。<br />　副館長は花岡事件の鹿島についで、西松建設の中国人強制労働事件に対する最近の前向きな対応を評価した。さらに「鳩山総理は歴史を直視すると言ってくれました。麻生前総理は靖国を参拝しました。東アジア共同体のことですが、私の個人的な考えは中日の歴史を解決しないと困難だと思います。国民感情が重要です。これを乗り越えないと将来の道は険しいと思います。鳩山首相の前向きな姿勢に注目していますが、我々は実際の行動を見ています」とも付け加えた。<br />　言行一致になるのか、それとも不一致なのか。そこを見ている中国といっていい。戦後の「ドイツ」になれるのか、であろう。<br />　「中国人の歴史観は決して厳しいものではありません。しかし、日本側による挑発に対して、それを感情的に受け入れられることは出来ないのです」<br />　真っ当な歴史教育をすれば、問題は解決するというのである。皇国史観など論外というものである。<br /><br />　彼は意外な話をした。アメリカ在住のウイグル族の女性指導者を日本に招いたミズタニという女性と会見したことがあるという。国費留学生として４年間、人民大学で面倒を看たのだが、日本に戻ると、変身して中国批判の中心人物になってしまった、というのである。「恩を仇で返された」と言って笑った。小泉もここにきて「忠怨」と署名した。その意味は靖国参拝で返されたのだ。<br />　それでも小泉の写真は記念館に飾ってあった。<br /><b>＜中国の課題＞</b><br />　現在の中国の課題について聞いてみた。むろん、彼個人の見解だが、改革開放の影の部分を「普通の国民にとって地価（住宅）が高すぎる。給料と消費のレベルが合わなければならないが、あっという間に給料の５倍に跳ね上がってしまった。北京では高いところは１平方メートル当たり６万元もする。政府は土地を売り収入を得ている。農民から買い取って開発業者に高く売るので、住宅価格は高くなる一方である」という。<br />　中国の土地は国有である。業者は国から使用権を購入して開発をするのだが、そのさい、法外な値段で売っているという。腐敗も起きる。こうしたことがどれほど長く続くのであろうか。<br />　「教育・住宅・医療・老人問題・就職問題がとても厳しい。この問題にあと１０年で解決できれば、新しい未来が約束されるだろう」と語ってくれた。<br />　中国もまた政治の舵取りが容易でないのである。筆者の目には日本の状態はもっとひどいのであるが。国民が気付かないか、気付こうとしないだけである。<br />２００９年１１月８日１７時５０分記<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（12）</title>
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    <published>2009-11-13T10:22:21Z</published>
    <updated>2009-11-13T10:23:45Z</updated>

    <summary>＜改憲と東アジア共同体は矛盾＞　中日関係史学会との交流では、とても大事な示唆を受...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜改憲と東アジア共同体は矛盾＞</b><br />　中日関係史学会との交流では、とても大事な示唆を受けた。それは日本の財閥と右翼の政治家・言論人・学者らが連携して、日本の唯一の誇りである平和憲法をたたき潰そうとする野望と東アジア共同体構想の関係についてである。憲法改悪の動きが小泉－安倍時代のように表面化すれば、東アジア共同体構想は進行しない、それどころか頓挫する、という鋭い指摘である。筆者の深刻な懸念でもあり、同感である。共同体は平和と繁栄が鍵なのだ。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　右翼勢力は、これまでも財閥からの隠れた莫大な資金をテコにして世論操作、改憲への潮流を作りだしてきた。ブッシュのワシントンは、公然と日本政府に改憲を働き掛けてきた。「米軍配下として海外派兵する自衛隊」が、ワシントンのお目当てだろう。小泉内閣が戦争法制の制定に突進した背景でもあった。安倍内閣は改憲に向けた若者教育のための教育基本法を改悪し、その後に改憲のための国民投票法を強行、とうとう国会内に憲法審査会を設置した。国家主義が牙をむいた場面だった。<br />　こんなきわどい危険な局面で政権は交代した。これは日本・アジアにとって幸運なことであった。<br /><br />　今回、護憲勢力の社民党が新政権に参画した。このことによって改憲の流れはひとまず止まった。しかし、来年７月以降の動きは不透明である。民主党内の改憲派の動向いかんでは、政界再編論を含めて再び表面化するかもしれないのである。<br />　現に「壮大なる無駄」である軍事予算はほとんど削減対象になっていない。表向きの北朝鮮脅威論を利用しているのである。ここをしっかりと把握していないと、鳩山内閣の友愛政治の本質も見えてこないことを理解すべきであろう。岡田や菅からは改憲論は聞こえてきたことはないが、前原ら政経塾の動向が要注意だ。背後の資金供給スポンサー・京セラの稲盛の判断、そして鳩山や小沢がどう出てくるのか。筆者にもまだわからない。<br />　そういえば松下政経塾の松沢・神奈川県知事は訪米して国防総省高官と会見した後、講演（１０月７日）で前政権同士の間で合意した普天間基地移設での処理をぶち上げて、従来のワシントン服従外交を側面支援した。政経塾として岡田外交にかみついた格好でもある。反共親米を再び誇示して見せたことになる。むろん親米といっても、彼らの相手は共和党右派やペンタゴンに寄り添う政経塾なのである。リベラルではない。<br /><b>＜鍵握る北京とワシントン＞</b><br />　平和を愛する、過去を直視する人々は引き続き警戒を怠ってはなるまい。中国の日本研究者も、そのことに言及したものである。ちなみに、この点を強く指摘したのは苑崇利教授らである。<br />　筆者は最終的にはアジアの判断、とりわけ中国政府と人民の対応いかん、さらには北京とワシントンの出方が、改憲の行方を決定づけると見ている。改憲の先には核軍拡競争が待ち構えているだろう。改めて確認したい。９条憲法は、日本のアジア侵略と不可分の国際政治力学が実現させた、人類の悲願ともいえる最高の条文である。「世界に冠たる平和憲法」（鈴木善幸首相）、「核時代におけるいい憲法」（宮澤喜一首相）なのである。<br /><br />　軍事力を背景にした国際的ビジネスと軍事利権に、あくこともなく執着する財閥と、日本帝国の再現を夢見る一部極右勢力は、こうした国際的な枠組みと政治力学を全く理解していない。日本は平和国家、アジアのスイス化が唯一平和と繁栄を約束してくれることを、この機会に悟るべきだろう。鳩山と小沢も改憲軌道を修正するしかない。そこへと針路を、舵を切るべきなのである。そうしてこそ東アジア共同体は花開くのである。<br />　米国を含め各国と平和友好条約を結ぶ日本である。丁民さんは、生前の後藤田正晴と親しく交流していたが、後藤田も「日本は中立国になるのが一番だ」と語っていたという。筆者と同じ立場である。<br /><b>＜盧溝橋＞</b><br />　随分と御無沙汰していた盧溝橋にある抗日戦争記念館へ出かけた。苑さんの配慮による。車を大学が用意してくれた。通訳に４年の秀才君がついてきてくれた。１０月３０日の９時３０分にでかけた。この５～６年の間、館長が何人も代わった。筆者は９７年に例の「中国の大警告」（データハウス）の翻訳本贈呈で、記念館として相応に評価してくれるようになったらしい。バックに控える北京市幹部らと親しくなった。<br />　その関係で記念館幹部が会ってくれることになった。盧溝橋も久しぶりである。記念館の周囲は一変していた。筆者の御無沙汰がいかに長期に及んでいたかを思い知らされてしまった。近くには小渕恵三が贈呈した友好林もある。<br />　このあたりの風景は大きく変わっていた。それでも再開発は現在も続けられていた。変わらなかったのは、橋の下を流れているはずの川が干し上がったままだったことくらいである。<br /><b>＜学生の生活費＞</b><br />　記念館に向かう途中、傳魏然君に学生の生活費がどのようなものかを尋ねてみた。改めて、行き届いている中国の大学教育に感心してしまった。筆者も毎日利用している学食は、学生らの場合、平均朝５元、昼と夜が７元という。月に食費は４００元から５００元。年間授業料５０００元、寮費が年間１５０元という。<br />彼は来年から院生になるが、院生の授業料は無料、寮費が６５０元である。これもすばらしい。アルバイトをしなくてもいい中国の学生である。語学が上達するわけである。<br />　「地方の大学の授業料は１万元。私立大学は４年間に１０万元もかかるところがある」とも。国立に入れないものは私立か海外留学するしかない。昔は全て無料だったというが、それにしても国立の優遇は別格のようである。<br />　奨学金制度も優秀学生には用意されている。「私は２年間利用しました。年１０００元。返す必要はありません」といった。日本も見習うといい。筆者も奨学金をもらった人間だが、必ず国に返還しなければならなかった。<br />　ついでに住宅事情を聞いてみた。彼の故郷では１平方メートル３０００元だったものが、今は５０００元、北京では２万元、３万元もするという。不動産バブルは地方都市にも伝染している。<br /><b>＜桜は健在＞</b><br />　予定の時刻よりも早く着いた。１０時前後になると、北京でも下り線は渋滞から開放されていた。肌寒い曇り空の天候である。<br />　事務棟に入った。すると昔出会った女性職員が応対してくれた。元気そうで、とても喜んでくれた。「もう結婚はしました」といった。桜のことを尋ねた。「元気にしています」というので、是非見たいと申し出ると、彼女は即座に案内してくれた。<br />　桜のことを話すと、話が長くなる。「中国の大警告」を１００冊贈呈したあとのことである。記念館の最高責任者から資金集めの相談を受けた。資料集めにかかる経費を市民からの献金で賄っていたのだが、当時の北京では財力のある市民は少なかった。そこで海外に協力者を求めていたのである。<br />　筆者は宇都宮さんの会社、JR東日本の労働組合、資本豊かな宗教団体に声をかけた。喜んで応じてくれたのが、JR東労組が加盟しているJR総連だった。宗教団体は応じてくれなかったのが、いまでも不思議に思うばかりである。<br />　平和運動に取り組んでいる真っ当な労働組合は、中国に希望小学校を２０校近く建設、その実績は日本一である。組合員の献金でおよそ１００万円を集めることが出来て、記念館に寄付した。そのさい、彼らは記念の植樹をしたい、とも提案してきた。日中平和交流２１事務局長に交渉してもらうとOKが出た。何がいいか。記念館の方から「桜を」と言ってきた。かくして６本の桜を記念館の一角に植樹をした。<br />　この桜が枯れることなく生きているというのであるから、これはかかわった者にとって感動ものである。<br />　北京は寒い。関東のようではない。桜の最北限のはずである。それでも６本の桜を確認できた。「春には咲いている」という職員の話にほっとした。カメラに収めた。平和労組の思いは立派に生き続けてくれていた。仲介人として、これはとてもうれしいことである。<br />　この労働組合は松崎明という稀有な労働指導者によって、今日がある。右翼や公安当局に追い回されても、決してひるむことなどない。恐ろしいくらいの精神力の持ち主である。平和運動が労組の大事な使命だと信じている。彼によってJRの労働組合は、今も健全さを保持できている。<br />　河本敏夫流に言わせると「１本のローソク」である。<br />２００９年１１月７日２０時４０分記<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」(11）</title>
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    <published>2009-11-12T23:20:41Z</published>
    <updated>2009-11-11T23:21:49Z</updated>

    <summary>＜抗日戦争記念館＞　副館長の李宗遠の執務室に招かれた。顔を見て、彼とはもう数回会...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/jlj/">
        <![CDATA[<div class="main"><b>＜抗日戦争記念館＞</b><br />　副館長の李宗遠の執務室に招かれた。顔を見て、彼とはもう数回会っていることが確認できた。南京大虐殺記念館などでも偶然の出会いをしていた。彼は日中戦争史の学者・日本研究者でもあった。鋭い分析に舌を巻いたことも記憶している。かつての記念館若手のホープは、いまや記念館全体を運営する主役になっていた。<br />　そういえば、シンボルの巨大な黒獅子の石像は記念館の前に広がる広場に移動していた。周囲の住宅は跡形もなく消えていた。若者たちの教育基地としての地位をほぼ完璧に確立していたのである。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　確か記念館の日本人向けのパンフレットの文章を頼まれたことがあった。しかし、２００５年の大改装で展示物も一新してあった。盧溝橋と抗日戦争記念館は、過去の歴史の証拠を現代に伝える教育的価値だけでなく、観光資源ともなっていた。<br />　出版物も多く出していた。以前のものには筆者の「中国の大警告」の贈呈場面も写真で紹介してくれていた。今回も３冊いただいた。筆者も中国語に翻訳した著書５冊と今は倒産した健友館が出版してくれた「平成の妖怪　大勲位　中曽根康弘」を贈呈した。<br /><b>＜無人区も展示＞</b><br />　既に紹介した希望小学校・見才溝小学校のある河北省興隆県教育局長の劉海民から「このあたりは無人区でした」という話を聞いたことがある。其の時「無人区」という聞いたこともない言葉に驚いた。<br />　「それは何のことですか」と問い返した。「日本侵略軍は、河北省山間部の地区に住む農民たち全てを殺害と追放によって、中国人は一人として住めなくしたのです。それを無人区と呼んでいます。日本軍以外住んではならないという意味です」という説明に腰を抜かしてしまった。取材をしようとしたが無人区ゆえに、証言者を現地で見つけることは不可能だった。仕方なくあきらめざるを得なかった。日本軍の生存者でこれを語れる人物が、今もいるのかどうか。もう８０歳か９０歳以上のはずである。<br />　空想する必要などない。無数の無辜の民が理由もなく殺害・追放されていったのであろう。突然に人生を奪われた人たち、特に女子供たちの無念さを考えると、人間としていたたまれない。忠君愛国の論語教育と神社・神道による宗教教育で、とことん「天皇の軍隊」に変身させられ、野獣と化した関東軍にいたぶられ殺害された中国人のことを、今を生きる日本人は断じて忘却してはなるまい。<br />　無人区のことを記念館に展示してあるかどうかを確かめたことがある。関係者は全く知らなかった。「調べて事実であれば展示すべきではないか」と指摘させてもらった。同時に、いい場所に希望小学校を再建できたことに感謝したものである。<br /><br />　副館長を待つ間、日本語で案内をしてくれている館員の張栓中が、大改装した記念館の展示物を急いで説明してくれた。そのさい、無人区のことを尋ねてみた。「ありますよ。展示してあります」といって、そこへと連れて行ってくれた。無人区地図の展示も確認できた。良かったと思った。今日において事実を消し去ることはできない。真実から目をそらさずに、そこから教訓を学んでいくのも人間なのだから。<br /><b>＜李宗遠副館長＞</b><br />　副館長の李宗遠に最近の様子を尋ねてみた。「２００５年に大改築を終えました。みなさんからの桜は、毎年咲いています。陳列してある内容を大分変えました。最新の成果を展示しました。共産党と国民党による抗日戦争、台湾人民の抗日運動も、新たに加えました。記念館周囲の環境も大きく変わりました。改装を１００日間でやり遂げたのです。無人区も展示しましたよ」と語ってくれた。外交学院４年の秀才君が見事に通訳してくれた。<br />　見学者の様子を聞いてみた。<br />　「今年１月から３１万人ほどになります。毎日報告を受けていますが、昨日は６５６人でした。中国人は６割が学生です。外国人はこれまで２０万人ほどですが、大部分が日本人です。最近少なくなっていますが」<br />　改めて記念館の開設時期を尋ねた。「１９８７年７月７日に開館しました。それから１５００万人が見学しています」という答えが返ってきた。７月７日は盧溝橋で日中戦争が勃発した日である。鈴木内閣で歴史教科書問題が起き、続く８６年８月１５日に中曽根首相の靖国神社公式参拝が引き金となって、この記念館は若者の歴史教育基地として誕生したものなのだ。中曽根のお陰である。<br /><b>＜少ない中日韓の青年交流＞</b><br />　小泉がその悪しき後継者となったのだが、さすがに「２００１年からの小泉靖国参拝で日本人の見学は少なくなった」という。小泉効果がまだ続いているのだという。<br />　「北京観光客に宣伝してみてはどうか。中日の観光会社にも働き掛けてはどうか」<br />　「それはほとんどしていません。外国人が利用するホテルなどにパンフレットを置かせてもらっていますが。また日本人留学生の講座を通じて伝えるようにしています」<br />　「日本は今でも近現代史を本気になって教えていません。政府にも問題がありますね」<br />　「確かに日本の教育は少なすぎます。この方面についての知識はほとんどありません」<br />　「ここを見学する日本人の対応はどうですか」<br />　「反発する人はいません。涙を流す日本人もいます。男性は沈黙する人が多い。女性は自分の感想・意見をいいますね。改めて感じることは、まだまだ交流が少ないということです。日本の若者は近現代史がわからない。中韓の若者は戦後日本の平和の道を理解していない。３国の青年交流を活発化して日本軍侵略を勉強してほしいですね」<br /><b>＜鳩山内閣の実行？＞</b><br />　館員の張栓中は若い。２００８年から正式に日本語ガイドになったという。彼は戦後の日本について高く評価してくれた。「日本の戦後は主に平和の道を歩んできた。中国に対しても助けてくれました」と口走った。実際は複雑でそうでもなかったのだが、確かに自衛隊が発砲せずに外国人を殺害しなかった点は評価できるだろう。ただし、それは日本国憲法の賜物なのである。<br />　副館長は花岡事件の鹿島についで、西松建設の中国人強制労働事件に対する最近の前向きな対応を評価した。さらに「鳩山総理は歴史を直視すると言ってくれました。麻生前総理は靖国を参拝しました。東アジア共同体のことですが、私の個人的な考えは中日の歴史を解決しないと困難だと思います。国民感情が重要です。これを乗り越えないと将来の道は険しいと思います。鳩山首相の前向きな姿勢に注目していますが、我々は実際の行動を見ています」とも付け加えた。<br />　言行一致になるのか、それとも不一致なのか。そこを見ている中国といっていい。戦後の「ドイツ」になれるのか、であろう。<br />　「中国人の歴史観は決して厳しいものではありません。しかし、日本側による挑発に対して、それを感情的に受け入れられることは出来ないのです」<br />　真っ当な歴史教育をすれば、問題は解決するというのである。皇国史観など論外というものである。<br /><br />　彼は意外な話をした。アメリカ在住のウイグル族の女性指導者を日本に招いたミズタニという女性と会見したことがあるという。国費留学生として４年間、人民大学で面倒を看たのだが、日本に戻ると、変身して中国批判の中心人物になってしまった、というのである。「恩を仇で返された」と言って笑った。小泉もここにきて「忠怨」と署名した。その意味は靖国参拝で返されたのだ。<br />　それでも小泉の写真は記念館に飾ってあった。<br /><b>＜中国の課題＞</b><br />　現在の中国の課題について聞いてみた。むろん、彼個人の見解だが、改革開放の影の部分を「普通の国民にとって地価（住宅）が高すぎる。給料と消費のレベルが合わなければならないが、あっという間に給料の５倍に跳ね上がってしまった。北京では高いところは１平方メートル当たり６万元もする。政府は土地を売り収入を得ている。農民から買い取って開発業者に高く売るので、住宅価格は高くなる一方である」という。<br />　中国の土地は国有である。業者は国から使用権を購入して開発をするのだが、そのさい、法外な値段で売っているという。腐敗も起きる。こうしたことがどれほど長く続くのであろうか。<br />　「教育・住宅・医療・老人問題・就職問題がとても厳しい。この問題にあと１０年で解決できれば、新しい未来が約束されるだろう」と語ってくれた。<br />　中国もまた政治の舵取りが容易でないのである。筆者の目には日本の状態はもっとひどいのであるが。国民が気付かないか、気付こうとしないだけである。<br />２００９年１１月８日１７時５０分記<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（10）</title>
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    <published>2009-11-12T15:19:35Z</published>
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    <summary>＜前門散策＞　北京の新しい観光スポットとなった前門を、偶然NHKが放映していたの...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜前門散策＞</b><br />　北京の新しい観光スポットとなった前門を、偶然NHKが放映していたのを知った。庶民の街のはずである。東京の浅草のような印象である。それが一変していた。随分と立派な建造物で衣替えしていたものだから、苑さんにおねだりすると、二人の院生を案内役に指名してくれた。張剣、鄭暁蕾両君である。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　大学のイスラム食堂で饅頭と粥を胃袋に入れると、地下鉄・阜成門駅まで歩き始めた。「庶民の街が消えた」とがっかりする市民も少なくないようだが、百聞は一見に如かず、である。地下鉄・前門駅で下車すると、確かに当たり一面整頓・整備されている。<br />　鄭君は北京市出身という理由でガイドに指名されたものらしい。気の毒でならないが、普段は勉強の虫で構内から飛び出すことは少ないのだろう。北京五輪で変わった北京など知る由もないかもしれない。便所を探すのにも、辺りかまわず近くの市民に尋ねるしか方法がないのである。張君はというと、ここいらは初めてなのだから筆者並みのおのぼりさんでしかない。<br />　前門は北京城の真南にそびえている。そこから真っすぐ南に歩行者天国のような広い道路が延びていて、その両側に古い街並みを模した華麗な建造物が立ち並んでいる。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。数日後、中国青年報幹部夫妻の再案内で大分この周辺の通になったが、このときは見事な建造物に見とれるだけだった。<br />　とはいえ、周囲を散策しているうちに庶民向けの店舗を見つけることが出来た。２元ショップといえる店である。なんでも２元である。せっかくだからメモ用のノート、名刺入れ、電話帳などを購入した。鄭君は絵葉書を買ってくれた。感謝感激だった。優しい思いやりに、人間は感動するものである。そういえば、この二人とも１年前に訪問した時も、５人の院生ともども天安門広場や王府井を案内してくれていた。いい将来を祈るばかりである。<br /><b>＜毛沢東記念堂＞</b><br />　辺りかまわず散策していると、胡同（フートン）に紛れ込む。昔ながらの庶民の臭いがふんぷんとして伝わってくる。妙な懐かしさがこみ上げてくるのがわかる。ふと上方を見ると、そこには高層の建物がそびえていた。<br />　前門から天安門に向かうと、すごい人の行列が延々と続いているのが目にとまった。そういえば、地下道から広場に向かう際には手荷物を警察官が検査している。警備怠りなし、という印象を与えている。大行列が毛沢東記念堂に向かっていることを、間もなく確認できた。<br />　今年は建国６０年である。地方からの観光客必見の観光スポットなのだろう。筆者は７９年に大平訪中に同行した時に記念堂に入っている。中曽根訪中ではどうだったか。すっかり忘れている。確か８５年だったと思う。<br /><b>＜天安門近くの便所＞</b><br />　ありがたいことに天安門の左右に大きな便所がある。入口に人々の目が彼方のテレビに釘付けになっている。なんだろうと見上げると、そこは観光客向けのお店で、先頃の国慶節での軍事パレードのCDを宣伝しながら販売していたのである。映像には次々と兵士らの分列行進が軽快な行進曲に合わせて登場してくる。しばし、見とれていると、不思議にも目に熱いものがにじみ出てきた。<br />　なぜなのか？恐らくアヘン戦争以来、列国の植民地になり、ついで日本軍国主義の耐えがたい屈辱と大災害に遭遇、さらに国共内戦へと突入、新中国になっても厳しい苦難を生きてきた人民が、１６０年にしてようやくG2とも呼ばれる大国になった、今や侵略という２字を弾き飛ばした、文字通り大中国になったことへの日中友好派の感慨かもしれなかった。<br />　それは日本の右翼に一喜一憂することのない大中国である。<br />　店の棚に「南京大屠殺」というCDを見つけた。張君に手伝ってもらい購入した。友人への土産である。<br />　便所は奥の方に広がっていた。さすがは天安門そばの巨大便所である。<br />　天安門は観光客で賑わっていた。一目見ると安心する場所なのだ。いつ見ても、何度でもあきない。中国の安定度を測定できる所なのである。<br />　歩いて北京飯店まで来て、そこから左に折れると、有名な王府井である。しっかりと確認したわけではないが、観光客は前門に大分流れているような印象を受けてしまった。ここからバスに乗って大学に戻った。<br /><b>＜公開講演会＞</b><br />　午後３時から筆者の公開講演会を開いた。１００人ほどの学生は階段式のホールに集まっていた。司会を苑崇利教授がしてくれた。通訳は院生の賀君である。JALで数年働いた後、さらなる向学心から院生になって語学力と国際関係・日本問題に取り組んでいるらしい。通訳は初めてという。<br />　筆者があらかじめ用意していた原稿を、賀君が翻訳してくれていたお陰で順調に１・５時間の講演会を終了することが出来た。この機会に上海・復旦大学の先生が、講義のお礼にいただいた龍と鳳凰の刺繍の施されている見事なネクタイをつけた。肖向前先生宅の弔問に用意してきたものである。<br />　既に２０人ほどの院生とは、講義と宿舎での勉強会であらかた顔を覚えていたので、彼らのほとんどが姿を見せていてくれてるのがわかった。「自民敗北と政権交代」について講演、その後に活発な質問を受けた。この中には数人の教官も混じっていた。周永生・日本研究中心副所長もおり、再会を喜んでくれた。彼は現在、創価大に滞在している武漢大の熊教授の友人だった。世間は広いようで狭い。<br />　日本政治・日米中関係などに質問が集中した。実によく勉強している学生たちに囲まれて幸せな時間を過ごすことが出来た。<br />２００９年１１月２日１７時５５分記（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（９）</title>
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    <published>2009-11-12T09:18:42Z</published>
    <updated>2009-11-11T23:19:28Z</updated>

    <summary>＜二人の院生＞　１２時３０分過ぎに学食に入ってみた。勘が当たっていた。既に大半の...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜二人の院生＞</b><br />　１２時３０分過ぎに学食に入ってみた。勘が当たっていた。既に大半の学生は食事を済ませていた。念願のサツマイモを注文した。日本のそれと比べると、中身が黄色でやわらかく、すこぶる甘いのが特徴である。幼い時代を思い出す。両親が小さい畑で栽培、秋にはサツマイモ掘りを何度も手伝った。しかし、澱粉生産向けがほとんどで味はよいものではなかった。そういえば、学食の粥には芋が入っていた。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　午後には院生２年の張剣、楊晶晶両君が部屋にやってきた。彼らは卒論の相談だった。前者は天皇制の問題、後者は日本衰退にからんでの問題を追及・分析をしようとしていた。二人とも野心満々の課題である。筆者には、この二つとも中国の日本研究者のみならず、日本の学者もマスコミも回避しているように感じるものだから、大いに成果を期待できそうに思えた。頼もしい限りである。<br />　特に前者に対しては、日本の学者の全てが右翼に配慮している。真実を報道する義務のあるマスコミさえも逃げているという情けない状態にある。２１世紀の学問がこれでいいわけがない。<br />　筆者の最近の出雲取材などから、天皇族は朝鮮半島からの渡来勢力とほぼ断定できる。彼らは中国から仕入れた鉄文化でもって列島の原住民・豪族を支配下に入れて、天皇中心の歴史を想像したものだろう。古事記や日本書紀はそうして作成されたものとみていい。<br />　朝鮮から仏教と儒教のほか、シャーマンのような神社・神道も天皇族とともに入ったものだろう。出雲に立つと、そのことが明瞭に見えてくる。日本古代史は根本的に書き改めねばなるまい。皇太子妃が占いの神事に抵抗しているとも聞くが、当たり前のことだろう。神事など止めれば問題は解決するはずである。<br /><b>＜外交学院OB&gt;</b><br />　中国外交部OBで肖向前さんと同じ瀋陽出身の劉さんが、わざわざ訪ねて来てくれた。彼は飯田橋にある中日友好会館の理事長を最後に北京に戻ってきた。東京・元麻布にある中国大使館時代、ビザの件でお世話になった記憶がある。<br />　彼がここまで来てくれた理由の一つは、外交学院は彼が卒業した大学だからである。日本語を学んだ源流なのだ。構内の一角は昔のままというから、余計に懐かしさがこみ上げてくるのであろう。<br />　ひとつ予想外だったことは、彼はロビーで身分証明書を預けなければならなかった。外部の来訪者はたとえOBといえども、チェックが厳しいのである。裏返すと、ここにいると安全ということにもなる。ましてや筆者の部屋には赤じゅうたんまで敷いてあるではないか。このこともOBの驚きだった。他面、母校の発展に目を細めていた。<br />　数年前、北京で会ったさい、バブルを心配していた。今回は違った。<br />　「広東省では人手不足が伝えられている」というのである。同省にはアメリカ向けの輸出産業がたくさんあった。金融危機で大量倒産、失業が多く出た。それでいて、もう新たな展開が起きている、というのである。<br />　「都市と地方の格差が財政出動による支援策で購買力が上がっている。穀物も例年を上回っている。低かった発展レベルが幸いしている」「東北の農村を視察してみると、年収８０００元という。かなり豊かになっている」などと語った。<br />　劉さんはバブルへの不安に対して楽観的になっていた。<br /><b>＜東アジア共同体＞</b><br />　鳩山がぶち上げた東アジア共同体構想について彼の見解を質してみた。<br />　彼はやや厳しい見方を披歴した。「体制が異なるということ、そして国民感情・人心をまとめられるのか。日本人の本音はどうなのか。本当にアジアに戻れるのか、アメリカから離脱できるのか」という厚い壁をいくつか並べた。<br />　北京の視点の一つなのであろう。従来、対日政策は自民党とのパイプを介在して形成してきた。突然の政権交代に戸惑う北京なのであろう。従って、こうした懸念が出るのも当然といえよう。民主党に北京パイプがないか、細いのである。<br />　民主党政権はワシントンにも、北京にもパイプがないに等しい。まずは交流と対話、それも頻繁にすることである。<br /><b>＜方向は正しい＞</b><br />　「方向は正しい」ともいった。筆者も、同感である。肖向前さんのかねてからの持論である。日本も中国も、東アジア共同体へと突き進まないと、平和と繁栄が約束されることはない。誰もが承知していることである。しかし、それには日本の努力・条件整備が先行しなければ、なかなかアジアの人民を巻き込むことは無理というものである。劉さんの話を聞いていてそう感じた。<br />　「なぜドイツのように心から謝罪できないのか」「教育であるが、文部省の頑固さにはあきれる。こうした壁を乗り越えられるのか、民主党はこれらを４年の間にできるであろうか」<br />　以上のような課題に果たして民主党は対応可能だろうか。筆者は連立のパートナーである社民党の存在にわずかな期待をかけている。小沢がこれに理解を示すことができるのか。過去を直視する教育が、ドイツのように出来るのか。ここが一番重要のように思える。<br />　彼はいいことを指摘してくれた。<br />　「大平さん（元首相）はわかっていた。いま大平さんのような政治家がいない」<br />　大平正芳の偉大さを力説していた中国の外交官は肖向前さんだった。筆者などは柳の下のドジョウで気付かず、彼に教えられた方である。劉さんも同じかもしれない。<br />　甘いといわれるかもしれないが、外務大臣の岡田克也にやや大平的な手法を見て取れる。<br />　バランス感覚に優れている。基礎的な教養もあり、政策に明るい。勉強家でもある。大平のような寛容さを持ち合わせている、とみたい。池田内閣で官房長官・外務大臣に就任した大平の目標は、あげて田中内閣での決着に向けた布石だった。岡田はどうか。<br />　劉さんはいい話をしてくれた。　　　２００９年１１月２日１１時１０分記（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（８）</title>
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    <published>2009-11-11T23:16:30Z</published>
    <updated>2009-11-11T23:18:13Z</updated>

    <summary>＜院生６人来訪＞　午前中、大学院１年生男女６人が宿舎に押しかけてくれた。願っても...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜院生６人来訪＞</b><br />　午前中、大学院１年生男女６人が宿舎に押しかけてくれた。願ってもない来客である。男女それぞれ３人、語学の天才たちばかりである。日ごろ疑問に思っている課題について次から次へと質問を受け、答えていると、たちまちのうちに昼時になってしまった。ありがたいことに退屈せずに時間を過ごすことが出来た。学生たちは十分ではないものの、多少なりとも認識を深めてくれた。同時に中国の若者の関心がどういうものであるかを、日本人として勉強できた。双方に有益な意見交換の場ともなった。むろん、これは苑さんの知恵でもあろう。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　日本では裃を脱いでの交流を重視する。お互い本音をぶつけ合っての対話である。外交辞令ほど無意味なことはないのだから。裸の付き合いという方法も重視される。いつの日か、日中間の政治指導者もこうした関係を確立できれば、問題を難なく処理することが出来るだろう。民間は当然だろう。<br />　もっとも、日本政治は経済が衰退する過程に比例して政権が安定することがなかった。小泉内閣がかろうじて長期政権を維持したが、これはマスコミに負うところが大きかった。実際の政治は国民生活を不安に陥れているだけだった。<br />　後継の安倍内閣は改憲のための国民投票法を強行制定した。さらに、教育基本法を改悪するなど数の横暴も重なって、参院選挙で国民は反対票を投じた。日本国民が初めて目覚めた証拠で、文字通りそれは画期的なことだった。<br />　その先に、今回８月３０日の総選挙で政権が交代した。投票で野党第一党が圧倒的勝利を収めて、政権を勝ち取った最初の出来事ともなった。日本の民主革命とも言えなくもない。<br /><b>＜日本は金持ち＞</b><br />　学生との対話は、時に意外な、不思議な認識をしていることに出食わすことができる。<br />　その一つが「日本はお金持ち」という２０年前の日本認識が、まだ通用していることだった。国家財政は破綻、もしくは破綻寸前にある。日本政府やマスコミがあまり触れないようにしているからなのであろう。<br />　日本政府の現在は、子供や孫たちの分まで借金をしながら舵とりをしてきている。官僚にコントロールされた自民党政治の、深刻かつ哀れな結果である。もはや隠しようもない実態である。傷ついて息も絶え絶えの子羊でしかない。それなのに、ふさふさとした、借りてきた毛皮を覆って、いかにも健康そうに見せかけているだけでしかない。<br />　それを表からだけ見ている中国人の中には、マスコミの影響でもあろうが、相変わらず「日本は金持ち」と信じて疑わないものもいるという事実を知った。筆者にはとても参考になった。<br /><b>＜なぜ米軍基地＞</b><br />　外国人にとって独立国に外国の軍事基地があるなどということは驚きの一つである。とりわけ中国人には不思議な事柄であろう。日本は独立国、そして国連の分担金もしっかりと納めている。アメリカについで２番目の拠出国である。いざという場合、国際社会で相応の支援を受けられるだろう。だいたい万一の事態など近い将来、予想も出来ないのだが。<br />　「北朝鮮脅威論」が、ためにするものであることは、多少なりとも国際関係を理解している者にとって詐欺的な主張でしかないことがわかる。<br />　戦後の日本はどう見ても半独立国ではなかろうか。「どうして日本に外国の軍事基地があるのか」という疑問は、外国人には不可解なことなのである。筆者も同じ思いである。そう思われないための小さな努力が、政権交代後に起きている。米国との軋轢に屈しない新政権であって欲しい。<br />　自立する、二本足で立つ日本でないと、世界の物笑いの種でしかない。恥を知る日本であらねばならないのである。<br /><b>＜おかしい中国脅威論＞</b><br />　日本が中国を脅威と受け止めている？一体どういうことか。<br />　こうした質問も学生から飛び出した。もっともなことである。<br />　久しく日本はアジア諸国に対して「軍事大国にはならない。専守防衛に徹する」と合唱してきた。そういいながら軍事費大国の代表となってきた。米国から高額な最新鋭の武器を購入、あまつさえ「米国の核の傘」を標榜してきた。<br />　経済衰退しても軍事費のレベルはほとんど変わらなかった。すると、今度は中国の軍事力をあげつらって脅威論を喧伝している。狙いは軍拡予算の確保である。背後の軍需財閥がマスコミなどに国民向けの閃電をしているのであると見るべきだろう。<br />　死の商人への警戒を怠るな、というメッセージなのだ。<br /><b>＜永世中立国＞</b><br />　「日本が先生の言うように永世中立国になれば、アジアに真の平和と安定がもたらされると思う。東アジア共同体も実現するでしょう。でも、東アジア共同体を、と日本政府がぶちあげると、どうしても中国人は真っ先に大東亜共栄圏を連想してしまう」という指摘があった。<br />　このことは、依然として日本に対する中国人の厳しい目を裏付けている。日本の努力不足はドイツに比べると、いかんともしがたい。これを理解せずにいくらすばらしい構想を訴えても、人々は聞き入れてはくれまい。<br />　筆者は２つのことを提案したい。日本の為政者らが自らの心の発露としての南京訪問とそこでの心からの謝罪である。もう１つは近現代史、特に侵略戦争の真実を学校教育でしっかりと教えることである。<br />　どうだろう。鳩山内閣の総理・閣僚の靖国参拝はなくなった。１歩前進に違いない。まだその先が待ち構えている。侵略戦争の負債はとてつもなく大きいのである。<br />２００９年１１月１日２２時０５分記（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（7）</title>
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    <published>2009-11-09T15:00:30Z</published>
    <updated>2009-11-09T14:53:19Z</updated>

    <summary>＜語学の天才たち＞　今日は授業が始まる月曜日（１０月２６日）である。学食に８時ご...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜語学の天才たち＞</b><br />　今日は授業が始まる月曜日（１０月２６日）である。学食に８時ごろの空いている時間を狙って駆け込んだ。学生はどうしているだろうか。興味半々で広い学生食堂に入った。日曜日とは違った。授業開始目前でも学生の姿があった。しかし、急いでいる様子はその仕草を見ればわかる。胃に負担がかかろうが、かかるまいがお構いなしである。授業優先の食事である。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　筆者は学生らの間隙をぬって、粥と麦粉か米粉のパンの間に、ソーセージと卵をはさんだ栄養価の高いのを注文してしまった。それに豆乳２パックである。<br />　ばたばたあたふたと食事をとる学生たちに混じって、ゆっくりと時間をかける自分が許せないのだが、他方で語学の天才らと食事をすることに、ある種の快感を覚えるようなのである。時間厳守に徹する学生は、手に持てる料理を買い込むと、そのまま教室にまっしぐらだ。昔の自分を見ているような感じさえする。<br />　筆者の人生には、こうした語学への取り組みなど想像さえできなかった。語学を活用出来るような人生などは、夢のまた夢だった。それゆえの羨望なのかもしれなかった。しかし、彼らのお陰で今、こうしてここにいることを許されているのである。思えば筆者も不思議な糸に操られているのであろうか。<br /><b>＜翻訳本贈呈＞</b><br />　食後、部屋に戻ると苑さんから電話が入った。「外事弁公室への表敬」という。多くの日本人にはわからないことだが、中国の政府関係機関が外国人を招待する場合、必ずこの部門の了解がないと実現することは不可能なようである。<br />　中国には贈り物の文化がある。しかし筆者にはその能力などないので、東京から中国語に翻訳した５冊の本と筆者の生活を奪った「平成の妖怪」という日本語本を持参、それを外事弁公室主任に贈呈した。喜んでくれるのかどうかは不明である。<br />　主任は前にも紹介した王燕さんである。悲しいかな苑さんの通訳での会話だから、細かい話はできない。英語を少しく勉強していればよかったと反省するばかりである。日本での英語教育の失敗を嘆くしかないし、第一英語を使うと便利だという認識など全くなくて大人になった日本人である。<br />　ともあれ苑さんの働きかけに彼女がOKを出してくれたお陰で北京に来ることが出来た。そして中国外交部OBの最長老・肖向前さん宅への弔問ができたのだから、心から感謝せねばならない。そのことを伝えられなかったのが残念至極だった。世界は小さくなってしまったのだから、語学は戦争のない、対立のない社会になるために、どうしても大事なのである。<br />　肖向前さんの日本語は亡くなるまで健在だった。幸運と実力が重ねあった人生を送ったことになろう。<br />　この日、念願のパソコンが使えるようになった。世界・日本の動きが手に取るようにわかる。パソコン時代は地球のどこにいても時代に遅れることはない。日本語だけでも不便を感じることはないのである。インターネットを発明した人物を知らないが、実に革命的で有益なことである。<br /><b>＜１１時３０分の昼食＞</b><br />　苑さんと一緒に学食に行った。おいしい麺が出ているのを見つけた。それを頼んでくれた。トマトと卵などで出来たスープをかけると、さしずめトマトラーメンである。<br />　早くも学生がかなり入っていた。日本の若者が朝飯を食べないように、中国の学生も太るのを気にして食べないのだとすると、昼飯に殺到することになる。その影響かもしれない。もし、そうだとすると間違いである。脳の働きを低下させるからである。栄養学的には一番まずい習慣といえよう。<br />　間もなくして、苑さんが１１時３０分に食堂に連れて来てくれた理由が判明した。１１時４０分になると、授業の終わった学生で食堂が膨れ上がるからである。案の定、１０分後に筆者のテーブル前に女子学生が立った。彼女の両手には料理がいっぱい詰まった盆を支えていた。<br />　彼女のためにトマトラーメンを急いで食べた。初めての味だが、なかなかいいものだった。トマトは前立腺のがんにいいらしい。健康食品でもある。<br /><b>＜院生に初講義＞</b><br />　１３時１０分から院生向けの講義を担当した。１、２年生である。２３８号教室だ。学生数は２０人ほどだった。外交学院の日本語使いのプロである。みな賢そうな顔つきをしている。真剣なまなざしが筆者の五体を射てくる。これが中国人エリートのたまらなくすばらしい特性である。<br />　新聞記者を辞めた後、６年間ほど教壇にたった経験者にとって、比較できるから胸がドキドキする瞬間なのだ。「２１世紀は中国の時代なのだ」と実感できる場面でもある。むろん、日本の学生にも真面目なものもいるが、そうでない学生がほとんどといっていい。そして教師の質、教え方にも問題がある。<br />　民主党政権下の日米関係という課題をいただいての講義である。学生に混じって苑さんも聞いてくれている。時々メモも取っている。この真摯な態度にはあきれるばかりである。教師が真面目だから学生も大真面目なのだ。<br />　日本の大学の教員は中国で研修するといい。中学・高校の先生も、である。<br /><br />　夕食に苑さんは、学食に比べて一段ランクの高い食堂に案内してくれた。久しく家族のことなども含めておしゃべりしてしまった。お茶の水女子大学で栄養学を学んでいる娘のことも、酒の肴にしてしまった。２人でビールを２本空けてしまった。<br />　この日の夜、パソコンで「北京日記」をスタートさせることが出来た。退屈しないで済む。　　　　　　　　２００９年１１月１日１０時１０分（北京時間）<br /><br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（6）</title>
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    <published>2009-11-09T14:50:46Z</published>
    <updated>2009-11-09T14:51:21Z</updated>

    <summary>＜北京の音楽会＞　苑さんが２枚の招待券をくれた。同夫妻の分を筆者に「是非行くよう...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜北京の音楽会＞</b><br />　苑さんが２枚の招待券をくれた。同夫妻の分を筆者に「是非行くように」という、いつもながらの配慮である。目の前の二人の学生が案内してくれる、というのである。しかし券は２枚である。どうしたものか？「音楽好きはどちら」と聞くと、陳梅君が手を挙げた。「まだ音楽会は行ったことがない」という院生である。決まると、小躍りして喜んでくれている。<br /><br />　１０月２５日午後７時３０分に会場の幕が開くというので、宿舎の国際交流中心のロビーに１時間前に会う約束をした。お目当ては北京音楽庁である。が、どのような音楽を聞かせてくれるのか、筆者には見当もつかない。場所もどこかも知らない。それゆえの陳君の案内である。バスでゆっくり出かけるのかと思いきや、案内人は大学前でタクシーを拾った。天津で１年働いていた成果であろう、なかなか格好のいい服装をしている。音楽会向けと思ってのことだろう。<br />　特別の招待券のようである。値段が書いてあった。６８０元だ。日本円にしておよそ１万円である。中国の庶民にとっては目が飛び出るほどの高額券である。交響楽団の演奏かも知れないと予想した。会場の舞台を見て予想がはずれたことを知らされた。中国の民族楽器による演奏だった。果たして理解出来るものか？<br /><br />　最初はわからなかった。しかし、次第に慣れてくると古典民族楽器の威力に魅せられてしまった。琵琶・胡弓・琴・横笛・太鼓に笙（しょう）という見慣れない楽器も登場していた。西洋楽器のベースも加わっていた。ということは、低温の魅力を醸し出すベースの特別出演ということは、中国の古典楽器には低温のそれがないということなのだろう。<br />　太鼓とベースは男性の演奏者で、それ以外は全て若い美女があでやかな絹のドレスを着こなして演奏していた。映像向けであるのが寂しい感じがしないではない。むろん、だからと言って彼女らの演奏する技能が劣っているというものではない。<br />　琵琶の奏者、横笛の奏者がそれぞれ全体の楽団を率いる場面に聴衆は酔いしれた。<br /><b>＜２回目の経験＞</b><br />　９０年代の初めのころか、北京での演奏会に初めて招かれたことがある。ドイツの交響楽団の演奏だった。中国青年報の徐啓新記者が券を３枚持っていたからである。もう一人は同青年報の孫文清記者夫人の王さんだった。彼女にとって交響楽団の演奏は初めてだった。<br />　交響楽団の演奏はほとんどの人民にとって無縁のものだったようだ。したがって、西洋音楽を聞くようなしゃれた会場などなかった。どこで演奏会を開いたのか、というと、中国のお偉方が集う場所で知られる人民大会堂だった。<br />　こうした音楽会は初めてという聴衆ばかりだから、子供連れも多かった。曲の途中で拍手をしたり、演奏中の咳払いがあったりと、実に騒々しい音楽会だった。<br />　今回はというと、場所が北京音楽庁という本格的な音楽を聞くための会場だった。中央にはパイプオルガンまで取り付けてあった。聴衆も慣れたものだから、筆者もゆったりと聞くことが出来た。<br />　もっとも、デジタルカメラを持参している聴衆も少なくなく、演奏場面を記録するものもいた。陳梅君もその一人だった。<br />　文字通りの古典音楽は物悲しい、それでいて優雅な音色をかなでる曲目がほとんどである。ところが、ラテンやサンバに編曲したものになると、俄然、うきうきするような躍動的な演奏へと変わる。ロシア民謡の編曲もわかり安くて美しくて申し分なかった。<br /><b>＜四川の幸運＞</b><br />　陳梅君の故郷がどこかを尋ねてみて仰天してしまった。かの巨大地震のあった四川省というのである。はちきれそうな明るさと光り輝く目は、人を愛しているときのものである。そこからわびしさ・悲しみを感じることはない。そのはずだった。<br />　「両親とも無事でした。家に亀裂が出来ましたけれど、倒壊は免れた」というのである。親類にも被害は少なかったらしい。ということは、同じ四川省でも幸運な人はいたのである。陳家もその仲間だったのだ。<br />　幸運と不運が混在する人間社会である。誰が決めたものでもないだろう。人生・社会とはそういうものなのである。神仏に祈ってみたところで、どうなるものでもない。だからといって、諦観するのも負け犬のようでいただけない。知恵と努力が人間にはある。特権なのである。<br /><b>＜バブル？＞</b><br />　天津の日系企業の重役秘書をしていた陳梅君は、他の学生に比べて多くの知識や情報を身につけているようだ。その上で「バブルが気になる」と言った。学生仲間が集まると、そうした話題が出ている、というのである。<br />　日本事情に詳しい中国人は「日本のバブルの前兆のようである。心配である」という。他方、「中国と日本は違う。都市と地方の格差が大きい。あるいは土地が国有なので、国の収入も其の分、増えている。そんなに心配する必要はない」という見方も存在している。<br />　とはいえ世界は大不況の渦中にあり、もだえ苦しんでいる。政権の交代はアメリカ、日本、ついでイギリスでも起きるだろう。どこもかしこも元気がない。そんな中で一人気を吐く中国である。これが長続きするだろうか。<br />　筆者は日本の教訓を学んでほしいと希望している。金融政策の失敗が、いうところの中曽根バブルを破裂させてしまった。超低金利政策をやり過ぎて資金を市場にだぶつかせると株と不動産が異常に跳ね上がる。同じ失敗をしてほしくない。<br />２００９年１０月３１日２０時００分記（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（5）</title>
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    <published>2009-11-01T15:29:04Z</published>
    <updated>2009-10-31T00:29:47Z</updated>

    <summary>＜学生食堂＞　昨日のバス旅行の疲れが出たのか、起きるのが遅れて８時少し前に学生食...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜学生食堂＞</b><br />　昨日のバス旅行の疲れが出たのか、起きるのが遅れて８時少し前に学生食堂に駆け込んだ。１０月２５日は日曜日だから学生の姿は少ない。料理を頼むのが楽である。サツマイモの具の入った粥を２杯、それに豆乳を２パックで済ませた。食堂のテレビが大声を挙げていた。客が少ないことを良いことにテレビ観戦する服務員もいた。のんびりとした日曜の学食風景である。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br /><b>＜図書館＞</b><br />　校内を散歩することにした。この大学は北京大学や清華大学などと比べると、キャンパスは随分と小さい。数分で校内の端に到達してしまいそうだ。食堂から図書館までの距離がそうだった。<br /><br />　以前、体調を壊しながら図書館の会議室のような部屋で講演をしたことがある。油断して食中毒を起こしてしまったのだ。福建省出身の祝さんが「今人気の料理」をとってくれた。余りを部屋に持ち込んだ。其の時の部屋には冷蔵庫がなかった。翌日それを食べて中毒になってしまった。薬など用意していない。だいたい食中毒がどういうことかも知らない人間である。結局、ベッドから数十回も便所に飛び込んでやり過ごしたが、実に辛い思いをした。その後の講演だったものだから、終わった後の祝宴にも途中抜け出すしかなかった。食中毒の恐怖は一度体験すると、二度としないものだろう。それほどきつい。<br /><br />　そんな思い出を振り返りながら日曜日早朝の図書館に行くと、ちょうど８時から開館したばかりだった。夜の２２時まで使用できる。既に学生が自習室で本を広げていた。席取りの学生は、周囲に本やカバンを乗せていた。勉強熱心さにはあきれるばかりである。<br />　日本の教室というと、授業中でもまるで雀の学校のように騒々しい。教師がよほどしっかりしないと授業などまともにはできない。荒れている中学校は、高校を経由して大学にも及んでいる。だが、中国の学生はまるで違う。彼らは２１世紀の世界を先取りしているかのようである。<br />　踊り場では語学の発音練習をしている学生が目にとまった。北京大学では校内の中の森で大声を出している姿を見かけたが、都心にある外交学院にはそんな場所はない。窓際の隅で外に向かって発音練習をするしかないのだ。いじらしいようにも思えるが、そのすさまじいばかりの語学への気迫が胸に迫ってきた。<br /><b>＜盆栽＞</b><br />　図書館から正門に出ると、正面玄関前に陳毅外交部長の胸像が建っている。その前を右手にやり過ごして西方の裏手に回ると、低い生垣で仕切った場所になんと盆栽が幾鉢も置かれていた。<br />　最近、イギリスなどで盆栽が流行しているという報道を見た。日本文化がイギリスに花開いているという解説がなされていた。だが、それを北京で見つけてみると、果たしてそうなのか、という疑問府が付く。北京にも日本の盆栽が輸入されたと決めつけるのは、あまりにも強引すぎるだろう。<br />　想像だが、清代以前の中国にはもともと盆栽文化があったのではないだろうか。新中国のもとで一時消滅していたが、改革開放の豊かさのもとで復活したのではないだろうか。これが大学の一角に無造作に置かれていることからすると、筆者の予想が当たっていないとも限らない。<br /><br />　盆栽というと、母方の祖父が大好きで近くの山からほじくり出してきた木々を植木や盆栽にしていた。丹精込めた盆栽は、家族の病人の治療代に消えて行った。戦後の貧しい時代の生活の糧でもあった。しかし、祖父は孫の筆者にも１０本の植木をくれた。中学生のころだ。リヤカーで運んできた。その一部は実家と我が家に１本ずつ残っている。祖父の忘れ形見である。<br /><b>＜再開発＞</b><br />　西門を出て道路を渡り、近くの路地に入ってみた。庶民の臭いのするアパート街である。よく見ると、その４階建てほどの大きな住宅は壁が破損して、中から赤茶けた煉瓦が覗いていた。中国の戦後建設された住宅の壁面に煉瓦が主要な建設材料であったことを、今に伝えている。地震のない北京だからであろう。<br />　これから崩壊して再建される鉄筋コンクリートの高層マンションは、相当な高額な値段で売却されるであろう。このあたりは北京の一等地なのだから。住宅・不動産バブルの不安をよそに次々と建設される大都市の再開発は、いつまで続くのであろうか。<br />　バブルがはじけないことを願うばかりだが、経験者の日本人の目からすると、中国の金融政策は、かなりきわどい場面に立たされていないだろうか。<br /><br />　路地を歩いていると、おばさんが犬の散歩に精を出している姿を見かけた。豊かさの象徴のようであるが、これは日本でもおなじみの光景である。<br />　筆者も実家のある田舎に引っ込んだころ、番犬用にボクサー犬を飼ったことがある。小屋まで建てた。夏には蚊よけのため蚊取り線香まで用意したが、毛の薄い犬には効果がなかった。病気にかかり、かわいそうに最期は保健所に連れて行ってもらうしかなかった。<br />　以来、生き物を飼うことには抵抗するような人間になっている。犬を散歩させる時間があるのであれば、パソコンを打つ方を選びたい現在の自分である。<br />　大学のゲストハウスに戻ると、何人かの学生は両手にいっぱい果物の入った買い物袋をぶら下げて通り過ぎて行った。筆者が学んだ６０年代の終わりごろに比べると、ずっと豊かな中国の学生を印象付けていた。<br /><b>＜昼の学食＞</b><br />　１２時１０分過ぎに再び学食に行ってみた。お腹の調子よりも半分は興味先行である。休日の昼食に学生は食堂に押し掛けているものか。それとも？やはり朝と同じくらい静かだった。筆者の前には５人程度の学生しかいなかった。<br />　おいしそうに見えたいため麺を指差して、これを無事に購入した。服務員は相手が男と見てか盆に山盛りにして出してきた。平らげられるだろうか、という心配である。豆乳を注文するのを忘れたほどである。日本ではソース味に慣れさせられているため、日本人の舌にはいま一、であった。それでいながら全部食べてしまった。残すことにためらいのある世代である何よりの証拠だ。<br />　麺の中にはキャベツや肉の細切れも入っていた。栄養満点である。帰国時の体重が早くも心配になってきた。ここ４カ月ほどの運動で３キロほど減量に成功している。元に戻ることの恐怖である。<br />　中部大学から日本語教師として赴任しているというFさんが「１・５年で４キロ太ってしまった」と言っていたことを思い出してしまった。清東陵見学会でのことである。<br /><br />　周囲を見渡すと、おいしそうなラーメンを食べている学生がいるではないか。隣がよく見えてくるものである。だが、注文の仕方がわからない。あきらめるしかない。第一、もう腹は膨らんでしまっている。別のコーナーを見ると、ふかしたようなサツマイモを出ている。これも今回はあきらめるしかなかった。<br />　思うに人間は生きるために食べる。そのために働く。食を軸に動いている動物なのである。思索などは、付加価値でしかないのか。<br />２００９年１０月３１日８時１５分記（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（4）</title>
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    <published>2009-10-31T00:27:43Z</published>
    <updated>2009-10-31T00:31:10Z</updated>

    <summary>＜清東陵見学＞　北京到着の翌日（１０月２４日）に楽しい計画が用意されていた。大学...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜清東陵見学＞</b><br />　北京到着の翌日（１０月２４日）に楽しい計画が用意されていた。大学の学部主催の研さんを兼ねた交流会のような行事だった。そこに筆者も割り込ませてくれたのだ。日帰りのバス旅行である。行き先は河北省にある、満州族が打ち立てた清朝皇帝の陵墓・東陵である。大学の専門家が案内役という。かなり格調の高い見学会である。朝の７時３０分出発だから、７時に食堂で朝食を取らねばならなかった。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　学生食堂は久しぶりである。土曜日のせいで学生は少なかった。苑さんがあらかじめカードを貸してくれた。以前と違っていちいち現金で支払う必要がない。合理化していたのに最初は面食らってしまった。<br />　スープやご飯を注文すると、係員が手際よく盆に乗せてくれる。同時に計算機に請求額をインプットする、そこへとカードを差し込むと支払いOKである。どこの学生食堂も同じなのであろう。混雑緩和に貢献している。それでも学生が殺到すると、まるで戦場のように騒々しくなる。<br />　初日の学生食堂で豆乳を飲むことが出来た。健康飲料である。<br /><b>＜抗日劇＞</b><br />　バスは天津市を経由して保定市に向かって走り続けた。かなりの距離だ。どのあたりか土地勘がない。バスは高速道路から市道に入った。すごい人だかりだ。青空市場である。休日の市場に人々が殺到していた。<br />　バスが急に速度を落とした。周囲は人の山である。右手に貨物車の荷台が見えた。なんとそこで演劇をしていた。軍服姿の役者が数人立っていた。日本軍・関東軍の兵士であるとわかるのに時間はかからなかった。抗日劇である。<br />　そういえば、近くの交通標識に「抗日戦争勝利記念館」という案内が出ていた。最初、盧溝橋に来ているのかと錯覚してしまったほどである。天津に入っているのだから盧溝橋であるわけがない。まぎれもなく河北省なのだ。建国６０年の年と関係があるのだろうか。<br />　いえることは対日感情の厳しさを裏付けている。民主党政権の閣僚の靖国参拝はなくなった。しかし、政権を追われた自民党総裁らの靖国参拝は強行された。これでは日本印象が良くなることはないのかもしれない。<br />　日本人がやや気にするせいなのか、テレビをつけると抗日戦争や国共内戦のドラマが、どこかのチャンネルで放映されている。<br />　日本の歴史教科書が根本的に改善されない限り、為政者が南京を訪問、そこで真摯に謝罪しない限り、日中の溝は埋まらないのであろう。天皇制国家主義の亡霊が永田町に舞っているようでは、日本の前途は危うい。抗日劇はそんな日本への警告のように思えた。<br /><b>＜風水・皇帝陵＞</b><br />　東陵見学で、これが風水の原理で作られているということを学ぶことが出来た。しかし、肝心の風水が何かわからない人間である。説明から北側の背後や東西の左右に山を抱き、前方の南に河川が流れている場所が、皇帝陵墓に最適な場所ということらしい。<br />　普通の人間は、どうして巨大な墓を作ろうとするのか、壮大な無駄ではないかと、不思議に思うばかりだが、権力者は死んでも権力を維持しようとして、陵墓作りに生きている間から励んでいる。東陵の代表格が乾隆帝の墓である。満族のありったけの知恵と資本を投入した広大な陵墓には、石像を並べたり、４本の華表を設置したりとあきれ返るばかりの幼稚な装置で、威厳と威令を発散させているようではある。<br />　６本の柱からなる鳥居を中国では牌坊と呼んでいる。神道・神社の鳥居の原型なのか。神と人間の境界線である牌坊を現代人には、とるに足りない仕掛けでしかないのだが、封建社会はそれでも相応の政治的効果を生じさせたものか。<br />　仕掛けの一つに竜の頭と亀の胴体の上に乗せた巨大な石碑は、文句なしに芸術的な価値があるのであろう。どうして、こんな芸当が出来たのか、エジプトのピラミッドの建造にも似た知恵を働かせたものであることは確かである。<br />　教えられてわかったことは、明代の皇帝の墓に比べて、清代のそれは浅い所に埋葬している。皇帝の横に皇后の棺があり、さらにその横に貴妃が埋葬されている。棺は皆木製のようだった。<br /><b>＜神仏混交＞</b><br />　乾隆帝の陵墓に入る石の扉には、菩薩が彫られている。ドーム型の天井には仏が彫刻されているのに驚いてしまった。入口の鳥居の中に入ると、神路が長く伸びている。それが一端、陵墓に入ると、そこは仏教の世界である。チベット仏教を信仰していたものらしい。<br />　それは清朝を傾かせた女帝・西太后の棺の周囲もほぼ同じだった。神仏混交なのである。墓地の前方左右には、北京の故宮に似せた荘厳な建造物が建っていたのには驚いた。彼女にとって死の世界も、生の世界と同じような豪華絢爛なたた住まいでの生活を欲していたのであろう。<br />　国の資産をとことん食いつぶした様子が、この陵墓一つで理解できる。愚かな女帝は、石の彫刻に皇帝を意味する竜よりも、自らを象徴する鳳凰を上位に置くという傲慢さにも現れている。<br /><b>＜荒れ果てる文化遺産＞</b><br />　故宮のような西太后の陵墓を飾る豪華な建造物は、きらびやかな瑠璃によって威厳を醸し出してはいたが、盗掘とその後の放置で庭内の石は無残にはがされ、砕け散っていた。中国を代表する木造建築だというのに傷ついたままである。<br />　中国を滅ぼした犯人として人民は、今も忘れていないのだろうか。それが荒んだまま放置されている理由なのか。観光客も少ない。見物客の哀れをさそっている。しかし、清朝およそ３００年の長期政権に比べると、新中国はまだ６０年である。厳しいモラルが政権維持の秘訣だったという見方もある。現代人にそれなりの教訓を投げかけてはいまいか。<br /><b>＜日本研究中心発足＞</b><br />　見学会には、苑崇利さんが風邪で体調を悪くしているというのに、わざわざ筆者に同行してくれた。こうしたやり過ぎる接待に、こちらは申し訳ないばかりなのだが、せっかくの配慮・気配りを断るわけにいかない。しかも、２人の院生までも身の回りの世話やら、通訳に付けてくれた。<br />　ただ、彼からのすばらしいニュースには、我ながら感動してしまった。外交学院に日本研究中心が発足したのだという。むろん、彼の執拗な努力の成果である。同時に石橋湛山研究で博士号を手にした。研究中心主任にも就任した。おめでたが相次いでいたのである。<br />　「苑さんは大器晩成型ですね」という言葉をお祝いにしたほどである。あらゆる人間世界の組織は、いってみればゴマすりの世界である。よほどいい先輩がいないと、実力を正当に評価してはくれない。地味で黙々と仕事に励む苑さんを認めた外交学院に敬意を表したい。<br /><b>＜いい日本人＞</b><br />　夜遅く学校に着いた。夕食にラーメンを食べることにした。外交学院正門前のラーメン店は以前、苑さんに案内してもらったことがある。院生の陳梅・張剣両君が付いてきてくれる。これほど安心なことはない。中国語が出来ない日本人には、レストランに一人で入るのは面倒なのだ。混んでいると、実に厄介であるが、付き人がいればそうした不安は無くなる。<br />　幅の広い麺を取ってくれた。牛肉の入ったラーメンで味がいいのである。量もたっぷりある。このとき陳梅君がいい話をしてくれた。<br />　大学を卒業した後、天津の富士通の合弁会社に就職した。日本人重役の秘書が仕事だった。だが、給料が安くて止めて院生に戻った。さぞかし日本嫌いに違いないと判断して、日本人重役の評判を尋ねてみた。<br />　「いい人でした。彼は南京訪問を履歴書に書いてきた中国青年を採用してくれた。南京大虐殺は事実と思うとも言ってくれた」というのである。富士通は３０００人の従業員を２０００人に削減したというのだが、陳梅君の日本感情に変化はなかった。いい日本人のお陰なのだ。<br />２００９年１０月２９日１２時００分記（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（3）</title>
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    <published>2009-10-31T00:26:18Z</published>
    <updated>2009-10-31T00:26:49Z</updated>

    <summary>＜外交学院＞　９０回目の訪中の機会を、北京にある外交学院がプレゼントしてくれた。...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/jlj/">
        <![CDATA[<div class="main"><b>＜外交学院＞</b><br />　９０回目の訪中の機会を、北京にある外交学院がプレゼントしてくれた。苑崇利教授の思いによるものだが、筆者には、繰り返すようだが、知日派の第一人者・外交部OBの最長老の肖向前先生が「早く来なさい」と呼んでくれたのだと思えてならない。<br />　昨夜、ここを２期生として卒業した劉智コウさんが久しぶり訪ねて来てくれた。彼とは東京の中国大使館勤務時代に少しばかり交流があった。北京では数年ぶりの再会だ。彼によると、外交学院は人民大学から分離したもので、周恩来の強い意向で創立された。「有能な外交官養成」を目的にしたもので、自ら初代名誉院長に就任した。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore">　有名な陳毅外交部長が院長を兼務するなど、今でも外交部直属の高等教育機関で知られる。学生の語学力がすこぶる高いことが、筆者の出番を作ってくれている。確か５冊ほど拙著を翻訳したグループに北京外国問題研究会の関係者がおり、そこで苑さんと彼の先輩と知り合った。著書を通しての不思議な出会いが、外交学院との交流を可能にしてくれたものだ。活字の威力なのかもしれない。<br /><br />　劉さんの話では、外交学院の５６年の創立時は周囲に畑もあった、鉄道も走っていた。「勉強のために録音していると、汽車の警笛も一緒に録音されて泣いたことがある」と懐かしげに母校の初期の様子を聞かせてくれた。「校内には果樹園もあった。リンゴ、ブドウ、梨が採れた」といって目を細めた。<br />　「プロ文革では被害を受けた。陳毅部長は遠慮せずに発言するものだから打撃も強かった。寥承志さんも被害を受けた。一度拉致されて３日も行方不明になり、必死で探し歩いたことが忘れられない。他の大学同様、学院も開店休業に追い込まれた。私らおよそ６０００人は寧夏の教育労働施設に送り込まれた。学院の本格再開は７０年代からとなった。しかし、今からするといい経験でもあった。そうして障ﾅ小平の出番もあったのだから」といって白い歯をみせた。<br />　外交学院もまた、政治の渦中に立たされていたのである。当時の建物のいくつかは、そのままだという。唯一都心に母屋を構える外交学院は、そのうち郊外の広大なキャンパスに移ることになる。<br /><b>＜パソコン持参＞</b><br />　今回、初めてパソコンを持参してみた。息子が変圧器を購入してくれたので「多分、うまくいくはず」と自信をつけてくれた。パソコン専用のカバンまで買ってきたのだから、ひたすら成功を祈るほかない。「これで浦島太郎にならなくて済む」という安心にもつながった。<br />　だが、成田空港（１０月２３日）で予想外の対応を求められた。「パソコンをカバンから出して欲しい」と係官が指示してきた。どうしてカバンから出す必要があるのか。全く合点がいかない。「なぜなのか」と抗議した。すると「赤外線が通らない。そういうルールなのです」と同じことを繰り返すばかりだ。仕方なく応じることにした。<br />　抵抗したのには理由があった。筆者のパソコンにはいくつかの配線がついたままだ。はずせばいいのだが、そうすると北京で接続するさい、わからなくなるかもしれない、という心配である。せっかく北京に持参しても使えなくならないか。だからカバンに入れたまま動かしたくないのだった。<br />　しかし、当局が強引に要求する以上、妥協するほかなかった。恐る恐る静かに取り出し、面倒だが、またゆっくりと元に戻した。若者なら簡単なことも、老いて機器に弱い人間だと、これがすこぶる厄介なのだ。<br /><br />　思えば、こんなに厳しくなった原因は日米同盟の強化と米国のイスラム世界との対立・戦争からである。ワシントンの悪しき世界戦略に関係している。利権や資源略奪がらみの抗争である。９年目に入ったアフガン戦争は、まぎれもなく第二のベトナムそのものである。そこでソ連も敗北した。アメリカの敗北も目に見えている。オバマは利口だから、戦いを止めると思ったのだが、そうはしないらしい。ということは、オバマの先行きは暗い。経済危機と戦争で４年後の再選は厳しくなろう。誰もが予想できる。<br /><b>＜ANA機のサービス＞</b><br />　日本の飛行機に乗ることは滅多にない。高額だからである。しかし、日程に合わせるため、やむなく全日空（ANA）に機上した。本来であれば、座席は空いていなければならない。だが、ほぼ満席である。<br />　理由は、隣席の若い２人の女性グループとの会話から判明した。彼女らは２泊三日の北京観光客なのだが、筆者の高い航空券とほぼ同額だった。彼女らには５つ星のホテルと食事もついていた。ということは、団体観光客には個人の半額程度で航空券を発売していたのである。航空会社と旅行会社の不透明な関係によって座席を埋めているのである。個人は割を食うしだいだ。<br />　イカサマは政治の世界に限ったものではないのだ。役人はルール・規則を断固として押し付けてくるが、民間は相手次第で格差・差別が当たり前ということなのか。真面目人間が馬鹿を見る社会はわびしい。<br />　筆者は機内でのクラシックの名曲を聞くのが楽しみの一つである。美しい旋律の古典は、誰しもが納得できる音楽である。さすがはANAである。小学生や中学生に聞かせるクラシックを用意してあり、たっぷりと聞くことが出来た。交響詩・モルダウはスメタナの作曲である。大いに満足、４時間弱の飛行機に退屈することはなかった。<br />　アルコールはビールを飲んだ後、赤ワインも飲んでしまった。お隣さんも調子を合わせてくれたのも意外だった。大学を卒業してほぼ６年、友人同士で１０日ほど前に北京旅行を決断したのだという。中国は初めて。「友人の友人が北京案内をしてくれる」と実に気楽な旅人たちだった。<br />　機内では健康票が配られた。中国語と英語で書かれている。そのため日本語案内をANAが用意してくれてあった。お陰で間違いのないように記述できた。むろん、新型インフルエンザ対策である。<br />　北京空港は１年ぶりか。上海の浦東空港もそうだが、北京もその都度、拡大しているようだ。広すぎて場所を間違えると大変である。初めて成田にもあるような無人列車に乗り、出国手続きをした。１年前に別れた張剣君が、いち早く筆者を見つけてくれた。<br />　安堵する場面である。出迎えの場所に誰もいないと、今回９０回になるというのに、夜間だとそれでも心細くなってしまう。それが今回はなかった。<br /><b>＜国際交流中心９０３＞</b><br />　苑さんも一緒だった。この人くらい接待が上手な中国人も珍しい。至れり尽くせりという言葉が、普通に口から出てしまうほどである。同じ人間としてこうありたいものだと思うが、筆者のようないい加減な人間には永遠に不可能だろう。<br />　外交学院のゲストハウスである国際交流中心は、もう何度も世話になっている。しかしながら、受付をしている服務員が誰なのか知るわけもない。ところが、パスポートを見せると宗さんという女性は「覚えている」というのである。ロビーの受付嬢も相手を数回見ると、二度と忘れないものか。<br />　部屋は９階の９０３号室である。入って仰天してしまった。広すぎる部屋の床に赤じゅうたんが敷いてあった。苑さんの配慮なのであろうが、数日後表敬した外事弁公室の王燕主任のお陰だった。彼女は英語が専門だというが、実に男なら誰でもほれぼれするような女性だった。冗談ではなくて本気でそう感じた。<br />　今回の幸運な北京の旅を提供してくれたことに心から感謝しようと思う。<br />２００９年１０月２８日２３時２０分記（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（2）</title>
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    <published>2009-10-30T14:13:43Z</published>
    <updated>2009-10-30T14:14:14Z</updated>

    <summary>＜幸運な最期＞　未亡人と娘の話から肖向前さんの最期を聞くことが出来た。今夏に体調...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜幸運な最期＞</b><br />　未亡人と娘の話から肖向前さんの最期を聞くことが出来た。今夏に体調を崩したという。歩行が困難になり、寝室での生活を強いられてしまったらしい。李黙夫人とお手伝いの二人が家庭介護に努めた。家庭介護をしている筆者には、それがどういうことなのかを理解できる。「頭の方は亡くなるまでしっかりしていた」という。しかし、亡くなる３日前に北京病院に入院した。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　家庭介護は病人にとって最高のものである。病院では、どんなに施設が立派でも家庭介護を超えることはできない。その意味では幸運な最期だった。病院で何カ月、何年という患者を見聞してきているが、これは患者にとって実に悲劇なのである。家庭介護に勝る介護はない。<br /><br />　日本に留学して革命に目覚めて、誇れる祖国の建国に生きて立ち会えただけでも幸運だった。革命の途上、どれほどの血が流されたものか。しかも周恩来や寥承志らの先覚者に出会えたのだ。そして、得意の日本語を駆使できる対日外交一筋のような人生を送れたのも、うらやましい限りだった。<br />　筆者が７９年に大平総理大臣に同行して北京を初めて訪問した時、彼は外交部アジア局長として大平接待の現場責任者だった。文革時の苦労が花開いた時期である。中国革命の末席に加わったこと、完結した語学力を自在に駆使して、「永遠の隣人」として対日外交を主導した幸運を、誰もが共有できるものではない。<br />　最期を家族の見守る中で、９１年に及ぶ長い革命と建国人生に幕を引いたのだから、お見事といっていいだろう。我もまた見習って、あと２４年の人生をペン一本で生きようと思う。<br /><b>＜宇都宮さんの横顔に似る未亡人＞</b><br />　李黙夫人の横顔をみると、不思議と宇都宮さんとそっくりである。格好の良い目鼻立ちである。若いときは相当の美人であったことが想像できる。娘の肖紅さんは、両親の良いところだけをいただいている顔立ちである。婦女連合会の旅行社幹部のはずである。<br />　いつもいるはずの三女の姿が見えなかった。告別式で用いた遺影は６０代のものだった。以前、サイマル出版から「永遠の隣人として」を出版しているが、これに使った写真が正面に花輪と共に飾ってあった。遺影に両手を合わせた。<br />　筆者はいつも座るソファに腰を下ろした。肖向前さんの座る場所に、今回は張剣君が占拠した。何もかもが１年前と同じである。節約のためか故人を弔うためか、居間の電灯がついていなかった。主を失った部屋の空間は薄暗かった。喪中のためか娘も黒い洋服で身を包んでいたせいで、一層周囲を暗くしていた。<br />　７２年にLT貿易東京事務所勤務のことを聞くと、心なしか未亡人の表情がほころんでいるような印象を受けた。これからは、昔の楽しい思い出が彼女の栄養となろう。介護疲れを癒せば、また元気を回復するはずだ。大きくなった孫たちのために長生きしてくれるだろう。筆者の母も９１歳になったが、昔の楽しい話題だと表情を崩したりする。<br /><b>＜地味な告別式＞</b><br />　告別式を亡くなった北京病院で行った。中国での告別式を知らないが、病院でやれるというのは遺族に便利だろう。江沢民時代の外交責任者だった唐家旋、現在外交部副部長の武大尉さんらが参列したという。派手な告別式など故人に似合わないし、第一望んでもいなかったろう。静かなひっそりとした、すばらしい告別式だったに違いない。<br />　北京外国問題研究会の宋さんに電話をすると「知らなかった」と言っていた。７２年当時の対日外交を担当した最後の戦士の生涯について、少し寂しいと思う人もあろうが、存外本人はこれで満足だったはずである。遺族の意向でもあったのだろう。<br />　日本大使館で勤務した丁民さんは、筆者の弔問を告げると「御苦労でした」と言葉をかけてくれた。<br /><b>＜知日派最長老にご苦労さん＞</b><br />　温州市から外交学院に入った院生の張剣君は、少しばかり興奮していた。人生で最初の大きな経験だからである。経験が人間を大きく成長させていく。経験の積み重ねが、さらなる経験を処理する力・原動力となるのである。<br />　日本には社会経験がないか、乏しい総理大臣が次々と誕生してきている。人民の心をつかめないのだ。７２年の国交正常化時は、日中双方とも苦労人がそろった。田中角栄は高等教育を受ける機会がなかった。大平正芳は早朝、田んぼの稲刈りをして通学した。中国は革命家ぞろいの苦労人だった。波長が合ったのだ。<br />　久しくこうした人間関係はなくなってしまった。教科書や歴史認識で揺れた。右翼台頭の森内閣以降では、靖国問題も加わって事態は急変してしまった。だが、右翼政権は内政の失政で民主党にとって代わられた。リベラルな政権である。<br />　人脈的にも田中―大平ラインに近い。ここしばらく両国関係がきしむことはない。安心して別の世界に旅立ったのであろう。「御苦労でした」と中国の恩師に声をかけようと思う。<br />２００９年１０月２７日２１時３０分記（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「北京日記」（１）</title>
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    <published>2009-10-29T13:03:03Z</published>
    <updated>2009-10-29T13:05:01Z</updated>

    <summary>＜故肖向前先生宅弔問＞　外交学院の苑崇利教授のお陰で、１０日前に逝去した肖向前先...</summary>
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        <![CDATA[<div class="main"><b>＜故肖向前先生宅弔問＞</b><br />　外交学院の苑崇利教授のお陰で、１０日前に逝去した肖向前先生の自宅を弔問のため訪問することができた。院生の張剣君が通訳兼案内人を買って出てくれたからだ。大学から安定門へとタクシーに乗ることが出来た。東京と違って北京のタクシーは混んでいる。つかまえるのに一苦労する。それを院生が難なく処理してくれた。紹介すると、筆者の人生の先生は、９３歳で亡くなった宇都宮徳馬さんと９１歳で天寿を全うした肖向前先生の二人だけである。<br /></div>
<div class="main">　人生の師を得るということは、奇縁と幸運によるものだろうが、二人の師匠があの世に旅立ってしまった現在、いよいよ自立本番を迎えたことになる。二人からいただいた知識・経験に自己のそれを加味して、社会や後輩たちに少しでも提供する義務がある。外交学院に招かれたのも、その一環であろう。思えば二人のお陰で、今ここ北京にいる。そして肖向前宅の近くまでやってきた。<br />　もう二度と会えないのだと思うと、そして「いらっしゃい」と二度と声をかけてくれることがないのだと認識すると、足早に故人宅へ行く気分になれない。重い足取りで、ともかく先生の家に入った。<br /><b>＜肖紅さんが出迎え＞</b><br />　二女の肖紅さんが近くまで迎えに来てくれたからである。便利なもので、あらかじめ張君が彼女に携帯で知らせたのだ。<br />　一目見て、娘にとって父親の大きな存在を証明していた。彼女と会うのは５年ぶりか、それ以上かもしれない。そのころと違ってひどくやつれていた。年齢に関係なく身内を失うことは、残された家族に筆舌に尽くしがたい苦痛と悲しみを与える。<br />　我が家も経験した。息子の医療過誤に、当時は妻が１０キロも、筆者もズボンが急に太くなった。心労が、それまでの健康人を容赦なくいたぶるからである。食欲もなくなる。何もかもが空しくなる。生きる自信さえ失いかねない精神状態に追い込まれるのである。<br /><br />　父親を尊敬してやまない彼女は孝行娘だった。それでいて筆者は「ともかく時間をつくって元気な姿を見せなさい。それが最高の親孝行なのだから」と何度もメールで叱咤激励してきた。いわれなくても、彼女は娘として実家に足を運んでいた。帰るときは、必ずブログに掲載した拙文をコピーして父親に届けた。父親は９０歳になっても、それを読んでくれていた。<br />　誰ひとり読んでくれなくても、筆者はそのことでペンを走らせるだけの意味があった。彼は「あんたは中国の真の友人だ」との一言を、拙文を目に通すことで果たしてくれていたのである。中国きっての知日派最長老のこうした気配りには、ひたすら頭が下がるばかりだ。<br />　拙文は５０年、１００年先への遺言との思いで書いてきた。今後も続けてゆくのだが、繰り返すが誰もが無視してくれる拙文を、先生はしっかりと読んでいてくれていたのである。将来、自身がそんな人間になれるだろうか。心もとない。<br /><b>＜李黙未亡人と対面＞</b><br />　主のいなくなった居間はいつもより狭くなっていた。数年前までは玄関で迎えてくれた先生に代わって、１０日前に未亡人となった李黙夫人が現れた。無理して、以前と同じように振舞おうとする姿が理解できるだけに、胸が痛くなるほど切なく辛い。いっそのこと泣きじゃくってくれている方が、よほど弔問客を安心させるであろう。しかし彼女は厳然として、そうした態度を拒絶するかのように筆者の手を握ってきた。<br />　未亡人とは１年ぶりの対面である。介護と心労で容赦なく痛めつけられている人生最大のヒロインを演じさせられている、この家の新しい主人に向かって、張剣君の口からお悔やみならぬあいさつをさせてもらった。<br /><br />　「今回、こうして弔問できたのも、肖向前先生が愛してやまない周恩来総理が名誉院長として創立した外交学院が招待してくれたお陰です。先生が外交学院を動かして私を呼んでくれたのかもしれません。奇しくも９０回目の中国訪問となりました」<br /><br />　１０年ほど前から先生は東アジア共同体構想の実現を訴えてきた。筆者の耳にタコが出来るほど、それは叫びに近かった。EUや北米経済圏に勝るとも劣らない東アジア共同体が、アジアの平和と安定に貢献するだけでなく、繁栄をもたらすことになることが確実だからである。したがって「ASEANプラス３」で、これを実現することが関係各国為政者の２１世紀の使命である。こうした主張に異論などあるまい。<br />　確かに現実の壁は厚い。EUとは違う困難さを伴う。だが、その壁を「越えよ」と真摯に叫ぶ中国外交部OBにうなずくほかなかった。戦争のない繁栄するアジアへの限りない挑戦を後世に訴えている。<br />　登山家はそこに山があるから登るのだという。政治もそこに理想がある限り、挑戦するしかない。そう言っているようだった。壁こそが政治の醍醐味というのである。人類に貢献するのであれば、汗をかき続けるしかない。そうして壁を乗り越えられるのである。<br />彼の信念は、７２年にLT貿易の東京事務所に舞い降りて、難関だった日中の国交を正常化させた実務経験に裏付けられている。周恩来―寥承志ラインによる対日工作の先兵となって熱い扉をこじ開けた実績が、次なる東アジア共同体構想へと走らせているのであろう。<br />　宇都宮さんもそうだったが、肖向前さんもアジアへのあくことのない情愛が見てとれるのである。欧米先進国に、さんざんかき回されてきたアジアを立て直すための必殺の技とでもいえる一大戦略、それが東アジア共同体論なのだった。くしくも、この日のタイで開かれた東アジアサミットで鳩山首相が、これへの理解と協力を訴えていた。<br />２００９年１０月２７日８時０５分（北京時間）<br /></div>]]>
        
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    <title>本澤二郎の「日本の風景」（２９４）</title>
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    <published>2009-10-27T15:22:12Z</published>
    <updated>2009-10-27T15:23:19Z</updated>

    <summary>＜ああ肖向前先生＞　中国外交部きっての知日派第一人者で、同OB最長老の肖向前先生...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/jlj/">
        <![CDATA[<div class="main"><b>＜ああ肖向前先生＞</b><br />　中国外交部きっての知日派第一人者で、同OB最長老の肖向前先生が１０月１５日肺炎で亡くなった。９１歳の長寿を全うした幸運な革命外交官だった。筆者にとって日本の先生は宇都宮徳馬さんで、中国の先生が肖向前さんだった。前者は９３歳で旅立ったが、共に馬年（午年）で後者は一回り下だった。二人とも馬が合った。生きていれば田中角栄さんも９１歳だ。７２年の戦後日本外交史を飾る日中国交正常化に命をかけた面々でもある。今頃彼方で宇都宮さんと再会して好きなビールで乾杯いるころだろう。<br /><br /><br clear="all" /></div><a name="more"></a>
<div class="mainmore"><br />　偶然だが、間もなく９０回目の中国訪問を迎える。北京は今年初めてである。外交学院がその機会を提供してくれた。周恩来総理の指示で誕生した外交官養成大学で、陳毅外交部長が初代院長という歴史を担っている名門大学である。<br />　１年ぶりに肖向前さんにお会いしようとして二女の肖紅さんにEメールを出して様子を尋ねたのだが、その返信が「父は亡くなりました。２１日に葬儀をします」との衝撃的な知らせだった。<br /><br />　今回の訪問中に果たしたい要件は、大学での講義・講演のほかに見才溝小学校と肖向前宅の訪問を想定していた。ところが前者の廃校を知ってがっかりしていた直後の、中国の恩師の逝去が追い打ちをかけてきたものだから、何か運命的なものを感じないわけにはいかない。先生は外交学院を通して「会いに来い」と連絡してきたのだろう。自宅を訪問すると、いつもにこやかな表情で「いらっしゃい」と喜んで迎え入れてくれる姿を２度と目にすることが出来ないのかと思うと、たとえようもなく辛く悲しい。<br /><b>＜中国の大警告＞</b><br />　７２年当時、周恩来―寥承志チームの先遣隊として東京で活躍していた肖向前さんの姿を知らないが、８０年代に中国青年報記者が北京で交流の機会を作ってくれた。其の時彼は「早坂茂三さんと会ったばかりだが、これから小沢一郎の時代と言っていたけど、あなたはどう思うか」と質問してきた。早坂氏は筆者が勤務していた東京タイムズ政治部の先輩で、その後に角栄秘書になった。<br />　同氏が小沢指南役を買っていたことを裏付けているが、早坂予想は２０数年後に実現したことになる。<br />　その後、肖向前さんと宇都宮事務所で鉢合わせたことがある。日本訪問時、必ず宇都宮さんと会見していたのであるが、筆者と親しくなったのは９７年２月のことである。きっかけは一冊の本だった。「中国の大警告」（データハウス）である。<br />　戦後５０年の９５年に５０人の仲間を引率、南京と盧溝橋へと平和の誓いの旅を断行したことなどを、９６年にまとめたものである。この本の概要を光明日報が報道した。すると現在清華大学教授をしている友人が自宅に電話してきた。「翻訳出版したい」との申し入れである。<br />　９７年１月に完成、１００冊を盧溝橋の抗日戦争記念館に贈呈した。当時、長男の春樹が北京大学に留学していたので、息子の案内で今の北京では見られない中古の小型タクシーで記念館の贈呈式会場に飛び込んだ。新聞やテレビが取材してくれた。この本を肖向前さんは日本訪問中の機内で読み切り、自宅に何度も電話をしてきた。最初は九州からだった。恐らく日中協会の野田毅理事長が招待したものだろう。何度目かにようやく自宅で受話器をとった。<br />　日中平和交流２１事務局長の案内で、東京の滞在先の赤坂プリンスホテルで再会した。「本澤さん、あなたは中国の真の友人だ」という破格の言葉が肖向前さんの口から飛び出した。このときから筆者は宇都宮さんがそうしてくれたように、彼の懐の奥深くに入れてもらった。中国問題の先生が日本と中国に誕生したのである。<br /><br />　以前の彼の家は王府井近くの歴史物の四合院に住んでいた。広い書斎を覗くと、なんと拙著を飾ってくれていた。開発でそこを追い出されると、安定門のマンションに移った。国子監のそばだ。以前と比べると、狭い書棚になっても拙著を置いてくれる配慮をしてくれていた。筆者のことを一番理解してくれた中国人の先生だった。<br />　思えば宇都宮さんは亡くなるまで、持てる知識・知恵を惜しげもなく吐き出して教えてくれた。中国の肖向前さんも筆者ごときをとことん信頼して、日中やアジアの将来、国際情勢を分析、披露してくれた。今の自分は、幸運にもこの日中の巨人に全てをいただいてきたことになる。<br />余談だが、この「中国の大警告」を胡錦濤さんも読んでいた。外務大臣になる少し前に小渕恵三さんは、北京の人民大会堂で中国副主席から、直にこの本の紹介と説明を受けていた。<br /><b>＜偉大な大平正芳＞</b><br />　７２年に政治部記者になった筆者は自民党大平派を担当した。佐藤後継の総裁選挙で自民党は燃え上がっていた。年中大平さんのそばで実直寡黙な大平正芳という政治家を見聞していたが、彼の本当の力量を知らないまま過ごしてきた平凡なジャーナリストだった。<br />　「偉大な日本の国際政治家」「日本の戦前戦後における第一級の国際政治家」という真実を教えてくれたのは、なんと中国の外交官生活を送ってきた肖向前さんだった。侵略戦争で深く亀裂が生じた日中の溝を埋めるという歴史的・政治的和解に、大平さんは政治家としての全てをかけてきたという秘話を語ってくれたのは、中国きっての知日派外交官だった。<br />　池田勇人内閣を作り、官房長官・外務大臣になったところから、すなわち６０年代から日中国交正常化に向けた布石を打ってきたのである。遠大な目標を田中内閣を実現、自ら外務大臣になることで見事に達成した。その経緯を教えてくれたのである。<br />　筆者が初めて中国の大地を踏んだのは７９年１２月の大平訪中だった。前年に障ﾅ小平が実権を握り、改革開放政策が動き出していた。そこへと大平さんはODAを大々的に導入した。昇竜へのエネルギーを注入したのも大平さんだった。こうした経緯を中国最長老外交官は昨年会った時も話してくれた。日本はかろうじて大平さんのお陰で、中国人の理解を得ることが出来たものである。<br />　国際政治家・大平さんに感謝するとともに、そうした大平外交を熟知してくれた中国外交官の存在に敬意を表したい。いつの日か、このことを多くに日本人と中国人が知ることになるだろう。<br /><b>＜宇都宮徳馬への感謝＞</b><br />　日中正常化はむろん、一握りの人たちで実現したわけではない。戦後を生きた政治家・財界人・言論人・民間人らの成果である。わけても宇都宮さんの努力は、人知れず群を抜いていた。対米工作である。ワシントンに操作されてきている東京という現実に、風穴を開けることが、その決め手となるからである。<br />　宇都宮工作はここに集中した。アメリカの議会を動かすことだった。肖向前さんが宇都宮さんを尊敬した理由であろう。彼は訪日すると、必ず四谷の宇都宮事務所に顔を出した。<br />　それは当人が病に伏していても変わらなかった。９３年の生涯を終えようという場面でも「是非会わせてほしい」と筆者に懇願してきた。何度も宇都宮家と接触したが無駄だった。このときは、間に立った筆者も辛かった。恐らく宇都宮さんの容態がどうであれ、肖向前さんは耳元で「ありがとう」と日中の懸け橋となった同士にお礼を言いたかったのであろう。<br /><b>＜田中真紀子に贈呈本＞</b><br />　小泉内閣の外務大臣に就任した田中真紀子さんは、晴れて北京を訪問した。彼女は要人らとの会見の場で肖向前さんの様子を尋ねた。父・角栄を知る唯一の中国人だからである。彼女の気配りはさすがである。すると要人はなぜか「病気で入院している」とうそをついたらしい。彼女は「それなら病院に見舞いに行きたい」とせがんだ。<br />　結局、彼女は電話で会話をすることができた。其のしばらく後に筆者は肖向前宅を訪問した。すると彼は、電話のお礼に執筆したばかりの論文の掲載されている雑誌に署名すると「これを真紀子さんに届けて欲しい」と頼んできた。二つ返事で応じた。<br />　ところが、官邸と霞が関の間で抗争が始まっていた。時間がとれない。やむなく議員会館の田中事務所に持参した。ところが、この秘書が本人に渡していなかった。秘書が解雇されたりしていた頃である。無念にも「子供の使い」となって、とうとう依頼者の要望を果たせずに終わってしまった。<br /><b>＜水より安いビールで乾杯＞</b><br />　安定門のマンションを訪ねると、近くのレストランに決まって案内してくれた。筆者が金と縁が薄いことを承知しているらしく、昼飯を食べながらの談笑である。このときは夫人と三女も一緒だった。右の耳が遠くなっていた関係で、必ず左側の椅子に座った。<br />　心憎い配慮は毎度のことだった。<br />　宇都宮さんもビールが大好きで、議員会館事務所の冷蔵庫にはいつも青島ビールが冷えて出番を待っていた。夕刻事務所を覗くと、秘書に缶ビールを運ばせて乾杯したものだったが、肖向前さんは「中国のビールは水よりも安い」といって何度も乾杯しながらおしゃべりに花を咲かせた。<br />　昔の中国ビールは健康的でもあったが、冷えてはいなかった。現在は冷えたビールに人気が集まっている。世界のビール会社が競争している中国である。<br /><b>＜東アジア共同体への夢＞</b><br />　肖向前さんの晩年の夢は「東アジア共同体」をASEANプラス３（日本・中国・韓国）で立ち上げることだった。そうすることでアジアはＥＵ圏や北米圏に対抗して繁栄できるという夢だった。<br />　政治・経済・安全保障などでの緩やかな連携こそが、アジアの平和と安定と繁栄を確保できるとの認識である。むろんのこと、ワシントンに引きずられるだけの東京にいらだちを抱いていた。中国と日本が手を結んで協力すれば、アジアは繁栄するという信念は常に揺らぐことはなかった。<br />　だから、この理想を打ち砕こうとする日本国総理大臣の靖国参拝に対しては、激しく反発した。中国人民が断じて妥協を許さない靖国参拝が、友好の絆をぶち壊してしまうからである。今日本も政権の交代が実現、靖国参拝政党は沈没した。のみならず東アジア共同体実現をスローガンに掲げる政権が誕生した。安心して旅立ったのであろう。<br />　「日本軍国主義者・中曽根康弘」のレッテルをはがすことに汗をかいた肖向前さんは、彼の８・１５靖国参拝に対して「面白い人・風見鶏」という見事な評価を下した。さまざまな話題を何度も話し合ったが、その口から毛沢東の言葉を聞くことはなかった。文化大革命で打撃を受けたはずだが、そのことを話題にすることもなかった。<br />　驚くべきは９０歳になっても新聞や雑誌を読みこなして、世界とアジアのすう勢に神経を使っていた。そして得意の日本語も衰えようとしなかった。<br />　人生はいい人に会えるかどうか、が決定的な意味を持つ。筆者は日中双方の偉人に出会えて幸せだった。二人とも本物だった。彼らの意思を伝え、広めることが、これからも大事な仕事なのである。そう思うと、悲しくてしぼんでしまうことは許されない。<br />２００９年１０月２２日１８時５５分記<br /><br /></div>]]>
        
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