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2009年8月11日
編集局からの手紙 25「裁判員裁判について」:今西富幸
全国初の裁判員裁判となった「東京都足立区の隣人女性殺害事件」の判決がこのほど、言い渡された。懲役16年の求刑に対し、下された結論は懲役15年。この結果を知り、わたしはひとまず、動き始めたばかりのこの制度に前向きな評価を下そうと思った。この欄で裁判員制度について書いた三室委員の結論とは異なる意見になるけれど、その理由を説明する前に少しばかりの寄り道をお許しいただきたい。
わたしが新聞社の司法記者をしていたのはいまからもう15年近くも前のことだが、そのころいまは退官した井垣康弘判事と知り合った。神戸連続児童殺傷事件の少年審判を神戸家裁で担当されただけでなく、日本の司法制度にさまざまな風穴を開けた"改革判事"として知られているひとだ。
その改革のひとつが、神戸連続児童殺傷事件における情報公開だった。判事は、当時はまだ非公開が原則だった審判の決定要旨を、加害男性の養育歴や精神状況にも踏み込んで公表した。社会的な耳目を集めた事件の少年審判では前例のない扱いだったが、それもいまでは少年審判の決定要旨は公開されるのが「常識」になった。また、加害男性が医療少年院に送致されたあとは「一生をかけて罪を償ってほしい」と、犠牲になった少女の母親の手記を読むよう熱心に勧めたのである。
さらに時代を遡れば、判事が大阪家裁岸和田支部に勤務されていたころ、わたしが在籍した新聞の大阪版で「裁判所の窓から」という連載が実現したことも、そうだろう。裁判官が新聞に寄稿することなど考えられなかった時代である。これは当初、判事ひとりで書いてもらうつもりだったが、結果的に4人の弁護士との持ち回りになったのは、最高裁に決裁を仰いだ判事から「連載が可能かどうか、答えが出るまで最低半年はかかるそうですよ」という裁判所の驚くべきシステムを打ちかえされたからだった。
そんな判事と顔を合わせるたび、わたしは将来に実現することになるかもしれない「市民参加型の裁判」についてよく話を聞かされたものだった。判事がそこまで市民参加型の裁判の実現にこだわったのは、法律の専門家であるがゆえの、職業裁判官だけでは見落としがちな欠点を「市民」の視点を導入することで克服できるはずだと考えたからにほかならない。
実際、司法記者を担当していた約4年間、わたしは本来果たすべき役割の低さから「2割司法」とまで揶揄された裁判所システムの「常識」の多くが一般社会の「非常識」であることを痛感させられた。たとえば、暴力団幹部が被告のある裁判では法廷に入りきれないため傍聴席に多くの部下が立ったままでいるのを事前に排除せず、そのまま暴力団の威力に屈したかのような前代未聞の審理をした裁判官がいた。あるいは、民事裁判の判決の中身がどう読んでも理解できなかったため、裁判官室に赴いて質問をぶつけると、「裁判官は書かれた判決以外に話すつもりはないそうです。どう読むかは記者さんの判断にお任せするとのことです」という答えを、本人ではなく広報部を通じて打ち返されたのをいまでもなかばあきれ返った感覚とともに覚えている。
「市民参加型の裁判」とはたとえば、このような裁判官の感覚を正すための方向としても決して間違っていないと思うのだが、いかがだろう。ただ、最大の問題はこの制度がまだ充分に浸透しないうちに見切り発車してしまった点にあるとわたしは考えている。つまり、市民参加という号令のもと、この制度への参入をなかば強制的に国民に強いる印象だけが一人歩きしてしまっているということだ。制度のスタートまでに最高裁はもっと国民への情報共有を真摯に行うべきだった。
この結果、三室委員が指摘したように、この制度に参加したくないと答えた国民は全体の8割近くにも上ることになった。なにもわからない司法とかかわりになるのだけはご免こうむりたいという意識の表れに違いない。一種の恐れであり、当然の感覚だろう。しかし、この結果をもって、裁判員制度が望まれていないと断するのは早計である。いうまでもなく、裁判員に求められるのは司法に精通した知識ではなく、まさに一般市民の感覚なのだから。法律の素人でいいのだ。
さて、ここで冒頭の話に戻ると、これまでの裁判では求刑の「8掛け」がいわゆる判決の相場とされていた。したがって懲役16年の求刑に対し、懲役12、13年というのが妥当なところだろう。しかし、今回、それを上回るより厳しい結果を裁判員は選択したことになる。もちろん、裁判員の懲罰感情だけを増幅させる審理は論外だが、これまでの判決に比べ、市民感覚がより如実に反映された判決だと思った。
「終わってほっとしたというのが正直な気持ち」とは、審理を担当したある裁判員の判決後のコメントである。わたしが現時点でこの制度に前向きな評価を下すことにしたのも、すべてはこの声を新聞で読んだからである。ひとを裁く怖さと同時に、より慎重な審理を行わなければならないという、いい意味での心理的な負荷がこの言葉に見事に結実しているのではないだろうか。全身全霊の審理であったと信じるに足る言葉だ。今後の裁判員裁判の審理を注意深く見守っていきたいと思う。
2009年8月11日 21:39
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