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今西富幸の「思考する読書」

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2009年8月 8日

コラム「風」 No7「書き続けることの意味」:今西富幸

 H氏賞といえば、詩の世界では最も人口に膾炙した賞だ。だからというわけでもあるまいが、「詩壇の芥川賞」などといういささか俗物的な冠をつけてマスコミが報じるのを、現代詩になじみのないひとでも一再ならず、耳にしたことはあるだろう。
 

 それはともかく、今年度のH氏賞の受賞者が福井県出身の詩人、中島悦子さんの『マッチ売りの偽書』(思潮社)に決まったのを知り、わたしは思わず快哉を叫んでしまった。もちろん、彼女と面識はないのだが、じつは約30年も前にすでにわたしは彼女の作品と出会っているのだ。
 当時、わたしは高校3年生で、いわゆる熱心な"投稿少年"だった。中島さんの詩を読んだのは「高3コース」という受験雑誌の投稿欄で、わたしもそこに投稿していたのだが、新旧の3年生の作品が入り混じる号に1年先輩の入選作として掲載されていたのである。幸い、手元にその切り抜きがあるので全文を引用する。

 鶏舎
     福井・高志高卒 中島悦子

―女を喪失した女がぶみぶみ群がって
つながれている。卵核のない女の牢獄。

私は女であるというだけで
もう他には何もいらない気がした
私の経血は老いるまで
つきることを知らないだろうから
女がよい子を産むために
倫理と愛情の言葉は単純であるほどよい
ただ、精核はすでに退化しているので
あとはうまれた子が不具でも
神の試しですとありがたがっていればよい

臨むだけ子を産めばよい

毎朝でも

 選者はいまや詩壇の象徴的な存在となった稲川方人氏である。この際だから、その選評も引いておこう。

 中島さんはこの欄の先輩というところか。新三年生と旧三年生の交換の号となる今月号に、去年度一年、秀作を書きつづけた中島さんの詩を記念として選んでおきたい。新しい三年生がどう読むか。この詩に見える世界が中島さんのひとりよがりではないことだけはまず知ってもらいたい。詩で発見し続けてきたものなのである。最後の二行の詩的ダイナミズムは豊かである。これからも、新しく展開する詩を!

 稲川氏の驚きが伝わってくるようだ。もちろん、新3年生であったわたしが一読してこの詩に打ちのめされたことはいうまでもない。世界と向き合うこの豊穣さはどうだろう。詩を世代論で評価することに意味はないが、それでもこの詩を女子高生が書いたことが信じられなかった。
 以来、中島さんのこの詩は長い歳月を挟みながら、わたしの脳髄のどこかで執拗に生き続けてきたことになる。その証拠に、わたしは1990年に出された中島さんの処女詩集『Orange』(土曜美術社)を購入しているのだ。だが、明らかに抒情が勝ちすぎていて、読後感は必ずしもよいものではなかったのを覚えている。それから19年もの歳月を重ねて登場した『マッチ売りの偽書』を読んだわたしは、約30年前のあの驚愕が再び蘇ってくるのを感じないわけにはいかなかった。これは近年稀に見る現代詩の収穫であると断言する。ここには稲川氏が期待を寄せた、まさに新しく展開する詩の世界が結実しているからだ。ほとんど全編が散文詩で綴られているなか、最も短い行わけ詩「武生」を引く。

武生

硝子の目を開いた蝋人形の
前頭骨、涙骨、鎖骨、肋骨、尺骨、腸骨、仙骨、座骨、舟状骨までも
すべて菊の花で埋めていく

「迷っても地獄、迷わなくても地獄」
仮死を演じ続けるしか能はない

十六夜の月が黒い沼の中を駆けていく
古い芝居小屋の戸口の前
内臓のぬくみを探るようにたたずむと
一体の自分の死体と向き合うことができる
動脈は思うより体の奥を通っている

 これはまさに、わたしが打ちのめされた中島さんの世界である。ちなみに詩集の装丁を手がけたのは、当時の選者だった稲川方人氏である。この間、中島さん自身、どのような精進があったのか。あるいは、いかなる師弟関係が結ばれたのかは知る由もないけれど、書き続けることの意味を改めて思い知らされたような気がする。

2009年8月 8日 22:11

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