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    <updated>2009-11-13T01:56:21Z</updated>
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    <title>金曜インタビュー「耳塚」に対する無知を目覚めさせたいと願う韓国民団京都本部団長の王清一さん：カン・シニョン</title>
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    <published>2009-11-13T01:28:59Z</published>
    <updated>2009-11-13T01:56:21Z</updated>

    <summary>ー京都には豊臣秀吉の朝鮮侵略で犠牲になった耳塚（註）があるということですが、民団も主催して慰霊祭を行っていると聞いています。 王清一　ほとんどの日本人は「耳塚」がここにあるということも、あるいは「耳塚...</summary>
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        <![CDATA[<p>ー京都には豊臣秀吉の朝鮮侵略で犠牲になった耳塚（註）があるということですが、民団も主催して慰霊祭を行っていると聞いています。<br />
<strong>王清一</strong>　ほとんどの日本人は「耳塚」がここにあるということも、あるいは「耳塚」という言葉も意味も知りません。豊臣秀吉は太閤さんとよばれて、百姓から成り上がった庶民の人気者です。これは明治以降の日本の国策でしたが、江戸時代なら秀吉という名はタブーでした。明治政府が秀吉を英雄化したのは1910年に韓国を併合するための準備だったのです。来年は併合100年目にあたりますが、韓国の独立をめざした志士たちの声が聞こえてくるようです。<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/editor_room/images/091113sk.jpg"><img alt="091113sk.jpg" src="http://j-net.obei.jp/editor_room/assets_c/2009/11/091113sk-thumb-200x301-677.jpg" width="200" height="301" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>写真：耳塚の前で語る王清一さん</p>]]>
        <![CDATA[<p>　ー民団として「耳塚」の慰霊にどのように取り組んでいくのでしょうか。<br />
　<strong>王清一</strong>　「無知である」というのは罪です。私は知らなかった、教えられなかった、ではなく、真実を知ろうとする努力がほしい。日本人の「無知」を「耳塚」によって目覚めさせる努力が必要と思います。「耳塚」の慰霊はこれまで、洛東支部が主催して行ってきましたが、今年は本部も共催者となりました。韓国併合の植民地支配美化の歴史観の原点は豊臣秀吉にあります。慰霊祭を通じて、犠牲になった祖先を弔うはもちろん、日本の方々に豊臣秀吉が慈悲で耳塚を築造したという間違った歴史認識を正してもらう機会になってほしいと思っています。</p>

<p>　〔カン・シニョンの感想〕　京都市中京区の三越土地(株)を訪問し、王清一団長にお会いして「耳塚」についてお話を伺いました。もの静かな感じの紳士でしたが、胸の中には激しい義憤が秘められていると感じました。豊臣秀吉が英雄視され、耳塚が美化される現在の風潮は、善隣友好を願う姿勢ではないでしょう。朝鮮通信使が往来し、徳川家康や雨森芳洲が再評価される時代になってこそ、真の日韓親善、善隣友好関係が現出するのではないでしょうか。その意味からも、王清一団長のお話は示唆に富むものでした。余談ながら、「耳塚」はもともとの名の「鼻塚」にすべきだと強く主張している韓国の学者がいます。「鼻塚」を「耳塚」と称するのは、歴史の偽善以外の何物でもないと強い口調でおっしゃっていたのが印象的でした。その話は機会があれば記してみたいと思います。<br />
　註・耳塚：日本では文禄・慶長の役と称される豊臣秀吉の朝鮮侵略は、1592年と1597年の二度、都合7年間にわたって行なわれ、韓国では壬申・丁酉の倭乱といわれる。特に再侵略の時、秀吉の「皆殺令・鼻斬令」によって「一人三個の鼻」というノルマが課せられ、手当り次第に斬り取った。それを塩漬けにして日本に送り、京都では、秀告が検分した後に、東山大仏前(方広寺)に埋葬した。<br />
　その墳墓は文禄年には「頸塚」あるいは「鼻塚」と呼称された。慶長2年（1597）9月28日、秀吉の指示によって施餓鬼が行われ、導師を務めた西笑承先によって「鼻塚」と名づけられ、それ以後「鼻塚」と呼称されてきた。<br />
　ところが、17世紀のなかば頃から「耳塚」と呼称され、それが一般化されていったようである。朝鮮通信使に、その蛮行を隠すため、慰霊のために作ったという理由づけまでするようになった。また、忘れてはならないのは、婦女子や子供までも拉致して、マカオやルソン、インドなどの各地に奴隷として売り飛ばしたことである。こうしたことにより、韓国では豊臣秀吉は、伊藤博文とともに憎むべき日本人の代表とされている。（インタビュアー　カン・シニョン）</p>]]>
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    <title>金曜インタビュー「夜間中学を育てる会」再建に動き始めた豊嶋登さん：川瀬俊治</title>
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    <published>2009-11-05T16:10:48Z</published>
    <updated>2009-10-30T07:15:00Z</updated>

    <summary> 　 　今月から毎週金曜日にインタビューをお届けします。市民運動を支える活動家、研究者など多くの方にインタビューし、現在の日本の姿をその方から浮き彫りにします。第１回は八尾市立曙川南中学校で講師を勤め...</summary>
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        <![CDATA[<p><br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/editor_room/images/091106sk.jpg"><img alt="091106sk.jpg" src="http://j-net.obei.jp/editor_room/assets_c/2009/10/091106sk-thumb-200x266-653.jpg" width="200" height="266" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>　<br />
　今月から毎週金曜日にインタビューをお届けします。市民運動を支える活動家、研究者など多くの方にインタビューし、現在の日本の姿をその方から浮き彫りにします。第１回は八尾市立曙川南中学校で講師を勤める豊嶋登さん（６５）。現在休止している「夜間中学を育てる会」の再建に動き出した方だ。<br />
写真：街頭署名活動を行なう豊嶋登さん（写真中央で署名を受けている男性）</p>]]>
        <![CDATA[<p> ―豊嶋さんは天王寺夜間中学の第一期卒業生ですね。<br />
豊嶋　そうです。４０年前に天王寺中学校夜間学級の第一期卒業生の中から、「自分たちはこうして夜中を卒業することができたが、この日本にはまだ１７０万人もの「義務教育未終了者」がいる。夜間中学を必要とする人たちに夜中の存在を知らせて、夜間中学をもっと多く開設することが必要だ」として、卒業生を中心にして「夜間中学を育てる会」を結成しました。無論この中には、教師、市民がスクラムを組みました。その後、夜間中学の増設運動や、学習環境の充実などの運動を行い、夜中運動に大きな影響を与えてきましたが、活動していた人の高齢化などで活動が衰退し現在ではほとんど活動できていません。<br />
　―豊嶋さんは天王寺夜間中学の第一期卒業生の一人として、「夜間中学を育てる会」結成にも関わってこられただけに、なんとかしたいと思われてきた。<br />
豊嶋　そうです。大阪の各夜間中学の卒業生に呼びかけて、なんとか「夜間中学を育てる会」を再建をしたいと思っています。そう思い始めた最大の理由は、大阪府が財政再建策として教育関連のも削減の大なたをふるい夜間中学の給食が今年から廃止されたことです。これまでは府と市で負担してきた費用を府が打ち切ってしまったために給食がなくなってしまったのです（一部の市では、市独自で実施しているところもある）。<br />
　職場から学校にかけつける生徒にとっては、給食は勉強を支える重要なものとなっていました。<br />
　４０年前の大阪の夜間中学発足当時の中畔教育長がそのことを十分理解して、給食が実施されてきたのです。大阪の夜間中学生に取って給食は、不可欠のものなのです。府の廃止に対して夜中の生徒会の人たちが立ち上がり、昨年から「給食復活」の署名活動を始めたのです。<br />
　当然のことですが、私たち夜間中学の卒業生もできることをしたい、との思いが行動になり、１０月には仲間をつのり近鉄上本町駅前で街頭署名を行ないました。今後はこの運動を中心にして会の再建を目指したいと思います。（インタビュアー　川瀬俊治）</p>]]>
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    <title>金吉浩の日本日記　　追悼金大中元大統領</title>
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    <published>2009-10-25T12:35:42Z</published>
    <updated>2009-10-25T12:37:20Z</updated>

    <summary>　日本で最も尊敬を受けた大統領だった。保守と進歩に関係なく金大中元大統領に対して語るときは、「大政治家」という修飾語がいつもついて回った。アジアだけでなくて世界的にも金元大統領と同じ様に波瀾万丈の政治...</summary>
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        <![CDATA[<p>　日本で最も尊敬を受けた大統領だった。保守と進歩に関係なく金大中元大統領に対して語るときは、「大政治家」という修飾語がいつもついて回った。アジアだけでなくて世界的にも金元大統領と同じ様に波瀾万丈の政治経歴を積んだ方はいないとしとまた注釈を付けた.</p>]]>
        <![CDATA[<p>８月18日の金元大統領の逝去後、日本のメディアは衆議院選挙の公示をトップニュースで扱いながらも、金元大統領のニュースに解説を付けて報道した。１９日朝刊では朝日、毎日、東京、日本経済新聞が金元大統領の逝去を社説と共に解説記事を載せた。このような外国の記事を例にあげるまでもなく、金元大統領の半生はそれこそ韓国現代政治史の生きた辞典であった。<br />
　1971年金元大統領が初めて大統領に立候補した時は筆者が釜山（プサン）で陸軍三等陸曹として軍隊に服務している時であった。金大中候補者が釜山（プサン）遊説に来た時は時宜外れの非常事態になり、軍属(軍部隊に勤務する民間人)らまで領内待機しなければならなかった。 しかし朴正煕（パク・チョンヒ）候補者の遊説の時は軍属らは家族らまで連れて部隊にやって来て、軍用車両で遊説会場まで乗せて行った。もちろん一般兵士たちもその日は自由外出だった。<br />
　投票は当時不思議にも部隊内ではなくて管轄の町役場で軍人らも投票をした。筆者は迷わず金大中候補者に入れた。朴正煕候補者が嫌いというよりも、朴候補の追従する勢力が露骨で差別的に選挙に介入にすることに対する反抗心がより大きかったといえる。また40代の若い覇気に満ち堂々と大統領に立候補した金大中候補者に対する羨望と同情心があった。その当時私たちは<朝つゆ>を軍歌のようによく歌っていた。<br />
　2000年金元大統領がノーベル平和賞受賞者に選ばれたと発表があった日、筆者は大阪に来られた小説家李浩哲（イ・ホチョル）先生らと夕食をとっていた。詩人の金時鐘（キム・シジョン）先生をはじめとして、元秀一（ウオン・スイル）、玄月（ヒョン・ウオル）、金真須美（キム・マスミ）など同胞作家らと<スカンポ>という有名な韓国飲み屋がその場で、楽しく食事をする中、日本のマスコミ関係者も集まった。金元大統領のノーベル平和賞受賞の感想を金時鐘先生に聞くためであった。朝日新聞の音谷記者は私たちに了解をえて金時鐘先生を家にお連れすると言った。翌日の朝刊に金時鐘先生の一文を掲載するためにすぐにでも自宅にお連れして記事を書いていただきたいということであった。私たちはやむを得ず応諾したが。このときに「朝日新聞は堂々とした拉致をする」という筆者の冗談に、その場の一度が大笑したことも記憶に新しい。<br />
　また金時鐘先生が５０余年ぶりに済州（チェジュ）に帰郷するために先生夫婦と筆者が日までみな決めた時、総領事館でちょっと延期してくれという要請があった。金元大統領が大阪に来られて、同胞らとの晩餐会の時に金時鐘先生を招請するというのが要請の理由だった。それで私たちが計画していた済州行きは遅れてしまった。〔金元大統領の晩餐会招待に〕朝鮮籍で初めて招請受けた金時鐘先生に対して、日本のマスコミは大々的に報道していた。忘れられない金元大統領の思い出の一こまだ。<br />
　金元大統領の冥福を祈ります。　 <済州（チェジュ）トゥデイ>２００９年８月１９日より　訳　川瀬俊治</p>

<p>		 </p>

<p>▲著者紹介　作家　　　1949年12月済州市（チェジュシ）出身。1979年「現代文学」11月号短編「汚染地帯」、1980年<大阪文学学校>1年修了(本科52期)、中編「生野 アリラン」で2005年第7回海外文学賞受賞、2006年小説集「生野アリラン」発刊、2007年「生野アリラン」で第16回海外韓国文学賞受賞。インターネット新聞「済州トゥデイ」でコラム「金吉浩の日本の話」連載中。韓国文人協会、海外文人協会、済州文人協会会員。 現在大阪に住み執筆活動を続けている。  </p>]]>
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    <title>夏史邦の「こりあ・とーく」／金大中さんを悼む／英雄が故郷に入れられるとき</title>
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    <published>2009-10-25T12:31:26Z</published>
    <updated>2009-10-25T12:33:19Z</updated>

    <summary>　８月２３日、ソウルで行われた金大中さんの葬儀に参列させてもらった。月並みになってしまうが、まさに「巨星墜つ」の地響きに全身を打たれたという思いである。...</summary>
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        <![CDATA[<p>　８月２３日、ソウルで行われた金大中さんの葬儀に参列させてもらった。月並みになってしまうが、まさに「巨星墜つ」の地響きに全身を打たれたという思いである。</p>]]>
        <![CDATA[<p>　会場で、いろいろと回想にふけっているうちに、なぜか、２０年前に金大中さんの口から直接聞いたある一言、<br />
　「英雄は、故郷には入れられない」<br />
　という言葉がその場面の情景とともに鮮明に思い起こされてきた。<br />
　１９９０年１月、ソウル駐在日本人特派員の一人として新年の懇談会に招かれた、その席でのことだった。金大中さんは、故郷に入れられなかった英雄の例としてキリストや釈迦を挙げ、「彼らは石をもって故郷を追われた...」と具体的に、熱を込めて説いたのだった。<br />
　当時、金大中さんは野党・平民党の総裁だった。８７年暮れの２度目の大統領選挑戦に敗れて２年余、次への展望も決して明るいとはいえない状況にあった。「キリストや釈迦も...」という熱弁からは、自らをそこに重ねる自負と、韓国民に分かってもらえないことの無念さが伝わってきた。<br />
　そんな金大中さんが最後に何を思い、仮にこの国葬のことを知ったとすれば、どう思ったか。<br />
　歴史の大きな流れの中で「いま」を位置づけ、そこで自らの果たすべき役割をいつも意識していた人だった。そして、その役割のうちの最大のものが分断された国と民族の統一であると心得ていた。<br />
　「われわれは決して統一を放棄できない。１３００年間、統一国家をなしてきたこの民族がどうして５０年の分断で統一を放棄できようか」（２０００年の「３・１独立運動」記念式演説）<br />
　「近代史の１００年は、わが民族にとって過酷な試練の連続だった。日帝の植民地支配がそうだった。分断と戦争がそうだった。...すべては１９世紀末の朝鮮王朝末期、民族的団結と近代化の改革を求める歴史の要請に顔を背けたところにその原因があった。...いま、この１００年の間わが民族が流し続けた涙を止めるときがきたのだ」（００年６月１４日、平壌での南北首脳会談の際の夕食会のあいさつ）<br />
　「首脳会談で南北は民族の問題を自主的に解決することに合意した。自主というのは外国勢力の排除ではない。世界、とくに周辺の米日中ロの４大国と協力して友好関係を維持するなか、わが民族同士でわれわれの運命を決めようという意味だ」（００年６月２５日、朝鮮戦争勃発５０周年にさいしての演説）<br />
　「統一」をめぐる主張は、民族主義をかき立てがちだが、金大中さんのそれは偏狭さとは無縁の「開かれた民族主義」といえるものだった。<br />
　金大中さんの非凡さは、一つには目標達成への執念と、その忍耐強さにあった。国会議員は、初出馬から１０年をかけ５度目の挑戦で初当選を果たした。大統領は２６年がかり、「４度目の正直」で射止めた。忍耐については、金大中さん自らその著書で「私の人生は耐える人生だった」と、次のように書いている。<br />
　「人は耐えなければならない理由、耐える意味を認識していれば、どんな苦痛が襲ってこようとも忍耐を放棄することはない」（金容権訳『新しき出発』）<br />
　高い理想の一方で、現実に即した柔軟さがあった。政治家の心得として後輩に「書生の問題意識と商人の現実感覚を」と説き、自らその手本を示した。<br />
　野党時代、反政府運動の先頭に立ちながら、過激に走る一部勢力を「敵を利するだけだ」と必死にいさめる場面が何度もあった。<br />
　４度目の挑戦となった９７年の大統領選では、理念と経歴のうえで水と油ほども違う宿敵、金鍾泌氏と手を握るという離れ業で最後のチャンスをものにした。<br />
　大統領になって実現させた南北首脳会談では、その直前に北側へ５億ドルの「不正送金」があったことが後に明らかになったとき、「和解と協力のためには非公開に法の枠外で処理せざるを得ない場合がある」と釈明した。実際、北朝鮮を「反国家団体」と定めた冷戦以来の法の枠内では和解へのあの歴史的な一歩は踏み出せなかったといえる。<br />
　そんなもろもろの卓抜さが２０００年６月の南北首脳会談と、そこでの「南北共同宣言」（「６・１５共同宣言」）に結実し、ノーベル平和賞という評価に結びついたのだったが、韓国内ではそれが必ずしも正当に評価されてきたとはいえない。<br />
　最晩年も「後顧の憂えなし」というわけにはいかなかった。<br />
　昨年２月発足した李明博政権は、金大中さんから盧武鉉前大統領へと積み重ねた「太陽政策」と相いれない対北政策をとり、南北首脳会談の成果を無視あるいは否定するような態度をとった。結果、南北関係は破綻し、北朝鮮が再び核実験を強行するという最悪の状況を招いてきた。<br />
　金大中さんはそんな南北関係に心を痛め、李明博政権の対北政策を厳しく批判し、「６・１５共同宣言」の実行などを求めていた。<br />
　北朝鮮の核問題など朝鮮半島の諸問題を平和的に解決するには、どう考えても「太陽政策」で南北関係を解きほぐすしかない。<br />
　金大中さんは、なぜそれがわかってもらえないのかという気持ちだったろう。あるいは、あの「英雄、故郷に...」という思いは最後まで残ったかもしれない。<br />
　国葬の席で、わたしはそんなことを考えながら金大中さんの遺影と向き合い、次のようなことも思った。<br />
　いま、この国葬の席に李明博大統領をはじめ金泳三、全斗煥両元大統領が列席している。北朝鮮の弔問団が運んできた金正日国防委員長からの弔花も金大中さんの遺影のすぐ近くで、金泳三元大統領と潘基文国連事務総長の弔花の間に並んでいる。<br />
　金大中さんが生前、「故郷に真に受け入れられた」時として思い描いたのは、あるいはこのセレモニーの中で実現した世界が現実のものになった時ではなかったか。</p>]]>
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    <title>国葬取材：長沼節夫（ジャーナリスト、写真も）</title>
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    <published>2009-10-25T12:23:33Z</published>
    <updated>2009-10-25T12:45:27Z</updated>

    <summary>＜ジャ同エッセー＞訃報・金大中元韓国大統領　国葬取材で３日間のソウルへの旅（写真１）韓国国会議事堂での金大中氏弔問風景（８月２２日夜）。 　巨星墜つ。韓国の金大中元大統領が２００９年８月18日、死去し...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>＜ジャ同エッセー＞訃報・金大中元韓国大統領　国葬取材で３日間のソウルへの旅</strong><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082801-391.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082801-391.html','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082801-thumb-150x112-391.jpg" width="150" height="112" alt="2009082801.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>（写真１）韓国国会議事堂での金大中氏弔問風景（８月２２日夜）。<br />
　巨星墜つ。韓国の金大中元大統領が２００９年８月18日、死去した。１９２５年生まれの85歳。韓国の軍事政権化で民主化を叫び、それが理由で時の軍事政権から逮捕・軟禁・投獄・死刑判決など数々の迫害を受けながらも生き延び、ついに大統領に選ばれた人物だ。（本稿の一部は「週刊金曜日」８月28日号アンテナ欄とダブります。）<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　筆者が金氏と初めて知り合ったのは彼が４６歳だった１９７１年。韓国で大統領選のさなかだった。演説会場である小学校の校庭に行くと、４月の日差しの中、びっしりと隙間もないほどの聴衆が地べたに座って、彼の演説を待っていた。座れなかった人々が皇帝を囲む「ロクボク」や木々によじ登っていた。筆者は前座を務める新民党幹部らの演説中に金氏の前に行き、日本から来た。インタビューしたいと申し入れると、明日遊説に出かける前に自宅に来なさいと言ってくれた。今からあなたの演説を録音したいと言うと、<br />
　「ほほう、これが最近発売されたカセットテープというやつですか。私はまだ持っていませんが。こことここを同時に押せば録音できるんですか。では私が壇上に上がる時に持って行って、演説の時に押して上げます」とも。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082802-394.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082802-394.html','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082802-thumb-150x112-394.jpg" width="150" height="112" alt="2009082802.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>（写真２）金大中氏の国葬風景（８月２３日）。<br />
　演説は40分以上の長時間にわたった。</p>

<p>　「皆さん、普通の国では新聞は新聞記者たちが作っている。しかし我が国で今、新聞を作っているのは韓国中央情報部ＫＣＩＡだ。彼らは朝、新聞社にやって来て、記事をチェックし、気に食わない記事は破って屑かごに投げ込む。ＫＣＩＡは男に子を産ませること以外、何でもやる。私が当選したら、これを廃止する」「南北の対話が全く許されていないのは異常だ。私はまず手紙だけでも往復させ、次いで代表団の接触、市民の交流と段階的に北との門戸を開いて行く」などと、熱っぽく語った。</p>

<p>　しかし彼の主張は翌日の新聞で、ほんの僅か報道されただけだった。朴政権もまさか相手候補を逮捕するわけには行かなかったが、「金候補の主張は反共法違反の疑いがある」といった政府談話が載った。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082803-397.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082803-397.html','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082803-thumb-150x112-397.jpg" width="150" height="112" alt="2009082803.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>（写真３）国葬を終え、遺影を先頭に市内行進に移る葬列（８月２３日）。</p>

<p>　２年後に東京で再会した金氏からはあの時の精かんな風貌はすっかり消えて、大きくびっこを引いていた。聞けばあれから間もなく遊説中、自分の車に大型トラックが正面から突っ込んで来る事故に遭い、運転手は即死、自分は九死に一生を得たが、この通りの体になったと言う。こちらが知らなかったはずだ。そんな大事件が報道もされず、犯人捜しさえ行われなかったそうだ。この分では韓国で治療を受けていても、いつ殺されるか分からないので、こちらで治療を受けるつもりで来日したと言った。</p>

<p>　東京での治療中も頻繁に会った。自分はいつ韓国当局に殺されるか分からないと言うので、ではマスコミにも知り合いを作り、あなたの存在を日本人に知らせておきなさいと勧めたが、まだ知り合いがないと言う。それで朝日新聞の本多勝一記者（現在ＯＢ）に紹介して、月刊「現代の眼」にインタビューを、また産経の千野境子記者（現在論説委員）に頼んで、「夕刊フジ」に１頁インタビューをしてもらった。しかし間もなく、何者かに誘拐されてしまった。いわゆる「金大中事件」の発生だった。やがて読売新聞が「事件に情報機関が関与か」と書いた途端、同社は韓国から追放されてしまい、以後、各紙とも犯人像を書けなくなった。一方、金氏はよくぞ生き延びた。以来筆者自身、自宅軟禁の金氏、米国亡命中の金氏と何度会見を重ねたことか。以来幾星霜、ついに１９９８年から５年間、第16代大統領を務めた。</p>

<p>　そんな金大中氏が亡くなった。せめて葬儀に参列・取材して、見送って上げたいと思った。ところが20日付各紙に「金大中氏国葬は８月23日」という記事が出た。それは以前から長男が申し込んでくれていた「一緒に富士登山」のその当日に重なる。困った。しかし長男に言うと、「いいよ、富士山よりも韓国に行ってきなよ」と背中を押してくれた。直ちに登山を断念して準備に入る。22日訪韓、23日国葬参列、24日帰国という予定を決めてソウル行きの切符を探すと、代理店が「羽田発が２席だけ残っている」という返事だ。直ぐに買った。</p>

<p>　出発前夜、ソウルの人権派弁護士の韓勝憲氏に「訪韓します」とファクスする。同弁護士もかつて朴正煕政権下で民主運動家の弁護をしたために資格はく奪を受けたり、全斗煥政権下でも金大中氏を弁護したため、自身逮捕・投獄されるなど苦労した。金大中氏は大統領になると直ぐ、韓氏を閣僚級の監査院長に抜擢してその労に報いた。その韓氏から折り返し電話。</p>

<p>　「もう少し早い便で来られませんか。私自身葬儀委員になっていて、明日は夕方まで金大中夫人と一緒に国会で個人の方からの弔問の応対をしているので、それに間に合うように来なさい」と言ってくれた。結果的には間に合わず、彼は「長沼さんが来るというので、夫人を引き止めていたのに」と残念がった。そして「国葬は既に参列者に招待状を渡しており、当日受付はない。しかし一切は政府が仕切っているので、私が招待券を出せない。他方で政府はあまりに閉鎖的だという批判も出ている。どうなるか分からないから、当日現場に行ってみなさい」と弁護士。帰国の日の再会を約す。</p>

<p>　国葬前夜のソウル。空港に出迎えてくれたのは40年来の友人の徐さんだ。国会議事堂から遺族らが引き揚げても、弔問所は24時間開いているというので、国会議事堂に向かう。筆者には夫婦で大統領就任式に招かれてきて以来、ここに立つのは２度目だ。弔問に訪れる人々の長蛇の列に驚く。４～５人が並んで、約８００メートルの帯になり、それが中央祭壇まで続いている。列の最後尾では「謹弔」と印刷したリボンを渡してくれたので、胸にピンで留める。列の中ほど辺りでは、飲料水のペットボトルをくれた。祭壇への通路には、各界著名人から寄せられた多数の豪華な花輪が立ち並び、それらが視野の果てまで続いている。韓国人に交じって朝日新聞社長・副社長・出版局長・編集局長・ソウル支局長など日本人の名前も見える。</p>

<p>　列の最後尾についてから１時間後ようやく、ひときわ明るい祭壇に近づくと陸・海・空軍の兵士が白い菊の花を渡してくれる。祭壇は中央の巨大な遺影を何千本という菊の花が囲んで作られ、筆者のように弔問を献花と拝礼で簡単に済ませる者が多数派だが、立ってお辞儀しては地上にひざまずくのを繰り返す丁寧な弔問もかなりあった。礼拝を終えて帰りかけるところに多数の葬儀委員が立って、弔問者一人ずつにお礼の握手を返している。記帳所で、「あなたは韓国だけでなく、日本の市民運動にも貢献されました。ありがとう。さようなら。日本人記者長沼節夫」と記帳した。</p>

<p>　１９７３年８月に発生した金大中事件。日韓両政府は真相究明をうやむやにするという「政治決着」で葬った。それでも軍事政権の力が圧倒的に強かった韓国市民は、身動きも出来なかったが、他方、日本人は主要都市を中心にデモやハンストで事件に抗議し、金氏を殺すな、金氏の身柄を東京に戻せという「原状回復運動」も続いた。それまで韓国人に対してかなり閉鎖的だった日本人が、この運動をきっかけに韓国の市民と交流し始めた。第一、日本人が外国人の個人の救命運動にうねるように取り組んだことなど、弾圧にあえいだ金氏には気の毒だったが、日本人には史上初めての快挙と言ってもいい。言い換えれば金氏は日本の市民運動に極めて大きな貢献をしたことになる。筆者の記帳はそのことを踏まえている。また記帳所のテントとは別のテント内のボードには何千という、おもに子供たちからの個人メッセージがべたべたと貼り付けられている。弔問を終えて出口に向かうと、兵士らが車に山積みしたドーナッツのパックを弔問客一人ひとりに配給してくれた。結構うまい。</p>

<p>　帰り道、市内のあちこちに黒い横断幕が張られていた。「哀悼・金大中元大統領」「謹弔・私たちはあなたの『行動する良心」を忘れない」など、横断幕のハングル文字が風に踊った。弔問所は都心の市庁舎前広場にもあった。こちらは多数が並んでひざまずく礼拝のできるように、広場に帯状の絨毯が何列にも敷かれていた。このような弔問所が今回、全国で２００カ所近く設けられ、死去から国葬までの６日間に推定数百万人が弔問した。ソウルでは警官や軍人ら公務員の全員、また市民の多くが胸に「謹弔」の黒リボンを着けた。<br />
　　　　　　※　　　　　※　　　　　※<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082804-400.html" onclick="window.open('http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082804-400.html','popup','width=400,height=300,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://j-net.obei.jp/jlj/assets_c/2009/08/2009082804-thumb-150x112-400.jpg" width="150" height="112" alt="2009082804.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>（写真４）ソウル市内各所に翻った「哀悼」の横断幕。（８月22日）<br />
　23日の 国葬当日。快晴。案内の徐さんと国会に行くが、閉鎖された国会正門前では招待状をもった人だけが入場を許されている。私は持ってないが、「東京で大使館に聞いたら一般人も入れると聞いた。入れてくれ。もう一人は私の通訳だ」と言うが、「あなたは招待者名簿に名前がない」と追い返される。徐さんが、「私に構わずあなただけでも会場に入りなさい。私は道の向かいのホテル前で、何時間でも待っている」と言う。彼の助言の正しさというか、案ずるより生むが易しというか。いくつかの入口に行って、日本記者クラブの記者証をかざしながら、「チョヌン・イルボネ・シンムンキジャヨ」（私は日本の記者だ）と繰り返していると、「それじゃあま、いいか」と思ってくれる役人がいるものだ。それで検問突破。国葬会場の後方で取材開始したのは正解だった。招待席に座ったら国葬の間、炎天下で身動きも出来ず、祭壇の状況も分からなかったろう。私は会場全体が見渡せる後方の木陰で、自由に動き回って写真取材が出来た。祭壇の様子は巨大スクリーンが映している。樹上を鷹揚に行き交っている大きな鳥は本州では見かけないカササギの一種だ。中国山東省と朝鮮半島に多い黒地に白いストライプのしゃれた姿。地上にはサルスベリと国花ムクゲが咲き乱れる国会広場。</p>

<p>　午後２時に国葬開始。国歌吹奏と黙祷の後、葬儀委員長の韓昇洙首相が「民主義と人権のために闘い、初の南北会談・和解・交流の道を開いた。ノーベル平和賞受賞もわが民族の誇りだ」と金氏を称賛した。キリスト教、仏教各２派計４派による祭式に続いて李明博大統領ほか歴代大統領、各国代表らが次々献花する。その間会場各所に設けられた大型スクリーンに金氏の苦難と栄光の生涯が映された。全斗煥氏が献花したとき、画面は丁度、全政権下で死刑判決を受けた金氏の法廷写真を映していた。その生涯写真が２０００年の「南北首脳握手」の場面を写したとき、参列者の間から拍手が湧いた。</p>

<p>　国葬の中で流れた国軍の吹奏楽にも興味を引かれた。愛国歌という名の国歌、ベートーベンの交響曲第３「英雄」の中で英雄の死を悼むとされる楽章、同７番の第２楽章、ショパンの葬送行進曲、グリークの「組曲ペールギュント」から「オーゼの死」など。特に後半で流れた「朝露」は感動的だった。１９７０年に生まれたこの歌は、学生運動で愛唱された抵抗の歌で、１９７５年には朴政権下で「禁止歌謡」となった。以降、韓国市民運動のシンボル歌となり、金大中氏が００年、ソウルからピョンヤンに発つとき、空港で歌われた。その抵抗歌を今、保守政権の韓国で、しかも国軍が吹奏している。葬儀の場で言うのは不謹慎だが、愉快な気分にもなった。</p>

<p>　開始１時間余り。陸海空3軍兵士らが弔砲を放って式を終えると、巨大な遺影と棺を先頭に車列が出発。金氏の自宅、ソウル市庁舎前広場を巡り国立墓地に至り埋葬されたが、沿道はどこも人の波。市民が涙ながらに車列に手を振った。「金氏と言えば任期の後半には支持率の低下に苦しんだ。それなのに７年後の今、金氏の人気がこれほど高いとは」と驚く記者に、沿道にいた元会社役員、許元九さん（62）は「生涯民主主義の闘いに命をかけ人だから当然です」と話した。<br />
　　　※　　　　　※　　　　　　※<br />
　一夜明けて帰国の日、国葬の葬儀委員を務めた韓勝憲弁護士を事務所に訪ねた。韓氏は金大中氏について、「韓国では政治的指導者も出たし、非政治的指導者も出た。しかしその両方から指導者と仰がれたのは、金氏が史上初めてだ」と語った。また北朝鮮からの弔問団について、「北の弔問団が来たおかげで、李明博大統領が初めて南北対話の糸口をつかんだ。緊張緩和を願った金大中氏が国民に送った最後のプレゼントのような気がする」などと総括した。（おわり）（本社東京分室）</p>]]>
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    <title>金大中さんの国葬に参列して；古野喜政</title>
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    <published>2009-10-25T12:20:48Z</published>
    <updated>2009-10-25T12:21:48Z</updated>

    <summary>　金大中さんが亡くなった。二〇〇九年八月二三日、ソウル・汝矣島の国会議事堂前広場で国葬が営まれ、参席した。 ...</summary>
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        <![CDATA[<p>　金大中さんが亡くなった。二〇〇九年八月二三日、ソウル・汝矣島の国会議事堂前広場で国葬が営まれ、参席した。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　祭壇の両脇に備えられた大スクリーンに生前の金大中さんの姿が繰り返し映し出された。一九七一年の大統領選、朴正熙との一騎打ちで演説する南山公園での金大中さん。東京から拉致され、顔にケガをした金大中さん。政治決着で談笑する田中角栄首相、大平正芳外相、金鍾泌首相。死刑判決を言い渡された光州事件の軍法会議。<br />
　金鍾泌氏と盧泰愚元大統領は、重病で葬儀に姿は見せなかった。金大中さんを殺そうとした全斗煥元大統領が献花する瞬間、スクリーンには緑の獄衣を着せられ、丸坊主にされた金大中さんの無惨な姿が映し出された。<br />
　日本政府はなぜ金大中さんを見殺しにしたのだろうか。一時間二〇分の葬儀の間中、私の耳元では「日本政府はなぜあんな解決をしなければならなかったのか」という金大中さんの押し殺した声が響き続けた。<br />
　二次にわたる政治決着で、日本政府は主権を放棄し、韓国政府機関による拉致であることを承知の上で金大中さんを見殺しにし、現状回復（金大中さんの再来日）をもとめなかった。その結果、金大中さんは自宅軟禁、逮捕、投獄の日々を送り、七年後には死刑判決を受け、あわや命を落とすところまで追い込まれた。<br />
　第一次政治決着から三週間たった一九七三年一一月二三日午後七時から二時間、私はソウル市東橋洞の金大中さん宅の奥の間で話を聞いている。<br />
　あの頃、金大中さんの家の中は、どこにいても盗聴されていると考えられていた。ラジオのボリュームをいっぱいに上げ、声は自然と押し殺したようになった。</p>

<p>「自宅監禁中、言葉ではいい表せない目にあった。どこかから電話がかかってくる。電話の横には二四時間捜査員が座っている。だれからかかったのかはいわない。上の息子二人が自宅から軍隊に通っている。その子が帰って来ない。仕事で帰れないと連絡してきたのに教えてくれない。わたしたち夫婦は、ついに子どもも逮捕されたのかとまんじりともせず夜を明かしたことが何度もあった」<br />
「日本政府がなぜあんな解決をしなければならなかったか、わからない。なぜ私を国外に出す約束を取り付けてくれなかったのだろう。日本政府、田中さん（角栄首相）、大平さん（正芳外相）のとった処置は政治家としてそれなりに理解できる。しかし、同じ政治家として、一人の政治家が危険にさらされているのを、どうして救おうとしなかったのか、政治家として、人の命に対する温かみを持ってくれなかったのだろうかと考える」<br />
「なぜ日本政府が強い態度をとらなかったのか。証拠はなく、あくまで情報だが、こんな話をきいた。相当の人から聞いたのだ。自衛隊が事件に関係していたというのだ。問題の探偵社のものは現在行方不明だそうだが、かれらは予備役を装った自衛隊機関員だという。だから金東雲（駐日大使館一等書記官）を割り出し、韓国政府に突き付けたとき、韓国政府は何を言っているのか、と開き直った。調べを受けているいる最中、日本側が私を渡せと言ってきたとき、かれらは私の前でせせら笑っていた」<br />
　　<br />
　この夜のメモを今読み返すと、金大中さんがどんな方法でこんな情報を集めていたのか、驚くばかりだ。<br />
　私は事件の真相に迫る糸口をつかみ、原稿ができあがろうとしていたときに危篤、続いて訃報が届いたのだった。もう数ヶ月生きてくれていたら、とスクリーンを見上げながら私は執筆の遅れを悔やんだ。<br />
　このメモに出で来るように、先妻との間に生まれた長男と二男は当時軍隊にいた。李姫鎬夫人との間に生まえれた三男はまだ国民学校三年生だった。国葬にはこの三人の息子も出席していた。人目を引いたのは長男の弘一さん（六一歳）だった。車椅子に乗って参列していたが、口を開けたまま顔を上向け、遠目に見てもひどい病気であるとわかるほどだった。かんかん照りの式の最中、車いすは木陰に移された。<br />
　通信社電は、弘一さんについて長文の記事を配信した。ふくよかで美男子と言われた往年の弘一さんの写真と、知人でさえわからないほどやつれ、パーキンソン病で言葉も失い歩くこともできない弘一さんの写真を並べて掲載。金大中さんの死の翌日、秘書は次のように話したという。一九八〇年五月一八日、金大中さんが内乱陰謀罪に問われ死刑判決を受けたが、この事件でＫＣＩＡに逮捕された金弘一さんは「ＤＪ（金大中）はアカだと白状しろ」と強要され、これを拒否すると「激しい拷問を受け、投げ飛ばされ、腰などの神経系統に傷を負い、この後遺症でパーキンソン病を発病したとみられる」と話した。<br />
　一九九五年、すでに発病していた弘一さんは国会議員になり三選された。金大中さんの側近からも反対する意見が出たという。こうした声に対して金大中さんは「父親として子供のために何一つしてやれず、弘一は私のために拷問を受け、障害者になった。父親として息子を国会議員にしてやることさえやめろというのか」と断固として拒絶したという話を紹介している。記事は、弘一さんも〝歴史の被害者〟であると書き、「愛し尊敬した父の死に直面して、金弘一前議員が最後にできたのは死力を尽くして〝お父さん〟と叫ぶことだけだった」と結んでいる。<br />
　<br />
　歴史に〝もし〟はないという。あえて〝もし〟を言うなら、日本政府があのとき、国民に約束したように主権侵害行為にたいする国際慣例に則って金大中さんの原状回復を求めておれば、韓国の歴史は違ったものになったかもしれない。少なくとも、金弘一さんが車いすで国葬の場に参列することはなかった。<br />
　田中角栄政権以来、日本には数えきれない政権が誕生した。金大中事件について言えば、どの政権も真相究明のためまったく動こうともしなかった。金大中さんが死んだ日の新聞紙面は、これで事件の真相は闇に包まれたまま終わるだろうという論調だった。だが、私は主権を放棄してまで歴代政権が守ろうとしたものは何だったか、その解明を新しい政権にもう一度期待したいと思う。　</p>]]>
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    <title>エッセー 「継いでいかなければ」：朴明子</title>
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    <published>2009-10-25T12:05:07Z</published>
    <updated>2009-10-25T12:18:42Z</updated>

    <summary>  「金大中」という名を知ったのは、多くの人と同じように１９７３年８月、日本に滞在していた金大中氏が東京のホテルから拉致された時である。 ...</summary>
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        <![CDATA[<p>  「金大中」という名を知ったのは、多くの人と同じように１９７３年８月、日本に滞在していた金大中氏が東京のホテルから拉致された時である。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>　丁度その頃、朝鮮民主主義人民共和国から国立マンスデ芸術団が初めて来日し、全国を公演して回っていた。１００名以上の規模だったと思う。当時大阪の同胞の病院に勤めていた私は、マンスデ芸術団が名古屋で公演の間、芸術団員の健康管理のために名古屋に赴いた。名古屋の都ホテルを宿に３,４日の滞在だった。</p>

<p>　初めて母国のオペラや舞踊を間近に見て、そのあでやかで美しい芸術に魅了された。しかしその陰で出演者の厳しい練習があることも知ることとなった。<br />
　朝鮮舞踊は膝をゆっくり曲げる動きがあり、膝に負担が掛かってくる。氷の上を滑っているような滑らかな動きは、長いチマ（スカート）の中で、脚がすばやく小刻みに動いているのだ。多くの舞踊家が膝を痛めていた。微笑を浮かべながら踊りを見せてくれる女性たちは公演が終わる度に、にわかこしらえの医務室にやって来た。私は膝に電気治療をしたり、湿布を貼ったりしてあげた。オペラで主人公を演じる女性も、群舞の中央で踊っている人も言い合わせたように控えめだった。私のようにがさつな女性は一人もいなかった。私は母国語が下手だったから、思うように意思疎通が図れなかったのが残念だった。<br />
マンスデ芸術団来日後、朝鮮民主主義人民共和国からいろんな芸術団がやって来た。あの頃に比べると両国の関係はうんと悪くなっている。なんと悲しいことだろう。</p>

<p>　その名古屋にいた時「金大中事件」が起きたからよく覚えている。マンスデ芸術団の団長が遺憾な出来事、と声明を発表した。私はそれから韓国の民主化運動に目を向け始めたのかもしれない。氏はその後も波乱万丈の人生だった。軍事政権下で獄に繋がれた他の良心囚たちをも含めて釈放を願う運動が日本でも繰り広げられた。<br />
金大中氏が命を掛けて実現しようとした韓国の民主化と祖国統一。</p>

<p>　あれから３０余年、私はいろんなところにシニア料金で入れる年になったが祖国統一の気運は、近づいては遠退くの繰り返しだ。</p>

<p>「国の巨木」といわれた氏が逝ってしまったらどうなるのか。しかし、その懸念は無用かもしれないと韓国のテレビニュースを見て思う。<br />
　大統領退任後、国葬で営まれるのは初めてという。例外を作ってはならないという意見もあったらしいが、国民の望む声はそれを押し切ったのだろうか。ソウルの焼香場には９万２０００人余が訪れた。ものすごい数だ。それらの様子を４０分ほどのニュースの間、３０分以上割いて報道していた。インタビューに答えて、むしろ自分の夫や息子が逝った方が良かったと言った人がいた。それを見て、以前国宝の「南大門」が焼失した時に、自分の家が焼ければよかったのにと言った人がいたのを思い出した。封建時代じゃあるまいし、日本人には考えられないコメントだろう。</p>

<p>　国を思う気持ちの何と強いことか。かつて国を奪われた亡国の民がいかに惨めなものかを身に沁みて感じているから、民主国家の成立にどれほど多くの犠牲が払われたか、人々は知っているからこんな言葉が口をついて出るのだろうと私は思う。<br />
偉大な人を失ったが、その遺志を継がなければならないという決意を抱いていることを窺わせる人々の姿だった。何があってもその決意が萎えることが無いことを祈りたい。</p>]]>
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    <title>金曜インタビュー</title>
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    <published>2009-10-24T10:55:59Z</published>
    <updated>2009-10-24T11:01:17Z</updated>

    <summary>　市井の人物を取り上げてインタビューするコーナーです。インタビュアーは川瀬、北口そしてカンの各氏です。１１月６日から毎週金曜日に掲載いたします。お楽しみに！...</summary>
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        <![CDATA[<p>　市井の人物を取り上げてインタビューするコーナーです。インタビュアーは川瀬、北口そしてカンの各氏です。１１月６日から毎週金曜日に掲載いたします。お楽しみに！</p>]]>
        
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