2009年11月13日
金曜インタビュー「耳塚」に対する無知を目覚めさせたいと願う韓国民団京都本部団長の王清一さん:カン・シニョン
ー京都には豊臣秀吉の朝鮮侵略で犠牲になった耳塚(註)があるということですが、民団も主催して慰霊祭を行っていると聞いています。
王清一 ほとんどの日本人は「耳塚」がここにあるということも、あるいは「耳塚」という言葉も意味も知りません。豊臣秀吉は太閤さんとよばれて、百姓から成り上がった庶民の人気者です。これは明治以降の日本の国策でしたが、江戸時代なら秀吉という名はタブーでした。明治政府が秀吉を英雄化したのは1910年に韓国を併合するための準備だったのです。来年は併合100年目にあたりますが、韓国の独立をめざした志士たちの声が聞こえてくるようです。
写真:耳塚の前で語る王清一さん
ー民団として「耳塚」の慰霊にどのように取り組んでいくのでしょうか。
王清一 「無知である」というのは罪です。私は知らなかった、教えられなかった、ではなく、真実を知ろうとする努力がほしい。日本人の「無知」を「耳塚」によって目覚めさせる努力が必要と思います。「耳塚」の慰霊はこれまで、洛東支部が主催して行ってきましたが、今年は本部も共催者となりました。韓国併合の植民地支配美化の歴史観の原点は豊臣秀吉にあります。慰霊祭を通じて、犠牲になった祖先を弔うはもちろん、日本の方々に豊臣秀吉が慈悲で耳塚を築造したという間違った歴史認識を正してもらう機会になってほしいと思っています。
〔カン・シニョンの感想〕 京都市中京区の三越土地(株)を訪問し、王清一団長にお会いして「耳塚」についてお話を伺いました。もの静かな感じの紳士でしたが、胸の中には激しい義憤が秘められていると感じました。豊臣秀吉が英雄視され、耳塚が美化される現在の風潮は、善隣友好を願う姿勢ではないでしょう。朝鮮通信使が往来し、徳川家康や雨森芳洲が再評価される時代になってこそ、真の日韓親善、善隣友好関係が現出するのではないでしょうか。その意味からも、王清一団長のお話は示唆に富むものでした。余談ながら、「耳塚」はもともとの名の「鼻塚」にすべきだと強く主張している韓国の学者がいます。「鼻塚」を「耳塚」と称するのは、歴史の偽善以外の何物でもないと強い口調でおっしゃっていたのが印象的でした。その話は機会があれば記してみたいと思います。
註・耳塚:日本では文禄・慶長の役と称される豊臣秀吉の朝鮮侵略は、1592年と1597年の二度、都合7年間にわたって行なわれ、韓国では壬申・丁酉の倭乱といわれる。特に再侵略の時、秀吉の「皆殺令・鼻斬令」によって「一人三個の鼻」というノルマが課せられ、手当り次第に斬り取った。それを塩漬けにして日本に送り、京都では、秀告が検分した後に、東山大仏前(方広寺)に埋葬した。
その墳墓は文禄年には「頸塚」あるいは「鼻塚」と呼称された。慶長2年(1597)9月28日、秀吉の指示によって施餓鬼が行われ、導師を務めた西笑承先によって「鼻塚」と名づけられ、それ以後「鼻塚」と呼称されてきた。
ところが、17世紀のなかば頃から「耳塚」と呼称され、それが一般化されていったようである。朝鮮通信使に、その蛮行を隠すため、慰霊のために作ったという理由づけまでするようになった。また、忘れてはならないのは、婦女子や子供までも拉致して、マカオやルソン、インドなどの各地に奴隷として売り飛ばしたことである。こうしたことにより、韓国では豊臣秀吉は、伊藤博文とともに憎むべき日本人の代表とされている。(インタビュアー カン・シニョン)
2009年11月13日 10:28
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