2009年10月25日
エッセー 「継いでいかなければ」:朴明子
「金大中」という名を知ったのは、多くの人と同じように1973年8月、日本に滞在していた金大中氏が東京のホテルから拉致された時である。
丁度その頃、朝鮮民主主義人民共和国から国立マンスデ芸術団が初めて来日し、全国を公演して回っていた。100名以上の規模だったと思う。当時大阪の同胞の病院に勤めていた私は、マンスデ芸術団が名古屋で公演の間、芸術団員の健康管理のために名古屋に赴いた。名古屋の都ホテルを宿に3,4日の滞在だった。
初めて母国のオペラや舞踊を間近に見て、そのあでやかで美しい芸術に魅了された。しかしその陰で出演者の厳しい練習があることも知ることとなった。
朝鮮舞踊は膝をゆっくり曲げる動きがあり、膝に負担が掛かってくる。氷の上を滑っているような滑らかな動きは、長いチマ(スカート)の中で、脚がすばやく小刻みに動いているのだ。多くの舞踊家が膝を痛めていた。微笑を浮かべながら踊りを見せてくれる女性たちは公演が終わる度に、にわかこしらえの医務室にやって来た。私は膝に電気治療をしたり、湿布を貼ったりしてあげた。オペラで主人公を演じる女性も、群舞の中央で踊っている人も言い合わせたように控えめだった。私のようにがさつな女性は一人もいなかった。私は母国語が下手だったから、思うように意思疎通が図れなかったのが残念だった。
マンスデ芸術団来日後、朝鮮民主主義人民共和国からいろんな芸術団がやって来た。あの頃に比べると両国の関係はうんと悪くなっている。なんと悲しいことだろう。
その名古屋にいた時「金大中事件」が起きたからよく覚えている。マンスデ芸術団の団長が遺憾な出来事、と声明を発表した。私はそれから韓国の民主化運動に目を向け始めたのかもしれない。氏はその後も波乱万丈の人生だった。軍事政権下で獄に繋がれた他の良心囚たちをも含めて釈放を願う運動が日本でも繰り広げられた。
金大中氏が命を掛けて実現しようとした韓国の民主化と祖国統一。
あれから30余年、私はいろんなところにシニア料金で入れる年になったが祖国統一の気運は、近づいては遠退くの繰り返しだ。
「国の巨木」といわれた氏が逝ってしまったらどうなるのか。しかし、その懸念は無用かもしれないと韓国のテレビニュースを見て思う。
大統領退任後、国葬で営まれるのは初めてという。例外を作ってはならないという意見もあったらしいが、国民の望む声はそれを押し切ったのだろうか。ソウルの焼香場には9万2000人余が訪れた。ものすごい数だ。それらの様子を40分ほどのニュースの間、30分以上割いて報道していた。インタビューに答えて、むしろ自分の夫や息子が逝った方が良かったと言った人がいた。それを見て、以前国宝の「南大門」が焼失した時に、自分の家が焼ければよかったのにと言った人がいたのを思い出した。封建時代じゃあるまいし、日本人には考えられないコメントだろう。
国を思う気持ちの何と強いことか。かつて国を奪われた亡国の民がいかに惨めなものかを身に沁みて感じているから、民主国家の成立にどれほど多くの犠牲が払われたか、人々は知っているからこんな言葉が口をついて出るのだろうと私は思う。
偉大な人を失ったが、その遺志を継がなければならないという決意を抱いていることを窺わせる人々の姿だった。何があってもその決意が萎えることが無いことを祈りたい。
2009年10月25日 21:05
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