2009年10月25日
金吉浩の日本日記 追悼金大中元大統領
日本で最も尊敬を受けた大統領だった。保守と進歩に関係なく金大中元大統領に対して語るときは、「大政治家」という修飾語がいつもついて回った。アジアだけでなくて世界的にも金元大統領と同じ様に波瀾万丈の政治経歴を積んだ方はいないとしとまた注釈を付けた.
8月18日の金元大統領の逝去後、日本のメディアは衆議院選挙の公示をトップニュースで扱いながらも、金元大統領のニュースに解説を付けて報道した。19日朝刊では朝日、毎日、東京、日本経済新聞が金元大統領の逝去を社説と共に解説記事を載せた。このような外国の記事を例にあげるまでもなく、金元大統領の半生はそれこそ韓国現代政治史の生きた辞典であった。
1971年金元大統領が初めて大統領に立候補した時は筆者が釜山(プサン)で陸軍三等陸曹として軍隊に服務している時であった。金大中候補者が釜山(プサン)遊説に来た時は時宜外れの非常事態になり、軍属(軍部隊に勤務する民間人)らまで領内待機しなければならなかった。 しかし朴正煕(パク・チョンヒ)候補者の遊説の時は軍属らは家族らまで連れて部隊にやって来て、軍用車両で遊説会場まで乗せて行った。もちろん一般兵士たちもその日は自由外出だった。
投票は当時不思議にも部隊内ではなくて管轄の町役場で軍人らも投票をした。筆者は迷わず金大中候補者に入れた。朴正煕候補者が嫌いというよりも、朴候補の追従する勢力が露骨で差別的に選挙に介入にすることに対する反抗心がより大きかったといえる。また40代の若い覇気に満ち堂々と大統領に立候補した金大中候補者に対する羨望と同情心があった。その当時私たちは<朝つゆ>を軍歌のようによく歌っていた。
2000年金元大統領がノーベル平和賞受賞者に選ばれたと発表があった日、筆者は大阪に来られた小説家李浩哲(イ・ホチョル)先生らと夕食をとっていた。詩人の金時鐘(キム・シジョン)先生をはじめとして、元秀一(ウオン・スイル)、玄月(ヒョン・ウオル)、金真須美(キム・マスミ)など同胞作家らと<スカンポ>という有名な韓国飲み屋がその場で、楽しく食事をする中、日本のマスコミ関係者も集まった。金元大統領のノーベル平和賞受賞の感想を金時鐘先生に聞くためであった。朝日新聞の音谷記者は私たちに了解をえて金時鐘先生を家にお連れすると言った。翌日の朝刊に金時鐘先生の一文を掲載するためにすぐにでも自宅にお連れして記事を書いていただきたいということであった。私たちはやむを得ず応諾したが。このときに「朝日新聞は堂々とした拉致をする」という筆者の冗談に、その場の一度が大笑したことも記憶に新しい。
また金時鐘先生が50余年ぶりに済州(チェジュ)に帰郷するために先生夫婦と筆者が日までみな決めた時、総領事館でちょっと延期してくれという要請があった。金元大統領が大阪に来られて、同胞らとの晩餐会の時に金時鐘先生を招請するというのが要請の理由だった。それで私たちが計画していた済州行きは遅れてしまった。〔金元大統領の晩餐会招待に〕朝鮮籍で初めて招請受けた金時鐘先生に対して、日本のマスコミは大々的に報道していた。忘れられない金元大統領の思い出の一こまだ。
金元大統領の冥福を祈ります。 <済州(チェジュ)トゥデイ>2009年8月19日より 訳 川瀬俊治
▲著者紹介 作家 1949年12月済州市(チェジュシ)出身。1979年「現代文学」11月号短編「汚染地帯」、1980年<大阪文学学校>1年修了(本科52期)、中編「生野 アリラン」で2005年第7回海外文学賞受賞、2006年小説集「生野アリラン」発刊、2007年「生野アリラン」で第16回海外韓国文学賞受賞。インターネット新聞「済州トゥデイ」でコラム「金吉浩の日本の話」連載中。韓国文人協会、海外文人協会、済州文人協会会員。 現在大阪に住み執筆活動を続けている。
2009年10月25日 21:35
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