2009年9月 7日
金吉浩の日本日記 追悼金大中元大統領
日本で最も尊敬を受けた大統領だった。保守と進歩に関係なく金大中元大統領に対して語るときは、「大政治家」という修飾語がいつもついて回った。アジアだけでなくて世界的にも金元大統領と同じ様に波瀾万丈の政治経歴を積んだ方はいないとしとまた注釈を付けた.
8月18日の金元大統領の逝去後、日本のメディアは衆議院選挙の公示をトップニュースで扱いながらも、金元大統領のニュースに解説を付けて報道した。19日朝刊では朝日、毎日、東京、日本経済新聞が金元大統領の逝去を社説と共に解説記事を載せた。このような外国の記事を例にあげるまでもなく、金元大統領の半生はそれこそ韓国現代政治史の生きた辞典であった。
1971年金元大統領が初めて大統領に立候補した時は筆者が釜山(プサン)で陸軍三等陸曹として軍隊に服務している時であった。金大中候補者が釜山(プサン)遊説に来た時は時宜外れの非常事態になり、軍属(軍部隊に勤務する民間人)らまで領内待機しなければならなかった。 しかし朴正煕(パク・チョンヒ)候補者の遊説の時は軍属らは家族らまで連れて部隊にやって来て、軍用車両で遊説会場まで乗せて行った。もちろん一般兵士たちもその日は自由外出だった。
投票は当時不思議にも部隊内ではなくて管轄の町役場で軍人らも投票をした。筆者は迷わず金大中候補者に入れた。朴正煕候補者が嫌いというよりも、朴候補の追従する勢力が露骨で差別的に選挙に介入にすることに対する反抗心がより大きかったといえる。また40代の若い覇気に満ち堂々と大統領に立候補した金大中候補者に対する羨望と同情心があった。その当時私たちは<朝つゆ>を軍歌のようによく歌っていた。
2000年金元大統領がノーベル平和賞受賞者に選ばれたと発表があった日、筆者は大阪に来られた小説家李浩哲(イ・ホチョル)先生らと夕食をとっていた。詩人の金時鐘(キム・シジョン)先生をはじめとして、元秀一(ウオン・スイル)、玄月(ヒョン・ウオル)、金真須美(キム・マスミ)など同胞作家らと<スカンポ>という有名な韓国飲み屋がその場で、楽しく食事をする中、日本のマスコミ関係者も集まった。金元大統領のノーベル平和賞受賞の感想を金時鐘先生に聞くためであった。朝日新聞の音谷記者は私たちに了解をえて金時鐘先生を家にお連れすると言った。翌日の朝刊に金時鐘先生の一文を掲載するためにすぐにでも自宅にお連れして記事を書いていただきたいということであった。私たちはやむを得ず応諾したが。このときに「朝日新聞は堂々とした拉致をする」という筆者の冗談に、その場の一度が大笑したことも記憶に新しい。
また金時鐘先生が50余年ぶりに済州(チェジュ)に帰郷するために先生夫婦と筆者が日までみな決めた時、総領事館でちょっと延期してくれという要請があった。金元大統領が大阪に来られて、同胞らとの晩餐会の時に金時鐘先生を招請するというのが要請の理由だった。それで私たちが計画していた済州行きは遅れてしまった。〔金元大統領の晩餐会招待に〕朝鮮籍で初めて招請受けた金時鐘先生に対して、日本のマスコミは大々的に報道していた。忘れられない金元大統領の思い出の一こまだ。
金元大統領の冥福を祈ります。 <済州(チェジュ)トゥデイ>2009年8月19日より 訳 川瀬俊治
▲著者紹介 作家 1949年12月済州市(チェジュシ)出身。1979年「現代文学」11月号短編「汚染地帯」、1980年<大阪文学学校>1年修了(本科52期)、中編「生野 アリラン」で2005年第7回海外文学賞受賞、2006年小説集「生野アリラン」発刊、2007年「生野アリラン」で第16回海外韓国文学賞受賞。インターネット新聞「済州トゥデイ」でコラム「金吉浩の日本の話」連載中。韓国文人協会、海外文人協会、済州文人協会会員。 現在大阪に住み執筆活動を続けている。
2009年9月 2日
夏史邦の「こりあ・とーく」/金大中さんを悼む/英雄が故郷に入れられるとき
8月23日、ソウルで行われた金大中さんの葬儀に参列させてもらった。月並みになってしまうが、まさに「巨星墜つ」の地響きに全身を打たれたという思いである。
2009年8月31日
<ジャ同エッセー>訃報・金大中元韓国大統領 国葬取材で3日間のソウルへの旅:長沼節夫(ジャーナリスト、写真も)
(写真1)韓国国会議事堂での金大中氏弔問風景(8月22日夜)。
巨星墜つ。韓国の金大中元大統領が2009年8月18日、死去した。1925年生まれの85歳。韓国の軍事政権化で民主化を叫び、それが理由で時の軍事政権から逮捕・軟禁・投獄・死刑判決など数々の迫害を受けながらも生き延び、ついに大統領に選ばれた人物だ。(本稿の一部は「週刊金曜日」8月28日号アンテナ欄とダブります。)
2009年8月29日
金大中さんの国葬に参列して;古野喜政
金大中さんが亡くなった。二〇〇九年八月二三日、ソウル・汝矣島の国会議事堂前広場で国葬が営まれ、参席した。
祭壇の両脇に備えられた大スクリーンに生前の金大中さんの姿が繰り返し映し出された。一九七一年の大統領選、朴正熙との一騎打ちで演説する南山公園での金大中さん。東京から拉致され、顔にケガをした金大中さん。政治決着で談笑する田中角栄首相、大平正芳外相、金鍾泌首相。死刑判決を言い渡された光州事件の軍法会議。
金鍾泌氏と盧泰愚元大統領は、重病で葬儀に姿は見せなかった。金大中さんを殺そうとした全斗煥元大統領が献花する瞬間、スクリーンには緑の獄衣を着せられ、丸坊主にされた金大中さんの無惨な姿が映し出された。
日本政府はなぜ金大中さんを見殺しにしたのだろうか。一時間二〇分の葬儀の間中、私の耳元では「日本政府はなぜあんな解決をしなければならなかったのか」という金大中さんの押し殺した声が響き続けた。
二次にわたる政治決着で、日本政府は主権を放棄し、韓国政府機関による拉致であることを承知の上で金大中さんを見殺しにし、現状回復(金大中さんの再来日)をもとめなかった。その結果、金大中さんは自宅軟禁、逮捕、投獄の日々を送り、七年後には死刑判決を受け、あわや命を落とすところまで追い込まれた。
第一次政治決着から三週間たった一九七三年一一月二三日午後七時から二時間、私はソウル市東橋洞の金大中さん宅の奥の間で話を聞いている。
あの頃、金大中さんの家の中は、どこにいても盗聴されていると考えられていた。ラジオのボリュームをいっぱいに上げ、声は自然と押し殺したようになった。
「自宅監禁中、言葉ではいい表せない目にあった。どこかから電話がかかってくる。電話の横には二四時間捜査員が座っている。だれからかかったのかはいわない。上の息子二人が自宅から軍隊に通っている。その子が帰って来ない。仕事で帰れないと連絡してきたのに教えてくれない。わたしたち夫婦は、ついに子どもも逮捕されたのかとまんじりともせず夜を明かしたことが何度もあった」
「日本政府がなぜあんな解決をしなければならなかったか、わからない。なぜ私を国外に出す約束を取り付けてくれなかったのだろう。日本政府、田中さん(角栄首相)、大平さん(正芳外相)のとった処置は政治家としてそれなりに理解できる。しかし、同じ政治家として、一人の政治家が危険にさらされているのを、どうして救おうとしなかったのか、政治家として、人の命に対する温かみを持ってくれなかったのだろうかと考える」
「なぜ日本政府が強い態度をとらなかったのか。証拠はなく、あくまで情報だが、こんな話をきいた。相当の人から聞いたのだ。自衛隊が事件に関係していたというのだ。問題の探偵社のものは現在行方不明だそうだが、かれらは予備役を装った自衛隊機関員だという。だから金東雲(駐日大使館一等書記官)を割り出し、韓国政府に突き付けたとき、韓国政府は何を言っているのか、と開き直った。調べを受けているいる最中、日本側が私を渡せと言ってきたとき、かれらは私の前でせせら笑っていた」
この夜のメモを今読み返すと、金大中さんがどんな方法でこんな情報を集めていたのか、驚くばかりだ。
私は事件の真相に迫る糸口をつかみ、原稿ができあがろうとしていたときに危篤、続いて訃報が届いたのだった。もう数ヶ月生きてくれていたら、とスクリーンを見上げながら私は執筆の遅れを悔やんだ。
このメモに出で来るように、先妻との間に生まれた長男と二男は当時軍隊にいた。李姫鎬夫人との間に生まえれた三男はまだ国民学校三年生だった。国葬にはこの三人の息子も出席していた。人目を引いたのは長男の弘一さん(六一歳)だった。車椅子に乗って参列していたが、口を開けたまま顔を上向け、遠目に見てもひどい病気であるとわかるほどだった。かんかん照りの式の最中、車いすは木陰に移された。
通信社電は、弘一さんについて長文の記事を配信した。ふくよかで美男子と言われた往年の弘一さんの写真と、知人でさえわからないほどやつれ、パーキンソン病で言葉も失い歩くこともできない弘一さんの写真を並べて掲載。金大中さんの死の翌日、秘書は次のように話したという。一九八〇年五月一八日、金大中さんが内乱陰謀罪に問われ死刑判決を受けたが、この事件でKCIAに逮捕された金弘一さんは「DJ(金大中)はアカだと白状しろ」と強要され、これを拒否すると「激しい拷問を受け、投げ飛ばされ、腰などの神経系統に傷を負い、この後遺症でパーキンソン病を発病したとみられる」と話した。
一九九五年、すでに発病していた弘一さんは国会議員になり三選された。金大中さんの側近からも反対する意見が出たという。こうした声に対して金大中さんは「父親として子供のために何一つしてやれず、弘一は私のために拷問を受け、障害者になった。父親として息子を国会議員にしてやることさえやめろというのか」と断固として拒絶したという話を紹介している。記事は、弘一さんも〝歴史の被害者〟であると書き、「愛し尊敬した父の死に直面して、金弘一前議員が最後にできたのは死力を尽くして〝お父さん〟と叫ぶことだけだった」と結んでいる。
歴史に〝もし〟はないという。あえて〝もし〟を言うなら、日本政府があのとき、国民に約束したように主権侵害行為にたいする国際慣例に則って金大中さんの原状回復を求めておれば、韓国の歴史は違ったものになったかもしれない。少なくとも、金弘一さんが車いすで国葬の場に参列することはなかった。
田中角栄政権以来、日本には数えきれない政権が誕生した。金大中事件について言えば、どの政権も真相究明のためまったく動こうともしなかった。金大中さんが死んだ日の新聞紙面は、これで事件の真相は闇に包まれたまま終わるだろうという論調だった。だが、私は主権を放棄してまで歴代政権が守ろうとしたものは何だったか、その解明を新しい政権にもう一度期待したいと思う。
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