寄稿

2009年11月14日

蛇行社通信「明るい花を咲かせよう」:吉田智弥

 吉田智弥さんの個人誌「蛇行社通信」12月号の巻頭エッセーを転載します。
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 「明るい花を咲かせよう」

10月の初めに 『明るい花を咲かせよう』 という冊子を発行した。下市中学は「障害」を理由に谷口明花さんの入学を拒否したが、その「事件」の問題点をまとめて、今後の討議資料として活用してもらおうと編集したものである。
 その中に「インターネットの掲示板などに書き込まれた意見」を掲載している。全文は冊子を参照して頂くとして、以下のABCはその一部を抜粋したもの。
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A「こういう言い方すると誤解を招くけれど、「強いものが弱いものに合わせる社会」は いずれ滅びると思う。なにしろどんどん弱くなるから。もちろん程度にもよるが、彼女 の場合は周囲にかかる負担が大きすぎるような気がする」。
B「そもそも手足の一本欠如しているとかではなく、脳性マヒで両足と片手が使えなくて 普通の子供と同じ学校に通って楽しいの?」 
C「難しい問題ですね。現実問題、お金でしょう。障害の子も普通に教育を受ける権利は あるのと同様、健常な子も、普通に教育を受ける権利があるのです。その子一人のため に、多くの生徒が不利益を受けるのです」。
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パソコンのネット空間にあふれる上記のような文言は、二重の意味でとても読み切れない。第一に、量が多すぎて「読み切れない」。第二に、少し読むだけで心が疲れる。ため息が出て「読み切れない」。標的にされている当事者には尚更だろう。
だが、これらの匿名の「意見」については、それがいかに差別的で無内容であったとしても、無視すればよいというものではない。〈 障害者は我慢すべきだ 〉 という考え方は単なる「ネット右翼」の謬論(びゅうろん)にとどまらないからである。
上記ABCの「意見」は偶然目についたものなので、これらで同種の反応の全てを代表させるわけにはいかないが、基本的な点で共通している部分がある。
 一つは、これらは教室の中のイジメと同じ理屈だということである。「強い」「普通の」「多くの」集団の利益がすべての判断の基準になっている。ここでは加害者側であるが、日常的には彼らは「イジメられっ子」か、又はその予備軍である可能性も大きい。自分が助かるためにより弱い立場の者を攻撃する、そうした性向が身についているのだ。
二つめは、実際に「障害をもつ」友人がいないことである。だから自分のイメージの中の「弱い立場」の障害者に同情することはできても、自己主張をする障害者を認めることができない。ABCらが少しの「負担」「不利益」でも避けようとするのは、毎日の学校生活がすでに限度いっぱいの「負担」「不利益」を彼らに強いているからである。
 これらは「障害者」問題である以上に、「健常者」にとってより深刻な問題である。
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以上

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2009年10月13日

寄稿「自著を語る」:金子マーティン(日本女子大学教員)

 オーストリア人著述家ルードウィク・ラーハの編著作『私たちは存在すべきではなかった』の日本語訳を2009年夏に発表したが、その解説本である拙著『「スィンティ女性三代記(上)」を読み解く』も出版社(凱風社)は同時に刊行した。同書で訴えたかったことは二点に尽きるのだが、その一点についてのみここで言及する。

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2009年9月14日

障害者用駐車施設の存在とその現状:中川昌紀

奈良市内で身体に重い障害を持っている人が入所している施設と深い関わりを持っている。利用者の中には介護が必要なため出かける機会があまりない人も多い。深いお付き合いがある利用者とは、買い物や食事など必要に応じて個人外出をしている。

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2009年8月29日

金大中さんの国葬に参列して;古野喜政

 金大中さんが亡くなった。二〇〇九年八月二三日、ソウル・汝矣島の国会議事堂前広場で国葬が営まれ、参席した。
 祭壇の両脇に備えられた大スクリーンに生前の金大中さんの姿が繰り返し映し出された。一九七一年の大統領選、朴正熙との一騎打ちで演説する南山公園での金大中さん。東京から拉致され、顔にケガをした金大中さん。政治決着で談笑する田中角栄首相、大平正芳外相、金鍾泌首相。死刑判決を言い渡された光州事件の軍法会議。
 金鍾泌氏と盧泰愚元大統領は、重病で葬儀に姿は見せなかった。金大中さんを殺そうとした全斗煥元大統領が献花する瞬間、スクリーンには緑の獄衣を着せられ、丸坊主にされた金大中さんの無惨な姿が映し出された。
 日本政府はなぜ金大中さんを見殺しにしたのだろうか。一時間二〇分の葬儀の間中、私の耳元では「日本政府はなぜあんな解決をしなければならなかったのか」という金大中さんの押し殺した声が響き続けた。
 二次にわたる政治決着で、日本政府は主権を放棄し、韓国政府機関による拉致であることを承知の上で金大中さんを見殺しにし、現状回復(金大中さんの再来日)をもとめなかった。その結果、金大中さんは自宅軟禁、逮捕、投獄の日々を送り、七年後には死刑判決を受け、あわや命を落とすところまで追い込まれた。
 第一次政治決着から三週間たった一九七三年一一月二三日午後七時から二時間、私はソウル市東橋洞の金大中さん宅の奥の間で話を聞いている。
 あの頃、金大中さんの家の中は、どこにいても盗聴されていると考えられていた。ラジオのボリュームをいっぱいに上げ、声は自然と押し殺したようになった。

「自宅監禁中、言葉ではいい表せない目にあった。どこかから電話がかかってくる。電話の横には二四時間捜査員が座っている。だれからかかったのかはいわない。上の息子二人が自宅から軍隊に通っている。その子が帰って来ない。仕事で帰れないと連絡してきたのに教えてくれない。わたしたち夫婦は、ついに子どもも逮捕されたのかとまんじりともせず夜を明かしたことが何度もあった」
「日本政府がなぜあんな解決をしなければならなかったか、わからない。なぜ私を国外に出す約束を取り付けてくれなかったのだろう。日本政府、田中さん(角栄首相)、大平さん(正芳外相)のとった処置は政治家としてそれなりに理解できる。しかし、同じ政治家として、一人の政治家が危険にさらされているのを、どうして救おうとしなかったのか、政治家として、人の命に対する温かみを持ってくれなかったのだろうかと考える」
「なぜ日本政府が強い態度をとらなかったのか。証拠はなく、あくまで情報だが、こんな話をきいた。相当の人から聞いたのだ。自衛隊が事件に関係していたというのだ。問題の探偵社のものは現在行方不明だそうだが、かれらは予備役を装った自衛隊機関員だという。だから金東雲(駐日大使館一等書記官)を割り出し、韓国政府に突き付けたとき、韓国政府は何を言っているのか、と開き直った。調べを受けているいる最中、日本側が私を渡せと言ってきたとき、かれらは私の前でせせら笑っていた」
  
 この夜のメモを今読み返すと、金大中さんがどんな方法でこんな情報を集めていたのか、驚くばかりだ。
 私は事件の真相に迫る糸口をつかみ、原稿ができあがろうとしていたときに危篤、続いて訃報が届いたのだった。もう数ヶ月生きてくれていたら、とスクリーンを見上げながら私は執筆の遅れを悔やんだ。
 このメモに出で来るように、先妻との間に生まれた長男と二男は当時軍隊にいた。李姫鎬夫人との間に生まえれた三男はまだ国民学校三年生だった。国葬にはこの三人の息子も出席していた。人目を引いたのは長男の弘一さん(六一歳)だった。車椅子に乗って参列していたが、口を開けたまま顔を上向け、遠目に見てもひどい病気であるとわかるほどだった。かんかん照りの式の最中、車いすは木陰に移された。
 通信社電は、弘一さんについて長文の記事を配信した。ふくよかで美男子と言われた往年の弘一さんの写真と、知人でさえわからないほどやつれ、パーキンソン病で言葉も失い歩くこともできない弘一さんの写真を並べて掲載。金大中さんの死の翌日、秘書は次のように話したという。一九八〇年五月一八日、金大中さんが内乱陰謀罪に問われ死刑判決を受けたが、この事件でKCIAに逮捕された金弘一さんは「DJ(金大中)はアカだと白状しろ」と強要され、これを拒否すると「激しい拷問を受け、投げ飛ばされ、腰などの神経系統に傷を負い、この後遺症でパーキンソン病を発病したとみられる」と話した。
 一九九五年、すでに発病していた弘一さんは国会議員になり三選された。金大中さんの側近からも反対する意見が出たという。こうした声に対して金大中さんは「父親として子供のために何一つしてやれず、弘一は私のために拷問を受け、障害者になった。父親として息子を国会議員にしてやることさえやめろというのか」と断固として拒絶したという話を紹介している。記事は、弘一さんも〝歴史の被害者〟であると書き、「愛し尊敬した父の死に直面して、金弘一前議員が最後にできたのは死力を尽くして〝お父さん〟と叫ぶことだけだった」と結んでいる。
 
 歴史に〝もし〟はないという。あえて〝もし〟を言うなら、日本政府があのとき、国民に約束したように主権侵害行為にたいする国際慣例に則って金大中さんの原状回復を求めておれば、韓国の歴史は違ったものになったかもしれない。少なくとも、金弘一さんが車いすで国葬の場に参列することはなかった。
 田中角栄政権以来、日本には数えきれない政権が誕生した。金大中事件について言えば、どの政権も真相究明のためまったく動こうともしなかった。金大中さんが死んだ日の新聞紙面は、これで事件の真相は闇に包まれたまま終わるだろうという論調だった。だが、私は主権を放棄してまで歴代政権が守ろうとしたものは何だったか、その解明を新しい政権にもう一度期待したいと思う。 

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2009年8月28日

エッセー 継いでいかなければ;朴明子

エッセー

「金大中」という名を知ったのは、多くの人と同じように1973年8月、日本に滞在していた金大中氏が東京のホテルから拉致された時である。

丁度その頃、朝鮮民主主義人民共和国から国立マンスデ芸術団が初めて来日し、全国を公演して回っていた。100名以上の規模だったと思う。当時大阪の同胞の病院に勤めていた私は、マンスデ芸術団が名古屋で公演の間、芸術団員の健康管理のために名古屋に赴いた。名古屋の都ホテルを宿に3,4日の滞在だった。
初めて母国のオペラや舞踊を間近に見て、そのあでやかで美しい芸術に魅了された。しかしその陰で出演者の厳しい練習があることも知ることとなった。
朝鮮舞踊は膝をゆっくり曲げる動きがあり、膝に負担が掛かってくる。氷の上を滑っているような滑らかな動きは、長いチマ(スカート)の中で、脚がすばやく小刻みに動いているのだ。多くの舞踊家が膝を痛めていた。微笑を浮かべながら踊りを見せてくれる女性たちは公演が終わる度に、にわかこしらえの医務室にやって来た。私は膝に電気治療をしたり、湿布を貼ったりしてあげた。オペラで主人公を演じる女性も、群舞の中央で踊っている人も言い合わせたように控えめだった。私のようにがさつな女性は一人もいなかった。私は母国語が下手だったから、思うように意思疎通が図れなかったのが残念だった。
マンスデ芸術団来日後、朝鮮民主主義人民共和国からいろんな芸術団がやって来た。あの頃に比べると両国の関係はうんと悪くなっている。なんと悲しいことだろう。

その名古屋にいた時「金大中事件」が起きたからよく覚えている。マンスデ芸術団の団長が遺憾な出来事、と声明を発表した。私はそれから韓国の民主化運動に目を向け始めたのかもしれない。氏はその後も波乱万丈の人生だった。軍事政権下で獄に繋がれた他の良心囚たちをも含めて釈放を願う運動が日本でも繰り広げられた。
金大中氏が命を掛けて実現しようとした韓国の民主化と祖国統一。
あれから30余年、私はいろんなところにシニア料金で入れる年になったが祖国統一の気運は、近づいては遠退くの繰り返しだ。

「国の巨木」といわれた氏が逝ってしまったらどうなるのか。しかし、その懸念は無用かもしれないと韓国のテレビニュースを見て思う。
大統領退任後、国葬で営まれるのは初めてという。例外を作ってはならないという意見もあったらしいが、国民の望む声はそれを押し切ったのだろうか。ソウルの焼香場には9万2000人余が訪れた。ものすごい数だ。それらの様子を40分ほどのニュースの間、30分以上割いて報道していた。インタビューに答えて、むしろ自分の夫や息子が逝った方が良かったと言った人がいた。それを見て、以前国宝の「南大門」が焼失した時に、自分の家が焼ければよかったのにと言った人がいたのを思い出した。封建時代じゃあるまいし、日本人には考えられないコメントだろう。
国を思う気持ちの何と強いことか。かつて国を奪われた亡国の民がいかに惨めなものかを身に沁みて感じているから、民主国家の成立にどれほど多くの犠牲が払われたか、人々は知っているからこんな言葉が口をついて出るのだろうと私は思う。
偉大な人を失ったが、その遺志を継がなければならないという決意を抱いていることを窺わせる人々の姿だった。何があってもその決意が萎えることが無いことを祈りたい。

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2009年8月12日

本澤二郎の「日本の風景」(220)

<右翼片肺政権の最後っ屁>
 8月12日は日航機墜落事故から24年になる。その日を覚えている。筆者もメンバーだった在京政治部長会は、中曽根総理と軽井沢でゴルフをしていたからである。軽井沢とそう遠くないところで520人がなくなった大惨事である。中曽根バブルが始動した年でもあった。ここから日本は5年ほど浮かれて失墜した。


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2009年7月 7日

<エッセー> 「神戸元気の集い」:朴明子

 「KOBE観光特使」という肩書きを持っている人たちが、全国に400余人存在する。6年前から神戸市が2回、全国から募集し神戸大好き人間に「特使」の認定をしたものだ。 多くの人に足を運んでもらえるよう神戸の良さをPRするという役割を持つが、他に特別な規定は無い。私もその1人だが、先だってその特使の何分の一かが神戸に集まった。

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2009年7月 2日

臓器移植法の逆立ち:吉田智弥

吉田智弥さんの個人紙「蛇行社通信」最新号からの転載です。テーマは「臓器移植」です。

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2009年6月15日

丹波マンガン記念館の思い出:A・Y

 五月三一日に閉館した京都の丹波マンガン記念館の思い出を、読者から寄稿をいただいた。以下紹介します。

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2009年6月 3日

「裁判員制度への向き合い方」:吉田智弥

 吉田智弥さんの個人紙「蛇行社通信」最新号(第Ⅱ期17号)からの転載です。「裁判員制度への向き合い方」と題するエッセーです。

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2009年5月22日

エッセー 神戸の昨日、今日:朴明子

 うちのすぐ近くに兵庫県庁と兵庫県警がある。いま、この役所関係の人たちの出勤する時間帯に出くわすと、今風の表現で言えば「引いてしまう。」
 電車の駅からゆるい坂道を登ってくる人たちは、みんなマスクを付けている。

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