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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/no23.html">
<title>映写室　新NO.23「パリ･オペラ座のすべて」＆「アニエスの浜辺」:犬塚芳美</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/28/</link_daily>
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<description>　　　　―フランスからのドキュメンタリー2本― 　今週は2本のドキュメンタリーです。両方ともフランス作品で、男女2人の巨匠が、これぞ芸術の世界を熟達の技で描きます。「パリ･オペラ座のすべて」は、題名どおりにパリ・オペラ座を拠点とする世界最高...</description>
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<![CDATA[<p>　　　　<strong>―フランスからのドキュメンタリー2本―</strong></p>

<p>　今週は2本のドキュメンタリーです。両方ともフランス作品で、男女2人の巨匠が、これぞ芸術の世界を熟達の技で描きます。「パリ･オペラ座のすべて」は、題名どおりにパリ・オペラ座を拠点とする世界最高峰のバレエ団の練習風景と活躍を、フレデリック・ワイズマンならではの肉薄と構成力で。「アニエスの浜辺」もまた題名どおりに、アニエス・ヴェルダが浜辺を舞台に、夢と現の境界で遊ぶ自身を描いた自画像映画だ。前者が芸術と芸術家の本質に迫っていく職人技の端整さなら、後者はクリエイターならではの洒脱な世界。映画で芸術を見るか、映画で芸術するかと、ある意味対照的で、今更ながらにフランスの芸術分野の多様さに驚く。</p>

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</p>]]>
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<dc:date>2009-10-28T08:50:29+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/no22.html">
<title>映写室　新NO.22「きみがぼくを見つけた日」＆「アンナと過ごした４日間」:犬塚芳美</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/21/</link_daily>
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<description>　　　　　―究極の二つの愛の形― 　今週はちょっと風変わりな設定の、二つの愛の物語です。アメリカ映画の「きみがぼくを見つけた日」は、体が勝手に時空を超えてしまう男と、そんな男を愛する妻との切ない物語。ポーランド映画の「アンナと過ごした４日間...</description>
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<![CDATA[<p>　　　　　<strong>―究極の二つの愛の形―</strong></p>

<p>　今週はちょっと風変わりな設定の、二つの愛の物語です。アメリカ映画の「きみがぼくを見つけた日」は、体が勝手に時空を超えてしまう男と、そんな男を愛する妻との切ない物語。ポーランド映画の「アンナと過ごした４日間」は、片思いの男のとる驚愕の行動を切なく描写。ハリウッド的な広がりのある豪華な映像と、ヨーロッパ映画らしい絵画的で重い映像という作風の違いだけでなく、時を越えて求め合う魂と一方通行のまま４日間で終わる至福の時と、愛の形や期間も対照的だ。<br />
　<strong>＜形は違っても＞</strong>、それぞれに感じるのは究極の愛。当人だけでなく他者から見ても愛は切ない。あのひと時は夢か現かと、主人公と共に戸惑う。脚本の巧みさ、設定の妙と、どちらも捨てがたいけれど、2本のどちらにより惹かれるかが嗜好の分かれ目だ。</p>

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<dc:date>2009-10-21T08:16:14+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/ken-5.html">
<title>◆現代時評：「お役所仕事は旧態依然」　　Ken</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/20/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/ken-5.html</link_Individual>
<description>■■アサヒコム　2009．10.14　　　松沢成文（神奈川県）知事は１３日の記者会見で、来年４月から県庁全体で残業をなくすことを目指す「残業ゼロ革命宣言」をした。試行的に今年度中に取り組み始める。都道府県では初の試みという。　...</description>
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<![CDATA[<p>■■アサヒコム　2009．10.14　　　松沢成文（神奈川県）知事は１３日の記者会見で、来年４月から県庁全体で残業をなくすことを目指す「残業ゼロ革命宣言」をした。試行的に今年度中に取り組み始める。都道府県では初の試みという。　</p>]]>
</content>
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<![CDATA[<p>◆◆松沢知事は「仕事と生活の調和を図るワークライフバランスに率先して取り組むためで、人件費の削減が目的ではない」と説明する。具体的にはフレックスタイムを採り入れ、上司への報告書は紙１枚でまとめるなど、効率的に仕事を進めることを目指す。戦国七雄の「韓」の王、昭侯が学者「申不害」に国を治める方法を問うた。すると申は「君たるものよく為さじ、よく知らず」と答えた。つまり法を整備しておきさえすれば、王は何もしなくても国は自然に治まると言うのだ。　１こで昭侯は申不害を宰相にし、取りあえず韓はよく治まった。　史記のなかの話で、この一派を「法家」といい、孔子らの「儒家」よりも少し前のことである。　</p>

<p>◆◆日本の明治維新後もどうやらその「法家」を倣ったらしく、大いに法を整備し、その実務担当者としていわゆる「事務官」を量産した。　その養成機関が、いまなおわが国多くの大学に形骸を留める「法学部」であると、ボクは解している。　いったん法さえ完備すれば、それを忠実に実行するだけなら必ずしも有能な「事務官」である必要はなく、単なる「事務員」でもいいわけで、そこからいまの事務員という言葉が生まれた。　その事務員が、いま日本の官庁には大量に存し、日々取り敢えず、そつ無くお役所仕事をこなしている。</p>

<p>　ところがこの役所の事務員たち、むかしからの決まった仕事をきまった手順でするばかりで、それが時代の変化に合わぬことなど理解しようともしないし、まして仕事の能率など大事と思ってもいない。　それでも毎日、残業手当だけたんまり受け取っている。　ボクはかねがねこのことを疑問に思ってきた。　それをいまようやく松沢神奈川県知事が具体的に指摘し、「残業ゼロ革命宣言」をしはじめたという。　民間会社ではすでに多くが実行していることだ。</p>

<p>　親方日の丸の役所だから遅かったが、遅すぎることはない。　全国の役所がその気になって「残業ゼロ運動」を始めてほしい。それだけで、だいぶ役所の経費が節約できることは自明である。　たまに役所へ行くと、非能率きわまる昼間の仕事振りが垣間見られる。　どうやら、残業というエキストラ収入が欲しさに、昼間の仕事を時間外まで残しておいているようだ。</p>

<p>◆◆ボク、現役で会社を経営していたころ、こうした残業稼ぎの社員たちをしばしば見かけた。　あるとき意を決して、全社員に「明日から会社は残業代をいっさい拒否する。　が、無料サービス残業したい社員の残業は大いに歓迎する」と申し渡した。　すると驚いたことに、毎日夜の９時ごろまで残業していた社員たちの殆どが、午後５時定時にさっさと帰宅するようになった。　それでいて、会社の業務にはいっさい支障がなかった。　おそらく役所仕事も同様であろう。</p>

<p>◆◆もう一つ思い出がある。　先年、ボクはあるボランタリー公益団体を創った。　創立総会の景気付けに地方首長の祝電を貰うべく、役所を訪ねた。　すると、そこの総務部の課長が言う、「なるべくページ数の多い趣旨説明兼事業計画書をつくり、＜祝電お願い＞の文書を提出して<br />
欲しい。　文章は長ければ長いほどよい、少なくとも１センチ以上の厚みがある書類が望ましい」。　これは聊か面倒だ、なにしろ今から始める新団体だから、書くべき内容も、いまのところあまりない。　だいいちそのような煩雑な書類は作る方も、読む役所側も労働時間に無駄がと<br />
もなう。<br />
　ところが、こちらの新団体役員に名を連ねる予定の一人が、こうしたお役所仕事に通暁していて、「私が書きましょう」と簡単に言う。「知事自身は多忙でそのような願い書に目を通すとは思えぬし、内容を真剣に吟味する役人など居ないから中身など皆無でいい、決まりきった定型文句の冗長な文書を作るのに私は慣れている」。</p>

<p>　ということで、然るべき願い書を作成し、提出した。　それについては、役所から何のコメントも照会も無かった。　しかし創立総会には、会場のホテル気付けで、麗々しい知事の祝電が送られてきたのはもちろんであった。</p>

<p>◆◆いま、松沢神奈川県知事の「上司への報告書は紙１枚でまとめよ」という通達をニュースで知って、なるほど、よほどきつく申し渡しておかなないと、役所の文書などはついつい繁文縟礼になり、労働力の不当浪費に直結するものである、と思い当たった。</p>

<p>　役所の人員削減などは、分限令との兼ね合いもあり難しい。それに、旧自治労の幹部連中がおおぜいいまの民主党の幹部の中に潜り込んでいる実態からして、鳩山内閣も公務員の減員に難渋するだろう。　大阪の橋下知事も役人の減給にはいっときバトルを繰り返していた。　私見では、いちばんいい方法は、公務員が定期退職したあと補充をしないことだ。　そのためには先ず予備行動として、普段から公務員には不要不急の業務をさせず、つねに余裕ある勤務状態にとどめておくことである。</p>

<p>　さもなければ、かれら役人どもは「仕事が多過ぎて困るから、補充採用してくれ」と、ついつい言いつのるものである。 </p>]]>
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<dc:date>2009-10-20T12:01:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/no21.html">
<title>映写室　新NO.21「ヴィヨンの妻～桜桃とタンポポ～」&amp;「パンドラの匣」：犬塚芳美</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/14/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/no21.html</link_Individual>
<description>　　　　　　―太宰治生誕100年に送る、映画化作品2本― 　＜2009年は、太宰治の生誕100年＞に当る。この後も「斜陽」、「人間失格」と太宰文学を原作とする映画の公開が控えているが、まずは対照的なこの2本だ。対照的といっても、ちょっと気取...</description>
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<![CDATA[<p>　　　　　　<strong>―太宰治生誕100年に送る、映画化作品2本―</strong></p>

<p>　<strong>＜2009年は、太宰治の生誕100年＞</strong>に当る。この後も「斜陽」、「人間失格」と太宰文学を原作とする映画の公開が控えているが、まずは対照的なこの2本だ。対照的といっても、ちょっと気取った言葉のやり取りと、そこから生れる間合いの美しさは共通している。太宰に重なる男の魅力と、女にもてたと言う作家の視点で描く女性たちのたおやかな美しさもそうだ。鮮やかな映像が私の中で時々セピアに揺らぐ。<br />
　<strong>＜終戦前後の世相を濃密に描きながら＞</strong>、どちらの作品の人物像にも今を感じるのは、監督の工夫と共に太宰文学の普遍性だと思う。映画の魅力だけでなく、底流を流れる夭逝作家の魅力にも惹かれる。久しぶりに太宰を読みたくなった。この秋、文芸の世界にいざなう2本です。<br />
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</p>]]>
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<dc:date>2009-10-14T07:25:41+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/post-61.html">
<title>寄稿「自著を語る」：金子マーティン（日本女子大学教員）</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/13/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/post-61.html</link_Individual>
<description>　オーストリア人著述家ルードウィク・ラーハの編著作『私たちは存在すべきではなかった』の日本語訳を2009年夏に発表したが、その解説本である拙著『「スィンティ女性三代記（上）」を読み解く』も出版社（凱風社）は同時に刊行した。同書で訴えたかった...</description>
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<![CDATA[<p>　オーストリア人<a href="http://www.ludwig-laher.com">著述家ルードウィク・ラーハ</a>の編著作『私たちは存在すべきではなかった』の日本語訳を2009年夏に発表したが、その解説本である<a href="http://www.j-net.obei.jp/files/gaifu-shinnkann.pdf">拙著『「スィンティ女性三代記（上）」を読み解く』</a>も出版社（凱風社）は同時に刊行した。同書で訴えたかったことは二点に尽きるのだが、その一点についてのみここで言及する。<br />
</p>]]>
</content>
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<![CDATA[<p>   その一点とは、「ジプシー」などの他称＝蔑称で呼ばれるロマの発祥の地がインドであるという起源説の正当性である。それを突き止めたのは「ツィゴイナーの言語とそのインド起源について」を1782年に著した比較言語学者のJ.C.C.リュディガー（Rüdiger, 1751-1822）である。古くからある説すべてが誤認であるわけでもないだろう。「雑多な民族の混合体」が「ジプシー」だとの主張は16世紀初頭からあり、ナチスも同じ説と唱えた。</p>

<p>　現在、その説を掘り起こし「新説」として蒸し返す数名の研究者がいる。その急先鋒はイギリスのジュディス・オークリとオランダのウィム・ウィレムスだが、その立場に偏向した日本人研究者もいる。「ジプシーと呼ばれる人たちの起源は雑多な出自の貧民・流民層にある」との説は「いまだ試論の域を出ない」との冷静な判断を2006年段階でしていたその研究者は、翌年ある出版社を訪れ、「ジプシーを『インド起源の放浪民族』とした」ため、「もはや時代遅れとなった旧版『ジプシー』に代えて新版を出してはどうか」と提案し、出版社がそれを快諾したという。そして、ニコル・マルティネス著（水谷驍＆左地亮子訳）『ジプシー』が白水社から刊行された。だが、その訳本の原書にしても二十数年前の刊行であり、「時代錯誤」もはなはだしいうえ、少なからぬ誤認を含む。さらに「近親結婚」｢法犯罪率｣「精神的退行性」「無気力」「中毒症」などを「ジプシー社会」の特徴として挙げる差別本でもある。「ジプシー／ロマ懇話会主宰」である訳者の水谷驍氏は、「訳者のあとがき」でその本が「ジプシーと呼ばれる人びとの理解に貢献することができれば幸い」と述べているが、どのような「ジプシー理解」を望んでいるのだろうか。ロマが集団として生活していない日本国でも、その少数民族に対する偏見と差別感だけは根強いものがある。日本へ初めて来たロマの名称は「西洋穢多」だった（『京都日出新聞』1901年9月17日）。</p>

<p>　インド北西部から数百年かけたヨーロッパまで移動したロマが「純血民族」であろうはずはないだろう。そもそも、そのような民族はこの世に存在しない。ロマはその移動課程で雑多な人々を吸収し、それらの人々もロマ社会に同化していった。経済的理由から子どもの育児が困難だった極貧の多数派住民が自分の子どもをロマに託したり、多数派の未婚女性が産んだ子どもをロマが引き取った例などが、『私たちは存在すべきではなかった』にも紹介されている。血縁関係がないそれらの子どもたちもロマの子どもたちと分け隔てなく育てられ、ロマ社会に同化した。そして、それらの子どもたちは多数派住民から、当然のように「ジプシー」とみなされた。ロマの先祖がインド起源の人間を核にしていようと、数百年のあいだに多様な人々がロマ社会に吸収され、その社会の構成員となった。ロマ社会は閉鎖的だと言われるが、実際はそうでないため、それが可能だったのだ。ロマの起源を「雑多な社会的脱落者の集合体」と決めつける説は、あまりにも乱暴な論だと考える。</p>]]>
</content>
<dc:date>2009-10-13T14:40:28+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/usb-1.html">
<title>映写室　「USB」奥秀太郎監督インタビュー（後編）：犬塚芳美</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/10/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/usb-1.html</link_Individual>
<description>　　　　―「愛の進化論。」とは？― ＜昨日の続き＞ ―お二人ともお出になるだけで映像に物語を感じるというか、独特の存在感がありますものね。どんな役もこなす桃井さんは今回普通の母親、日常性との繋ぎ役でした。 奥：普段奇抜な役をやることの多い方...</description>
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<![CDATA[<p>　　　　<strong>―「愛の進化論。」とは？―</strong></p>

<p>＜昨日の続き＞<br />
<strong>―お二人ともお出になるだけで映像に物語を感じるというか、独特の存在感がありますものね。どんな役もこなす桃井さんは今回普通の母親、日常性との繋ぎ役でした。</strong><br />
<strong>奥：</strong>普段奇抜な役をやることの多い方なんで、逆に母親をやったら面白いかなと。<br />
<strong>―その母親は息子の事をどこまで解っているのでしょう。監督の設定では？</strong><br />
<strong>奥：</strong>僕の中では、ある程度のことまでは解かっていて許している設定です。ただ、母親が思っている以上のことを息子はやっていますよね。母親はさすがに人を殺しているとまでは思わないけれど、色々な事をやっているんだろうなあと感じながら、気がつかない振りをしていると。母と子ってそんなところがあるじゃあないですか。感じてはいるんだけれど、口に出せない。子供として庇護し、心配しながら見逃しているというか...。</p>

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</p>]]>
</content>
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</content>
<dc:date>2009-10-10T09:07:52+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/usb.html">
<title>映写室　「USB」奥秀太郎監督インタビュー（前編）</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/09/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/usb.html</link_Individual>
<description>　　　　―愛の進化論。― 　一時ニュース映像に頻繁に流れた奇形のタンポポは、どうしてああなったのだろう？　以前に核燃料の再処理過程で臨界事故を起こした町は、今どうなっているのだろう？　一見平和そうな町の、見えないところで進んでいく環境破壊。...</description>
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<![CDATA[<p>　　　　<strong>―愛の進化論。―</strong></p>

<p>　一時ニュース映像に頻繁に流れた奇形のタンポポは、どうしてああなったのだろう？　以前に核燃料の再処理過程で臨界事故を起こした町は、今どうなっているのだろう？　一見平和そうな町の、見えないところで進んでいく環境破壊。放射能や化学物質という文明が生んだ異物は、遺伝子レベルで猛威を振るっている。地球に未来はあるのか？　私たちの、恋人達の未来は？　そんな明日の見えない現代社会に、日本映画界の異端児と呼ばれた監督が、「愛の進化論。」を投げかけます。舞台映像を多く手がける奥秀太郎監督に、この作品の誕生秘話や多彩な出演者等について伺いました。</p>

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</p>]]>
</content>
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</content>
<dc:date>2009-10-09T08:45:28+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/post-58.html">
<title>徒然のサハリン「選挙の話」：オリホヴィク　美香</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/07/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/post-58.html</link_Individual>
<description>　ユジノサハリンスクでは、最近、街の美化事業が盛んに行われています。アパート群の空き地には子供の遊具が設置され、古いアパートの外壁修理、道路整備などが行われています。今年は10月中旬に市長と市議会議員選挙があるので、実績を作るためだというの...</description>
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<![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/contributor/images/091007-1mo.jpg"><img alt="091007-1mo.jpg" src="http://j-net.obei.jp/contributor/assets_c/2009/10/091007-1mo-thumb-130x97-557.jpg" width="130" height="97" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>　ユジノサハリンスクでは、最近、街の美化事業が盛んに行われています。アパート群の空き地には子供の遊具が設置され、古いアパートの外壁修理、道路整備などが行われています。今年は10月中旬に市長と市議会議員選挙があるので、実績を作るためだというのが大方の見方です。今まで私利私欲を貪られていた分がようやく普通に使われているようです。半年ごとに選挙があれば、かなり早くこの街は住みよくなるだろうねと皆言っています。地域暖房も10月1日からほぼぴったり始まりました。でも、前回の選挙の年には、選挙後にしばらく暖房が止まったということがありましたから、どうなるやら・・・・。<br />
</p>]]>
</content>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/contributor/images/091007-2mo.jpg"><img alt="091007-2mo.jpg" src="http://j-net.obei.jp/contributor/assets_c/2009/10/091007-2mo-thumb-130x97-559.jpg" width="130" height="97" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>　こちらの選挙運動の多くは、街頭の広告とチラシです。資金が潤沢にある党や候補者は地元テレビや新聞に広告を出します。現職の市長候補はロシア与党の支持を得ていて、うちの大学の総長がその政党の幹部なので、大学に演説をしにやってきます。（その時は授業はみんなキャンセルで動員がかかるので、ちょっと迷惑。）選挙戦も後半になると、中傷合戦がはじまり、連日のように色々な候補者を中傷誹謗するチラシがアパートの郵便受けに入ってきます。どこまで本当でどこまで嘘かは分りませんが、この内容が部外者の私などには結構おもしろいのです。誰それは、何とかの事業でいくら着服したかとか、どこそこからワイロをもらっているとか・・・・。こういうものは、国政選挙より地元の方がずっと身近でおもしろいものです。</p>

<p>　投票は、学校などを会場に行われます。選挙はお祭りで、私の勤める大学も投票所になるのですが、風船や花を飾りとてもにぎやかです。時間内には民族アンサンブルのコンサートが行われたりもします。今年は若者の関心を集めるため、当日の夜、結構有名なDJを呼んで野外大ディスコ大会が行われるのですが、18歳以上25歳以下の人が対象で投票をすると入場券がもらえるということになっています。若年層の投票率を上げるというのは、大変なのです。</p>

<p>　さて、ロシアの選挙は私には権利がないのですが、日本の国政選挙については「在外選挙」という制度があり、外国に住む私たちにも参政権があります。ただし、こちらでの投票は告示後２、３日後に２日間程度で行われるのです。今年の夏のように国会解散から告示まで長い期間があればよいのですが、どんな政党があって、だれが立候補していて、どんな政策を掲げているかじっくりと調べる時間がないのです。もちろん、こちらの投票所では自分の選挙区にはどんな政党や候補者がいるかは掲示されませんので、自分で調べていかなければなりません。投票用紙を封筒詰めにし、東京まで総領事館の職員が運び、各選挙区の選管へ郵送されるという、万事手作業なので、このような日程でないと日本の投票日に合わせることができないらしいのですが、この高度情報化の時代、なんとかならないものでしょうか。外国に住んでいるからこそ、真剣に日本の将来を案じている人もいるのです。</p>]]>
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<dc:date>2009-10-07T11:11:55+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/no20.html">
<title>映写室　新NO.20私の中のあなた：犬塚芳美</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/07/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/no20.html</link_Individual>
<description>　　　　―姉のドナーとして生まれてきた妹― 　「My　Sister&apos;s　Keeper」という原題の前に「I am 」を付けると、この映画の内容を正確に現す事になる。そう、白血病の姉の命は、彼女のドナーとなれるよう遺伝子操作して生れてきた「I...</description>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p>　　　　<strong>―姉のドナーとして生まれてきた妹―</strong></p>

<p>　「My　Sister's　Keeper」という原題の前に「I am 」を付けると、この映画の内容を正確に現す事になる。そう、白血病の姉の命は、彼女のドナーとなれるよう遺伝子操作して生れてきた「I」、つまり妹にかかっているのだ。生れる前から臓器提供が目論まれているなんて、何だかぞっとする話だけれど、病気の娘を救おうと必死の母親には、もう一人の娘の人権が見えない。現実離れしていそうで、医学の進歩した今、起りそうな話でもある。親子、姉妹の情愛だけでなく、命に絡んで幾つもの倫理問題を考えさせられた。</p>

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</content>
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</content>
<dc:date>2009-10-07T08:54:33+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/ken-4.html">
<title>◆現代時評：「内需拡大か外需期待か」　Ken</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/06/</link_daily>
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<description>■■　Nikkeinet 2009.9.29 世界銀行のゼーリック総裁は28日、ワシントンで講演し、日本経済について「旧来の輸出主導の成長が、米国の個人消費に依存しない世界経済の中で持続可能かどうかは不明だ」と語り、内需の拡大が重要との考え...</description>
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<![CDATA[<p>■■　Nikkeinet 2009.9.29 世界銀行のゼーリック総裁は28日、ワシントンで講演し、日本経済について「旧来の輸出主導の成長が、米国の個人消費に依存しない世界経済の中で持続可能かどうかは不明だ」と語り、内需の拡大が重要との考えを示した。同時に高齢化の進展で「新たな消費ニーズが出てくる」と述べ、日本の省エネ技術が世界で新たな需要を生み出す可能性も指摘した。<br />
</p>]]>
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<![CDATA[<p>■■　ロイター北京2009．9.30　国務院は、鉄鋼、セメント、風力発電などの産業にみられる過剰生産能力の問題は景気回復を阻害しかねないとして早急に対応する方針を示した。　２９日夜に出した通達で明らかになった。長らく政府の課題となっている過剰能力解消に動かなければ、工場閉鎖や失業、銀行の不良債権増加につながるとし、対応が急務としている。</p>

<p>◆◆　２００１年３月わが政府は、デフレーションの定義を「物価下落が２年以上継続している状態」とし、そういった景気の状態を「デフレ」と表現することに定めた。　この定義はＩＭＦなどの国際機関も使っており、欧米の経済学の教科書などでは一般的だそうな。これによればいまの日本は間違いなくデフレで、いわゆるスタフグレーションではない。</p>

<p>◆◆　さてそのデフレの原因は何処にありや。少なくとも日本の場合、それは消費に対する明らかな生産過剰が原因で、リーマン・ショック以来の国際的不況によるのは一部分に過ぎない。　リーマン・ショックがあろうが無かろうが、日本の生産過剰傾向はここ１０年、あまりにも酷過ぎた。　「造れば必ず売れる」といった戦後のもの不足が何時までも続く、という安易さがわれわれにあったからである。</p>

<p>◆◆　その余波で、いまのような長期デフレになっても、夢よもう一度とばかりに「早く景気を回復してくれ、消費を元通りに戻してくれ」と、産業界および庶民の政府に対する要求が強い。人気商売の政治家たちは「それは無理です」とは言えず、適当にお茶を濁しているのが、いまのわが国におけるデフレ経済の実態である。</p>

<p>◆◆　そこを世銀のゼーリック総裁ははっきりと「日本経済の米国個人消費に依存した再生は望めぬ」といってのけたのである。「それよりも日本の内需拡大」か、または「日本の持つ省エネ技術で新たな世界の需要を生み出せ」と我々にアドバイスする。　まことにもっともな言い分で、いまや米国の消費者は日本の景気を回復させる購買力など持っていない。彼らは格安の中国製品を買うカネすら不足し、ドル札を輪転機で刷って当座を糊塗しているのである。</p>

<p>◆◆　といって、「日本の内需拡大」もまた無理である。　われわれにはもうモノが余りかえっていて、これ以上はモノが不要なのである。考えてもみるがいい、戦後６０年ほぼ毎年、労働生産性は上がり、昔５人で生産したものを４人で造り、３人で造り、ついには２人で造るようになってしまった。　お蔭で円は値上がりし、生産原材料は世界中から安価で無限に求められる時代が来た。　モノは余ってとうぜん、じつは余剰品は造るべきでなかったのだ。　ほんとうはワーク・シェアリングで労働者の労働機会を分かち合うべきところだったのに、それをしないで、自分たちの生産過剰分を海外市場に輸出してなお稼ごうとした日本人の計画性のなさこそ咎められるべきであったのだ。</p>

<p>◆◆　そうした事実に鈍感な米国は「日本の内需を開拓せよ」といまなお発散的にボクらに勧める。　冗談じゃない、余って困っている品をもっと消費せよといっても、それは地球有限資源の不当浪費になるだけで、要らぬモノは要らぬのである。　あの登り坂真っ最中の中国ですら、最近はセメント・鉄鋼などの減産を決めている。　造るキャパがあるからとて、モノは無限に造るべきではないのである。</p>

<p>◆◆　だが、わが政府（ただし麻生政府までのことで、鳩山内閣がどういう政策を打ち出すか、いまのところ不明）は、デフレ克服のため要らざる浪費を執拗に勧めた。　だが国民はその話に乗らない、将来を心配して財布の紐を締めたままだった。年収２００万円の非正規労働者や失業者たちはなお更のこと要らぬものを買ったりしない、先ず節約を心掛ける。</p>

<p>◆◆　ところで世に、年収２００万円では食えぬという論が多い。ボクはそうとは思えない。　いったいこの地球上に年収２００万円以上の人たちがどれだけ居るだろうか、そう多くは居ないはずだ。日本でこそ、年収２００万円では食えぬというが、年収２００万円以下でも幸せにし<br />
て文化的な生活を営んでいる人たちが全世界にはゴマンと居る。デンマークしかり、スペインしかり、ポルトガルしかり、チェコしかり、ハンガリー然りである。　わが国の役人や学者評論家たちは恵まれた高額所得者で、その人たちの贅沢生活から推して、年収２００万円では生活できぬというのは「栄耀の沙汰の餅の皮」である。</p>

<p>◆◆　いまのわが国の消費者家庭物価指数は、もっとも物価高のときに比して６０％程度にまで下落している。　小売店で食品雑貨を買うかぎり、２００万円で庶民の日常生活に関しては足りている。　だから年収２００万円以上の所得者たちには余裕がある。　それが海外旅行ブームになり、高価な海外有名ブランド服飾品や、贅沢化粧品、３ナンバー外車、金ラベル・サップリメントが消費市場に氾濫する原因になっている。不景気を口癖にしながら、奢侈はいまなおわが国に氾濫している。<br />
　地下鉄内で、あれほど高価な衣装を身に纏っている庶民をボクは海外で見た経験がない。こうした事実を黙過してはならない。　日本人は贅沢に馴れ切っている。</p>

<p>◆◆　なるほど年収２００万円の低所得者層にとっては実際のところ、暮らすのがたいへんであるのも事実だ。原因は、日々の生活費用よりも社会習慣による特別支出が問題である。例えば、先ず子弟の教育費が欧米諸国に比して異常に高い。それに冠婚葬祭費も高い。</p>

<p>◆◆　民主党内閣になって高校授業料の無料化が先ず実施されるという。結構なことである。だが学校授業料よりも、他の付帯諸経費のほうがより切実な問題である。　学校におけるスポーツなど部活の奢侈化は激しく、それが世帯費用に食い込んでいる。校外における塾などの月謝が目をむくほど高くつく。　これらは表向き強制されているわけではないが、社会的習慣として必要なのだ。こうした事実は、世間の風潮ないしは流行に従う性向の激しいわが国の家庭生活で、いつの間にか半強制支出になってしまっている。部活旅行や修学旅行費用なども同断だ。そう<br />
した半強制的奢侈風潮を文科省主導で矯める必要が大いにある。</p>

<p>◆◆　一億国民に、いつの間にか贅沢癖がこびり付いていて、それが「２００万円では暮らせぬ」と言わせる原因になってしまっている。そのようなことは国民の責任である、といってしまえばそれまでだが、こうした無軌道にも近い生活習慣を築いてしまった国民の生活様式をこの辺<br />
りで撓めねばならない。　古風な言いかただが、「足るを知る」という政府主導の生活運動を始める方が、「２００万円では食えぬ」庶民たちのためにいまさら「内需拡大」でインフレを招くよりも、より近道ではないだろうか。</p>

<p>◆◆　「景気をよくせよ」と政府に強請るよりは、むしろ、円高を武器にして国内消費者物価をもう一段下げる方がいいのではないかと、ボクは思っている。　つまり、年収２００万円で、健康にしてじゅうぶんな文化生活を楽しめる日本をこのあたりで創成すべきではないか、というのがボクの案である。　さもなければ、日本は世界有数の金持ち国家になりながら、なお貧乏社会であるという焦燥感に悩まされる不幸な国であり続けるだろう。</p>

<p>◆◆　ところで問題は、デフレによる５．５％にもなっている失業者をどうするかである。政府のこのための対策が急がれる。失業者救済のためには、オランダ式ワーク・シェアリング・システムを早急にわが産業社会に導入し、定着させることが必要である。<br />
　<br />
◆◆　と同時に、個人企業、零細企業の振興策を国全体として進める必要があるのではないか。英国産業革命で労働力を商品化してからまだ３００年経たぬというのに、なぜかかわが国では本家の英米よりも速く「被雇用者だけでほぼすべて」という社会が出来上がってしまっていて、誰もそれを不思議と思はない。　たとえばいまなお全国的にスーパーマーケットなどが出店競争を繰り返し、一つのスーパーマーケットが出来ると少なくとも近辺の零細小売店数店が閉店するという状態が続いている。いわゆる「市場原理主義」とやらで、致し方ないという諦めが日本社会に定着しているようだが、これはやはり問題である。旧い「大店法」なども、そうした弱肉強食の弊害があったからこそ存在したのであり、再考の余地があろう。</p>

<p>◆◆　最近顕著な傾向として、毎年膨大な新卒青年たちが「就活」などと称して、「社会に出る」のと「大企業に雇われる」とを同義語にしてしまっている風潮がある。　彼らの生きる将来についての無自覚さや、既成社会依存の退嬰的態度が問題である。その結果として、昔あった「自営業」という言葉も最近のわが国ではほぼ消え去ってしまった。　<br />
　<br />
◆◆　もともと「自営業」という言葉は、米国伝来のSelf-employmentないしSelf-employedの翻訳で、その言葉は米国に於いていまなお頻用され、堂々と生き続けている。　試みにWikipediaの英文版を覗くと、次のような半ば礼賛調の説明がある。</p>

<p>Self-employment is where a person works for themselves rather han someone else or a company that they do not own. To be self-employed, an individual is normally highly skilled in a trade or has a niche product or service for their local community.　</p>

<p>◆◆　聞くところによれば、スタンフォード大学の毎年卒業生の過半はサラリーマンにならず、新規企業家を志すという。　いまや気息奄々の米国に於いてなお新卒青年たちの意気や壮とすべきである。わが国の青年たちも見習うべきであろう。　いたずらにハローワークの無能力さばかりを非難すべきでなく、むしろ自分で新事業を拓いてゆく気概が必要だ。仕事が無いというものの、私見ではじつはわが国の実態として軽労働さえ厭わなければ、被雇用機会は諸外国に比して遥かに多い。が、働くのが嫌さに「仕事が見当たらぬ」との口実で、遊んでいる若者たちを多く見かける。かく言うボクなど生まれてこのかた、ほとんど他人さまに雇用されたことがなく、それでちゃんと人生を楽しく生き抜いてきた。閉塞感漲る現在の日本社会であればこそ、未来を担う青年たちの奮起を望むや切である。</p>]]>
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<dc:date>2009-10-06T05:26:35+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/10/post-57.html">
<title>蛇行社通信「民主党９月革命説」：吉田智弥</title>
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<description>　奈良で自由学校「ポポロ」を主催している吉田智弥さんの個人誌「蛇行社通信」１０月号では、巻頭エッセーで「民主党９月革命説」とする一文を掲載した。民衆の政治意識を問うエッセーだ。転載します。 　「民主党９月革命説」 　街をゆく「茶髪の」女の子...</description>
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<![CDATA[<p>　奈良で自由学校「ポポロ」を主催している吉田智弥さんの個人誌「蛇行社通信」１０月号では、巻頭エッセーで「民主党９月革命説」とする一文を掲載した。民衆の政治意識を問うエッセーだ。転載します。</p>

<p>　<strong>「民主党９月革命説」</strong></p>

<p>　街をゆく「茶髪の」女の子にマイクをむけて、「どうして茶髪にしているのか」と質問するTV番組があった。彼女は「黒い髪のままだと、なんとなく頭の上が重い感じがするでしょ」と答えていた。なるほど、そうだったのか。<br />
　今回の民主党の大勝利は、そのように長く続いてきた「頭の上の」重い気分を和らげる役割を果たした。街頭演説で鳩山代表はくりかえし「革命的」と語り、新内閣が発足した直後の記者会見でも、松下政経塾出身の若い大臣が「革命的」を強調した。<br />
　燕尾服を着て天皇に深々と拝礼して認証してもらう人たちに、「革命的」は似合わないだろ、とツッコミをいれた上で言えば、しかし、その言葉を使う気持ちは分からないでもない。理由は二つある。<br />
　一つは、4年前、小泉＝自民党が「改革」を喧伝して勝利を収めたので、同じ「改革」の語ではインパクトがなさすぎる。こちらこそ本気の「改革」をめざすのだと言うためには、言葉だけでも「革命」へとエスカレートさせる必要があった。<br />
　もう一つは、鳩山首相は、主観的には本気で「革命」を志向しているのだ、という解釈もできる。持論としての「友愛」の中身は不明瞭だが、当面の目標である「官僚依存からの脱却」は、もしそれが実現すれば「革命的」ともいえる、構造改革への端緒につながるかもしれない。もっとも、それをバックアップする国民運動が見当たらないので、なかなか筋書き通りにコトが進むとは思えないが。<br />
　意地悪くいえば、「脱・官僚依存」は、政治家集団の官僚集団に対する、ある種のコンプレックスに端を発しているかもしれない。だが動機が何であれ、この国では、明治以来の官僚機構が国家体制の基幹部分である、という捉え方は間違ってはいない。<br />
　「官僚」とは単なる「国家公務員」の別称ではないのである。この人たちは法律の原案をつくり、それを制度化する過程で、膨大な許認可の権限を手中に収めてきた。十数年前に地方自治法が改訂されるまでは、都道府県の知事まで「国家機関」の一部と位置づけてきたのである。かの内務省以来の伝統というか、亡霊というか。<br />
  とは言え、一点だけ彼らを弁護しておけば、常に国家第一を掲げる官僚機構が機能したおかげで、短期間に大日本帝国は近代化をなしとげ、敗戦後の日本国も、諸外国と対抗できる国力を備えることができたのだ。歴史的な「功績」は小さくない。<br />
　それがここへ来て機能不全に陥った。「ダム」や「年金」や「外交機密」をめぐる醜聞はその最も分かりやすい例であり、民主党のマニフェストは従って「正当な」提起をしたのだといえる。誰の目にも「負の遺産」は限界を超えていただろう。<br />
  だが仮に「官僚依存」を脱することが出来たとしても、それに対置される「政治家主導」にお任せして良いのかどうか。「国民の皆様」の本当の出番はいつ来るのか?<br />
＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
</p>]]>
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<dc:date>2009-10-02T11:38:34+09:00</dc:date>
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