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<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-7.html">
<title>夜間中学その日その日（７０）：守口夜間中学　　白井善吾</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/24/</link_daily>
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<description>  夜間中学のある日の出来事に関連させて、考えていることを書いていこうと思う。執筆者は持ち回りで，変わっていく。 　「敗者復活・コヤシの思想」 　ＮＨＫラジオから髙野雅夫さんの声が流れた。...</description>
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<![CDATA[<p>  夜間中学のある日の出来事に関連させて、考えていることを書いていこうと思う。執筆者は持ち回りで，変わっていく。</p>

<p>　<strong>「敗者復活・コヤシの思想」</strong><br />
　ＮＨＫラジオから髙野雅夫さんの声が流れた。</p>]]>
</content>
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<![CDATA[<p>２００９年６月１９日午後１１時２０分から始まる「関西発ラジオ深夜便」である。日付が変わって、午前４時〈こころの時代〉敗者復活・「コヤシの思想」の題で髙野さんは約５０分にわたって語った。<br />
　放送があることを事前に知ることができたので、関係者にお知らせすることができた。<br />
　アンカーの西橋正泰さんのゆっくりとした問いかけに、髙野さんもラジオを意識して、いつもよりゆっくりとした口調で答えていた。<br />
　話は旧満州、敗戦時５歳頃の話から始まった。かすかに残る父親の記憶、葬式、黒縁の写真。そして母親のこと、凍り付いた赤ちゃんの死体をセルロイドのおもちゃの人形だと思って、遊んでいた髙野さんを怖い顔をしてしかりつけた母親の記憶。<br />
　５歳から１５歳まで過ごした九州博多での生活。髙野さんは「戦争孤児」であって「戦災孤児」ではない。被害者であると共に加害者であるという自覚を「戦争孤児」に込めていると、語った。土管の中、ガード下、の生活。辛い、悲しいという感情が奪われ、野良犬がぴったしの時代であった。戦友ゴンチ、二人で生死を共にした、野良犬二匹。そのゴンチが殺されたとき、初めて恐怖を感じた。その時受けた、額にある横一文字の深い傷。毎朝鏡に映し出される、顔と傷を見るたび、「彼の分まで生きているのか？」と自省している。<br />
　次はどんなコトバがでてくるか、ラジオから流れる声を冷静に聴くことができた。これまでは、多人数の中で、雑な聞き方、受け止めをしていたことがよくわかった。<br />
　たどり着いた山谷、玉姫公園、９９．９％死にかけていた、髙野さん。かすかに聞こえる、オイ、オイの声、小柄な在日朝鮮人のハルモニが引く、リヤカーに載せられ、助けられた。一斗缶のかまどで作ってくれた煮込みうどん、それを食べたとき、体の中を「新しい血がドクドクと流れた」と、その味をいまでも思い出せると話した。「このおじいさんこそ、神サマだ！」<br />
「おじいさんの名前は？」とのアンカーの問いに、「ねぇ（無い）」とハルモニは答えていたと髙野さんは語った。<br />
　おじいさんに回収品の中にあった、いろはカルタでおしえてもらった「たかのまさお」そして、漢字で「髙野雅夫」。自分は「高野」ではなく「髙野」だと語った。<br />
　ある日冷たくなっていたハルモニの遺体を、ごみを扱うが様に車に積み込んだ区役所の職員を前に抗議をし、「どんなことをしても、勉強して、恨みを晴らす」とこころに誓った。その時、「生まれて初めて目から何かあふれてくる」「人間として初めて流した泪だ」と語った。<br />
　校門のまわりをうろつき、やっと３日目に校門をくぐった、夜間中学。（髙野さんも多くの夜間中学生と同じ、体験だったのだ）。そして、ポケットにはナイフをしのばせていたと。<br />
　「日々、どんな想いで髙野さんは何を学んでいきましたか？」<br />
「人間としての誇り、権利、仲間とは何かを学びました」</p>

<p>行政管理庁の夜間中学早期廃止勧告に証言映画を作り、夜間中学開設運動に立ち上がった髙野さんは、大阪に入り、運動を展開した。１９６８年１０月のことだ。<br />
そしてできた天王寺夜間中学は今年、開設満４０年を迎えた。<br />
「髙野雅夫が作ったと言われるが本当はウソだ」「小林晃、神部博之、八木秀夫ら義務教育を受けることができなかったと名乗り出た生き証人だ」<br />
「歴史上の人物が作ったかのように言われているが、そうではなく、ヤミに葬り去れれてきた、人たちが作ったんだ。この歴史を明らかにしたい。それが敗者復活戦だ」<br />
「劣等感を捨てて自信を持て」とよく言われるが、これは間違いだ。ゼロからの出発ではない。劣等感は財産だ、武器だ」<br />
「夜間中学で＋１を奪い返して、－５を捨てたら１しか残らない、―５を財産にしたら６になる」（『不思議な力 夜間中学』（宇多出版企画）のなかで髙野さんが述べていることだ）<br />
就学援助、補食給食存続に向けた夜間中学生の闘い。コヤシの思想、タネの思想について。韓国に語学留学し訪れた文解教育運動とその学習現場。それを夜間中学に伝え、生まれた、夜間中学生・韓国の文解教育の学生との日韓識字交流。立教大学大学院で行っているゼミの活動などを語っていった。</p>

<p>いま学んでいる夜間中学生、とりわけ、夜間中学の教員に改めて大きな示唆を与える内容の話であった。<br />
</p>]]>
</content>
<dc:date>2009-06-24T08:39:42+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-6.html">
<title>夜間中学その日その日（６９）守口夜間中学：中本伸子</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/17/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-6.html</link_Individual>
<description>　夜間中学のある日の出来事に関連させて、考えていることを書いていこうと思う。執筆者は持ち回りで，変わっていく。...</description>
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<![CDATA[<p>　夜間中学のある日の出来事に関連させて、考えていることを書いていこうと思う。執筆者は持ち回りで，変わっていく。</p>]]>
</content>
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<![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/contributor/images/090616shi.jpg"><img alt="090616shi.jpg" src="http://j-net.obei.jp/contributor/assets_c/2009/06/090616shi-thumb-200x125-181.jpg" width="200" height="125" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>天王寺夜間中学開設40年記念の集い</p>

<p>「僕は、今より100倍の自信がほしい」<br />
今年、入学4年目を迎える夜間中学生の言葉だ。彼は、髙野雅夫さんの講演の中の言葉に共感する。<br />
「髙野雅夫さんの『知らないことが強さなんだ』という言葉を聞いて、本当にそうだと思った」<br />
「今、夜間中学で学んで、少し分かってきた。でも、分からないことは辛いことだけど、少し分かってきた時、なお辛くなった」</p>

<p>そう語りながら、夜間中学に20年は、いたいと言う。もうええわというぐらい学びたいと。彼は、夜間中学のために、自分は今、何が出来るかと考えている。強い思いが彼を行動させる。</p>

<p>2009年6月14日(日)、200名を超える人たちが集い、天王寺夜間中学で創設40周年の記念式典並びに記念講演が行われた。守口からも、夜間中学生13人、教員7人が参加した。もちろん、講演は、髙野雅夫さんだ。記念式典が終わってから、同窓会主催で記念講演が実現した。題は、『夜間中学からアジアへ』。<br />
最初、講堂で行われると聞いていた。天王寺夜間中学の最初の入学式、第18回の全国夜間中学校研究大会、そして、昨年度の5.18近畿夜間中学校生徒会連合会の緊急集会が行われた意義深い場である。昨年の緊急集会では、延べ40名以上の夜間中学生の想いが語られ、署名活動をすることを確認し、6月に行われる生徒会連合会総会で採択する決議案も確認した。昨年度1年間の運動の道筋を作った重要な場となった記念すべき講堂である。けれど、行ってみると新しい体育館に変更されていて、大変残念であった。</p>

<p>とにかく髙野雅夫さんの講演は、私が期待した内容であり、うれしく思った。もちろん、これからのことも大事だが、大阪の夜間中学がどのような思いからできたのかを多くの夜間中学生に知ってもらいたいと考えていたから。髙野雅夫さん自身の言葉で伝えてもらえる絶好の機会だと思っていた。</p>

<p>「夜間中学を卒業するとき、『本当の意味で夜間中学を必要としない社会を創ろうではないか』と誓い合ったが、今、ますます夜間中学が必要になっている社会だ。頭にきて、何をしゃべっていいかわからない」<br />
この言葉から、講演が始まった。</p>

<p>中国から引き揚げてきた事、博多での自分、ゴンチとの別れ、そして、東京でのおじいさんとの出会い。そのおじいさんが、亡くなってから虫けらのように運んでいかれる様子を見て、命をかけても暴力や差別を許さない、怨みを晴らしたいと、人間として初めて涙を流したと語った。</p>

<p>「夜間中学では、人間としての権利と誇りを学んだ。どこで生まれて、どこにいて、どこに行こうとしているのか」<br />
「水平社宣言を知って、これだと思ったとき、体の震えが止まらなかった」<br />
いつもの髙野雅夫さんの声だが、抑えながらも、その当時の怒りが沸々と思い出されるかのよう。<br />
「40周年を迎えられたことも、小林晃、八木秀夫、神部博之の３人の屍を乗り越えて、歴史が築かれてきたから」<br />
「天王寺夜間中学が10年早くできていたら、もっと豊かな人生を送れていただろうと悔しくてならない」</p>

<p>橋下知事についても、学ぶ場を保障してきた大阪をなぜ誇れないのかと髙野雅夫さんは言う。そして、橋下知事がカットした分を夜間中学生が取り戻そうと訴えた。かつての「育てる会」の話をしながら、すごい歴史を生きてきた夜間中学生が、なんで負けるんだ、橋下に!!　と。</p>

<p>世界には、まだ学べていない10億の仲間がいる。アジアにも大勢いる。韓国の仲間とは、2002年から交流してきた。これからも、学ぶ権利と生きる権利を主張するのは勿論だが、夜間中学生に何ができるか、それを見つけることが重要だ。体育館の後方に紹介されていた、40年前、天王寺夜間中学の入学式に着ていた思いのこもったジャンバーを見つめながら、講演は終わった。</p>

<p>今回、息子の髙野大さんも出席されていたが、この40年、どのような思いで父親を見続けてきたのだろうか。その長き人生を思う。</p>]]>
</content>
<dc:date>2009-06-17T01:54:34+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-5.html">
<title>丹波マンガン記念館の思い出：Ａ・Ｙ</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/15/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-5.html</link_Individual>
<description>　五月三一日に閉館した京都の丹波マンガン記念館の思い出を、読者から寄稿をいただいた。以下紹介します。...</description>
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<![CDATA[<p>　五月三一日に閉館した京都の丹波マンガン記念館の思い出を、読者から寄稿をいただいた。以下紹介します。</p>]]>
</content>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p><br />
　一九八九年五月、一人の在日韓国一 世の手作りで開館した丹波マンガン記念館が、二十年の時を刻み今年五月末で閉館に追い込まれた。開館以来、黒字になったことがなかったという。</p>

<p>　このマンガン記念館に関しては、特別な思い入れがある。<br />
　オープンして二年目の秋に神戸のグループと訪れた。香川から小学生の男の子を連れた父子が参加していて、その子どもが今年二十九歳になっていると聞いた。</p>

<p>　二十年前は北桑田郡京北町字下中だったが、現在は右京区京北下中町。京都市になった。<br />
国道一六二号線、通称周山街道は、高尾の紅葉狩りと同時期だったこともあって帰りは大渋滞。もう一か所見学予定の京都市九条に出るのがかなり遅くなったことを思い出す。</p>

<p>　マンガンといえば、よく知られているのが乾電池の原料。また小学校の理科の実験で酸素の発生にも黒い粉の二酸化マンガンを触媒として使った。陶磁器や瓦の釉薬、マッチの原料などに使われている。身近で気がつかなかったが、ビール瓶の琥珀色もマンガンによる着色である。</p>

<p>　丹波地方には約五百の鉱床があり、三百か所以上のマンガン鉱山があったので、マンガン銀座と呼ばれていた。丹波のマンガンは質がよく、一八九六年（Ｍ二十八年）から一九七八年（Ｓ五十八年）まで約九十年間採掘が続いた。</p>

<p>　戦争中は足りない労働力を朝鮮半島からの強制的な連行、あるいは被差別部落の女性たちで補われていたと、先日聞いた園部出身の野中広務氏の話にも出てきていた。男性は二、三百キロ、女性は百キロ近いマンガンを背負って運んだ。採掘する坑道は狭く、六十センチ×三十センチの穴を掘り進んだところもあった。</p>

<p>　このようなきつい採掘が行われたのは、マンガンが軍事用に必要な鉱物だったからである。</p>

<p>　鉄とマンガンとの合金で鉄の強度を増し、大砲の砲身や戦車のキャタピラなどには欠かせない鋼鉄の材料でもあった。したがって戦争のたびにマンガンの需要が増えるのである。アジア・太平洋戦争、朝鮮戦争。......。マンガンの採掘は伸び続けた。</p>

<p>　手堀りから削岩機に変わっていったが、鉱脈が細く鉱山としては小規模なので、大企業は見向きもしなかった。そこで中小企業または個人が経営権を持つようになった。</p>

<p>　その後、一九七〇年ごろからはマンガンの輸入自由化により、オーストラリアからの安いマンガンが増え、閉山が相次いだ。</p>

<p>　厳しい労働によって維持されていたマンガン鉱。その歴史を残さなければ忘れ去られてしまうと考えた初代館長の李貞鎬（イ　ジョンホ）さんは三十年間マンガンの採掘に携わった方だ。削岩機が取り入れられるようになった一九五五年ごろには、鉱業権を買い独立した。</p>

<p>　その後一九六八年に、現在見学コースになっている丹波随一の鉱山といわれていた「新大谷鉱山」の鉱業権を買ったが、七年後に塵肺で喀血、入院。二年後には採掘が休止され、一九八三年閉山に至った。李さん五十一歳の時である。</p>

<p>　そのころから李さんは記念館構想を立てていた。</p>

<p>　自分が働いていたマンガン鉱であり、経営権も譲り受けていた鉱山なので、私財を投げ打って二年がかりで博物館として整備していった。</p>

<p>　坑道約三百メートルを安全に見学できるように高さを考え、作業工程も分かりやすく工夫してある。電気工事以外はまさに手作りの博物館が、二十年間事故もなく続いたのである。</p>

<p>　実物大の二十体のマネキン人形が作業の様子や飯場の生活を再現している。</p>

<p>　やや華奢な李さんがモデルになり、肝っ玉母さんのような夫人任静子（イム　ジョンジャ）さんがカッターやグラインダーを使って腰をかがめたり座ったポーズの人形に仕上げていった。木の箱型の木馬で鉱石を坑内運搬する人、ハンマーでの手掘り。動きのある等身大の人形たちは、閉館後も保存されるだろうとは思うが芸術品だ。家族六人で協力して製作している風景が目に見えるようだ。</p>

<p>　京都府や京北町から何の援助もなく、本当につらかっただろうと悲しくなる。マイナスのイメージの博物館は府としても町としても援助できないということだったらしい。途中、ＮＰＯを立ち上げ、五百万円のカンパも受けたが赤字は続いた。</p>

<p><br />
　開館三年目に当たる一九九二年に、私は守口夜間中学に転勤した。秋に恒例の修学旅行をかねた一泊旅行が実施される。例年旅行社と話し合って決めていたが、夜間中学ならではの目的地、なぜ歳をとってから学ばねばならなかったか、それぞれの歴史を考えていく場所を訪ねていくことによって、学習したことが生かされるのではないかと見学場所を選んだ。</p>

<p>　その年が丹後半島方面ということは早くに決まっていたので、マンガン記念館見学をコースに入れた。フィールドワークという言葉が新鮮なころだったように思う。</p>

<p>　当日資料館の奥の日陰になっている雑木林で、百人近い生徒が昼食をとっているところへ、京北病院に入院していた李さんが来てくれた。近くまで車に乗り、下りてからも直立し、肺をカバーしているようなぎこちない姿勢で、ゆっくりした歩き方。どんな話だったかは覚えていないが、運んできた椅子に座って短時間いっしょに過ごしてもらった。李さんが病院へ帰るときには、はるか年上の生徒たちが、李さんと固い握手をして「体を大事にしてください」「こんなん作ってくれてありがとうございました」「がんばってください」「故郷はどこですか」。李さんは木の間を振り返りながら車の方向へ一歩一歩と歩く。車が見えなくなるまで見送った光景を思い出す。二十年経った雑木林は変わっていなかった。</p>

<p>　そのフィールドワークがきっかけとなり、毎年目的地に生徒の歴史に関係した場所を選ぶことが取り入れられるようになり、周りの夜間中学にも影響を与えたようだ。</p>

<p>　生徒が入れ代わったので、二〇〇一年に二回目、そして去年、三回目の見学を行ったと聞いた。また、昼の中学に転勤した同僚は社会見学として訪れたとも言っていた。</p>

<p>　経営が黒字になったことはなかったそうだが、初めのころは見学者が二万人を越えた年もあった。ところが開館二年目、一九九一年に舞鶴若狭自動車道が開通し、マンガン記念館からそれてしまい、見学者が減ってしまった。拉致問題の影響も受けたという説明もあった。</p>

<p>　そして、二十一年続いた記念館をいったん閉館することになった。再開して欲しいという支援者もあると聞いていたが、一部の展示品などが半額で売られているのを見ると、多分再開は不可能なんだろうと思った。</p>

<p>　閉館前の見学会は、五月十八日、茨木・高槻のグループ二十三人とマイクロバスで行った。<br />
初代館長が亡くなられて二代目は、三男の李龍植（イ　ヨンシク）さんが引き継ぎ二〇〇九年まで二〇年間続いた。一九六〇年生まれの超大柄の龍植さんは、鉱山の仕事を手伝い、父とともに行動した。頼まれればどこへでも講演に出かけていく若さがあった。</p>

<p>　しかし、馬力はあるけれども、見学者が来てくれないと話にならない。お母さんも七十五歳。体調がよくない。もうお父さんの「博物館は自分の墓や」という意志を充分に果たすことができたのではないか、というのが閉館を決心した理由と思う。</p>

<p>　三十一日に閉館のイベントが行われた。<br />
　この間は再開されたらまた来ればいいやと、訪問時の坑内説明を少し聞き漏らしてしまった。<br />
　最終日には手作りの坑内をゆっくり歩いてみたいと思っていたのだが。<br />
　新井英一のコンサートもあり盛会だったと聞く。</p>

<p>　続けられるものならという気持ちは今も拭うことができない。</p>

<p>　　　　　　　（以上は、二十九日に書かれたが、発表時が６月のため閉館などは過去形としてき）</p>

<p><br />
　最終日である三十一日、記念館にたどり着くには、ＪＲバスで周山まで行き、町営バスに乗り換え、バス停から歩かなければならない。数少ないバスの時刻表を見ていてあきらめてしまった。　非常に残念に思っている。</p>

<p>　任静子オモニム、李龍植館長さん、みなさまのご健康を祈ります。　六月十一日<br />
</p>]]>
</content>
<dc:date>2009-06-15T19:43:15+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-4.html">
<title>「裁判員制度への向き合い方」:吉田智弥</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/03/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-4.html</link_Individual>
<description>　吉田智弥さんの個人紙「蛇行社通信」最新号（第Ⅱ期17号）からの転載です。「裁判員制度への向き合い方」と題するエッセーです。...</description>
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<![CDATA[<p>　吉田智弥さんの個人紙「蛇行社通信」最新号（第Ⅱ期17号）からの転載です。「裁判員制度への向き合い方」と題するエッセーです。</p>]]>
</content>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p> <br />
  裁判員制度に対する反応の中に「私は法律の素人だから裁判員になりたくない」という意見がある。そこから導かれる「結論」は、「裁判のことは法律の専門家に任せておいた方がよい」ということになる。これには同意できない。</p>

<p>　何の問題に限らず、一般論として「専門家に任せた方がよい」という考え方は要注意である。逆に、「専門家だから」信用できない場合がある点では、検察官や裁判官ばかりでなく、職能集団としての弁護士の場合にも当てはまるだろう。</p>

<p>　裁判員制度に関しては、日本弁護士連合会は、最高裁判所、最高検察庁らと連携して、一貫して推進派の立場にある。この業界ではサヨク的(?)と目される自由法曹団の場合も、結論は同じである。同団の「裁判員制度についての意見書」(09年2月)を読んでみたが、まるで「井の中の蛙」に見える。</p>

<p>　そこで主要に問題にされているのは、検事、弁護士、裁判官の三者が事前に《争点》をしぼる「公判前整理手続き」である。それは公判の回数や期間を短縮するために導入されるということだが、その結果、肝心の裁判の中身は薄くなり、被告を防御する権利が制約される恐れが出てくる。であれば、それは致命的な欠陥の筈である。ところがそのように重大な懸念があっても、自由法曹団としては「裁判員制度」を肯定すると。</p>

<p>　そこには団藤重光さん(元最高裁判事)の「死刑廃止なくして裁判員制なし」という訴えへの言及もなければ、視覚障害者や聴覚障害者の団体が「現状のままでは裁判員としての職務が遂行できない」として、裁判所に要求してきた改善事項への目配りもない。</p>

<p>　また「一般市民が裁判に参加する意義」を強調していながら、外国籍の「市民」が排除されている「不平等」性についても無視したままである。徴兵制のある国でさえ「良心的兵役拒否」を認めている例があるのに、裁判員制度は「思想と良心の自由」に基づく拒否を認めていない。せめて護憲派なら「憲法(19条)違反だ」と言ってくれよ。</p>

<p>  ところで、私たちにとっての肝心な問題はその次にある。もし実際にそのように、裁判のあり方について「専門家に任せておけない」と考えているなら、裁判員制度に批判的な者こそ積極的に裁判員となって、法廷の場のやりとりに、市民的な人権感覚を反映させるべく努力するべきではないか。重罪を科すべき凶悪事件の犯人に対して、「それでも死刑判決には反対する」と主張しつづける意味は小さくない筈である。「政治的な」判断としてはそうなる。たとえ心情的な抵抗感はあったとしてもだ。</p>

<p>　だが、問題が単純でないのは、実際に、一段高い「裁く側」の席から被告を見下ろした場合、多くの「裁判員」の中に、ある種の「快感」が生まれるのではあるまいか。</p>

<p>　権力に抵抗するつもりのサヨクの場合ですら、制度の内側での闘いを引き受ける者は、しばしば「ミイラとりがミイラに」なる。警戒心を持続させる用意はあるか?<br />
</p>]]>
</content>
<dc:date>2009-06-03T23:11:03+09:00</dc:date>
</item>

<item rdf:about="http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-3.html">
<title>:</title>
<link_daily>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/03/</link_daily>
<link_Individual>http://j-net.obei.jp/contributor/2009/06/post-3.html</link_Individual>
<description>　吉田智弥さんの個人紙「蛇行社通信」最新号（第Ⅱ期17号）からの転載です。「裁判員制度への向き合い方」と題するエッセーです。 続く ...</description>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p>　吉田智弥さんの個人紙「蛇行社通信」最新号（第Ⅱ期17号）からの転載です。「裁判員制度への向き合い方」と題するエッセーです。<br />
続く<br />
</p>]]>
</content>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja">
<![CDATA[<p> <br />
  裁判員制度に対する反応の中に「私は法律の素人だから裁判員になりたくない」という意見がある。そこから導かれる「結論」は、「裁判のことは法律の専門家に任せておいた方がよい」ということになる。これには同意できない。<br />
　何の問題に限らず、一般論として「専門家に任せた方がよい」という考え方は要注意である。逆に、「専門家だから」信用できない場合がある点では、検察官や裁判官ばかりでなく、職能集団としての弁護士の場合にも当てはまるだろう。<br />
　裁判員制度に関しては、日本弁護士連合会は、最高裁判所、最高検察庁らと連携して、一貫して推進派の立場にある。この業界ではサヨク的(?)と目される自由法曹団の場合も、結論は同じである。同団の「裁判員制度についての意見書」(09年2月)を読んでみたが、まるで「井の中の蛙」に見える。<br />
　そこで主要に問題にされているのは、検事、弁護士、裁判官の三者が事前に《争点》をしぼる「公判前整理手続き」である。それは公判の回数や期間を短縮するために導入されるということだが、その結果、肝心の裁判の中身は薄くなり、被告を防御する権利が制約される恐れが出てくる。であれば、それは致命的な欠陥の筈である。ところがそのように重大な懸念があっても、自由法曹団としては「裁判員制度」を肯定すると。<br />
　そこには団藤重光さん(元最高裁判事)の「死刑廃止なくして裁判員制なし」という訴えへの言及もなければ、視覚障害者や聴覚障害者の団体が「現状のままでは裁判員としての職務が遂行できない」として、裁判所に要求してきた改善事項への目配りもない。<br />
　また「一般市民が裁判に参加する意義」を強調していながら、外国籍の「市民」が排除されている「不平等」性についても無視したままである。徴兵制のある国でさえ「良心的兵役拒否」を認めている例があるのに、裁判員制度は「思想と良心の自由」に基づく拒否を認めていない。せめて護憲派なら「憲法(19条)違反だ」と言ってくれよ。<br />
  ところで、私たちにとっての肝心な問題はその次にある。もし実際にそのように、裁判のあり方について「専門家に任せておけない」と考えているなら、裁判員制度に批判的な者こそ積極的に裁判員となって、法廷の場のやりとりに、市民的な人権感覚を反映させるべく努力するべきではないか。重罪を科すべき凶悪事件の犯人に対して、「それでも死刑判決には反対する」と主張しつづける意味は小さくない筈である。「政治的な」判断としてはそうなる。たとえ心情的な抵抗感はあったとしてもだ。<br />
　だが、問題が単純でないのは、実際に、一段高い「裁く側」の席から被告を見下ろした場合、多くの「裁判員」の中に、ある種の「快感」が生まれるのではあるまいか。<br />
　権力に抵抗するつもりのサヨクの場合ですら、制度の内側での闘いを引き受ける者は、しばしば「ミイラとりがミイラに」なる。警戒心を持続させる用意はあるか?<br />
</p>]]>
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<dc:date>2009-06-03T23:11:03+09:00</dc:date>
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