2009年10月 2日
蛇行社通信「民主党9月革命説」:吉田智弥
奈良で自由学校「ポポロ」を主催している吉田智弥さんの個人誌「蛇行社通信」10月号では、巻頭エッセーで「民主党9月革命説」とする一文を掲載した。民衆の政治意識を問うエッセーだ。転載します。
「民主党9月革命説」
街をゆく「茶髪の」女の子にマイクをむけて、「どうして茶髪にしているのか」と質問するTV番組があった。彼女は「黒い髪のままだと、なんとなく頭の上が重い感じがするでしょ」と答えていた。なるほど、そうだったのか。
今回の民主党の大勝利は、そのように長く続いてきた「頭の上の」重い気分を和らげる役割を果たした。街頭演説で鳩山代表はくりかえし「革命的」と語り、新内閣が発足した直後の記者会見でも、松下政経塾出身の若い大臣が「革命的」を強調した。
燕尾服を着て天皇に深々と拝礼して認証してもらう人たちに、「革命的」は似合わないだろ、とツッコミをいれた上で言えば、しかし、その言葉を使う気持ちは分からないでもない。理由は二つある。
一つは、4年前、小泉=自民党が「改革」を喧伝して勝利を収めたので、同じ「改革」の語ではインパクトがなさすぎる。こちらこそ本気の「改革」をめざすのだと言うためには、言葉だけでも「革命」へとエスカレートさせる必要があった。
もう一つは、鳩山首相は、主観的には本気で「革命」を志向しているのだ、という解釈もできる。持論としての「友愛」の中身は不明瞭だが、当面の目標である「官僚依存からの脱却」は、もしそれが実現すれば「革命的」ともいえる、構造改革への端緒につながるかもしれない。もっとも、それをバックアップする国民運動が見当たらないので、なかなか筋書き通りにコトが進むとは思えないが。
意地悪くいえば、「脱・官僚依存」は、政治家集団の官僚集団に対する、ある種のコンプレックスに端を発しているかもしれない。だが動機が何であれ、この国では、明治以来の官僚機構が国家体制の基幹部分である、という捉え方は間違ってはいない。
「官僚」とは単なる「国家公務員」の別称ではないのである。この人たちは法律の原案をつくり、それを制度化する過程で、膨大な許認可の権限を手中に収めてきた。十数年前に地方自治法が改訂されるまでは、都道府県の知事まで「国家機関」の一部と位置づけてきたのである。かの内務省以来の伝統というか、亡霊というか。
とは言え、一点だけ彼らを弁護しておけば、常に国家第一を掲げる官僚機構が機能したおかげで、短期間に大日本帝国は近代化をなしとげ、敗戦後の日本国も、諸外国と対抗できる国力を備えることができたのだ。歴史的な「功績」は小さくない。
それがここへ来て機能不全に陥った。「ダム」や「年金」や「外交機密」をめぐる醜聞はその最も分かりやすい例であり、民主党のマニフェストは従って「正当な」提起をしたのだといえる。誰の目にも「負の遺産」は限界を超えていただろう。
だが仮に「官僚依存」を脱することが出来たとしても、それに対置される「政治家主導」にお任せして良いのかどうか。「国民の皆様」の本当の出番はいつ来るのか?
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2009年10月 2日 11:38
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