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2009年8月31日
<ジャ同エッセー>訃報・金大中元韓国大統領 国葬取材で3日間のソウルへの旅:長沼節夫(ジャーナリスト、写真も)
(写真1)韓国国会議事堂での金大中氏弔問風景(8月22日夜)。
巨星墜つ。韓国の金大中元大統領が2009年8月18日、死去した。1925年生まれの85歳。韓国の軍事政権化で民主化を叫び、それが理由で時の軍事政権から逮捕・軟禁・投獄・死刑判決など数々の迫害を受けながらも生き延び、ついに大統領に選ばれた人物だ。(本稿の一部は「週刊金曜日」8月28日号アンテナ欄とダブります。)
筆者が金氏と初めて知り合ったのは彼が46歳だった1971年。韓国で大統領選のさなかだった。演説会場である小学校の校庭に行くと、4月の日差しの中、びっしりと隙間もないほどの聴衆が地べたに座って、彼の演説を待っていた。座れなかった人々が皇帝を囲む「ロクボク」や木々によじ登っていた。筆者は前座を務める新民党幹部らの演説中に金氏の前に行き、日本から来た。インタビューしたいと申し入れると、明日遊説に出かける前に自宅に来なさいと言ってくれた。今からあなたの演説を録音したいと言うと、
「ほほう、これが最近発売されたカセットテープというやつですか。私はまだ持っていませんが。こことここを同時に押せば録音できるんですか。では私が壇上に上がる時に持って行って、演説の時に押して上げます」とも。
演説は40分以上の長時間にわたった。
「皆さん、普通の国では新聞は新聞記者たちが作っている。しかし我が国で今、新聞を作っているのは韓国中央情報部KCIAだ。彼らは朝、新聞社にやって来て、記事をチェックし、気に食わない記事は破って屑かごに投げ込む。KCIAは男に子を産ませること以外、何でもやる。私が当選したら、これを廃止する」「南北の対話が全く許されていないのは異常だ。私はまず手紙だけでも往復させ、次いで代表団の接触、市民の交流と段階的に北との門戸を開いて行く」などと、熱っぽく語った。
しかし彼の主張は翌日の新聞で、ほんの僅か報道されただけだった。朴政権もまさか相手候補を逮捕するわけには行かなかったが、「金候補の主張は反共法違反の疑いがある」といった政府談話が載った。
(写真3)国葬を終え、遺影を先頭に市内行進に移る葬列(8月23日)。
2年後に東京で再会した金氏からはあの時の精かんな風貌はすっかり消えて、大きくびっこを引いていた。聞けばあれから間もなく遊説中、自分の車に大型トラックが正面から突っ込んで来る事故に遭い、運転手は即死、自分は九死に一生を得たが、この通りの体になったと言う。こちらが知らなかったはずだ。そんな大事件が報道もされず、犯人捜しさえ行われなかったそうだ。この分では韓国で治療を受けていても、いつ殺されるか分からないので、こちらで治療を受けるつもりで来日したと言った。
東京での治療中も頻繁に会った。自分はいつ韓国当局に殺されるか分からないと言うので、ではマスコミにも知り合いを作り、あなたの存在を日本人に知らせておきなさいと勧めたが、まだ知り合いがないと言う。それで朝日新聞の本多勝一記者(現在OB)に紹介して、月刊「現代の眼」にインタビューを、また産経の千野境子記者(現在論説委員)に頼んで、「夕刊フジ」に1頁インタビューをしてもらった。しかし間もなく、何者かに誘拐されてしまった。いわゆる「金大中事件」の発生だった。やがて読売新聞が「事件に情報機関が関与か」と書いた途端、同社は韓国から追放されてしまい、以後、各紙とも犯人像を書けなくなった。一方、金氏はよくぞ生き延びた。以来筆者自身、自宅軟禁の金氏、米国亡命中の金氏と何度会見を重ねたことか。以来幾星霜、ついに1998年から5年間、第16代大統領を務めた。
そんな金大中氏が亡くなった。せめて葬儀に参列・取材して、見送って上げたいと思った。ところが20日付各紙に「金大中氏国葬は8月23日」という記事が出た。それは以前から長男が申し込んでくれていた「一緒に富士登山」のその当日に重なる。困った。しかし長男に言うと、「いいよ、富士山よりも韓国に行ってきなよ」と背中を押してくれた。直ちに登山を断念して準備に入る。22日訪韓、23日国葬参列、24日帰国という予定を決めてソウル行きの切符を探すと、代理店が「羽田発が2席だけ残っている」という返事だ。直ぐに買った。
出発前夜、ソウルの人権派弁護士の韓勝憲氏に「訪韓します」とファクスする。同弁護士もかつて朴正煕政権下で民主運動家の弁護をしたために資格はく奪を受けたり、全斗煥政権下でも金大中氏を弁護したため、自身逮捕・投獄されるなど苦労した。金大中氏は大統領になると直ぐ、韓氏を閣僚級の監査院長に抜擢してその労に報いた。その韓氏から折り返し電話。
「もう少し早い便で来られませんか。私自身葬儀委員になっていて、明日は夕方まで金大中夫人と一緒に国会で個人の方からの弔問の応対をしているので、それに間に合うように来なさい」と言ってくれた。結果的には間に合わず、彼は「長沼さんが来るというので、夫人を引き止めていたのに」と残念がった。そして「国葬は既に参列者に招待状を渡しており、当日受付はない。しかし一切は政府が仕切っているので、私が招待券を出せない。他方で政府はあまりに閉鎖的だという批判も出ている。どうなるか分からないから、当日現場に行ってみなさい」と弁護士。帰国の日の再会を約す。
国葬前夜のソウル。空港に出迎えてくれたのは40年来の友人の徐さんだ。国会議事堂から遺族らが引き揚げても、弔問所は24時間開いているというので、国会議事堂に向かう。筆者には夫婦で大統領就任式に招かれてきて以来、ここに立つのは2度目だ。弔問に訪れる人々の長蛇の列に驚く。4~5人が並んで、約800メートルの帯になり、それが中央祭壇まで続いている。列の最後尾では「謹弔」と印刷したリボンを渡してくれたので、胸にピンで留める。列の中ほど辺りでは、飲料水のペットボトルをくれた。祭壇への通路には、各界著名人から寄せられた多数の豪華な花輪が立ち並び、それらが視野の果てまで続いている。韓国人に交じって朝日新聞社長・副社長・出版局長・編集局長・ソウル支局長など日本人の名前も見える。
列の最後尾についてから1時間後ようやく、ひときわ明るい祭壇に近づくと陸・海・空軍の兵士が白い菊の花を渡してくれる。祭壇は中央の巨大な遺影を何千本という菊の花が囲んで作られ、筆者のように弔問を献花と拝礼で簡単に済ませる者が多数派だが、立ってお辞儀しては地上にひざまずくのを繰り返す丁寧な弔問もかなりあった。礼拝を終えて帰りかけるところに多数の葬儀委員が立って、弔問者一人ずつにお礼の握手を返している。記帳所で、「あなたは韓国だけでなく、日本の市民運動にも貢献されました。ありがとう。さようなら。日本人記者長沼節夫」と記帳した。
1973年8月に発生した金大中事件。日韓両政府は真相究明をうやむやにするという「政治決着」で葬った。それでも軍事政権の力が圧倒的に強かった韓国市民は、身動きも出来なかったが、他方、日本人は主要都市を中心にデモやハンストで事件に抗議し、金氏を殺すな、金氏の身柄を東京に戻せという「原状回復運動」も続いた。それまで韓国人に対してかなり閉鎖的だった日本人が、この運動をきっかけに韓国の市民と交流し始めた。第一、日本人が外国人の個人の救命運動にうねるように取り組んだことなど、弾圧にあえいだ金氏には気の毒だったが、日本人には史上初めての快挙と言ってもいい。言い換えれば金氏は日本の市民運動に極めて大きな貢献をしたことになる。筆者の記帳はそのことを踏まえている。また記帳所のテントとは別のテント内のボードには何千という、おもに子供たちからの個人メッセージがべたべたと貼り付けられている。弔問を終えて出口に向かうと、兵士らが車に山積みしたドーナッツのパックを弔問客一人ひとりに配給してくれた。結構うまい。
帰り道、市内のあちこちに黒い横断幕が張られていた。「哀悼・金大中元大統領」「謹弔・私たちはあなたの『行動する良心」を忘れない」など、横断幕のハングル文字が風に踊った。弔問所は都心の市庁舎前広場にもあった。こちらは多数が並んでひざまずく礼拝のできるように、広場に帯状の絨毯が何列にも敷かれていた。このような弔問所が今回、全国で200カ所近く設けられ、死去から国葬までの6日間に推定数百万人が弔問した。ソウルでは警官や軍人ら公務員の全員、また市民の多くが胸に「謹弔」の黒リボンを着けた。
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(写真4)ソウル市内各所に翻った「哀悼」の横断幕。(8月22日)
23日の 国葬当日。快晴。案内の徐さんと国会に行くが、閉鎖された国会正門前では招待状をもった人だけが入場を許されている。私は持ってないが、「東京で大使館に聞いたら一般人も入れると聞いた。入れてくれ。もう一人は私の通訳だ」と言うが、「あなたは招待者名簿に名前がない」と追い返される。徐さんが、「私に構わずあなただけでも会場に入りなさい。私は道の向かいのホテル前で、何時間でも待っている」と言う。彼の助言の正しさというか、案ずるより生むが易しというか。いくつかの入口に行って、日本記者クラブの記者証をかざしながら、「チョヌン・イルボネ・シンムンキジャヨ」(私は日本の記者だ)と繰り返していると、「それじゃあま、いいか」と思ってくれる役人がいるものだ。それで検問突破。国葬会場の後方で取材開始したのは正解だった。招待席に座ったら国葬の間、炎天下で身動きも出来ず、祭壇の状況も分からなかったろう。私は会場全体が見渡せる後方の木陰で、自由に動き回って写真取材が出来た。祭壇の様子は巨大スクリーンが映している。樹上を鷹揚に行き交っている大きな鳥は本州では見かけないカササギの一種だ。中国山東省と朝鮮半島に多い黒地に白いストライプのしゃれた姿。地上にはサルスベリと国花ムクゲが咲き乱れる国会広場。
午後2時に国葬開始。国歌吹奏と黙祷の後、葬儀委員長の韓昇洙首相が「民主義と人権のために闘い、初の南北会談・和解・交流の道を開いた。ノーベル平和賞受賞もわが民族の誇りだ」と金氏を称賛した。キリスト教、仏教各2派計4派による祭式に続いて李明博大統領ほか歴代大統領、各国代表らが次々献花する。その間会場各所に設けられた大型スクリーンに金氏の苦難と栄光の生涯が映された。全斗煥氏が献花したとき、画面は丁度、全政権下で死刑判決を受けた金氏の法廷写真を映していた。その生涯写真が2000年の「南北首脳握手」の場面を写したとき、参列者の間から拍手が湧いた。
国葬の中で流れた国軍の吹奏楽にも興味を引かれた。愛国歌という名の国歌、ベートーベンの交響曲第3「英雄」の中で英雄の死を悼むとされる楽章、同7番の第2楽章、ショパンの葬送行進曲、グリークの「組曲ペールギュント」から「オーゼの死」など。特に後半で流れた「朝露」は感動的だった。1970年に生まれたこの歌は、学生運動で愛唱された抵抗の歌で、1975年には朴政権下で「禁止歌謡」となった。以降、韓国市民運動のシンボル歌となり、金大中氏が00年、ソウルからピョンヤンに発つとき、空港で歌われた。その抵抗歌を今、保守政権の韓国で、しかも国軍が吹奏している。葬儀の場で言うのは不謹慎だが、愉快な気分にもなった。
開始1時間余り。陸海空3軍兵士らが弔砲を放って式を終えると、巨大な遺影と棺を先頭に車列が出発。金氏の自宅、ソウル市庁舎前広場を巡り国立墓地に至り埋葬されたが、沿道はどこも人の波。市民が涙ながらに車列に手を振った。「金氏と言えば任期の後半には支持率の低下に苦しんだ。それなのに7年後の今、金氏の人気がこれほど高いとは」と驚く記者に、沿道にいた元会社役員、許元九さん(62)は「生涯民主主義の闘いに命をかけ人だから当然です」と話した。
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一夜明けて帰国の日、国葬の葬儀委員を務めた韓勝憲弁護士を事務所に訪ねた。韓氏は金大中氏について、「韓国では政治的指導者も出たし、非政治的指導者も出た。しかしその両方から指導者と仰がれたのは、金氏が史上初めてだ」と語った。また北朝鮮からの弔問団について、「北の弔問団が来たおかげで、李明博大統領が初めて南北対話の糸口をつかんだ。緊張緩和を願った金大中氏が国民に送った最後のプレゼントのような気がする」などと総括した。(おわり)(本社東京分室)
2009年8月31日 00:19
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