2009年6月 3日
「裁判員制度への向き合い方」:吉田智弥
吉田智弥さんの個人紙「蛇行社通信」最新号(第Ⅱ期17号)からの転載です。「裁判員制度への向き合い方」と題するエッセーです。
裁判員制度に対する反応の中に「私は法律の素人だから裁判員になりたくない」という意見がある。そこから導かれる「結論」は、「裁判のことは法律の専門家に任せておいた方がよい」ということになる。これには同意できない。
何の問題に限らず、一般論として「専門家に任せた方がよい」という考え方は要注意である。逆に、「専門家だから」信用できない場合がある点では、検察官や裁判官ばかりでなく、職能集団としての弁護士の場合にも当てはまるだろう。
裁判員制度に関しては、日本弁護士連合会は、最高裁判所、最高検察庁らと連携して、一貫して推進派の立場にある。この業界ではサヨク的(?)と目される自由法曹団の場合も、結論は同じである。同団の「裁判員制度についての意見書」(09年2月)を読んでみたが、まるで「井の中の蛙」に見える。
そこで主要に問題にされているのは、検事、弁護士、裁判官の三者が事前に《争点》をしぼる「公判前整理手続き」である。それは公判の回数や期間を短縮するために導入されるということだが、その結果、肝心の裁判の中身は薄くなり、被告を防御する権利が制約される恐れが出てくる。であれば、それは致命的な欠陥の筈である。ところがそのように重大な懸念があっても、自由法曹団としては「裁判員制度」を肯定すると。
そこには団藤重光さん(元最高裁判事)の「死刑廃止なくして裁判員制なし」という訴えへの言及もなければ、視覚障害者や聴覚障害者の団体が「現状のままでは裁判員としての職務が遂行できない」として、裁判所に要求してきた改善事項への目配りもない。
また「一般市民が裁判に参加する意義」を強調していながら、外国籍の「市民」が排除されている「不平等」性についても無視したままである。徴兵制のある国でさえ「良心的兵役拒否」を認めている例があるのに、裁判員制度は「思想と良心の自由」に基づく拒否を認めていない。せめて護憲派なら「憲法(19条)違反だ」と言ってくれよ。
ところで、私たちにとっての肝心な問題はその次にある。もし実際にそのように、裁判のあり方について「専門家に任せておけない」と考えているなら、裁判員制度に批判的な者こそ積極的に裁判員となって、法廷の場のやりとりに、市民的な人権感覚を反映させるべく努力するべきではないか。重罪を科すべき凶悪事件の犯人に対して、「それでも死刑判決には反対する」と主張しつづける意味は小さくない筈である。「政治的な」判断としてはそうなる。たとえ心情的な抵抗感はあったとしてもだ。
だが、問題が単純でないのは、実際に、一段高い「裁く側」の席から被告を見下ろした場合、多くの「裁判員」の中に、ある種の「快感」が生まれるのではあるまいか。
権力に抵抗するつもりのサヨクの場合ですら、制度の内側での闘いを引き受ける者は、しばしば「ミイラとりがミイラに」なる。警戒心を持続させる用意はあるか?
2009年6月 3日 23:11
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