2009年11月18日
2009年11月12日
〓雑記帳〓〈52〉:鄭容順
―姜必善さんの半世紀(9)―
姜必善さんは桜井市に来て他の同胞と同じように縄綯いの仕事を24年間、52歳までしていた。この仕事が廃業になった。それまで船は木造船だったがプラスチック製に変わっていくことから仕事がなくなって暇になった。
2009年11月10日
ピイーと鳴く声:鄭容順
―チビ(臆病のヒナ)が鳴いている―
ベランダに行って戸を開けると向かいの家の屋根の1番下にとまっている。
筆者の目線になるところでちょこんと立っている。筆者の方に真正面に向いてとまっている。
2009年11月 7日
ビルの上に親子鳩:鄭容順
―いつも親子が一緒―
親鳩がどこかで鳴いていると鳴いている方向にヒナ2羽は歩き出していた。
飛び立つまでまだ筆者のベランダでウロウロと歩いている時はその方向に向かって歩いていく。そして隣の家との境目にある衝立の前に来ると下の隙間がダンボールでふさがれていて前に進めない。2羽のヒナはそこにちょこんと座ってじっとしていた。
母鳩は呼び寄せているつもりがなかなか来ないので母鳩が歩いて筆者と隣との境目に来た。ダンボールのあることに気がついて頭でそれを押しのけているのか「コツン」と音がしている。行くことができないと分かった母鳩は次の智恵を考えた。今度は筆者のベランダのサンの上に飛んできてヒナをサンの上に来るようにベランダのサンの上でじっと待っていた。行動派のヒナは母鳩のところに行って餌をもらいたい一心でベランダまで早く飛べるようになった。しかし臆病のヒナは「私は飛べない。お母さんがこっちに来て」といわんばかりにベランダの隅でうずくまっていた。やっと飛べるようになった臆病のヒナ、あちらこちらと飛んで親子4羽が3階建てビルの上の屋上にある建物の上で揃って町の中を見ている。
写真は11月1日、午前8時半ごろ撮影。
2009年11月 5日
〓雑記帳〓〈51〉:鄭容順
―姜必善さんの半世紀(8)―
年齢も90歳以上という。そこで朴尚任さんを思い出した。
そうしたことが天理市立北中学校夜間学級の福島俊弘教員にお世話になることになった。そこで「元気なハルモニ」を教えて下さったのが桜井市に住む朴尚任さん(90歳)と姜必善さん(89歳)だった。
筆者の取材ノートは記事を作るときに分かればよいと思って荒っぽい文字の書きなぐりのメモである。記事を書き終わって新聞に掲載されるとこうしたメモも資料も全部捨てていく。そうでないと仕事周辺が片付かないので全部捨てていく。そんなことから1世の渡日史は聞いた時に記録に残しておかない次世代に語り継ぐことができないと考えてこのコーナーで記述していくことになった。
姜必善さんはもともと桜井市でも粟殿に住んでおられた。それが数年前、道路の拡張工事で立退きになって同じ桜井市内に引っ越しをされている。
姜必善さんのことを書く前に子息のPさんのことをここに少し書いておきたい。大変お世話になった人である。
1986年の1月、正月明けて早々に筆者は民団奈良県本部を初めて訪問している。
当時、活躍し始めたのが大和郡山市で子ども合唱団を創設したAさん。現在も宇陀市で音楽の森を創設して活動しておられる。
この合唱団を影から支援をしていたのが今は亡きMさん。奈良新聞社で報道カメラマンとして活躍していたときからAさんのもっとも身近な支援者だった。若くて明るくて関西弁そのままのキャラクター、奈良県では少ない素材の文化活動をしていた。奈良県の子ども合唱団として新聞社全体が影ながら支援をしていた。ちょうどその頃、筆者は奈良県で雑誌記者をしていた。そして創設してまだ数年ほどのペングループの会長をしていた。会長という役柄、奈良新聞に行くことが多かった。当時はコピー機もFAX機器も家庭や市場に普及していなかった。こうした機器の利用は奈良新聞の機器を利用してなんとかペングループの運営をしていた。そんなときMさんは諸事情で報道カメラマンのデスクから外され部署は報道デスクになりペングループ紙面の担当になった。
Mさんは右も左も分からないペングループ。努力家のMさんはペングループとの会員とたえず会ってコミニユケーションづくりをされた。その喫茶店が旧社屋の近くにあった「ぼん」という喫茶店だった(今はもう店はありません)。
ペングループの会員と喫茶店でコーヒーを飲んだりする時間を多く取られた。また夜になるとカラオケやしゃれた店でお酒を飲む機会も作った。今までと違ったデスクの関係にMさんに好感を持つ人が多かった。
そんな折に出会った筆者とMさん。音楽家のAさんを支援していたMさんは「サロンコンサート」のチケット販売の協力が筆者のところにまわってきた。Aさんと会う機会が多くなった。そして中国北京で子ども交流コンサートを控えていた。子どもの随行員でMさんから「北京に一緒に行こう」という誘いがあった。筆者は「国籍が違うので行かれない」と断っている。
筆者の当時の国籍は「朝鮮籍」だった。別に北朝鮮や総連の支持者でもなんでもなかった。民団や総連という民族団体に出入りしていなかったので日本政府がした国籍そのままにしていた。
「国籍の関係で中国に行けない」という筆者にもかかわらずMさんは「まず県庁の国際課に訪ねて相談してくるように」と言われた。行ってみると「民団奈良県本部に行って相談して下さい」という。それで初めて民団奈良県本部に顔を出している。
この話しのきっかけは忘れもしない。MさんとAさんと3人、1985年12月の終わり、忘年会を兼ねてあるところで食事会していた。このときに出たのが北京行きの誘いだった。年が明けて奈良県庁の国際課に行った。そして当時、民団奈良県本部の事務局長だったPさんに北京行きを相談した。まず韓国籍に切り替えるのに戸籍の整理から始まった。ずいぶん迷惑をかけてお世話になった。Pさん1人でこの作業はできない。民団奈良県本部団長ら多くの関係者、駐大阪韓国総領事館の職員ら多くの方の尽力で北京行きの臨時パスポートを受け取ることができた。
Pさんに大変お世話になったのに何もまだ恩返しはできていない。今、筆者が在日韓国人の1人として在日コリアンの1人でも多くの人を取材して社会に救い上げていくことに従事している。これでPさんの思いが重なっていれば幸いと思っている。
Pさんは1990年代の初め民団奈良県本部を退職、現在は桜井市で培った体験を生かして同胞の相談をしておられる。戸籍整理や帰化など多くの人が相談されている。
姜必善さんは1919年2月16日生まれと言われているが干支が猿という。
1919年は未年、干支が猿という姜必善さん。1920年に生まれている可能性があるという福島俊弘教員の話しです。
姜必善さんが生まれてすぐの3月5日に実母が亡くなっている。育ての親は継母だった。生まれは慶尚南道咸安郡で生まれた。11歳のときに親と一緒に大阪府八尾市にやってきた。2年ここにいて隣町の柏原市に引っ越しをして長いことここで住んでいた。耳飾りを作る工場で働いていた。アメリカに輸出する耳飾りだった。真珠の貝殻から作っていた。13歳から働いた。朝6時から夜の9時まで働いた。休みは1ヶ月に1日と15日、2回だけだった。ここの工場長は故郷が同じウリナラ(同じ国)の人だった。
朝は4時半になると祖父が起しにきた。朝起きてポソン(韓国の足袋)を縫ったりしたという。間違って縫って叱られたこともあった。16歳になったときに実父が姜必善さんに話しがあるという。
嫁入りの話しだった。祖母たちは「まだ年が若いのに嫁入りさすのはかわいそう」と言っていた。実父の友人からの嫁入りの話だった。実父と同じ故郷の友人だった。
16歳で大和高田市に嫁いできた。22歳のときに戦争になった。戦争になったので舅がいる岩手県に疎開している。Pさんが長男、小学校に入学する時に疎開している。その時は9月、岩手県は寒かった。
姑が喘息持ちだったので寒い所よりも温かいところと愛知県に引っ越しをした。トヨタの会社の近くだった。Pさんは愛知県の小学校にも通っている。
戦争が終って韓国に帰国するのか話し合った。そして帰国するのに舅は桜井に兄がいたことから兄に会って帰るということで桜井にやってきた。
韓国に帰国するために船を1台手配しないといけない。1台の船を貸しきって世帯全部韓国に帰国する。持っているものを全部売り払って船を貸し切ることになっていた。それが先に帰国した人がまた桜井などに戻ってきた。
たくさんのお金を持って行っても国にお金を納めないといけなかった。自分のものにならなかった。死ぬのか。生きるのか。どっちにしてもこのまま日本にいることになった。日本に留まると決意したときにはなにもかも売り払って何もなかった。またフトンから買って生活用品を買って桜井に留まることになった。
桜井は住みやすいところだった。多くの同胞が住んでいて住みやすかったことが桜井に住むようになった。
来週は戦後の姜必善さんの半世紀を紹介していきます。今回は子息の話を盛りこみました。筆者の人生で忘れてはならないほどお世話になった人です。
【写真説明】2008年2月、橿原市の万葉ホールで開かれた夜間中学校の研究会、会場には1世のオモニ(おかあさん)たちの作品と一緒に学校に対する思い、教職員手作りの屏風が展示されていた。オモニたちは教職員の温かい心に接して文字を覚えておられる。
2009年11月 4日
2009年11月 2日
2009年10月30日
2009年10月29日
〓雑記帳〓〈50〉:鄭容順
―朴尚任さんの半世紀(7)―
朴尚任さんが通学する天理市立北中学校夜間学級に福島俊弘教員が勤務、ここで1世のオモニ、学齢期に就学できなかった日本人また新渡日外国人らに日本語指導している。日本の義務教育のいったんも担っている。
2009年10月26日
「あの日、あの時」≪140(最終回)≫:鄭容順
■日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)
「不安定な在留権と差別のなかでの生活」
朝鮮戦争後、日本経済は復興のきざしをみせたが在日朝鮮人は一層貧しくなっていった。民族差別のために仕事はほとんどなく失業対策事業で仕事を得るか、生活保護を受けるしかない人が急増した。
「あの日、あの時」≪140(最終回)≫:鄭容順
―140回でとりあえず終了させていただきます―
それが先週金曜日(23日)から体調を壊して24日は病院で抗生物質の点滴を打って治療していますがまだよくなりません。
月曜日連載ですが何も原稿ができていません。今週中に原稿を作成して最終回にしたいと考えています。自分では疲れがたまっていると思っていないのですが10月半ばから連日、遠出の現場で疲れがたまっていたようです。寄る年端に老いを感じています。今週中に原稿をいれます。
遅くなって誠に申し訳ございません。
2009年10月25日
ヒナ2羽、飛び立ち夜になっても戻ってこない:鄭容順
―本格的に飛び立っていった―
10月25日、日曜日、午後4時過ぎ、親鳩がベランダのサンにいるヒナの側にとまる。ヒナ2羽は母鳩を追いかけてベランダのサンを歩く。母鳩に餌をねだっている。しかし今日の母鳩は顔を背けてやろうとしない。
2009年10月23日
早く飛んでと行こうと誘う行動派のヒナ:鄭容順
―臆病のヒナ、やっとここまで飛べる―
行動派のヒナは昨日からどこかに行って飛びまわっている。
しかし臆病のヒナがまだ外に飛び出せない。行動派のヒナは1日に何度か飛び立って戻ってくる。戻ってくると臆病のヒナはピイピイ鳴いて喜んでいる。
2009年10月22日
2009年10月20日
親鳩のつがい・愛の確認:鄭容順
―親鳩のつがい、仲が良すぎて目も当てられない―
10月17日土曜日、夕暮れ近い4時ごろ、親鳩のつがいがべランダのサンに立ってヒナを見守っている。今までは餌をやりにきていたが最近は違う。
2009年10月19日
「あの日、あの時」≪139≫:鄭容順
■日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)
「朝鮮戦争下の在日朝鮮人」
1950年に朝鮮戦争が始まると在日朝鮮人は故郷の親族や友人への思いを一段と強めた。
2009年10月18日
ヒナが飛び立つ練習:鄭容順
―10月18日、午前8時過ぎ、動き回るヒナ―
1羽は行動的でもう1羽は少し動作が遅い。それでも動作の遅いヒナは一緒についていこうとするが巣からでるのに1歩も2歩も遅れて出て行く。
2009年10月17日
親鳩に呼びかけに応えるヒナ
―もうそろそろ飛び立っていくだろう―
ヒナがベランダをトコトコと歩き出した。
先日からヒナがベランダを歩くと考えて隣家の間にある衝立の下をダンボールで閉じてしまった。それで往来できない親鳩は隣からクウクウと鳴く。
2009年10月15日
2009年10月13日
ヒナ2羽の内緒話かな:鄭容順
―1日1日と成長していく―
夫は「もう親のところまで来いと教えているのかもしれない」という。
親が遠くでクウクウと鳴く。親が来たのかと思ってベランダにいるヒナを覗くとトコトコと歩いて2羽のヒナが寄り添った。
その格好が内緒話をしているようだ。
思わずレンズを向けてしまった。
後ろで夫が「お前のことうるさいと思っている。ベランダの戸を閉めたら」と言っている。そんな夫の声に2羽のヒナは「ベランダが汚れて嫌だと文句を言っているのに私たちの顔を見るとカメラを向けている。あの光が嫌ね。フラッシュはスターに向けられるものよね。いずれ私たちスターになる前触れだろうか。この界隈ではたくさんのヒナが生まれていてこの間はこの近くヒナがテレビ中継されたらしい。私たちもそのうち来るのかしらね。このうるさいおばさんの家にはこないよ」と言っているのか。
内緒話をしているように筆者には見えた。
かわいい仕草にカメラを向けた。10月11日午前9時ごろ撮影。
2009年10月12日
「あの日、あの時」≪138≫:鄭容順
■日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)
「冷戦の進行と在日朝鮮人」
在日朝鮮人は朝鮮半島情勢にも強い関心を寄せていた。しかし、米ソの対立が深まり朝鮮の独立が遅れる中で在日朝鮮人の間でも意見が分かれていった。
2009年10月11日
鳩らしくなってきた:鄭容順
―もうすぐ飛び立つのかな―
ヒナの頭の部分が薄青く光ってきて鳩らしくなってきた。
インターネットで検索すると尾の羽が7枚になると鳩が育ったという。
数えると6枚にも見えたり7枚にも見えたりしている。
2009年10月 8日
2009年10月 7日
歌手・沢知恵が奈良県天理市に:鄭容順
―天理市立北中学校夜間学級の文化祭にゲスト出演―
「天理の夜間中学文化祭」で「沢知恵(さわともえ)コンサート」を開催します。入場は無料です。たくさんの人の参加をお待ちしています。
1日、1日、目に見えて鳩らしく:鄭容順
―鳩の尻尾に羽が飛び出してきた―
3日ほど前から鳩の後方に尾の羽が見え出した。
3日前はこんなによく分かるような尻尾でなかった。
昨日を見ると鳩らしい羽で尻尾の方が見え出した。
2009年10月 5日
「あの日、あの時」≪137≫:鄭容順
■日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)
「在日朝鮮人の国籍と権利」
GHQは、1946年に入り朝鮮半島に帰る人が減少するなかで、在日朝鮮人や朝鮮半島の人々からの反発を受けて、在日朝鮮人の国籍問題については名言をさけながらも日本に留まる以上は在日朝鮮人も日本の法令を遵守する義務があると繰り返した。
2009年10月 4日
2009年10月 2日
ぺ・ヨンジュンの訪日に思う:鄭容順
―在日韓国人の一部は醒めた目で見ている―
それはなぜか。
筆者の感情論を述べたい。
筆者は在日韓国人の記者として活動している。そしてインターネットのウエブ新聞を構築する参加者の1人としても活動している。だからあえてここに記述した。
2009年10月 1日
2009年9月29日
2009年9月28日
「あの日、あの時」≪136≫:鄭容順
■ 日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)
「『解放民族』としての朝鮮人と敗戦国の日本人」
日本に留まった朝鮮人にとって、敗戦国の日本で生活することも決してたやすいことではなかった。
2009年9月26日
2009年9月24日
〓雑記帳〓〈45〉:鄭容順
―朴尚任さんの半世紀(2)―
9月12日、午前10時40分頃、近鉄桜井駅に降りてタクシー乗り場に向かおうとした。桜井駅の北出口に出ると前にはバス乗り場がありタクシー乗り場がある。
2009年9月22日
2009年9月21日
「あの日、あの時」≪135≫:鄭容順
■日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)
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朝鮮が日本の統治から解放された後も数多くの朝鮮人が日本に留まることになった。これら在日朝鮮人として生きる権利の保障を求めながら、敗戦後の日本を生き抜いていく。しかし、冷戦が進行するなかで在日朝鮮人は日本に在留する資格さえ法的には十分に定まらないまま日本で暮らすことになった。
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「朝鮮への帰還と日本への残留」
日本の敗戦・朝鮮の解放以後、日本各地の引き揚げ港は、アジア太平洋一帯から引き揚げてきた日本人だけでなく、朝鮮の故郷に帰ろうと集ってきた朝鮮人でごったがえしていた。
2009年9月17日
〓雑記帳〓〈44〉:鄭容順
―朴尚任さんの半世紀(1)―
今回は取材に入るまでの経緯を紹介します。
敬老の日にちなんで民団新聞は90歳以上で元気なの高齢者の取材の要請が来たのは9月の第1週土曜日だった。はて誰がいいのか。検討がつかない。
2009年9月15日
2009年9月14日
「あの日、あの時」≪134≫:鄭容順
■日韓条約の締結
「条約が残した課題」
それにもかかわらず、この条約は自国民に対する十分な説得と合意のプロセスを踏むことなく両政府が急いで条約を締結したためにその手続きと内容に多くの議論の余地を残した。
2009年9月10日
〓雑記帳〓〈43〉:鄭容順
―李美子大阪公演―
李美子(67歳)は韓国では日本の美空ひばりと言われるほどの国民的歌手、不滅の歌手です。日本植民地支配時代の1941年に生まれ、幼少から成人になるとき韓国は南北に分断され韓国動乱(朝鮮戦争)を体験、軍事政権下と民主化運動の間で生きてこられた。そして李美子の歌で多くの人たちを励まし生きる活力を与えてきた。
2009年9月 7日
2009年9月 6日
もうすぐ秋:鄭容順
―稲穂が育っている―
やがてもうすぐ黄金色になって稲穂がこうべをたれるころになる。そして秋たけなわに入る。その前に田園に美しい光景を見せてくれる。
たんぼの畦道に彼岸花が咲きだすと彼岸の入りです。
2009年9月 4日
2009年9月 3日
〓雑記帳〓〈42〉:鄭容順
―韓国の歌大好きの若者たち―
故金大中元大統領が韓日文化交流の目玉として韓日文化交流を解禁をされた。そして日本は「韓流」になった。韓流で韓国のテレビドラマ「冬の恋歌(キョウルヨンガ)」は「冬のソナタ」に題名を変えて日本のNHKテレビで放映され日本フアンを虜にした。次々と放映される韓国ドラマにのめりこんでいった。
2009年9月 1日
自民党批判:鄭容順
―町で聞いた自民党議員の評判―
筆者は仕事の関係でタクシーをよく利用している。
小泉元首相の規制緩和で1番の影響を受けたのはタクシーを運転している運転手です。不景気で夜の居酒屋に通うサラリーマンは減少、そして飲酒運転の取り締まりが厳しくなって電車で通勤する人が多くなった。
2009年8月31日
2009年8月20日
〓雑記帳〓〈40〉:鄭容順
―朝食は生活の音でリズム―
この10年ほど日本社会の家庭の生活リズムがなくなっている。
それぞれ好きな時に起きて好きな時に食事をして自分都合のいい時間に外出したり用事をしたりしている。
2009年8月13日
〓雑記帳〓〈38〉:鄭容順
―老人は働くのが趣味という首相発言―
先月25日に麻生首相は「高齢者は働くしか才能がない。遊びを覚えても遅い」
つまり「日本の高齢者、65歳以上の人たちは元気。介護を必要としない人は8割を超えている」と発言したうえで「高齢者は働くことしか才能がない。遊びを覚えても遅い」と言っ
2009年8月12日
「夏・なつ・夏」:鄭容順
夏に生命力の強さを見せているようだ。
今年は雨が多く梅雨明けも遅かった。
暦の上では「立秋」が過ぎた。しかし植物は今が旬、夏の太陽に向かって真っ直ぐに伸びて天に向かっている。
2009年7月23日
〓雑記帳〓〈35〉:鄭容順
―つまらない女―
「つまらない女」とはどういうこというのだろうか。
普通の女性がしていることを「つまらない女になりました」と発言した。
それは女性医師でタレント活動をする西川史子。この度、某男性と婚約、婚約発表をしたときにそう言った。
2009年7月15日
〓雑記帳〓〈34〉:鄭容順
―奈良市長選・若手市長に思う―
民主推薦で仲川元庸氏(33歳)が当選した。父親、鍵田忠三郎氏は1967年から80年まで奈良市長を務めた。その子息が鍵田忠兵衛氏(51歳)、今回の奈良市長に出馬したものの13749票という票差で鍵田忠兵衛氏が破れた。
この差は無党派層を大多数取り込んだ票だった。
2009年7月 8日
〓雑記帳〓〈33〉:鄭容順
―高校生たちと家族・学校―
先日、奈良県桜井市の近鉄大阪線桜井駅で男子高校生の事件が起きた。
この事件はあってはならないことなのに起きてしまった。
家庭も学校も話し合う場所がなくなっているのだろうか。
家庭では親は子どものすることにいつも否定ばかりして親は子どもの言葉に耳を傾けて子どもの言い分を聞いてそれに対する善悪を諭しているのだろうか。
子どもたちの声に耳を傾けている親ももちろんおられる家庭もある。
しかし学校教育はどうだろうか。
2009年7月 1日
〓雑記帳〓〈32〉:鄭容順
―奈良の町が変わっていく―
6月23日付けの新聞、奈良版で掲載されていた。
時代を支えた奈良の老舗旅館・日吉館が取り壊されることになった。
1914年(大正3年)に建てられた。日本の近現代を挟んで学術研究者や文学者がよく利用していた。栄華を極めた時代もあっただろう。
2009年6月24日
〓雑記帳〓〈31〉:鄭容順
―喫茶店に集まる常連さん―
筆者の行きつけの喫茶店、銀杏やさん。いろんな人の常連さんがいる。
朝7時~8時半、近くに勤務する公務員に会社員、ほとんど男性でモーニングを食べながら新聞を読んで行かれる。
自宅から直行して近鉄沿線新大宮、西大寺、学園前などあたりに勤務する人、また反対にそのあたりから来た人がこの喫茶店で朝食を済ませて勤務先に向かう人もいる。
2009年6月18日
国宝「阿修羅像」仏教美術に関心:鄭容順
―ひきつけるものは何か―奈良に住んでいると多くの仏像を見ている。
東大寺、法華寺、不退寺に唐招提寺、薬師寺に法隆寺と数ある仏像に出会っている。
国宝「阿修羅像」は奈良公園の中にある興福寺所蔵の「阿修羅像」、凛とした顔立ちに手が両方に6本でている。顔も3面である。
2009年6月17日
〓雑記帳〓〈30〉:鄭容順
―癒し系のいろいろ―
筆者が1番の至福の時間は仕事もない。ただ銀行などの所用で外出をして午後から行きつけの喫茶店・銀杏やさんに行って新聞を読むこと。
そんなに長く歩かない時は新聞を2紙、鞄の中に入れていく(歩く所用の時は膝を痛めるので少しでも鞄の荷物を軽くしている)。
2009年6月13日
鳩山総務大臣の辞任:鄭容順
―昨日のテレビニュース―
衝撃が走った。日本郵政の西川善文社長の更送要求を麻生首相に受け入れられなかったとして鳩山総務大臣は辞表を提出した。
テレビの会見に臨んだ鳩山総務大臣は記者会見で話す。
「正しいものは正しいのです。西川さんは何も私に謝罪して頂くことはありません。国民の税金をかすめていることだから国民に謝罪して下さい」と言った。
2009年6月10日
〓雑記帳〓〈29〉:鄭容順
―企業窓口受付のサービス―
筆者が普段、思っていることが朝日新聞に投稿されていた。
5月27日付けの朝刊、見出しは「企業窓口案内に閉口」、投稿者は神奈川県の男性40歳近い男性からである。
読んで共感したので投稿原稿を切り取ってスクラップにして残した。
2009年6月 9日
けむりの木(その2):鄭容順
―煙の木、漆科、糸状のけむり状がモコモコと―
しかし筆者はモコモコとした花のイメージは雲を創造していた。
この木のことを「スモークツリー ヤングレデー4号ポット」というらしい。
けむりの木:鄭容順
―6月8日、行きつけの喫茶店で生けられた花―
夏を連想するのか一瞬、手前の花が雲のように見えた。
モコモコとしたイメージ、何の花だろうと。
2009年6月 5日
不便なバス停留所:鄭容順
―西大寺行き、自衛隊行き、加茂行きなどのバス乗り場で―
雨がしとしとと降っている。
バス乗り場で並んで待っているが時折、高齢者の男女3人が割り込んでこられる。注意したいがぐっとこらえて黙っている。
そしてカッパを着た中年女性が自転車を降りてバス乗り場を歩いて通り過ぎようとしている。
それが並んでいるバス停留所の反対の道を通るのが普通なのにこの女性はバス乗り場の時刻案内板の前を通り過ぎようとする。
我が家の癒し系その2:鄭容順
―葱の根っこを水につけると―
2日もすると切ったところから緑色の葱の茎というのか葉が細くでてきているのです。
そして4・5日すると切ったところから緑の茎それとも葉がでている。
普通ならこのままゴミ箱に捨ててしまうとそのままゴミになっている。
捨てないで身近にあった薬瓶の空き瓶に入れて水を入れた。
2009年6月 3日
〓雑記帳〓〈28〉:鄭容順
―福岡政行さんの話を聞いて―去る5月27日、奈良新聞政経懇話会・阪奈政経文化懇話会・現代奈良研究会・なら21クラブの「5月合同例会」が奈良ホテルで開かれた。会員ら約60人が集った。筆者はその1人に入っている。
テレビでおなじみの福岡政行さん(白鳳大学法学部教授・立命館大学客員教授)の講演会、演題は「政治が動く、政治が変わる―時代の潮目を読む」で現況の自民党・民主党の福岡政行さんから見たものを話した。
2009年6月 2日
韓国ろうそくデモに思う:鄭容順
筆者が同感する記事が掲載されていた。
韓国の朝鮮日報に先日の訃報・盧武鉉前大統領の国民葬、ソウル市庁前も大勢の人が訪れ盧武鉉前大統領を偲び悔やんだ。
しかしソウル市庁前広場のすぐ側にある「徳寿宮」の側にはろうそくが置かれ放置したままだったと朝鮮日報の記者が国家的文化財の保護に問題点を挙げていた。筆者もまったくその通りで同感である。
記事のホームページ
2009年6月 1日
我が家の癒し系:鄭容順
この芽はマナの葉です。
パソコンの前で座って作業している。
情報は世界中が飛び交っている画面と向き合っている。
何でも入ってくる。情報には不自由しない。
しかしこれも時には不満になってくる。
ほんのしばらく何も考えない。
情報もいらない。
2009年5月31日
2009年5月28日
〓雑記帳〓〈27〉:鄭容順
―何がおきているのだろうか―
分からない国、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、25日の朝に北朝鮮は核実権をしたという。その威力は長崎に投下された原子爆弾に匹敵するという。
しかも23日早朝には韓国の盧武鉉前大統領が自殺した。とんでもないニュースが世界中に流れた。そしてその翌日には北朝鮮の最高指導者が盧武鉉前大統領の訃報に弔電が送られている。そして、その翌日の核実権である。
2009年5月24日
喫茶店銀杏や:鄭容順
―紫陽花の生け方がまた変って―5月21日のアートコーナーをこのホームページで紹介しましたが昨日23日土曜日、京都の現場に行くために立ち寄るとアートコーナーの紫陽花の生け方が変っていました。
2009年5月23日
新しい画面になった:鄭容順
―セットアップをするものの筆者もまだまだのみこめない―練習を兼ねて原稿を作っています。
仕事の行く前に近鉄奈良駅近くの喫茶店・銀杏やさんに立ち寄ります。
普段は自宅で仕事をして主婦をこなしています。
2009年5月22日
貝割れ大根の芽:鄭容順
―小さな芽に心が癒されて―
花好きの落合恵子さんに少し影響を受けたのです。
彼女は庭の花の手入れをこまめにしています。
何度かお会いをしている。朝日新聞でエッセーを執筆して連載、毎週土曜日は何をおいてもまっさきに読んでいます。
2009年5月21日
〓雑記帳〓〈26〉:鄭容順
筆者は18日、朝、大阪市中崎町にある会館に向かっていた。
朝11時からの取材現場、自宅は奈良、近鉄奈良駅を9時過ぎの電車に乗っている。布施あたりで10時、中崎町の現場まで余裕を持って行けると考えていると携帯が鳴った。緊急の様子が伝わる。
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