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    <title>チョン・ヨンスンの「ぽけっとジャーナル」</title>
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    <updated>2009-11-18T04:36:28Z</updated>
    <subtitle>綴って散らして</subtitle>
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    <title>鳩の家族：鄭容順</title>
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    <published>2009-11-18T04:33:41Z</published>
    <updated>2009-11-18T04:36:28Z</updated>

    <summary>―家族総出で姿を見せている― 今朝（１１月１８日）、８時頃、ベランダを開けてビルの屋上にいるヒナたちを見た。３羽がウロウロしている。どこからかまた1羽が出てきた。...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>―家族総出で姿を見せている―</strong></p>

<p>今朝（１１月１８日）、８時頃、ベランダを開けてビルの屋上にいるヒナたちを見た。３羽がウロウロしている。どこからかまた1羽が出てきた。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-18-asa-8g.jpg"><img alt="chung-11-18-asa-8g.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-18-asa-8g-thumb-300x416-695.jpg" width="300" height="416" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-18-asa-8g-2.jpg"><img alt="chung-11-18-asa-8g-2.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-18-asa-8g-2-thumb-200x190-697.jpg" width="200" height="190" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>そしてベランダから見える向かいの高層マンションの上階、筆者の目線に鳩たちがやってきた。双眼鏡でみると行動派のヒナと臆病のヒナ、チビがいる。<br />
横にも下にもいる。全部で６羽、これが親鳩の子どもなのかもしれない。<br />
さては筆者のベランダで卵を産んだのは２回目の妊娠だったのか。<br />
1回目はどこで産卵したのか。<br />
親鳩とヒナたち、６羽が筆者の目線で見せてくれた。<br />
筆者がパソコンを開いて作業すると1羽はまたパソコンの見えるところに来て電線にとまっている。<br />
さては今度の産卵、また筆者のベランダが狙われているのかな。<br />
鳩やヒナを疑っている。<br />
ベランダ取られて卵まで産んでそして気長く抱いてヒナに孵化、成長して歩き出した。もう糞だらけで迷惑そのものの鳩とヒナだった。<br />
しかし日常では観察できない鳩の生態の一部分に触れて「鳩公害」と「ヒナの仕草」の間を行ったり来たりした２ヶ月間だった。<br />
飛び立ったヒナ、産まれて今で約３ヶ月になる。<br />
それが昨日の昼間、ビルの屋上の光景、雨が降っている中は餌が取りにいけないヒナなのか。<br />
母鳩に餌をねだってもらっていた。<br />
行動派のヒナもチビのヒナも。思わず筆者は１人笑っていた。<br />
まだヒナは子どもの段階なのかと。<br />
写真を撮ったが餌をやっているところは一瞬の光景で上手く撮れなかった。3羽並んでいるところしかとれなかった。<br />
写真①は向かいのマンションにとまって姿を見せてくれた親子の鳩たち。②はパソコンの部屋に行くと１羽が飛んできて電線にとまって筆者の部屋を見ている。少しぼけました。豆粒のヒナですみません。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>「特別展―雨森芳洲と朝鮮通信使」：鄭容順</title>
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    <published>2009-11-12T01:03:46Z</published>
    <updated>2009-11-12T01:07:14Z</updated>

    <summary>―会期が１１月２３日（月・祝日）まで。後１０日です―...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>―会期が１１月２３日（月・祝日）まで。後１０日です―</strong></p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-12-net1.jpg"><img alt="chung-11-12-net1.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-12-net1-thumb-200x228-687.jpg" width="200" height="228" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>場　　所：高月町立観音の里歴史民俗資料館<br />
　　　　　滋賀県伊香郡高月町渡岸寺２２９<br />
　　　　　電話・ＦＡＸ０７４９―８５―２２７３<br />
会　　期：９月１９日（土）～１１月２３日（月・祝日）<br />
開館時間：午前９時～午後４時半<br />
入館料金：大人２５０円（２０人以上は団体割引）、小中学生は無料</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-12-net-2.jpg"><img alt="chung-11-12-net-2.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-12-net-2-thumb-200x122-689.jpg" width="200" height="122" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>儒学者・雨森芳洲は対馬と釜山を往来して江戸幕府との外交に貢献した。<br />
雨森芳洲は「外交の基本は『互いに欺かず、争わず、真実を以て交わること』という言葉を残されている。<br />
雨森芳洲は滋賀県伊香郡高月町雨森村の医者の家で生まれた。２２歳の時、九州と朝鮮半島との中間に浮かぶ島、対馬藩（現在は長崎県）に仕えた。<br />
当時の日本は鎖国時代だったが朝鮮とは「通信の国（よしみを交わす国）」として徳川幕府は善隣友好の交わりを結んでいたことから交流の窓口が対馬藩だった。<br />
雨森芳洲は儒者として対馬藩に仕えた。３１歳から朝鮮外交を担当する役職に命じられて数々の業績を上げた。<br />
当時の外交は筆談外交だったが雨森芳洲は３年間釜山に留学して朝鮮語を収得した。４４歳と５２歳の時は朝鮮通信使の真文役として江戸往復の旅に随行、６１歳の時、主君に上申した「交隣提醒」の著書には国際社会の現代に通用する「誠信外交」の秘訣が述べられている。８８歳で生涯を閉じた。１万首の和歌作りを志し、「古今和歌集」１千編詠みを半年余りで完了、２万首の詠草を成し遂げた。雨森芳洲は生涯学習の先駆者だった。</p>

<p>今回の特別展に「東医宝鑑」が展示されている。「東医宝鑑」は今から４００年前、朝鮮王朝が許浚に命じて作らせた朝鮮最高の医学書、江戸時代、八代将軍の徳川吉宗もこの医学書を好み周辺のものも好んで読まれたという。大名たちにも人気があった。どうして日本に伝わったのか様々に推測されているが筆者は正確なことはわからない。<br />
高月町唐川に在住の布施巻太郎さん（医師）は世界各国の医学書を収集されている。その中に「東医宝鑑」も所蔵、世界各国の医学書などを後世に伝えていくことから布施美術館を設立して保存されている。今回の展示を通して１人でも多く朝鮮半島の優れた人材を知ってもらいたいと朝鮮半島とゆかりの深かった雨森芳洲展の関わりに借り受けて展示した。<br />
「東医宝鑑」は全２５巻、２５巻全部揃っていて全２５巻展示されている。<br />
他に「朝鮮通史使絵巻」「朝鮮通信使騎馬図」「朝鮮紀聞」「朝鮮通信使接待用食器」「雨森芳洲画」など５２点展示。<br />
また近年、朝鮮通信使の経路から離れた高月からも朝鮮通信使に関わる古文書や通信使と交流をもった先人の交流も明らかにされた絵画や書跡等も紹介している。</p>

<p>アクセスはＪＲ高月駅下車徒歩５分、車の場合は北陸自動車道「木之本Ⅰ・Ｃ」より１０分。また近くには雨森芳洲庵がある。ここは雨森芳洲の生家で対馬・朝鮮・江戸を舞台にして活躍した雨森芳洲の残した資料など数多く展示している。ホームページはhttp://www.biwa.ne.jp/~kannon-m/</p>

<p>【写真説明】①高月町立観音の里歴史民俗資料館の建物、正面玄関です。②今回展示の目玉とも言える「東医宝鑑」、ガラスケースに入れられて大切に展示されている。</p>]]>
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    <title>〓雑記帳〓〈５２〉：鄭容順</title>
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    <published>2009-11-11T15:32:52Z</published>
    <updated>2009-11-11T06:35:50Z</updated>

    <summary>―姜必善さんの半世紀（９）― 姜必善さんは桜井市に来て他の同胞と同じように縄綯いの仕事を２４年間、５２歳までしていた。この仕事が廃業になった。それまで船は木造船だったがプラスチック製に変わっていくこと...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>―姜必善さんの半世紀（９）―</strong></p>

<p>姜必善さんは桜井市に来て他の同胞と同じように縄綯いの仕事を２４年間、５２歳までしていた。この仕事が廃業になった。それまで船は木造船だったがプラスチック製に変わっていくことから仕事がなくなって暇になった。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-12-zaaki-kan.jpg"><img alt="chung-11-12-zaaki-kan.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-12-zaaki-kan-thumb-200x165-681.jpg" width="200" height="165" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-12zaaki-kan-2.jpg"><img alt="chung-11-12zaaki-kan-2.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-12zaaki-kan-2-thumb-200x65-683.jpg" width="200" height="65" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>もう子どもたちは一人前になっていた。息子が鉄鋼所の事業をしていたので鉄鋼所の仕事を手伝うになった。そして化学工場に働きに出た。朝の５時から９時と働いた。４時から９時もあった。ここでネジを切った。目も見えなくなってきて手も切ることがあった。金儲けのために働いた。５８歳まで働いた。<br />
「夜の９時まで働いたがしんどかった」と姜必善さんは話す。<br />
この仕事もなくなって家にいると退屈で仕方がない。仕事ばかりしてきたものは家にいることは退屈で苦痛そのものだった。<br />
そしてまた今度は交通会社の食堂に働きに行った。バスの運転手やタクシーの運転手などがたくさん食べに来られた。６０歳を越えても数年働いた。<br />
また家にいるようになった。<br />
その時、息子が言った。<br />
「自主夜間中学があるからそこで文字を勉強したら」と。<br />
それで天理市立北中学校夜間学級に通学するようになった。<br />
「今さらこの年になって学校に行くのは格好悪いと思った。けれど電車の乗ってどこかに行こうとすると切符は昔のように駅で行き先を言うと駅の人か売ってくれたが今は切符を買うのも機械になった。機械を見て上に書いているところを見て機械にお金を入れて買う。字が読まれないので駅員に料金を聞くと上に書いてある案内を見て下さいとう。これが１番辛かった」と姜必善さんは話す。</p>

<p>息子が夜間学級で学ぶことを進めていたときのある日、民団奈良県本部婦人会桜井支部の人の団費を集金に行ったことがあった。この集金に行った人の婦人の話を聞いていた。天理の夜間学級に通ってから文字を綺麗に書かれると噂では聞いていた。そこで姜必善さんが団費の集金に行った。この時この人が書く綺麗な文字を見た。姜必善さんはその人に「どこの学校に通っているの」と聞き出すと「天理市立北中学校夜間学級」と言う。<br />
それで姜必善さんはその人に話した。<br />
「天理市のどのへんに学校があるの。場所を教えて。学校に行きたいからここまで訪ねてきたのです」と話すとその人は「明日５時に待ち合わせて一緒に学校にいきましょう」と言ってくれた。<br />
そして天理市立北中学校夜間学級に通い始めた。<br />
当時、桜井から５人の１世のオモニ（お母さん）が通学していた。<br />
「私は生まれてから学校に行っていないので字を知らなかった」<br />
学校に行けず文字を知らなかった苦労、息子５人は高校まで行かせて教育をした。<br />
しかし姜必善さんの生涯は夫の連れ合いで苦労の連続だった。<br />
事業をしていたのに昼間から酒を飲んで賭け事をして杉の木の皮を剥ぐ仕事をしていたのにいつも集金するお金を前借して家にはお金は入れることはなかった。<br />
夫のためにいつも家の中は火の車だった。集金した代金で賭け事をして借金ばかり作っていた。それでも姜必善さんは縄綯いをして家族を養い５人の子息を高校まで行かせた。<br />
筆者はこんな話しを聞いていると1世のオモニたちは夫の賭け事で泣かされ昼間から酒を浴びて泣かされてきたという人が多かったのがまた分かった。<br />
筆者の家は父親がずっと日本の会社で働いていた。<br />
真面目で勤勉に働いた。<br />
そのストレスはいつも母親に当たっていた。<br />
子どもには一切、暴力を振るうことなく説教する叱り方をしてきたが母親にはたいてい何かで小言を言っていた。夕食の食材もその1つだった。<br />
「盛り付けの仕方が悪い。皿いっぱいどっかり盛り付けて。俺は豚の餌と違う」「味付けが悪い」キムチを食卓に置くと「ニンニクがきつい。この匂いがいらん」という。それで母親の漬けるキムチはニンニクの少ないキムチになった。虫のいどころが悪いと膳もひっくり返した。<br />
何の話をしていたのかそれは記憶にないが母親は父親に気にいらないことを言ったのだろう。突然、台所に行って水をバケツに入れてきて母親に水をかけたこともあった。<br />
そんな時はいつも妹と２人で部屋の隅でじっとしていた。<br />
叔父が私の家に住むようになってそんなことは少なくなったがまた結婚して出て行くと父親が母親に対する暴力と暴言が多々あった。<br />
筆者はこんな喧嘩騒ぎはずっと見てきた。<br />
また叔父たち親戚が集まっても酒に飲まれて喧嘩する光景も何度も見てきた。<br />
父親はどこにいても酒を飲んでいる時は紳士だったが家ではいつも母親にあたり散らしていた。姜必善さんの夫の苦労、同じような苦労を１世のオモニたちはしてきた。苦労はそれぞれに違うが１世のアボジ（お父さん）たちの心のはけ口がなくて何かにおぼれていないと生きていくのがしんどかったのだろうか。<br />
日本で暮らしていても自分の思うように生きられない。このしんどさがあったのだろうか。心の鬱積を酒や賭け事、暴力や暴言となったのだろうか。<br />
父親も同じだったのだろうか。<br />
日本の会社で働いていた父親に対して同胞から妬みや嫉みもあった。父親の働く会社に地元の在日コリアンが出かけて行き国籍の違うことを話した人もいた。その人は早くに日本国籍になった人だったが１世、韓国訛りの日本語を使っていた。それでも地元の在日コリアンに面と向かって何も言えない父親は母親につまらない理由で当たり散らしていたのだろう。<br />
母親も連れあいで苦労した。1世のオモニたち形は違っても何らかで癖のある男性、在日コリアンの男性も日本で生きるがためにたくさんの癖を持っていた。一番多いのが酒と賭け事、父親は賭け事を一切しなかったが家に給料を入れることをしなくなった。<br />
韓国の動乱で日本は軍儒景気になって母親がしていた廃品回収業の商いは軌道に乗った。男以上に稼いだ母親の収入、いつ言ったのか記憶はないが「あんたの給料なんか３日で稼ぐ」と言ってから家に入れるお金は定年退職するまで３万円だった。<br />
この話は本当だったのか。どうか。父親の姉、１１歳上の姉、叔母に筆者は生前聞いたことがあった。<br />
叔母に「無学の母親と頭がよくて学校の出た父親とずっと性格が合わなかったと話したら叔母は「あんたのおかあさん。３日でおとうさんの給料を稼ぐといったから給料いれへんようになった。けれどおかあさんは偉い。商売をして息子に継がせたのやから偉いのやで」と初めて母親を褒める言葉も聞いた。</p>

<p>姜必善さんの苦労、１世のオモニたちは誰もがしてきた。皆口に出すか出さないだけである。筆者の父親も町では紳士的で上品な人で通っていたが家では違った。１世の気質そのままだった。ただ子どもには一切暴力を振るわなかった。<br />
座らせて長い説教で叱った。それがまた筆者は苦痛だった。その時はいつも他のことを考えていた。しかし筆者は１度だけ父親に叩かれた。<br />
日本人の男性と付き合っていることが分かって１度１回頭を叩かれた。それからあわてて見合い結婚させられていることも書いておこう。<br />
【写真説明】２００８年２月、橿原市万葉ホールで開かれた夜間学級で学ぶ生徒たちの作品展、自分たちが作った判子も展示。姜必善さんの判子もあります。</p>]]>
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    <title>ピイーと鳴く声：鄭容順</title>
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    <published>2009-11-09T23:29:27Z</published>
    <updated>2009-11-09T23:31:12Z</updated>

    <summary>―チビ（臆病のヒナ）が鳴いている― ベランダに行って戸を開けると向かいの家の屋根の１番下にとまっている。 筆者の目線になるところでちょこんと立っている。筆者の方に真正面に向いてとまっている。 ...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>―チビ（臆病のヒナ）が鳴いている―</strong></p>

<p>ベランダに行って戸を開けると向かいの家の屋根の１番下にとまっている。<br />
筆者の目線になるところでちょこんと立っている。筆者の方に真正面に向いてとまっている。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="chung-11-10.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-10.jpg" width="300" height="308" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>筆者は「おお--。チビが来ていたのか。合図して呼んでくれたのかな」と筆者の都合のいいように考えて心の中で喜んでいる。<br />
そしたら行動派で先に飛び立ったヒナがやってきた。<br />
（あれ。私を呼んでいなかったのかな）<br />
まあいい。ピイーと鳴いて合図を送ってくれただけでもいい。<br />
ヒナの鳴き方もいろいろある。チビの鳴き方を筆者は覚えてしまった。<br />
少し成長が遅くて飛び立つのが遅れたチビ、雌なのかなあ。<br />
行動派のヒナにずっと甘えている。行動派は雄なのかな。<br />
そんな確認したことないのでわからない。<br />
けっして手で触らないようにしてきた。<br />
１度だけあまりにもかわいい仕草にまだ成長していないヒナの嘴に小さな枝の切れ端（親が運んできた）で２羽のヒナの嘴にもっていてコツンコツンとあてて見た。それからその日の夜から筆者の顔を見ないで人間で言うと苦虫をつぶしたような顔をしていた。翌日、昼過ぎになるとまた愛らしい顔に戻っていた。<br />
それから枝の切れ端であってもヒナに絶対に触らないと決めた。<br />
親鳩が育てている。人間が関与するものではないと悟った。<br />
しかしさすが行動派のヒナより飛び立つのが遅れたチビ、ベランダのサンにとまっている母鳩のところに行かれない。餌を貰っているのは行動派のヒナだけ。けれど鳩は賢い。栄養が届かないチビに今度はベランダに降りてきてチビだけに餌を与えている。行動派のヒナが横から取りに行こうとするが顔を背けてチビの方に餌をやっていた。<br />
親鳩はヒナがもう飛べるということも分かるらしい。そうした頃になると毎朝、親鳩２羽がベランダのサンにとまってベランダまでヒナが飛んでくるのを待っている。待っている母鳩を尻目に冷房機器の下に隠れて出て来なかったチビだった。（私はまだ飛べないの）と言っているようだ。それでも羽を広げて飛ぼうとする仕草はしていた。<br />
見るに見かねて筆者は母鳩のいるベランダのサンまで１日でも早く飛べるようにと考えて牛乳パックの空き箱を利用して竿にかぶせて足場を作ってやった。<br />
その間、洗濯物が干せない。仕方がないと思った。<br />
なかなか飛べなかったチビ、やっとベランダのサンに飛べるようになったのは行動派のヒナから遅れること４・５日、そして今度は母鳩が飛ぶ訓練をした。<br />
ベランダのサンの上を右に左に飛んでチビを母鳩の後について飛んで来させて餌を与えて飛ぶ訓練をさせていた。こんな行動を見ていると鳩は賢いなと思った。<br />
飼っていた伝書鳩が放されてドバトになったと聞いている。現在マンションなどの居住空間にいるのはドバトだがもともとは伝書鳩だった。<br />
空ばかり見てヒナを探している筆者に夫は心配になってきたのか鳩対策を真剣に考えている。<br />
そんなことを知ってか知らずか夕方ねぐらに帰る前の３時前後にほとんど向かいの家の屋根の下にとまって筆者をじっと見ている。<br />
ピイーと鳴いた合図、やはり筆者に呼びかけていたことにしよう。<br />
写真は１１月９日午後の３時頃撮影、ピイーと鳴いたチビのところに行動派のヒナが降りてきた。いつも２羽はたいてい一緒に行動している。あちらこちらと飛んでいるチビ、飛べなくて母鳩に甘えていたチビ、なんか飛べなかった頃を思うと愛しくて丈夫に育つようににと思って見ている。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>ビルの上に親子鳩：鄭容順</title>
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    <published>2009-11-06T22:55:32Z</published>
    <updated>2009-11-06T22:57:25Z</updated>

    <summary>―いつも親子が一緒― 親鳩がどこかで鳴いていると鳴いている方向にヒナ２羽は歩き出していた。 飛び立つまでまだ筆者のベランダでウロウロと歩いている時はその方向に向かって歩いていく。そして隣の家との境目に...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>―いつも親子が一緒―</strong></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-1satuei.jpg"><img alt="chung-11-1satuei.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-1satuei-thumb-200x129-669.jpg" width="200" height="129" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>親鳩がどこかで鳴いていると鳴いている方向にヒナ２羽は歩き出していた。<br />
飛び立つまでまだ筆者のベランダでウロウロと歩いている時はその方向に向かって歩いていく。そして隣の家との境目にある衝立の前に来ると下の隙間がダンボールでふさがれていて前に進めない。２羽のヒナはそこにちょこんと座ってじっとしていた。<br />
母鳩は呼び寄せているつもりがなかなか来ないので母鳩が歩いて筆者と隣との境目に来た。ダンボールのあることに気がついて頭でそれを押しのけているのか「コツン」と音がしている。行くことができないと分かった母鳩は次の智恵を考えた。今度は筆者のベランダのサンの上に飛んできてヒナをサンの上に来るようにベランダのサンの上でじっと待っていた。行動派のヒナは母鳩のところに行って餌をもらいたい一心でベランダまで早く飛べるようになった。しかし臆病のヒナは「私は飛べない。お母さんがこっちに来て」といわんばかりにベランダの隅でうずくまっていた。やっと飛べるようになった臆病のヒナ、あちらこちらと飛んで親子4羽が３階建てビルの上の屋上にある建物の上で揃って町の中を見ている。<br />
写真は１１月１日、午前８時半ごろ撮影。<br />
</p>]]>
        
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    <title>〓雑記帳〓〈５１〉：鄭容順</title>
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    <published>2009-11-04T20:46:49Z</published>
    <updated>2009-11-04T20:48:59Z</updated>

    <summary>―姜必善さんの半世紀（８）― 年齢も９０歳以上という。そこで朴尚任さんを思い出した。 そうしたことが天理市立北中学校夜間学級の福島俊弘教員にお世話になることになった。そこで「元気なハルモニ」を教えて下...</summary>
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        <name>chung</name>
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        <![CDATA[<p><strong>―姜必善さんの半世紀（８）―</strong></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung11-5-z-kanpiruson.jpg"><img alt="chung11-5-z-kanpiruson.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung11-5-z-kanpiruson-thumb-200x140-665.jpg" width="200" height="140" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>年齢も９０歳以上という。そこで朴尚任さんを思い出した。<br />
そうしたことが天理市立北中学校夜間学級の福島俊弘教員にお世話になることになった。そこで「元気なハルモニ」を教えて下さったのが桜井市に住む朴尚任さん（９０歳）と姜必善さん（８９歳）だった。<br />
筆者の取材ノートは記事を作るときに分かればよいと思って荒っぽい文字の書きなぐりのメモである。記事を書き終わって新聞に掲載されるとこうしたメモも資料も全部捨てていく。そうでないと仕事周辺が片付かないので全部捨てていく。そんなことから１世の渡日史は聞いた時に記録に残しておかない次世代に語り継ぐことができないと考えてこのコーナーで記述していくことになった。</p>

<p>姜必善さんはもともと桜井市でも粟殿に住んでおられた。それが数年前、道路の拡張工事で立退きになって同じ桜井市内に引っ越しをされている。<br />
姜必善さんのことを書く前に子息のＰさんのことをここに少し書いておきたい。大変お世話になった人である。<br />
１９８６年の１月、正月明けて早々に筆者は民団奈良県本部を初めて訪問している。<br />
当時、活躍し始めたのが大和郡山市で子ども合唱団を創設したＡさん。現在も宇陀市で音楽の森を創設して活動しておられる。<br />
この合唱団を影から支援をしていたのが今は亡きＭさん。奈良新聞社で報道カメラマンとして活躍していたときからＡさんのもっとも身近な支援者だった。若くて明るくて関西弁そのままのキャラクター、奈良県では少ない素材の文化活動をしていた。奈良県の子ども合唱団として新聞社全体が影ながら支援をしていた。ちょうどその頃、筆者は奈良県で雑誌記者をしていた。そして創設してまだ数年ほどのペングループの会長をしていた。会長という役柄、奈良新聞に行くことが多かった。当時はコピー機もＦＡＸ機器も家庭や市場に普及していなかった。こうした機器の利用は奈良新聞の機器を利用してなんとかペングループの運営をしていた。そんなときＭさんは諸事情で報道カメラマンのデスクから外され部署は報道デスクになりペングループ紙面の担当になった。<br />
Ｍさんは右も左も分からないペングループ。努力家のＭさんはペングループとの会員とたえず会ってコミニユケーションづくりをされた。その喫茶店が旧社屋の近くにあった「ぼん」という喫茶店だった（今はもう店はありません）。<br />
ペングループの会員と喫茶店でコーヒーを飲んだりする時間を多く取られた。また夜になるとカラオケやしゃれた店でお酒を飲む機会も作った。今までと違ったデスクの関係にＭさんに好感を持つ人が多かった。<br />
そんな折に出会った筆者とＭさん。音楽家のＡさんを支援していたＭさんは「サロンコンサート」のチケット販売の協力が筆者のところにまわってきた。Ａさんと会う機会が多くなった。そして中国北京で子ども交流コンサートを控えていた。子どもの随行員でＭさんから「北京に一緒に行こう」という誘いがあった。筆者は「国籍が違うので行かれない」と断っている。<br />
筆者の当時の国籍は「朝鮮籍」だった。別に北朝鮮や総連の支持者でもなんでもなかった。民団や総連という民族団体に出入りしていなかったので日本政府がした国籍そのままにしていた。<br />
「国籍の関係で中国に行けない」という筆者にもかかわらずＭさんは「まず県庁の国際課に訪ねて相談してくるように」と言われた。行ってみると「民団奈良県本部に行って相談して下さい」という。それで初めて民団奈良県本部に顔を出している。<br />
この話しのきっかけは忘れもしない。ＭさんとＡさんと３人、１９８５年１２月の終わり、忘年会を兼ねてあるところで食事会していた。このときに出たのが北京行きの誘いだった。年が明けて奈良県庁の国際課に行った。そして当時、民団奈良県本部の事務局長だったＰさんに北京行きを相談した。まず韓国籍に切り替えるのに戸籍の整理から始まった。ずいぶん迷惑をかけてお世話になった。Ｐさん１人でこの作業はできない。民団奈良県本部団長ら多くの関係者、駐大阪韓国総領事館の職員ら多くの方の尽力で北京行きの臨時パスポートを受け取ることができた。<br />
Ｐさんに大変お世話になったのに何もまだ恩返しはできていない。今、筆者が在日韓国人の１人として在日コリアンの１人でも多くの人を取材して社会に救い上げていくことに従事している。これでＰさんの思いが重なっていれば幸いと思っている。<br />
Ｐさんは１９９０年代の初め民団奈良県本部を退職、現在は桜井市で培った体験を生かして同胞の相談をしておられる。戸籍整理や帰化など多くの人が相談されている。</p>

<p>姜必善さんは１９１９年２月１６日生まれと言われているが干支が猿という。<br />
１９１９年は未年、干支が猿という姜必善さん。１９２０年に生まれている可能性があるという福島俊弘教員の話しです。<br />
姜必善さんが生まれてすぐの３月5日に実母が亡くなっている。育ての親は継母だった。生まれは慶尚南道咸安郡で生まれた。１１歳のときに親と一緒に大阪府八尾市にやってきた。2年ここにいて隣町の柏原市に引っ越しをして長いことここで住んでいた。耳飾りを作る工場で働いていた。アメリカに輸出する耳飾りだった。真珠の貝殻から作っていた。１３歳から働いた。朝６時から夜の９時まで働いた。休みは１ヶ月に１日と１５日、２回だけだった。ここの工場長は故郷が同じウリナラ（同じ国）の人だった。<br />
朝は４時半になると祖父が起しにきた。朝起きてポソン（韓国の足袋）を縫ったりしたという。間違って縫って叱られたこともあった。１６歳になったときに実父が姜必善さんに話しがあるという。<br />
嫁入りの話しだった。祖母たちは「まだ年が若いのに嫁入りさすのはかわいそう」と言っていた。実父の友人からの嫁入りの話だった。実父と同じ故郷の友人だった。<br />
１６歳で大和高田市に嫁いできた。２２歳のときに戦争になった。戦争になったので舅がいる岩手県に疎開している。Ｐさんが長男、小学校に入学する時に疎開している。その時は９月、岩手県は寒かった。<br />
姑が喘息持ちだったので寒い所よりも温かいところと愛知県に引っ越しをした。トヨタの会社の近くだった。Ｐさんは愛知県の小学校にも通っている。<br />
戦争が終って韓国に帰国するのか話し合った。そして帰国するのに舅は桜井に兄がいたことから兄に会って帰るということで桜井にやってきた。<br />
韓国に帰国するために船を１台手配しないといけない。１台の船を貸しきって世帯全部韓国に帰国する。持っているものを全部売り払って船を貸し切ることになっていた。それが先に帰国した人がまた桜井などに戻ってきた。<br />
たくさんのお金を持って行っても国にお金を納めないといけなかった。自分のものにならなかった。死ぬのか。生きるのか。どっちにしてもこのまま日本にいることになった。日本に留まると決意したときにはなにもかも売り払って何もなかった。またフトンから買って生活用品を買って桜井に留まることになった。<br />
桜井は住みやすいところだった。多くの同胞が住んでいて住みやすかったことが桜井に住むようになった。<br />
来週は戦後の姜必善さんの半世紀を紹介していきます。今回は子息の話を盛りこみました。筆者の人生で忘れてはならないほどお世話になった人です。<br />
【写真説明】２００８年２月、橿原市の万葉ホールで開かれた夜間中学校の研究会、会場には１世のオモニ（おかあさん）たちの作品と一緒に学校に対する思い、教職員手作りの屏風が展示されていた。オモニたちは教職員の温かい心に接して文字を覚えておられる。<br />
</p>]]>
        
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    <title>ヒナのチビがベランダに：鄭容順</title>
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    <published>2009-11-04T00:42:29Z</published>
    <updated>2009-11-04T00:44:47Z</updated>

    <summary>―少し成長が遅れていて臆病のヒナ― 鳩１羽がベランダのサンにとまっている。 臆病のヒナ、ちびだった。 ...</summary>
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        <name>chung</name>
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        <![CDATA[<p><strong>―少し成長が遅れていて臆病のヒナ―</strong></p>

<p>鳩１羽がベランダのサンにとまっている。<br />
臆病のヒナ、ちびだった。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-4-tibitorai.jpg"><img alt="chung-11-4-tibitorai.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-4-tibitorai-thumb-200x219-661.jpg" width="200" height="219" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>このチビ、臆病だったのか慎重だったのか。<br />
筆者から見ると４・５日成長が遅れていたように見受けられる。<br />
筆者はベランダの片隅に空き瓶などを入れる大きい籠を置いていた。もう1つは赤いプラスチックの容器には空になったペットポトルを入れていた。<br />
母鳩がベランダの下に置いていた籠の中に卵を１つ産んだ。<br />
気がついたのが朝だった。仕事か何か外出するために冷房を消して網戸にしたときだった。<br />
前の週の木曜日に燃えないゴミの収集日で全部出した後で５日間ほど籠もプラスチックの容器も空になっていた。<br />
母鳩は賢い。空になった籠、マンションの住人に気がつきにくい籠の下に卵を１つ産んでいた。外出する際に空き瓶を籠に入れにいって気がついた。確か８月２５日だったと記憶している。<br />
もうびっくりした。鳩の卵とはすぐわかった。筆者のマンションも各階で鳩公害の防止でネットを張ったところや金網でベランダを封鎖したところなどがある。筆者の家には今年の春から鳩が何度もベランダに来ては降りて交尾を繰り返している光景は見ているがまさか筆者のベランダで卵を産むとは思っていなかった。各階、鳩対策をしているので卵を産むことができない。何もしていなかった筆者の家そして留守が多い。悪さをする子どももいない。老夫婦2人暮らしの家に安心して卵を産んだ。<br />
卵を見つけた筆者は驚きながらも卵をプラスチックの容器に割り箸で移し替えた。１つで裸にさらされた卵、真夏の太陽の下で卵は死んでしまうと思っていた。鳩の生態を知らない筆者の軽い判断だった。<br />
移し変えてからの２日後、プラスチックの容器に卵が2つになっていた。<br />
人が住んでいるベランダで卵が育たないと筆者は思っていた。<br />
この考えも甘かった。<br />
母鳩は次ぎの日からしっかりと卵を抱き始めた。たまに雄鳩が来て交代で抱いていた。それでも人間の住んでいるマンションでは育たないと思ったがじっと抱いている母鳩、卵に黒い影が透きとおって見えてくる。<br />
雄・雌の鳩が慌しく動き始めた。口に木の枝をくわえて運び出した。<br />
筆者なりに直感、卵が孵化すると判断、急いで１００円均一の店でビニールシートを３枚買って来た。買ってきた翌日に卵が孵化した。ベランダの周りを糞で汚されてはいけないと考えてガムテープで貼り付けた。<br />
孵化したヒナを見ても最後まで育つとは思っていなかった。<br />
これも人間の浅はかさである。<br />
親鳩はしっかり餌をやっていく。ヒナは１日１日と成長していく。これなら育つかもしれない。前途多難かもしれない。軒下を勝手に使われた被害者の住人だが飛び立つまで静かに見守ることにした。<br />
最初に産まれた卵をプラスチック容器に入れて２日間ほど放置したままだった。<br />
母鳩に抱かれなかった２日間で成長を遅らせたのか。それともその後、遅く産まれた卵なのか。わからない。しかし筆者は2日間母鳩に抱かれなかった卵に思えてしょうがない。<br />
歩くのも飛ぶのも早かった行動派は少し大きい、ひと回り小さい臆病のヒナは４・５日成長が遅かった。<br />
なんとか早く飛んでほしいと竿に洗濯物を干さないで足場になるようにと牛乳パックを被せて足場を作ったりした。野菜入れも足場になるように（また糞をされないように）ダンボールで蓋をした。行動派のヒナはこの足場を上手く使って飛んで行くのに臆病のヒナはなかなか飛べない。ベランダで何度も羽根を広げて飛ぼうとするが飛べない。<br />
やっとベランダのサンまで飛べることができた。<br />
しかし親鳩は賢い。飛べそうだなと思ったのか餌やりも飛びながら与えている。その親鳩の智恵、臆病のヒナはやっと１０月２５日、筆者が見ている前で向かいの家の屋根に飛び立った。２ヶ月間の親鳩の成育が実った。<br />
飛び立つまでベランダのサンにいるチビのヒナに声をかけた。<br />
「早く飛んでいきや。親と一緒に早く飛んでいきや」と４・５日声をかけていた。<br />
今朝、筆者がバソコンの部屋にいた。部屋に鳩の影が写っている。見に行くとチビのヒナだった。成長が遅れたヒナ、飛び立って１羽だけで筆者のベランダのサンにいるのは初めてである。たいてい行動派のヒナと一緒である。<br />
それがチビ１羽だけ。やっと成長して自立していくのかとしばらく見ていた。<br />
夫の気配にまたどこかに飛んでいった。しばらくするとまた戻ってきた。<br />
写真をガラス越しに何枚か取っても逃げていかない。ガラス戸をあけても逃げない。そしたらすっと鳩が飛んできて筆者のベランダにとまった。見ると行動派のヒナだった。チビのヒナはピーイ、ピーイと鳴いた。とまったと思ったら飛んでいく。チビのヒナも一緒に飛んでいった。<br />
筆者のベランダのサンで兄弟になるのか兄妹になるか。行動派のヒナを待っていたのだ。鳩が上空を飛んでくると首を長くしてみているがどうやら違う。また静かにベランダで待っていた。<br />
妹がお兄さんに甘えている仕草である。鳩公害に悩まされながらも成長の遅かったヒナがつい気になっていた。今朝筆者のベランダにとまっていた。ベランダは綺麗に片付いてゴミも全部出した。卵を生まれないようにダンボールで蓋をした。後は防御ネットをどうして張っていくのか今後の対策である。<br />
写真は１１月４日、朝７時半に撮影。チビが行動派のヒナを待っているところです。</p>]]>
    </content>
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    <title>飛び立ったヒナが日向ぼっこ：鄭容順</title>
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    <published>2009-11-02T04:00:40Z</published>
    <updated>2009-11-02T04:06:42Z</updated>

    <summary>―１１月１日、日曜日、午前中は快晴― 夫はベランダを掃除した。鳩やヒナの糞だらけになったところを箒で掃き取れない糞は硬い刃物でこそげて取っていた。...</summary>
    <author>
        <name>chung</name>
        <uri>http://j-net.obei.jp/blog/mt/mt-cp.cgi?__mode=view&amp;blog_id=23&amp;id=5</uri>
    </author>
    
        <category term="エッセー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>―１１月１日、日曜日、午前中は快晴―</strong></p>

<p>夫はベランダを掃除した。鳩やヒナの糞だらけになったところを箒で掃き取れない糞は硬い刃物でこそげて取っていた。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="chung-11-1satuei-2wanohina.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-1satuei-2wanohina.jpg" width="300" height="251" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>向かいの家の屋根でそれをじっと見ているのが２羽のヒナです。<br />
筆者は午前中の快晴に難波の津で四天王寺ワッソ本祭が開催されると考えて外出の身支度をしていた。外出の支度をしながらも日向ぼっこしている２羽のヒナに気になってカメラを向けた。<br />
筆者が外出した後、行動派のヒナは筆者のベランダに来たらしい。<br />
夫がベランダの戸を開けても逃げようとしない。<br />
筆者が顔を出すのを待っていたのだろうか。<br />
逃げないヒナに夫は戸惑って思わず尾を踏んだという。<br />
そしたら一目散に逃げて行った。<br />
ヒナは片付いたベランダを見にきたのだろうか。<br />
筆者は夕方遅く自宅に戻っている。<br />
四天王寺ワッソは天気予報が雨ということで中止になった。<br />
中止にするまで関係者は大変気をもんだが中止を決断した。<br />
中止は正解だった。１２時過ぎると雨が降り出し大雨になった。<br />
ヒナ２羽は台風以来の大雨、どこかで雨宿りして過ごしたのだろう。<br />
一夜明けた今朝、臆病のヒナ１羽、屋根にとまっているだけ。<br />
群れをなして鳩が空を飛んでいる。<br />
首をひねって空を見ている臆病のヒナ、群れについていかれないので向かいの家の屋根に待機していたのだろうか。しばらくして行動派のヒナが臆病のヒナのところに戻ってきた。一瞬とまったがまた飛んで行った。<br />
群れから戻ってきた兄弟のヒナに安心したのか屋根から飛び立った。<br />
【写真説明】１１月１日、午前９時頃撮影、屋根の下にいるのが行動派のヒナ、上にいるのが歩くのも飛ぶのも少し成長が遅かったヒナ、生まれたときから少し小さい目に産まれています。</p>

<p><br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>桂小春團治・ＤＶＤ発売の案内：鄭容順</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://j-net.obei.jp/chung/2009/11/post-74.html" />
    <id>tag:j-net.obei.jp,2009:/chung//23.868</id>

    <published>2009-11-01T22:40:04Z</published>
    <updated>2009-11-02T05:58:21Z</updated>

    <summary>―落語の楽しみが増えました― 落語フアンにとってはうれしいニュースです。 時代の流れと新しいものに挑戦していく落語家のエネルギーがここにあります。 ...</summary>
    <author>
        <name>chung</name>
        <uri>http://j-net.obei.jp/blog/mt/mt-cp.cgi?__mode=view&amp;blog_id=23&amp;id=5</uri>
    </author>
    
        <category term="案内" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>―落語の楽しみが増えました―</strong></p>

<p>落語フアンにとってはうれしいニュースです。<br />
時代の流れと新しいものに挑戦していく落語家のエネルギーがここにあります。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-11-2-koharudangi.jpg"><img alt="chung-11-2-koharudangi.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/11/chung-11-2-koharudangi-thumb-200x300-658.jpg" width="200" height="300" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>桂小春團治のＤＶＤが１０月２８日発売されました。<br />
「松竹特選落語シリーズ」の第１弾として発売される物で、<br />
収録されているのは、これまで一番お客さんからＣＤやＤＶＤの<br />
問い合わせが多い、小春團治作の「冷蔵庫哀詩」が満を持しての<br />
収録となりました。<br />
その他同じく小春團治作の「アーバン紙芝居」、古典の「皿屋敷」に<br />
映像特典として「小春團治の落語講座」が付いて３４６５円とお得なＤＶＤとなっています。<br />
詳しくは松竹ＤＶＤ倶楽部で。<br />
http://www.shochiku-home-enta.com/shop/item_detail?category_id=41465&item_id=289112</p>

<p>桂小春團治のＤＶＤが１０月２８日発売されました。<br />
「松竹特選落語シリーズ」の第１弾として発売される物で、<br />
収録されているのは、これまで一番お客さんからＣＤやＤＶＤの<br />
問い合わせが多い、小春團治作の「冷蔵庫哀詩」が満を持しての<br />
収録となりました。<br />
その他同じく小春團治作の「アーバン紙芝居」、古典の「皿屋敷」に<br />
映像特典として「小春團治の落語講座」が付いて３４６５円とお得なＤＶＤとなっています。<br />
詳しくは松竹ＤＶＤ倶楽部で。<br />
http://www.shochiku-home-enta.com/shop/item_detail?category_id=41465&item_id=289112</p>

<p><br />
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△</p>

<p>    　        桂小春團治<br />
     　 koharu@blue.plala.or.jp</p>

<p>         上方落語　小春日和<br />
　       www.koharudanji.com<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>笑福亭銀瓶―秋の落語会の催し：鄭容順</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://j-net.obei.jp/chung/2009/10/post-73.html" />
    <id>tag:j-net.obei.jp,2009:/chung//23.850</id>

    <published>2009-10-30T00:04:06Z</published>
    <updated>2009-10-30T00:06:28Z</updated>

    <summary>―盛りだくさんです― 朝晩、少し冷えてきましたがお変わりございませんか。...</summary>
    <author>
        <name>chung</name>
        <uri>http://j-net.obei.jp/blog/mt/mt-cp.cgi?__mode=view&amp;blog_id=23&amp;id=5</uri>
    </author>
    
        <category term="案内" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>―盛りだくさんです―</strong></p>

<p>朝晩、少し冷えてきましたがお変わりございませんか。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-10-30-annai.jpg"><img alt="chung-10-30-annai.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/10/chung-10-30-annai-thumb-200x266-650.jpg" width="200" height="266" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>韓国で一人旅をして、英気を養ってきた銀瓶より落語会のお知らせです。<br />
すでにご予約済みの方、お許しを。銀瓶のブログを見た」と言えば、前売り扱いになります。１１月３日(火）深夜、ＮＨＫ教育テレビ「ハングル講座」ご覧下さいませ。（笑福亭銀瓶さんの談話）</p>

<p>◇ヘイヘイ・ペイペイ～銀瓶の巻～<br />
日　時：１０月３１日（土）午後２時開演（１時３０分開場）<br />
場　所：難波・トリイホール<br />
木戸銭：予約２５００円、当日３０００円　<br />
お問い合わせ：トリイホール（０６－６２１１－２５０６）<br />
   <br />
◇笑福亭銀瓶　独演会<br />
日　時：１１月１日(日)午後１時開演（１２時３０分開場）<br />
場　所：尼崎（塚口）ピッコロシアター（０６－６４２６－１９４０）<br />
番　組：笑福亭銀瓶「立ち切れ線香」「七段目」「書割盗人」、他<br />
木戸銭：前売り２５００円、当日３０００円（全席指定）<br />
電話予約・お問い合わせ：松竹芸能（０６－６６４９－８６４０）<br />
   <br />
◇銀瓶・文三　ふたり会<br />
日　時：１１月３日（火・祝）午後６時開演（５時半開場）<br />
場　所：繁昌亭<br />
番　組：笑福亭銀瓶（二席）、桂文三（二席）＊対談あり<br />
木戸銭：前売り１階席２５００円、２階席２３００円<br />
お問い合わせ：繁昌亭（０６－６３５２－４８７４）</p>

<p>＊小さなお子様のご入場はお断り申し上げます<br />
  銀瓶ブログhttp://www.kdn.ne.jp/~aohyon/ginpei/</p>

<p>＜写真説明＞普段の笑福亭銀瓶さん。民団新聞から。筆者が撮影。<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>ソウルの紅葉たけなわ：鄭容順</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://j-net.obei.jp/chung/2009/10/post-72.html" />
    <id>tag:j-net.obei.jp,2009:/chung//23.849</id>

    <published>2009-10-29T23:38:04Z</published>
    <updated>2009-10-29T23:39:40Z</updated>

    <summary>―緯度の関係で寒くなるのが早い韓国― 韓国の全土は済洲道を除いて山々は錦絵そのもの、紅葉まっさかり。...</summary>
    <author>
        <name>chung</name>
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    </author>
    
        <category term="エッセー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>―緯度の関係で寒くなるのが早い韓国―</strong></p>

<p>韓国の全土は済洲道を除いて山々は錦絵そのもの、紅葉まっさかり。</p>]]>
        <![CDATA[<p>韓国の中央日報にソウルの町の紅葉が画面に掲載されていました。<br />
筆者は韓国に行くと写真の紅葉の見える近くで宿泊しています。<br />
ソウル市庁の近くです。<br />
下記のホームページで韓国の紅葉を楽しんでください。</p>

<p>http://japanese.joins.com/</p>

<p>中央日報を検索してニュースを検索すると開きます。<br />
日本の紅葉も素晴らしい景色を醸し出し人々の心に影響を与えていきます。<br />
それぞれの心にその人の錦絵を刻んでいきます。１年のうち一瞬ですが自然から何か学び取る瞬間を教えてくれます。<br />
日本列島はこれからが紅葉狩が到来です。</p>]]>
    </content>
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    <title>飛び立ったヒナ、甘えている：鄭容順</title>
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    <published>2009-10-28T23:21:24Z</published>
    <updated>2009-10-28T23:25:33Z</updated>

    <summary>―ヒナと親鳩、マンションの近所に寝床があるのだろうか― 親鳩もヒナもマンションの近所を飛んでいる。...</summary>
    <author>
        <name>chung</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>―ヒナと親鳩、マンションの近所に寝床があるのだろうか―</strong></p>

<p>親鳩もヒナもマンションの近所を飛んでいる。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="chung-10-28satuei-1.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-10-28satuei-1.jpg" width="300" height="276" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>１日に１・2度、ヒナは生まれた巣のところに来る。ダンボールを被せてあるがそこで立っている。（そのうちこれも整理して跡形もなくしてしまうが）心を鬼にしてヒナが来ても追い払っている。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-10-28satuei-2.jpg"><img alt="chung-10-28satuei-2.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/10/chung-10-28satuei-2-thumb-200x164-646.jpg" width="200" height="164" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>昨日（１０月２８日）のことである。行動派のヒナがベランダのサンを歩いていた。筆者がベランダの戸を開けると向かいの家の屋根に飛び立った。<br />
向かいの屋根を見ると鳩が３羽いる。もう１羽も離れて座っている。<br />
よく見るとそこに臆病でなかなか飛べなかったヒナがいた。<br />
ヒナ２羽は仲良く並んで瓦の上を歩いている。<br />
鳩が１番屋根の上から降りてくる<br />
そうすると２羽のヒナがピイピイと鳴いて鳩に飛びついて餌を貰いにいく。ピイピイの鳴き声で臆病のヒナの鳴き声とわかった。<br />
飛び立っていっても親鳩にまだ餌をねだっている。<br />
なんか人間が社会人になっても親に脛をかじるような光景に似て思わずシャッターチャンスをとらえた。<br />
なんとか撮れた。<br />
夫にヒナの様子を見せると「ヒナにかまうな」と怒られてしまった。<br />
筆者は「つい臆病のヒナが気になって」と言ったら夫も「チビはかわいいかったもんな」と言って笑っていた。<br />
この原稿を書いているつい先ほど７時４５分に２羽のヒナがベランダに来た。<br />
ピイーと2・3回鳴いた。鳴き声にベランダを見ると筆者のベランダで生まれた２羽のヒナだった。「私たちちゃんと飛べるよ」と言ってようだった。<br />
遠くからその様子をカメラにおさめてベランダを開けると行動派は隣のベランダに行こうとしているが臆病のチビは少し立ち止まって首をクルクルと傾げた。<br />
そして行動派のヒナの後についていった。<br />
写真は①１０月２８日午後４時前に撮影。向かいの屋根で餌をねだるヒナです。<br />
②は親とヒナ、屋根の上の左が行動派、右が臆病なヒナ、その隣は母鳩、後ろにいるのが父鳩かな。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>〓雑記帳〓〈５０〉：鄭容順</title>
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    <id>tag:j-net.obei.jp,2009:/chung//23.844</id>

    <published>2009-10-28T15:47:22Z</published>
    <updated>2009-10-28T11:53:27Z</updated>

    <summary>―朴尚任さんの半世紀（７）― 朴尚任さんが通学する天理市立北中学校夜間学級に福島俊弘教員が勤務、ここで1世のオモニ、学齢期に就学できなかった日本人また新渡日外国人らに日本語指導している。日本の義務教育...</summary>
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        <name>chung</name>
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    </author>
    
        <category term="エッセー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>―朴尚任さんの半世紀（７）―</strong></p>

<p>朴尚任さんが通学する天理市立北中学校夜間学級に福島俊弘教員が勤務、ここで1世のオモニ、学齢期に就学できなかった日本人また新渡日外国人らに日本語指導している。日本の義務教育のいったんも担っている。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/imges/chung-9-12homon-hondana.jpg"><img alt="chung-9-12homon-hondana.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/10/chung-9-12homon-hondana-thumb-200x140-641.jpg" width="200" height="140" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>福島教員は朴尚任さんのクラスを担任して日本語を指導する中で１世の渡日史も聞くことになっていく。一世の話は日本が植民地支配した過酷な歴史が浮き彫りにされていく。日本人教員が知らなかった日本植民地時代の朝鮮半島の当時を知ることになっていく。日本で戦前・戦中・戦後を生きた証人でもあるとして聞いた事柄を時には詳細にまとめられている。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-9-12homon-hananoe.jpg"><img alt="chung-9-12homon-hananoe.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/10/chung-9-12homon-hananoe-thumb-200x288-643.jpg" width="200" height="288" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>朴尚任さんの半世紀を聞いて福島教員は日本で暮らした1世の女性の労働に着眼された。同夜間学級には桜井市から通学している一世のほとんどの仕事は「ひのき縄を綯う仕事」だった。<br />
ひのき縄はマキハダとも言われ木造船の防水詰め具として１９７０年代まで盛んに生産されていた。木材の集散地であった桜井市は戦前から広島の大崎上島と並ぶ全国２大産地として存在していた。<br />
福島教員は話される。<br />
「天理の夜間中学に通学している在日一世の生徒さんの中にはこの仕事に長く従事してこられた人がいます。現在は生産されなくなっていますがこの仕事のことを心にとめておきたいと考えて生徒たちのご協力を得て当時使っていた縄あみ台や室（ムロ）の火消し具などの道具類を寄贈して頂きました」<br />
寄贈して頂いた道具類の展示と「ひのき縄の仕事を語る集い」が同夜間学級で９月１９日午後２時から開かれた。筆者もこの現場に駆けつけたいと考えていたが他の所用があり会場に行くことができなかった。<br />
福島教員が「ひのき縄の話と解説」をされ数人の生徒が語り部を務められた。<br />
その中に朴尚任さんも語り部をされたと筆者は考えている。<br />
福島教員にひのき縄綯いの話も多くされ道具も写真も寄贈されている。<br />
そして韓国にもあったという証言に韓国にも行ってひのき縄の調査もされた。調査の後、福島教員は朴尚任さんが２１歳まで過ごした慶尚北道大邱市に訪問された。朴尚任さんの記憶力はすごい。朴尚任さんが昔、過ごした家の周辺を絵地図に書いた。その絵地図を持って朴尚任さんの家を探した。<br />
朴尚任さんは子どもの頃を回想して話す。<br />
「学校に行きたかったが女の子は学校に行かしてもらえなかった。勉強が好きだったのに女の子は勉強すると生意気になると言って行かしてもらえなかった。学校の校門の横に大木があった。その大木は上の方は腐っていて穴があいていた。木の穴でままごとをして遊びました。学校の校門の真正面に役場がありました。校長は日本人でした。若い校長でした。校長は大きい胸をしていたので皆はヤンテイジ（たぶん大きい豚の意味だと思います）と言っていました」<br />
こんなことを福島教員に話した。<br />
福島教員は通訳を入れて韓国に行かれた。ソウルから大邱に入ったという。<br />
通訳を介して学校から福島教員にお会いしたいという連絡があった。<br />
学校にも訪ねて行かれた。<br />
当時の校長はもちろんいませんが学校関係者は朴尚任さんを見たいと話しておられたと言う。朴尚任さんの住んでいた家にも行かれた。<br />
そしてここで朴尚任さんは悲しげな声で話される。<br />
「２１歳の時に日本に来て故郷に帰ることがなかった。１９９０年代に入って初めて故郷を訪ねました。妹がいました。しかし母親は亡くなっていました。お母さんに会いたい、会いたい気持ちで頑張って生きてきたのに故郷に帰るとお母さんが亡くなっていました。今でもお母さんのことが心残りです。２１歳で別れたお母さんに会いたいです」<br />
９０歳になっても母親のことが懐かしく偲ばれる朴尚任さん。</p>

<p>夫のハンゴンさんが亡くなって夜間学級に通った朴尚任さん。<br />
「生まれてきて最高の幸せです」と笑顔で話される。<br />
この言葉で筆者は心の中で絶句していた。<br />
この言葉の一言で朴尚任さんの人生の足跡がいかに過酷な人生だったということか思い知らせる言葉だということが分かった。余りに貧しくて苦しく北朝鮮の帰国も考えたこともあったという。しかしハンゴンさんは「韓国の大邱に故郷があるのにどうして北朝鮮に帰るのか」と行って首を縦に振らなかった。<br />
筆者は心の中でハンゴンさん、賭博ばかりして朴尚任さんに苦労ばかりかけていたけれど世間を見る目は持っておられたから日本に留まることができて勉強の好きな学校にも行くことができていると思っていた。</p>

<p>ここに記述したことで朴尚任さんの人生が語れたものではありません。ごくごく１部です。しかし１部でも一世の生きた人生が少しでも日本人や在日コリアンに知ってもらえればと思って記述しました。<br />
朴尚任さんが韓国で暮らして学校に行っていれば聡明な頭脳はまた違う分野で生かされた人生を歩まれただろうと筆者は考えている。日本植民地支配に翻弄された一世の記録です。<br />
来週は同じ中学に少し早くから通った姜必善さんの半世紀を紹介します。<br />
【写真説明】①家の本棚にハングルの本、日本の本が並んでいました。勉強の好きな朴尚任さんの人柄が偲ばれました。学校が誕生日に「長寿のお祝い」を送られたと言う。大事に飾っておられました。ハングルで「チュッカハンミニダ（おめでとうございます）」と書かれています。②家の壁に貼ってあった朴尚任さんの絵画。厳しい人生を送ってこられたのに優しい人柄の花に写真を１枚撮りました。朴尚任さんの文字が美しいです。美しい文字にまた感動して筆者は目がうるるんとしていました。</p>]]>
    </content>
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<entry>
    <title>「あの日、あの時」≪１４０（最終回）≫：鄭容順</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://j-net.obei.jp/chung/2009/10/post-69.html" />
    <id>tag:j-net.obei.jp,2009:/chung//23.838</id>

    <published>2009-10-26T08:33:28Z</published>
    <updated>2009-10-27T13:50:45Z</updated>

    <summary>■日本の朝鮮・韓国人（日韓条約締結まで） 「不安定な在留権と差別のなかでの生活」 朝鮮戦争後、日本経済は復興のきざしをみせたが在日朝鮮人は一層貧しくなっていった。民族差別のために仕事はほとんどなく失業...</summary>
    <author>
        <name>chung</name>
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    </author>
    
        <category term="エッセー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://j-net.obei.jp/chung/">
        <![CDATA[<p><strong>■日本の朝鮮・韓国人（日韓条約締結まで）</strong></p>

<p><strong>「不安定な在留権と差別のなかでの生活」</strong><br />
朝鮮戦争後、日本経済は復興のきざしをみせたが在日朝鮮人は一層貧しくなっていった。民族差別のために仕事はほとんどなく失業対策事業で仕事を得るか、生活保護を受けるしかない人が急増した。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>しかし多くの在日朝鮮人が生活保護を受けるようになると保護行政の「適正化」を図る名目でその給付は大量に打ち切られていった。在日朝鮮人は日本の銀行から融資を受けたり保険に入ったりすることも非常に難しかった。<br />
そのために在日朝鮮人は相互に生活を支えあった。独自に金融機関を設立して町工場などの同胞企業を支援した。なんとか残っていた民族学校を基盤に民族教育を広めていった。日本政府に対しても基本的人権や民族的諸権利の保障を要求する運動を続けた。しかしなかには極貧生活のなかで将来の希望を見失ったり、民族差別を逃れようと日本に同化していく人も増えていった。<br />
こうした状況のなかで北朝鮮の復興した様子が報じられると、北朝鮮に期待を抱く在日朝鮮人も出てきた。生活費や学費を無償で提供するという北朝鮮政府の声明は貧困と差別のなかにあった在日朝鮮人の心をつかんだ。日本で苦労するなら祖国建設に携わって苦労した方が良いと考えた人もいた。こうして北朝鮮への集団を求める運動が高まった。日本と北朝鮮の赤十字で協定が結ばれ、１９５９年から在日朝鮮人の北朝鮮への帰国が始まった。<br />
この北朝鮮への帰国について、日本政府は「人道上」の見地からそれを認めると表明した。しかし、実際には多くの貧困者が帰国することは生活保護費の削減につながり治安対策のためにも望ましいと考えていた。<br />
一方、この帰国事業は日本の在日朝鮮人追放政策と北朝鮮の政治目的と合致したものとみて激しく反対した人々もいた。韓国政府も反対したが韓国政府の在日同胞政策も棄民政策であり、同胞に対する保護政策を講じたわけではなかった。<br />
北朝鮮への帰国者の数は日本で高度経済成長が始まり逆に北朝鮮の経済が停滞していくとその数は減少していったが、１９８０年代半ばまでに９万人を超えた。しかし、いったん帰国した朝鮮人は正規に日本に再入国する道は閉ざされた。日本人妻が一時帰国することさえ、１９９７年からわずかに実現しているにすぎない。<br />
〓失業対策事業〓国や地方公共団体が失業者の仕事を確保するために行う事業。</p>

<p>～～～帰国事業による北朝鮮への帰国者数～～～<br />
１９５９年　　２７１７人（朝鮮人）　　２２５人（随伴日本人）<br />
１９６０年　４５０９４人（　〃　）　３９６７人（　　〃　　）<br />
１９６１年　２１０２７人（　〃　）　１７７３人（　　〃　　）<br />
１９６２年　　３３１１人（　〃　）　　１８６人（　　〃　　）<br />
１９６３年　　２４０２人（　〃　）　　１６５人（　　〃　　）<br />
１９６４年　　１７２２人（　〃　）　　　９９人（　　〃　　）<br />
１９６５年　　２１５９人（　〃　）　　　９６人（　　〃　　）<br />
１９６６年　　１８０７人（　〃　）　　　５３人（　　〃　　）<br />
１９６７年　　１７２３人（　〃　）　　１０８人（　　〃　　）<br />
１９６８年　　中断<br />
１９６９年　　中断<br />
１９７０年　　中断<br />
１９７１年　　１２６０人（朝鮮人）　　　５８人（随伴日本人）<br />
１９７２年　　　９８１人（　〃　）　　　２２人（　　〃　　）<br />
１９７３年　　　７０４人（朝鮮人／随伴日本人）<br />
１９７４年　　　４７９人（　　　〃　　　　　）<br />
１９７５年　　　３７９人（　　　〃　　　　　）<br />
１９７６年　　　２５６人（　　　〃　　　　　）<br />
１９７７年　　　１８０人（　　　〃　　　　　）<br />
１９７８年　　　１５０人（　　　〃　　　　　）<br />
１９７９年　　　１２６人（　　　〃　　　　　）<br />
１９８０年　　　　３８人（朝鮮人）　　　　　２人（随伴日本人）<br />
１９８１年　　　　３４人（　〃　）　　　　　４人（　　〃　　）<br />
１９８２年　　　　２５人（　〃　）　　　　　２人（　　〃　　）<br />
１９８３年　　　　　０人（　〃　）　　　　　０人（　　〃　　）<br />
１９８４年　　　　３０人（朝鮮人／随伴日本人）<br />
累計　　　　　９３３３４人<br />
～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～</p>

<p>「日韓条約と在日韓国人の法的地位」<br />
１９５２年に始まった日韓会談では在日韓国人について日本人と同様の待遇を求める韓国政府と特別な処遇はできないとする日本政府との間で対立が続いていた。永住権については子々孫々までの付与を要求する韓国政府に対し日本政府は戦前からの居住者に限定しょうとした。<br />
１９６５年に日韓条約が締結され「法的地位協定」が結ばれると戦前から日本で暮らし続けてきた韓国籍とその子（２世）に限り、日本での永住権が認められることになった。この「協定永住者」には強制退去命令の適用が緩和され国民健康保険の加入が認められた。<br />
こうして日本での在留条件が「朝鮮」籍者と区別された。これにより韓国籍を取得する人が増えその数が「朝鮮」籍者数を上回るようになった。<br />
しかし「協定永住者」となっても、強制退去の対象から除外されたわけではなく公的な社会保障制度の枠外にあることにも変わりはなかった。何よりも３世以降の永住権については協定発効後２５年以内（１９９１年まで）に協議すると先送りされた。</p>

<p>□参考著書▽歴史教科書研究会（韓国）／歴史教育研究会（日本）編▽明石書店発行『日韓歴史共通教材－日韓交流の歴史（先史から現代まで）』</p>

<p>□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□</p>

<p><strong>■■定住化の進展と民族差別撤廃運動■■</strong></p>

<p><strong>≪地方参政権獲得運動と在日コリアン社会の変容≫</strong><br />
「在日コリアンの新世代は本当に同化傾向にあるのか」<br />
たしかに在日コリアンのなかに日本国籍を取得する人が増えてきました。統計によると年間１万人以上の人が日本国籍を取得しています。しかしいくつかの自治体で行われた在日コリアンに対するアンケート調査ではほぼ半数が韓国・朝鮮籍のままとどまりたいと主張しています。そしてこの声は実は若い人に強いこともわかりました。日本国籍を一番ほしがっている世代は４０代の人で３０代、２０代には韓国・朝鮮籍のままとどまって、新しい生き方を模索したいという人が増えているようです。<br />
こうしてみると日本国籍をとれば参政権をあげるという提案は本末転倒な話しです。参政権をとることの意味は韓国・朝鮮籍という民族的差異を維持したまま日本人と平等な権利を求めるということです。日本国籍をとりやすくして問題が片づくというのは一部政治家の勝手な解釈だといわざるをえません。そういう意味で日本という国が在日コリアンをはじめとする外国人に参政権を与えるかどうかは日本が内なる国際化を進める試金石になるということができます。<br />
　　　　　　　　　<br />
□	参考著書▽民団中央本部が在日コリアンのために作成した著書、「歴史教科書『在日コリアンの歴史』から紹介□</p>

<p>□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□<br />
<strong><br />
――筆者の胸裏――</strong><br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://j-net.obei.jp/chung/images/chung-1-26-a-saisyukai.jpg"><img alt="chung-1-26-a-saisyukai.jpg" src="http://j-net.obei.jp/chung/assets_c/2009/10/chung-1-26-a-saisyukai-thumb-200x196-639.jpg" width="200" height="196" class="mt-image-none" style="" /></a></span></p>

<p>１４０回で最終回にします。著書がちょうど切りのいいところで終ることになりました。<br />
上記の著書は次回からは近代の日本と在日コリアンの項目になります。皆さんもよく知っている歴史です。そして下記の著書はここで著書の編纂が終っています。<br />
切りのいいところで最終回にすることにしました。<br />
「あの日、あの時」の記述で筆者自身が勉強して学ぶことになりました。<br />
記述をしながら在りし日の父親の言葉をたくさん思い出しました。<br />
生前の時にもっと聞いておけばよかったと後悔することばかりてした。<br />
しかし民族から逃げていた筆者、まして威厳のある父親になかなか話しかけることができなかった。日本国国籍を取ろうと申請用紙を法務局に取り寄せに行っているのに筆者の気持ちに変化が出てきた。<br />
奈良県の雑誌記者をしていた筆者が「日本人のふりをして日本の記事を書きたくない」という葛藤に悩まされることになった。<br />
このまま帰化しては大変なことになる。取返しのつかない人生を歩んでしまうと漠然と思ってきたときに初めて民族と向き合うことを考えるようになった。<br />
民族と向き合う。答えは見つからなかったがただ「言葉・韓国語」と向き合わないといけないと思い始めると自ら民団奈良県本部の韓国語教室のドアを叩いていた。そこは韓国政府派遣教師が詰めている奈良韓国教育院でした。<br />
韓国政府派遣教師は通名の名刺だったが雑誌社の名刺に記者と書いてあることに驚かれた。そしてハングルが少しは読めると思われたのだろう。<br />
黒板に書かれた「ハングルを読みなさい」という。<br />
筆者は「私は○も棒もなんの意味なのかさっぱりわかりません」と言ったら「本当ですか」と首を傾げておられた。<br />
この教師は面白い教師だった。<br />
数字の勉強するときに「ハナ（一）、トゥル（二）、セ（三）、-----アホップ（九）」の時に「アホではないです。アホップです」と言って授業を退屈させないようにしていた。<br />
この教師は奈良・京都・和歌山・大阪・滋賀管轄の総領事館の教育担当領事に筆者のことを話されたらしい。ここから筆者の人生が１８０度回転していく。<br />
在日韓国人の新聞社、統一日報大阪支社に転職することになった。ここでの５年間、熱く燃えて仕事を猛烈にこなした時代だった。さまざまな事柄にたくさん出会いながら筆者自身、書くことで歩む人生の１つの道になった。<br />
環境が悪く人間関係も思わしくなく何度もやめたいと思った。元いた古巣の会社は「辛かったら戻ってこい」という暗黙の了解があったが筆者の心の底には「日本人のふりをして日本の記事をかきたくない」というジレンマがあった。こうした中で仕事をしているとやっと在日コリアンの中で１人でも多くの人を取材して記事を書くことの喜びそして使命感が出てきた。<br />
そうしたものが５年間辛抱させた。しかし人間関係の葛藤で何度もやめたいと思い、韓国政府派遣教師に「やめたい」と伝えると「やめたらだめ。そこにおりなさい」が答えだった。辛抱すること５年、同僚の男性のいじめにあい何度も意見の対立をした。このとき上司は生活のかかった男性を残して筆者を解雇した。解雇は大変なショックだった。４８歳の時だった。解雇をきっかけに日本の大学の聴講生になる手続きをしていると駐大阪大韓民国総領事館の当時、教育担当の領事から電話が入った。<br />
「まだ遊んではいけない」と言って民団新聞の前身、韓国新聞関西総支社で仕事するようになった。そして民団新聞に改称された。大阪に１年間通ったが事務所の関係があり自宅で仕事することにした。当時はまだ手書きの原稿でＦＡＸ送信、写真はフイルムそのままに宅急便で送っていた。<br />
民団新聞の改称で若い世代が紙面づくりをするようになった。<br />
若い世代の上司たちの尽力で自宅を事務所にして長く仕事のできる環境を与えて下さった。多くの人の助けで長く今も書く仕事にかかわることができている。<br />
記者冥利になることは何度かあった。こんなとき記者をしていてよかったと思うことがあった。しかしまた新たなニュースを求めて関西を飛び回る生活にまだまだ未熟だと思い知らされることも度々あった。筆者は書くことが天職とは思ってはいない。ただひたすら書くことが好きで書き続けてきた結果がこうした生き方になった。</p>

<p>帰化するのも自由、しかし帰化しない人を差別する在日コリアンに会うと身が切れるほど悲しくなる。そして日本人は韓国も北朝鮮も同じ国といまだに思っている人に会うとまた身がちぎれるほど心が痛い。<br />
誰かが「韓流をした金大中元大統領は偉い」と言った人がいた。<br />
文化交流としてよかったかも知れないがたくさん積み残したこともあった。<br />
確かに日本人は大阪の焼肉文化などメデイアの波に乗せた。<br />
だがそれは日本人のための宣伝で在日コリアンの宣伝ではない。<br />
韓国の観光客ターゲット、日本人誘致が目的であることは十分承知しているが韓国で楽しむのもいい。日本円を落とすのも韓国が外貨獲得でいいだろう。<br />
しかし国力のついた平和な国は表向きだけである。実際は南北分断国家である。このことを理解していない多くの日本人の韓国旅行に筆者は脳震盪起こすほどショックである。今後はこうした歴史的学習も踏まえた韓国観光旅行のツアーにしてもらいたいと願っている。<br />
とりあえず今回で最終回です。長い間ご愛読ありがとうございました。<br />
【写真説明】筆者が４４歳の時の写真です。１９８９年5月（統一日報に転職して1年と少し過ぎた頃）、奈良新聞ペングループの懇親会の写真です。冊子ができると慰労会を兼ねて懇親会をしていた。今は亡き奈良新聞に勤務していたＭさんが撮影したもの。隣にはＭさんの奥さん（故人）が座っているのでたくさん撮影されたのだろう。<br />
写真を見ていてこの写真のあることに気がついた。最後に手前味噌ですが若いときの筆者の写真を掲載、熱く仕事に燃えていたころ、カラオケにも行きしゃれた店でお酒を飲んだりしたのもＭさんたちとのグループの付き合いだった。少し不良主婦をしていたころの筆者です。今は至極真面目、仕事のほかに寄り道しないでいちもくさんに家路に向かっています。</p>]]>
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    <title>「あの日、あの時」≪１４０（最終回）≫：鄭容順</title>
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    <published>2009-10-26T00:23:41Z</published>
    <updated>2009-10-26T00:25:14Z</updated>

    <summary>―１４０回でとりあえず終了させていただきます― それが先週金曜日（２３日）から体調を壊して２４日は病院で抗生物質の点滴を打って治療していますがまだよくなりません。 月曜日連載ですが何も原稿ができていま...</summary>
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        <name>chung</name>
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        <![CDATA[<p><strong>―１４０回でとりあえず終了させていただきます―</strong></p>

<p>それが先週金曜日（２３日）から体調を壊して２４日は病院で抗生物質の点滴を打って治療していますがまだよくなりません。<br />
月曜日連載ですが何も原稿ができていません。今週中に原稿を作成して最終回にしたいと考えています。自分では疲れがたまっていると思っていないのですが１０月半ばから連日、遠出の現場で疲れがたまっていたようです。寄る年端に老いを感じています。今週中に原稿をいれます。<br />
遅くなって誠に申し訳ございません。<br />
</p>]]>
        
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