2009年11月12日
〓雑記帳〓〈52〉:鄭容順
―姜必善さんの半世紀(9)―
姜必善さんは桜井市に来て他の同胞と同じように縄綯いの仕事を24年間、52歳までしていた。この仕事が廃業になった。それまで船は木造船だったがプラスチック製に変わっていくことから仕事がなくなって暇になった。
もう子どもたちは一人前になっていた。息子が鉄鋼所の事業をしていたので鉄鋼所の仕事を手伝うになった。そして化学工場に働きに出た。朝の5時から9時と働いた。4時から9時もあった。ここでネジを切った。目も見えなくなってきて手も切ることがあった。金儲けのために働いた。58歳まで働いた。
「夜の9時まで働いたがしんどかった」と姜必善さんは話す。
この仕事もなくなって家にいると退屈で仕方がない。仕事ばかりしてきたものは家にいることは退屈で苦痛そのものだった。
そしてまた今度は交通会社の食堂に働きに行った。バスの運転手やタクシーの運転手などがたくさん食べに来られた。60歳を越えても数年働いた。
また家にいるようになった。
その時、息子が言った。
「自主夜間中学があるからそこで文字を勉強したら」と。
それで天理市立北中学校夜間学級に通学するようになった。
「今さらこの年になって学校に行くのは格好悪いと思った。けれど電車の乗ってどこかに行こうとすると切符は昔のように駅で行き先を言うと駅の人か売ってくれたが今は切符を買うのも機械になった。機械を見て上に書いているところを見て機械にお金を入れて買う。字が読まれないので駅員に料金を聞くと上に書いてある案内を見て下さいとう。これが1番辛かった」と姜必善さんは話す。
息子が夜間学級で学ぶことを進めていたときのある日、民団奈良県本部婦人会桜井支部の人の団費を集金に行ったことがあった。この集金に行った人の婦人の話を聞いていた。天理の夜間学級に通ってから文字を綺麗に書かれると噂では聞いていた。そこで姜必善さんが団費の集金に行った。この時この人が書く綺麗な文字を見た。姜必善さんはその人に「どこの学校に通っているの」と聞き出すと「天理市立北中学校夜間学級」と言う。
それで姜必善さんはその人に話した。
「天理市のどのへんに学校があるの。場所を教えて。学校に行きたいからここまで訪ねてきたのです」と話すとその人は「明日5時に待ち合わせて一緒に学校にいきましょう」と言ってくれた。
そして天理市立北中学校夜間学級に通い始めた。
当時、桜井から5人の1世のオモニ(お母さん)が通学していた。
「私は生まれてから学校に行っていないので字を知らなかった」
学校に行けず文字を知らなかった苦労、息子5人は高校まで行かせて教育をした。
しかし姜必善さんの生涯は夫の連れ合いで苦労の連続だった。
事業をしていたのに昼間から酒を飲んで賭け事をして杉の木の皮を剥ぐ仕事をしていたのにいつも集金するお金を前借して家にはお金は入れることはなかった。
夫のためにいつも家の中は火の車だった。集金した代金で賭け事をして借金ばかり作っていた。それでも姜必善さんは縄綯いをして家族を養い5人の子息を高校まで行かせた。
筆者はこんな話しを聞いていると1世のオモニたちは夫の賭け事で泣かされ昼間から酒を浴びて泣かされてきたという人が多かったのがまた分かった。
筆者の家は父親がずっと日本の会社で働いていた。
真面目で勤勉に働いた。
そのストレスはいつも母親に当たっていた。
子どもには一切、暴力を振るうことなく説教する叱り方をしてきたが母親にはたいてい何かで小言を言っていた。夕食の食材もその1つだった。
「盛り付けの仕方が悪い。皿いっぱいどっかり盛り付けて。俺は豚の餌と違う」「味付けが悪い」キムチを食卓に置くと「ニンニクがきつい。この匂いがいらん」という。それで母親の漬けるキムチはニンニクの少ないキムチになった。虫のいどころが悪いと膳もひっくり返した。
何の話をしていたのかそれは記憶にないが母親は父親に気にいらないことを言ったのだろう。突然、台所に行って水をバケツに入れてきて母親に水をかけたこともあった。
そんな時はいつも妹と2人で部屋の隅でじっとしていた。
叔父が私の家に住むようになってそんなことは少なくなったがまた結婚して出て行くと父親が母親に対する暴力と暴言が多々あった。
筆者はこんな喧嘩騒ぎはずっと見てきた。
また叔父たち親戚が集まっても酒に飲まれて喧嘩する光景も何度も見てきた。
父親はどこにいても酒を飲んでいる時は紳士だったが家ではいつも母親にあたり散らしていた。姜必善さんの夫の苦労、同じような苦労を1世のオモニたちはしてきた。苦労はそれぞれに違うが1世のアボジ(お父さん)たちの心のはけ口がなくて何かにおぼれていないと生きていくのがしんどかったのだろうか。
日本で暮らしていても自分の思うように生きられない。このしんどさがあったのだろうか。心の鬱積を酒や賭け事、暴力や暴言となったのだろうか。
父親も同じだったのだろうか。
日本の会社で働いていた父親に対して同胞から妬みや嫉みもあった。父親の働く会社に地元の在日コリアンが出かけて行き国籍の違うことを話した人もいた。その人は早くに日本国籍になった人だったが1世、韓国訛りの日本語を使っていた。それでも地元の在日コリアンに面と向かって何も言えない父親は母親につまらない理由で当たり散らしていたのだろう。
母親も連れあいで苦労した。1世のオモニたち形は違っても何らかで癖のある男性、在日コリアンの男性も日本で生きるがためにたくさんの癖を持っていた。一番多いのが酒と賭け事、父親は賭け事を一切しなかったが家に給料を入れることをしなくなった。
韓国の動乱で日本は軍儒景気になって母親がしていた廃品回収業の商いは軌道に乗った。男以上に稼いだ母親の収入、いつ言ったのか記憶はないが「あんたの給料なんか3日で稼ぐ」と言ってから家に入れるお金は定年退職するまで3万円だった。
この話は本当だったのか。どうか。父親の姉、11歳上の姉、叔母に筆者は生前聞いたことがあった。
叔母に「無学の母親と頭がよくて学校の出た父親とずっと性格が合わなかったと話したら叔母は「あんたのおかあさん。3日でおとうさんの給料を稼ぐといったから給料いれへんようになった。けれどおかあさんは偉い。商売をして息子に継がせたのやから偉いのやで」と初めて母親を褒める言葉も聞いた。
姜必善さんの苦労、1世のオモニたちは誰もがしてきた。皆口に出すか出さないだけである。筆者の父親も町では紳士的で上品な人で通っていたが家では違った。1世の気質そのままだった。ただ子どもには一切暴力を振るわなかった。
座らせて長い説教で叱った。それがまた筆者は苦痛だった。その時はいつも他のことを考えていた。しかし筆者は1度だけ父親に叩かれた。
日本人の男性と付き合っていることが分かって1度1回頭を叩かれた。それからあわてて見合い結婚させられていることも書いておこう。
【写真説明】2008年2月、橿原市万葉ホールで開かれた夜間学級で学ぶ生徒たちの作品展、自分たちが作った判子も展示。姜必善さんの判子もあります。
2009年11月12日 00:32
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