2009年11月18日
2009年11月12日
〓雑記帳〓〈52〉:鄭容順
―姜必善さんの半世紀(9)―
姜必善さんは桜井市に来て他の同胞と同じように縄綯いの仕事を24年間、52歳までしていた。この仕事が廃業になった。それまで船は木造船だったがプラスチック製に変わっていくことから仕事がなくなって暇になった。
2009年11月10日
ピイーと鳴く声:鄭容順
―チビ(臆病のヒナ)が鳴いている―
ベランダに行って戸を開けると向かいの家の屋根の1番下にとまっている。
筆者の目線になるところでちょこんと立っている。筆者の方に真正面に向いてとまっている。
2009年11月 7日
ビルの上に親子鳩:鄭容順
―いつも親子が一緒―
親鳩がどこかで鳴いていると鳴いている方向にヒナ2羽は歩き出していた。
飛び立つまでまだ筆者のベランダでウロウロと歩いている時はその方向に向かって歩いていく。そして隣の家との境目にある衝立の前に来ると下の隙間がダンボールでふさがれていて前に進めない。2羽のヒナはそこにちょこんと座ってじっとしていた。
母鳩は呼び寄せているつもりがなかなか来ないので母鳩が歩いて筆者と隣との境目に来た。ダンボールのあることに気がついて頭でそれを押しのけているのか「コツン」と音がしている。行くことができないと分かった母鳩は次の智恵を考えた。今度は筆者のベランダのサンの上に飛んできてヒナをサンの上に来るようにベランダのサンの上でじっと待っていた。行動派のヒナは母鳩のところに行って餌をもらいたい一心でベランダまで早く飛べるようになった。しかし臆病のヒナは「私は飛べない。お母さんがこっちに来て」といわんばかりにベランダの隅でうずくまっていた。やっと飛べるようになった臆病のヒナ、あちらこちらと飛んで親子4羽が3階建てビルの上の屋上にある建物の上で揃って町の中を見ている。
写真は11月1日、午前8時半ごろ撮影。
2009年11月 5日
〓雑記帳〓〈51〉:鄭容順
―姜必善さんの半世紀(8)―
年齢も90歳以上という。そこで朴尚任さんを思い出した。
そうしたことが天理市立北中学校夜間学級の福島俊弘教員にお世話になることになった。そこで「元気なハルモニ」を教えて下さったのが桜井市に住む朴尚任さん(90歳)と姜必善さん(89歳)だった。
筆者の取材ノートは記事を作るときに分かればよいと思って荒っぽい文字の書きなぐりのメモである。記事を書き終わって新聞に掲載されるとこうしたメモも資料も全部捨てていく。そうでないと仕事周辺が片付かないので全部捨てていく。そんなことから1世の渡日史は聞いた時に記録に残しておかない次世代に語り継ぐことができないと考えてこのコーナーで記述していくことになった。
姜必善さんはもともと桜井市でも粟殿に住んでおられた。それが数年前、道路の拡張工事で立退きになって同じ桜井市内に引っ越しをされている。
姜必善さんのことを書く前に子息のPさんのことをここに少し書いておきたい。大変お世話になった人である。
1986年の1月、正月明けて早々に筆者は民団奈良県本部を初めて訪問している。
当時、活躍し始めたのが大和郡山市で子ども合唱団を創設したAさん。現在も宇陀市で音楽の森を創設して活動しておられる。
この合唱団を影から支援をしていたのが今は亡きMさん。奈良新聞社で報道カメラマンとして活躍していたときからAさんのもっとも身近な支援者だった。若くて明るくて関西弁そのままのキャラクター、奈良県では少ない素材の文化活動をしていた。奈良県の子ども合唱団として新聞社全体が影ながら支援をしていた。ちょうどその頃、筆者は奈良県で雑誌記者をしていた。そして創設してまだ数年ほどのペングループの会長をしていた。会長という役柄、奈良新聞に行くことが多かった。当時はコピー機もFAX機器も家庭や市場に普及していなかった。こうした機器の利用は奈良新聞の機器を利用してなんとかペングループの運営をしていた。そんなときMさんは諸事情で報道カメラマンのデスクから外され部署は報道デスクになりペングループ紙面の担当になった。
Mさんは右も左も分からないペングループ。努力家のMさんはペングループとの会員とたえず会ってコミニユケーションづくりをされた。その喫茶店が旧社屋の近くにあった「ぼん」という喫茶店だった(今はもう店はありません)。
ペングループの会員と喫茶店でコーヒーを飲んだりする時間を多く取られた。また夜になるとカラオケやしゃれた店でお酒を飲む機会も作った。今までと違ったデスクの関係にMさんに好感を持つ人が多かった。
そんな折に出会った筆者とMさん。音楽家のAさんを支援していたMさんは「サロンコンサート」のチケット販売の協力が筆者のところにまわってきた。Aさんと会う機会が多くなった。そして中国北京で子ども交流コンサートを控えていた。子どもの随行員でMさんから「北京に一緒に行こう」という誘いがあった。筆者は「国籍が違うので行かれない」と断っている。
筆者の当時の国籍は「朝鮮籍」だった。別に北朝鮮や総連の支持者でもなんでもなかった。民団や総連という民族団体に出入りしていなかったので日本政府がした国籍そのままにしていた。
「国籍の関係で中国に行けない」という筆者にもかかわらずMさんは「まず県庁の国際課に訪ねて相談してくるように」と言われた。行ってみると「民団奈良県本部に行って相談して下さい」という。それで初めて民団奈良県本部に顔を出している。
この話しのきっかけは忘れもしない。MさんとAさんと3人、1985年12月の終わり、忘年会を兼ねてあるところで食事会していた。このときに出たのが北京行きの誘いだった。年が明けて奈良県庁の国際課に行った。そして当時、民団奈良県本部の事務局長だったPさんに北京行きを相談した。まず韓国籍に切り替えるのに戸籍の整理から始まった。ずいぶん迷惑をかけてお世話になった。Pさん1人でこの作業はできない。民団奈良県本部団長ら多くの関係者、駐大阪韓国総領事館の職員ら多くの方の尽力で北京行きの臨時パスポートを受け取ることができた。
Pさんに大変お世話になったのに何もまだ恩返しはできていない。今、筆者が在日韓国人の1人として在日コリアンの1人でも多くの人を取材して社会に救い上げていくことに従事している。これでPさんの思いが重なっていれば幸いと思っている。
Pさんは1990年代の初め民団奈良県本部を退職、現在は桜井市で培った体験を生かして同胞の相談をしておられる。戸籍整理や帰化など多くの人が相談されている。
姜必善さんは1919年2月16日生まれと言われているが干支が猿という。
1919年は未年、干支が猿という姜必善さん。1920年に生まれている可能性があるという福島俊弘教員の話しです。
姜必善さんが生まれてすぐの3月5日に実母が亡くなっている。育ての親は継母だった。生まれは慶尚南道咸安郡で生まれた。11歳のときに親と一緒に大阪府八尾市にやってきた。2年ここにいて隣町の柏原市に引っ越しをして長いことここで住んでいた。耳飾りを作る工場で働いていた。アメリカに輸出する耳飾りだった。真珠の貝殻から作っていた。13歳から働いた。朝6時から夜の9時まで働いた。休みは1ヶ月に1日と15日、2回だけだった。ここの工場長は故郷が同じウリナラ(同じ国)の人だった。
朝は4時半になると祖父が起しにきた。朝起きてポソン(韓国の足袋)を縫ったりしたという。間違って縫って叱られたこともあった。16歳になったときに実父が姜必善さんに話しがあるという。
嫁入りの話しだった。祖母たちは「まだ年が若いのに嫁入りさすのはかわいそう」と言っていた。実父の友人からの嫁入りの話だった。実父と同じ故郷の友人だった。
16歳で大和高田市に嫁いできた。22歳のときに戦争になった。戦争になったので舅がいる岩手県に疎開している。Pさんが長男、小学校に入学する時に疎開している。その時は9月、岩手県は寒かった。
姑が喘息持ちだったので寒い所よりも温かいところと愛知県に引っ越しをした。トヨタの会社の近くだった。Pさんは愛知県の小学校にも通っている。
戦争が終って韓国に帰国するのか話し合った。そして帰国するのに舅は桜井に兄がいたことから兄に会って帰るということで桜井にやってきた。
韓国に帰国するために船を1台手配しないといけない。1台の船を貸しきって世帯全部韓国に帰国する。持っているものを全部売り払って船を貸し切ることになっていた。それが先に帰国した人がまた桜井などに戻ってきた。
たくさんのお金を持って行っても国にお金を納めないといけなかった。自分のものにならなかった。死ぬのか。生きるのか。どっちにしてもこのまま日本にいることになった。日本に留まると決意したときにはなにもかも売り払って何もなかった。またフトンから買って生活用品を買って桜井に留まることになった。
桜井は住みやすいところだった。多くの同胞が住んでいて住みやすかったことが桜井に住むようになった。
来週は戦後の姜必善さんの半世紀を紹介していきます。今回は子息の話を盛りこみました。筆者の人生で忘れてはならないほどお世話になった人です。
【写真説明】2008年2月、橿原市の万葉ホールで開かれた夜間中学校の研究会、会場には1世のオモニ(おかあさん)たちの作品と一緒に学校に対する思い、教職員手作りの屏風が展示されていた。オモニたちは教職員の温かい心に接して文字を覚えておられる。
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