2009年10月19日
「あの日、あの時」≪139≫:鄭容順
■日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)
「朝鮮戦争下の在日朝鮮人」
1950年に朝鮮戦争が始まると在日朝鮮人は故郷の親族や友人への思いを一段と強めた。
なかでも解放後急速に民族的自覚を高めた一部の青年は直接戦争に関わった。日本の戦争協力に反対したり武器製造への非協力を訴え、軍事物資の輸送を体を張って阻止した青年もいた。また韓国を支持し在日学徒義勇軍に志願して戦場へ赴いた青年もいた。
他方、朝鮮戦争下では冠婚葬祭であっても在日朝鮮人が集まっているというだけで警官が監視に来ることもあった。反戦を訴える青年を検挙するために武装した警官が密造酒摘発を名目に在日朝鮮人集住地に突入することさえあった。
ただし大多数の在日朝鮮人は戦局の行方に関心を寄せながらも、このように一層厳しくなった社会状況のなかで自分たちの生活を支えることに必死であった。
また戦争の中で日本政府は出入国管理法制を整備した。戦争避難民や日本にいる家族を頼ってきた人は戦前に日本で暮らしていた人でさえ不法入国者として扱われ強制送還されることも少なくなかった。
こうしたさなか、1951年にサンフランシスコで講和会議への参加国と認められなかった。そして日韓会議が始まったが講話条約発効までに両国関係を正常化することはできなかった。
そのため戦前来日本に住んでいた人々さえ、在日朝鮮人は法的に在留資格も定まらないまま日本で生活することになった。
さらに日本政府は1952年4月の講和条約の発効にともない在日朝鮮人は朝鮮の国籍を回復したという理由で在日朝鮮人の日本国籍を一律に喪失させた。
しかし韓国に国民登録した人は当時はまだ少なく外国人登録行政では国籍としての「朝鮮」は認めていないことから大半の在日朝鮮人は一般外国人と同様に指紋押捺制度を含んだ出入国管理に関する法規の適用を受けることになった。社会保障や戦争犠牲者援護に関する法規は国籍の違いを理由にほとんど適用されなかった。
外国人登録「国籍」欄の推移(1950年~1955年)
1950年3月末 韓国39,418人(7・4%)
朝鮮495,818人(92・6%)
1950年末 韓国77,433人(14・2%)
朝鮮465,543人(83・0%)
1952年9月末 韓国116,546人(20・4%)
朝鮮454,462人(79・6%)
1953年末 韓国131,437人(23・6%)
朝鮮424,653人(76・4%)
1955年1月 韓国138,602人(24・6%)
朝鮮425,620人(75・4%)
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〓「朝鮮」〓日本の外国人登録行政では国籍欄の「朝鮮」とは朝鮮半島出身という出身地を表わすものとして扱い朝鮮民主主義共和国の国籍とはみなしていない。.
□参考著書▽歴史教科書研究会(韓国)/歴史教育研究会(日本)編▽明石書店発行『日韓歴史共通教材-日韓交流の歴史(先史から現代まで)』
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■■定住化の進展と民族差別撤廃運動■■
≪地方参政権獲得運動と在日コリアン社会の変容≫
「定住外国人への地方参政権付与をめぐる与野党の攻防」
最高裁判決が下された後、自民党、社会党、さきがけの連立三党(当時)が政治改革協議会を結成し定住外国人に参政権を与えるかどうかについて論議を行いました。与党の中では相互主義を掲げて外国人に参政権を与えるべきではないという意見が多数派をしめました。
相互主義とは相手国がその国に在籍する日本人に参政権を与えない以上、日本も外国人に参政権を与えることはできないという論理です。一見もっともらしく聞こえます。すなわち韓国にいる日本人参政権がないのに日本にいる韓国人だけ参政権を与えるのは不平等ではないかと反対派の人はいうのです。
そのほかの外国ではどうでしょうか。海外における定住外国人の参政権の実情を調べた表をみると、スエーデン、デンマークなどは外国人の選挙権・被選挙権を地方レベルで認めていて、スペイン、ポルトガルなども部分的に認めています。もし日本が相互主義を主張するなら、日本にいるスエーデン。デンマークなどの国の人には選挙権が与えられていなければなりません。このような例
を例を出さずに韓国だけを例にだすのは一方通行な議論です。
そうしたなか、アジア初の永住外国人地方参政権法案が2005年6月30日、韓国で成立しました。永住の在留資格を獲得した日から3年を経過した19歳以上が対象で大統領・国会議員選挙を除いた投票ができるという内容です。これにより日韓関係においては相互主義はその論拠を失いました。
いずれにしても、商用などで韓国に住んでいる日本人と強制連行を含む歴史的経緯のある在日コリアンを同じ歴史文脈でとらえることはまちがっているといえます。
98年10月に金大中大統領が日本に来ました。このとき、金大統領は国会演説で在日コリアンの参政権に触れ日本政府に「在日韓国人二世、三世は日本で税金を納め大きな貢献をしている。だから地方参政権を与えてほしい」と述べました。この呼びかけに応じて、民主・公明・共産党から定住外国人に地方参政権を与えようとする試案ができ法案が提出されました。民主党と公明党がとりまとめた法案は、まず投票する権利を在日コリアンに与えようというものでした。
1999年10月、当時の自民党野中広務幹事長が音頭を取り、与野党三党は定住外国人に地方参政権への投票権を求める法律を成立させることにいったん合意しました。ところが多くの在日コリアンや在日外国人の期待を裏切り、臨時国会において立法化は見送られてしまいました。国会議員の一部が定住外国人に参政権を与えることに強い抵抗を示したためです。
彼らは対案として在日コリアンが日本国籍を取りやすくしましょうという運動を進めています。これが日本国籍取得緩和法案というものです。もしかすると近い将来この法案は成立するかもしれません。
この法案については在日コリアンのなかでは十分な議論が必要です。
*すべての外国人に地方参政権を認めている国*
選挙権と被選挙権<アイルランド、イスラエル、オランダ、スエーデン、デンマーク、ノルウエー、フィンランド、ブルキナファソ>
選挙権のみ<ベルギー、チリ、ニュージランド、ハンガリー>
*特定の国の外国人に地方参政権を認めている国*
選挙権と被選挙権<アイスランド、イギリス、イタリア、エストニア、オーストラリア、オーストリア、ギリシャ、スペイン、ドイツ、フランス、ポルトガル、ルクセンブルグ>
~~~祖国の経済発展に貢献してきた在日コリアン~~~
事業で成功を治めた在日コリアンの企業経営者のなかには日本で蓄えた富を祖国に還流させる人たちが少なくありませんでした。1965年に韓日の国交が正常化されるまで、在日コリアンによる日本から韓国への投資は、おもに財産搬入という形で行われましたがその金額は1965年までに累計2000万ドルにおよびました。当時の韓国の輸出高が年間1億ドル未満だったことを考えると在日コリアンの祖国への財産搬入は巨額の資本導入であり60年代の韓国経済の発展に大きく貢献したと考えられます。
とはいえ、在日コリアンによる韓国への投資が本格したのは、1965年に韓日国交正常化が実現してからのことです。1974年には本国投資の窓口になる「在日韓国人本国投資協会」が民団の働きかけもあり設置され、件数、金額ともに在日コリアンによる韓国への投資は急増しました。1965年から78年まで、在日コリアンによる韓国への投資総額は400社、10億ドルに達しています。この金額は、同期間中に韓国が受け入れた外国人投資総額9億700万ドルを上回っており、在日コリアンの本国投資が韓国の外貨不足を補い、60・70年代の高度成長に大きく寄与したことを物語っています。
韓国に進出した在日コリアン企業のすべてが成功したわけではありませんが、コーロン、ロッテ、第一投資金融、新韓銀行など、韓国の優良財閥に成長した企業も少なくありません。彼らの果敢な本国投資が日本資本の対韓投資の呼び水となり、韓国の経済発展を誘導してきたといっても過言ではありません。
□ 参考著書▽民団中央本部が在日コリアンのために作成した著書、「歴史教科書『在日コリアンの歴史』から紹介□
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――筆者の胸裏――
http://www.mindan.org/search_view.php?mode=news&id=5200
上記のホームページは民団新聞ホームページに掲載されている「韓国、外国人に地方参政権---アジア発」の記事です。
関心のある方はホームページを開いて在日外国人の地方参政権付与の要望活動に1人でも支援の輪が広がることを願って紹介をしました。
韓国で外国人の参政権が法案成立したこの年の秋、大阪で地方参政権獲得運動の一環で国会議員らの参席のもとシンポジゥムが開催された。この時の写真はメモリカードそのものを編集局に送り筆者の手元に1枚も残っていない。
コピー保存して編集局に送ればよかったと後悔しても後のまつりです。
先週のこの連載に対して「読者の声」にコメントを頂きました。少し辛口の本音になりました。もう何年も前にすんだことの話もあったが反対された自民党国会議員のことはなぜかずっと頭の片隅に残っている。
筆者の言いたいことはもっとありますが目下、民団が一致団結してこの運動に奔走しておられるので筆者の思いはまたの機会にしたいと考えています。
コメントありがとうございます。
筆者に前向きで文章を書いていく励みになりました。人それぞれの考えたがあります。肯定・否定などの論争にともすれば心が折れそうになることもあります。しかし議論して意見交換をすることも大切です。コメントの一文、筆者に書く勇気を与えて頂きました。心から感謝を申し上げます。
さて今回の項目を記述していて「韓国動乱(朝鮮戦争)」の当時、筆者の家族の有様を思い出していた。筆者の父親の親族は日本に残ったが母親の親族は日本の敗戦後、韓国に帰国した。母親は生まれて1歳になった筆者がいたことから母親は日本に残った。身内もいない天涯孤独になった。たぶん母親は何年かすると親族が往来して再会できると思っていたことだろう。それがそんな簡単なものではなかった。
動乱が始まったのが1950年6月25日未明、韓国(大韓民国)に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が分断された分断線、38度線という軍事境界線を越えて北朝鮮軍が南下して攻撃してきた。たちまちのうちにソウルは陥落し韓国軍の主力は崩壊した。アメリカ軍の増援部隊によって戦局は一変、アメリカ軍は38度線を越えて北朝鮮に侵入。平壌を占領した。北朝鮮には中国が参戦した。
38度線を行きつ戻りつの戦争だった。
この時のことだったのだろうか。
筆者の父親は動乱が始まると日本の新聞ではその戦局の様子が掲載されていたのだろう。記事を読んだ父親は母親にその動乱の様子を話していた。
そんなときに母親の言った言葉は「ウッチャッコ(どうしょう)」と言って後は黙ったままだったことを筆者は記憶している。
動乱の背景には第2次世界大戦の日本の降伏と分割占領にある。
第2次世界大戦における日本のポツダム宣言受諾無条件降伏はそれまで日本植民地であった朝鮮半島に軍事的空白を生み出すことになった。日ソ不可侵条約を破棄した。対日戦線に加わったソ連軍が満州から朝鮮に勢力をのばそうとしていたが米軍には朝鮮半島のすべてを占領管理する兵力が不足していた。当時の米国の首脳はソ連と協議し日本軍武装解除のために米ソ軍管轄の境界を38度線として分割占領した。
北朝鮮はソ連軍の援助を得て経済の再建を図った。そして軍事力の整備をした。
当時の李承晩大統領は米国に軍事援助と経済支援を要請するが米国の当時のトルーマン大統領は朝鮮半島の情勢には楽観視そして援助が送れ力関係の不均衡になっていたと言われている。
この時の北朝鮮の指導者、金日成主席は何を考えていたのか。
「朝鮮の統一は自分たちで解決」「戦争が迅速に展開すれば米軍の介入は避けられる」として、金日成が韓国に攻撃をかける。
「韓国軍に対して北朝鮮軍が優位で韓国内の経済的・政治的不安定、そしてアメリカの防衛ラインは後退すれば米軍の介入はない」と見た。
金日成はソ連のスターリンの支持を得て南進を決意、1950年6月25日未明の突然の攻撃をかけた。
ソ連は金日成を祭り上げて共産主義国を成立させた。同じく韓国は共産主義の南下を恐れて自由主義国家を作った。
ここで言っておかなければならない。朝鮮半島を侵略したのが共産主義国。それまでは日本が満州・朝鮮半島を統治したいために共産主義国は手を出せなかったが日本の敗戦で進攻してきた。それでも韓国は何もいえなかった。日本植民地統治で言葉を出せないほど恐怖が先にあったのだろうか。
休戦会談は1953年7月10日から現在の北朝鮮にある開城で10月25日から板門店に会場を移して行われた。会談は捕虜の交換問題で難航したと言われている。1953年7月27日、朝鮮休戦協定が成立した。
インターネットから資料を検索して振り返ってみた朝鮮戦争だった。中国やソ連の進行が進んでいたら韓国はどうなっていたのかと考えると身震いがする。どの国がいいとかそんな問題でなく父親の言った「社会主義では飯が食えない」という言葉、現在の北朝鮮の実態をみて歴史が国を作っていく。そこにある政治判断は国民のために何をしてどうすればいいのかというところにあるとまた考えている。
1950年といえば筆者は6歳、休戦協定の時はもう小学校3年だったと思っている。この時父親は母親に「ウリナラ(我が国)が分断した」と韓国語で言っていたように記憶している。その時も母親は「ウッチャッコ」と言ったまま黙っていたことを記憶している。今でも韓国ドラマや韓国人が何気なしに使う「ウッチャッコ」の言葉にいつも母親の言葉を思い出し脳裏は動乱のことが駆け巡る。
休戦協定もすぐに解決できると1世たちは思っただろう。
こんなに長くなるとは思わなかっただろう。
しかし分断60年を越えてしまった。
双方の国家体制も政策の違いもはっきりと分かれてしまった。
動乱の話でもう1つ思い出した。
動乱が始まった時に在日韓国人の青年たちは国のためにと志願して動乱の中に入っていた人がいた。その1人が京都南区に住んでおられた。
民団京都南支部で事務部長をしておられた。
自分のことは多く語らない人だった。何か秘密めいたものを持っておられると思っていた。そして筆者が現在の新聞社に変わってから仕事で同事務所に訪ねたことがあった。その時に初めて自身のことを話された。
動乱の時に戦争に志願して行ったことを話された。当時の筆者の年齢はまだ50前後だった。動乱に行った人はもう60歳を少し越えておられたので退職するとも話しておられた。
しばらくしてその人は退職された。それから1度もお会いしたことがない。
今も元気に暮らしておられるのだろうか。
戦争に志願されたその存在が近年になってやっと分かった。
それが「在日学徒義勇軍」で現在、「同志会(軍人会)」である。東京、愛知、大阪、山口に事務所が設置されている。
下記は民団脱北者支援民団センターのホームページです。
http://www.mindan.org/dappokusien/dappoku_index.php
民団が北朝鮮帰国事業を北送と言って猛烈に反対した。反対した当時の写真も盛り込んで当時の様子が掲載されている。当時はまだ韓国は貧しかった。ソ連の援助を受けていた北朝鮮は豊かで「地上の楽園」という言葉に疑わずに日本に住んでいた在日朝鮮人の多くが帰国していった。
金日成が在日朝鮮人を受け入れたのは動乱で国が荒れて崩壊、国家建設の労働者として受け入れたのです。その現実は現在、脱北者の証言で明らかにされている。民団は北朝鮮帰国事業が始まった時から北朝鮮の国情と政策を知っていて帰国を反対したのです。長い間、このことは日本社会では知られることはなかった。しかし北朝鮮の現状にようやく民団が帰国運動を阻止した事実に理解者が多くなってきた。
そしてまたここで父親が生前言っていた言葉を思い出す。
朝鮮総連の活動者が年頃になった妹にハングルを勉強させようと自宅に「ウリマル(母国語)の勉強しますので娘さんを教室によこして下さい」と言ってきたという。ほかの用事は母親に応対させていたがこの時は父親が玄関に行って対応した。そして父親は朝鮮総連の活動者に言った。
「お前らはウリマルの勉強しているから娘さんを出せと言っているがお前らは何もウリマルの勉強なんかしていない。爆弾を作る勉強していところに娘を行かせるわけにはいかない」と言って玄関の戸をピシャリと閉めたという。
筆者はもうすでに嫁ぎ実家にいなかった。この話は妹から聞いた。
そのときは父親の言葉で朝鮮総連の活動者は憤慨していただろう。
しかし時を越えてそれが本当だったと筆者も思い知らされている。
父親がどこからこんな情報を入れていたのか知らない。父親はなんでも「日本の新聞」と言っていた。これはそうではないと思っている。
短波放送が入るラジオで韓国のラジオもよく聞いていた。ハングルも読める。どこかで韓国の新聞も読んでいたのだろうか。
動乱の項目でつい筆者のおもむくままの記述になった。
韓国と北朝鮮の分断、韓国では歌われなくなったが在日コリアンのイベント会場ではよく歌われている。この歌を聞くと北朝鮮に帰国した同胞たちを思い目頭に涙が滲んでくる。
知らない人のために歌詞を紹介しておきます。
1番だけです。
韓国語では「ウリエ ソウォンヌン トンイル クメド ソウォンヌン トンイル イ モッスム パチョソ トンイルトンイルル イルジャ
イ ギョン サルリヌン トンイル イ ナラ チャンヌンデ トンイル
トンイルイヨ オソオラ トンイル イルジャ」
日本語に訳すと「われらの願いは統一 夢にも願いは統一 この命かけても統一 統一を成し遂げよう この民族生かすのは統一 この国取り戻すのも統一 統一よ 早く来い 統一を成し遂げよう」
昔は一時韓国で歌われていたようだがいつ頃からか歌われなくなった。在日コリアンのイベントでも在日韓国人ばかりのところでは歌われない、双方の民族団体に所属する人や日本人市民が参加しているイベントではよく歌われている。筆者は在日韓国人の新聞社で仕事するようになってこの歌を初めて聞いた時はメロデイーがいいのと歌いやすいので心に染みた。それでも歌の題名が知らなくて主催者に聞きに行くと「えっ。こんな歌知らないのですか」と絶句されたことがあった。そして題名を教えてもらって歌詞を見つけて紙に貼り付けて覚えようとするがいまだに全部を覚えていない。
この歌を作った時にはすぐにも統一できると思っただろうか。
動乱は様々な困難と同じ民族の離散と苦悩そして課題を多く突きつけた。
【写真説明】写真のテーブルにマイクのコードが敷かれている。ここが板門店の軍事境界線です。テレビニュースでよく紹介される南北会談が行われる板門店です。1995年4月、筆者は訪問、南北分断国家を自分の目で見極めて日本での活動を考えた。まさに韓半島(朝鮮半島)は分断国家だと思い知らされ統一はそう簡単なものでないことも知った。人生の中でここに行ってよかったというところです。多くの人々の手助けで見学できたことも生涯忘れることはできない。筆者のカメラで撮影したものです。
2009年10月19日 00:59
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なお、著作権上問題があるおそれがある内容、特定の個人・民族・法人等への誹謗中傷、またアダルト・サイトへの誘導などの書き込みがあった場合、管理人の判断で断りなく削除します。