2009年10月15日
〓雑記帳〓〈48〉:鄭容順
―朴尚任さんの半世紀(5)―
韓国で21歳の時にハンゴンさんと結婚した。4歳年上だった。
戦前はよく働いていたのに戦後は働くところがなかったのかずっとハンゴンさんは賭博人生だった。日本植民地支配から解放されても朝鮮人に対する差別は戦後もそれ以上だった。就職することもできない。一儲けしようと考えたハンゴンさんだったのだろうか。賭博にはまっていったのかもしれない。
朴尚任さんが59歳の時にハンゴンさんが亡くなった。
子ども6人のうちまだ2人は結婚していなかった。「この2人の子どもを結婚させることが私の責任です。自分の役目です」と言う。筆者はこの言葉に1世の心意気を感じた。1世たちは子どもたちに有無を言わさず年頃になったら娘たちを結婚させていった。結婚させて子孫繁栄がどこかにあったのだろうか。先祖をたえてはいけないという責任感があったのだろうか。家族の暮らしは結婚からという普通の考え方だったのだろうか。
筆者も結婚することで親の責任を果たしたという1世の声をよく聞いた。
しかし2世になると時代が変わって考えた方も変わり3世の独身男女が多い。
これも1世のような気迫の感じる責任感という心意気がなくなったのだろうか。
ハンゴンさんを亡くした後の朴尚任さんはもうこの時は縄綯いの仕事をしていなかった。木造船に使っていた桧縄、木造船の廃船で日本ではこの仕事がなくなった。それに変わって朴尚任さんは屋根に敷く桧の皮を束ねて括る仕事をしていた。この仕事も重労働である。
長さ1メートル30センチ、幅は20センチメートル程度の桧の皮、薄いがこれを束ねて行くと重くなる。100段づつ積んでいく。4段まで積むが積上げて行くとだんだん高くなっていく。高くなると上に放り投げていく。そしてよじ登っては整理して積上げていく。
「命がけの仕事でした」と朴尚任さんは話す。
この頃だった。同胞女性の友人が夜間中学に通っていた。
朴尚任さんの学校が好きだったことを知っている友人、「夜間中学に一緒に行こう。何もわからなくても1から教えてくれる。先生も皆良い人で学校は楽しい。仕事、1時間だけ早くやめて学校に行こう」と言って誘った。
朴尚任さんは友人に話した。
「私の1時間は大きい。私の仕事は桧の皮を1束、括っての賃金仕事や。手をやすめることができひん」と言った。
筆者に朴尚任さんは話す。
「泣いたことも何度もあるくらい辛い仕事だった。いろんなことがありました。仕事をくれるだけでもありがたいとは思っていました。力仕事で命がけの仕事だったが辛くなるたびに思いなおしました。この仕事に自分は金儲けのためにしている。誰のためでもない。自分のためにしている。こういつもいい聞かせていました」
この話を筆者は聞いていて筆者の母親のことを思い出した。
筆者の父親は戦前、軍儒工場で技術者の第一線で働いていた。当時はいい暮らしをしていたと母親は言っていた。戦後、軍儒工場は閉鎖されて処遇は外国人になって3・4年間父親は失業していた。民族運動もしていた。しばらくは東北などに煙草の葉を買い付けに行って家で闇の煙草を巻いていた。母親がそれを売り歩いていた。ある日、木津川の橋を上狛側から木津に向かって渡っていると向こうから警官が来た。とっさに母親は煙草の風呂敷包みを木津川に投げ捨てた。一難はそれなりに逃れることができた。神経質で気の小さかった父親は即座に闇煙草を作って売り歩くことをやめた。
そこで父親は無学の母に思いついた仕事が廃品回収業だったという。
「私は仕事もなかった。当座食べていくためにはおばはん(母親のこと)が働くしかなかった。字も読めへん。文字も書けないおばはんの仕事はこの仕事しかないと思ってこの仕事をすすめた」と生前、父親は筆者に言っていた。母親は最初、リャカーを押して商いに出る時は恥ずかしくて恥ずかしくて誰にも声をかけることが出来なかった。リヤカーを何日も空にして帰ってきた。何日かしてやっと慣れてきて『ボロや新聞ありませんか』と家の玄関に行って声をかけるようになった」と話していた。こんな話をふと思い出して目頭に涙が滲んできた。母親が廃品回収で町を歩くようになって和束町に商いで行った。父親の失業をある日本人が聞いてくれた。その日本人が京都の親戚の会社に仕事を世話してくれた。父親は定年退職するまでこの会社と関連企業で働いた。
廃品回収業を始めた母親、最初は恥ずかしいと思って始めた商いだったが商いは天性のものがあったのだろうか。女手1つでリヤカー1台から始めた商売、事業を弟が引継いで大きくしてきた。仕事のための倉庫にする土地など2つ購入して資産を残した。町では真面目で働き者として有名人だった。
筆者の同級生も母親の生きた人生に「俺はあんな真似はでけへんわ」と言ってくれる。筆者より母親のことに一目置いてくれる町の人たちに感謝をしている。
両親が真面目に生きた人生の今日に筆者の人生があると思っている。
母親も朴尚任さんと同じ気持ちで金儲けのために割り切って廃品回収業をしていたのかと思い出してしまった。母親の人生も朴尚任さん同様、1世の壮絶な人生だったとまた認識している。
朴尚任さんが6人の子どものうち、2人の子どもはまだ残っていたがこの2人も結婚させた。
下の女の子が結婚してから言う。
「オモニ(お母さん)もう大きなお金がいることがない。これからはゆっくりして仕事も少しだけすればいい」と言ってくれた。
この頃は力仕事でもまた違う仕事をしていた。
ベッドを作る工場に勤めていた。
それがこのベッドを作る会社が倒産した。それでしばらく遊んでいた。
家に毎日いるようになると退屈でしょうがない。
ずっと働いてきた朴尚任さん。2年もすると家にいることが苦痛になってきた。
そしてこの時、思いが甦ってきたのが天理市の夜間中学だった。
そんなある日、夜間中学に通う1人と町で会った。
夜間中学の先生や皆と一緒に一泊2日の旅行の帰りだった。そしてその人は「一緒に学校に行こう」と言う。
当時、上の娘が近くに住んでいて子供を置いて夜の仕事に毎日出かけていた。上の娘のことも気になって夜間中学の誘いに迷った。
友人は「1週間に2日だけでも来たらいい。一緒に行こう」と誘ってくれた。
友人は「1度先に勉強を見にきたら」と言ってくれた。
朴尚任さんは考えた。
夜間中学に行くなら4月からにしょう。
子どもたちが学校に行ったのは4月からだった。4月になったら夜間中学に行って勉強しょうと決めた。
しかし自分の年齢を考えた。この年になって学校に行くのが1番恥ずかしかった。けれど学校に行くことを決めた。
4月に行くことを決めて天理市立北中学校夜間学級に面接に行った。
天理市立北中学校夜間学級はJR・近鉄天理駅から歩いて10分ほどのところにある。桜井の家を出て10数分歩いてJR桜井駅に行く。桜井から5つ目である。夜間学級に行き教師と面接をした。
朴尚任さんは恥ずかしさで緊張していた。
「私は幼稚園の1年生からの勉強です」と言うと恥ずかしさと緊張で鼻の下に汗をいっぱいかいていた。
初めて夜間学級に行ったときのことを話す朴尚任さん。
通いだして学校が好きになった。勉強する意欲に今も通い続ける朴尚任さんの話を次回から書きますが次回からは韓国で暮らした21歳までのことなども織り混ぜて書いていきます。
【写真説明】以前、マキハダの歴史を寄稿して下さった福島俊弘さん(天理市立北中学校夜間学級教員)が提供して下さった写真の1枚、1950年代から1970年代初頭まで桧縄綯いをしていた桜井市に住んでいた子どもたちです。背景に干してあるのは桧の皮です。この皮を幾つも束ねて積上げていく仕事を朴尚任さんがしていました。この写真の子供たちは1950年代半ばの写真だと筆者は考えています。
2009年10月15日 00:08
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